彼女については特別に「姫」の尊称をもって呼ばせていただく。これは「もの○け 姫」からきているという噂があるが、あくまで噂である。
 姫には線形代数や微分方程式など、理系の基礎をみっちり教えていただいた。 彼女の講義に限っては睡眠学習法はそれほど流行っていなかったようだ。これは おそらく姫の人徳と、目覚し鶏のごとき 美声の効用によるのであろう。以下に姫の伝説を語っていこう。
 その1、きれい好き。なにしろ白板を自分で消すのを嫌がるほどだ。そのしわ寄せとして、 われわれ生徒が白板掃除の任に着く。姫はこのとき陽気にのたまうのだ。

「じゃ、次の人これ消~しちゃって~」

 その日姫に「選ばれた」列の人間が次々に召し出されていくのである。一部では 彼女に「選ばれない」ようにその日の席を決めるのが流行した。それは たいてい徒労に終わるのだが……。
 その2、ファッション。登校時にはベレー帽を欠かさない。大学関係者にしては 相当の洒落者といえよう。しかもそのベレー帽、常に 傾いている。センスも抜群だ。
 その3、恥ずかしがり屋。ある朝むこうから姫が歩いてくるのを見て、家臣ならぬ 生徒の私は挨拶を試みた。姫がどんどん近付いてくる、近付いてくる ……そろそろ距離的に妥当かなというところまで来たとき、彼女と一瞬目が合った。すると どうだろう。姫は恥ずかしさのあまり突然ひとりごとを始めたのだ。小声でぶつぶつ ぶつぶつ、ぶつぶつと。洩れ聞いた単語はほとんど意味をなさず、おかげでこちらは挨拶をしそびれた。偶然かとも思ったが、実はこの時ばかりでなく、同じことが3回あった。
 その4、映画出演。なんと彼女は映画に出演していた。一時は町中にポスターが あふれていたものだが、気づいた方はおられるだろうか。ポスターの中で、姫は 顔にペイントを施し、手には槍を持ち、白い狼にまたがってさっそうと駆けていた。 ちなみにそのときのセリフは

「生きろ。」

であったとか。
 その5、約束。実は彼女と私はある約束をしていた。ある日の講義終了後、私は 姫にちょっとした質問をしに行ったのだが、私の誠意が足りないのかなかなか話が通じな かった。辛抱強く私の言葉をお聞きになっていた姫だが、やおら顔をあげると感心した ように言った。

「わかった。君が言いたいのはベクトルの……云々……幾何学的意味ってことね」

よくわからんが、私の質問はそういうものに化けたらしい。しかしいまさら違いますとも言えない。まごまごしていると、姫はしきりに感心した末、 再び口を開いた。

「なるほど、君の質問は実にいい。じゃ、その答えは、
来週プリントにして持ってきてあげるから」

 ……あれから二年。いまだ音沙汰なし。


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