第2話 「S」殺人事件



 うららかな春の日差しを嘲笑うかのように、今日も事件は起きていた。
「ニイハオ~」
「あっ、警部。おはようございます」
 陽気にやってきた銀俵(ぎんだわら)警部を、安安藤(やすあんどう)刑事は現場のアパートの前で手を振って出迎えた。
「今日も元気に死んでるかね」
「ええ、元気はないようですが死んでます」
「ガイシャの特徴は?」
「いたって普通です。平凡です。ただの死体です。語るべきことはありませんね」
 すると銀俵は目をむいた。
「ほう、普通か。ではガイシャの下唇の皮は普通にむけていたんだな?
「……は?」
右の眉の毛の本数は普通だったのか?
「……ええと……」
「ならば左の首の付け根にあるほくろからは毛が生えていたんだな!?
「す……すいませんでした! わたしが間違ってました。勉強不足でした」
 安安藤が頭を下げるのを見て、警部は満足そうにうなずいた。
「そうだ。世の中には普通なことなどないのだ。気をつけるがいい」
「はい」
「特にほくろだ。人相学では重要な要素のひとつだからな」
「はいっ。これからは首のほくろに注意します」
 二人が騒いでいるところへ、ぱりっときめた御鎚(みづち)警部がやってきた。相変わらずの鋭い視線。銀俵をじろりと睨み、
「銀俵、遅いぞ。今までなにやってたんだ」
「ぁあ!? それが上司に対する言葉使いか」
「うむ、相手が上司なら失礼にあたるな」
 平然としている御鎚。銀俵ははたと思い当たった。
「ああ、そうか。おまえは昇進したんだったな。その、なんだ、そいつはおめでたいな、ほんとうに。ほんとうだ。ほんとうにそう思ってるぞ」
「ありがとう。そういってもらえるとうれしい」すこしもうれしそうではない。「……さてと、きみが遅いから鑑識もとっくに仕事を終えて帰ってしまったよ。いったい今まで何をしていた?」
「目が覚めてからの行動か? いちいち覚えてないな。まず布団から出て、伸びをして、歯を磨いて――」
「連絡を受けてからのことを聞いているんだ」
「だから、布団から出て、伸びをして、歯を磨いて――」
「……」
「それから大声を出した」
「近所迷惑な話だな」
「そうすると脳細胞が起きるんだ。頭のなかでニイハオの大合唱になる。きみもやってみるがいい」
「なるほど。参考になります」
「安安藤、きみが参考にする必要はない」
「しかしなんだな、どうしておまえがここにいるんだ? このヤマはそれほどこみいっているのか」
「知らんよ。わたしは上の指示に従って動いているだけだ」
「ほう。まあいいや。仲良くしよう。  ぃゃ」
「小さな文字で本音を吐くな。気味が悪い」
「……で、捜査は進んでいるのか」
「捜査状況については安安藤に聞くといい。われわれは協力し、なおかつ独立して事件解決にあたれと言われている」
「なんだかややこしいが、要するにわたしたちは一緒にやる必要はないということか」
「露骨にうれしそうな顔をするな」
「安安藤はわたしと組むのか?」
「そうだ。では失礼する」
 それだけ言うと、御鎚はそそくさと去っていってしまった。銀俵はそれを見送り、(へっ、いけ好かない野郎だ)と叫んだ。
「……言ってしまいましたね」
「ああ、かってに行かせとけばいい」
「いえそうじゃなくて……」
「まあいい、気を取り直せ」
「わたしがですか? なんだか不思議な命令口調ですね」
「とりあえず、事件について聞かせてもらいたい」
 言われて、安安藤は分厚いファイルを取り出してぱらぱらとめくった。
「ええと、ガイシャは山内紀久。年齢44、男、身長158、体重72。▲▽ 株式会社勤務。血液型A+、右利き。趣味はテニスビデオ撮影、好きな食べ物はナスとサバのトウバンジャン炒め……」
「趣味と食べ物が怪しいな」
「ええ、わたしもそう思ったので赤で書いときました」
「しかしずいぶん事細かに書いたな。まるでどこぞの誰かのファイルのようだ」
「じつは御鎚警部にご指導をいただきまして」
「ふん、泣いて頼めばわたしが教えてやったものを」
「御鎚さんはただで教えてくれました」
「……まあいい。続きを」
「死亡推定時刻は今朝7時前後。第一発見者はガイシャの奥さんでして、朝起きて隣を見たら主人が冷たくなっていたそうで」
「そいつはショックだったろうな」
「ええ、ショックでした」
「おまえがショックを受けてどうする」
「解剖はまだですが、毒物が使われた可能性があるそうです。加えて腹部を鋭い刃物で刺されており、あたりは血の海。そのうえ派手に争った形跡がありまして――」
「奥さん、よく起きなかったな」
「寝つきはいいそうです。……で、ここでこの事件でひとつだけ、不可思議な点が出てくるんです」
「、・.…:」
「まったくです」
「おまえ、聞き流してるだろ」
「ガイシャはほとんど即死でしたが、彼の右手の人差し指にたっぷり血がついていて、それで畳の床に文字を書き残したようなんです」
「いわゆるダイイング・メッセージというやつだな。自分を殺した人物の名を死の直前に書き残すというあれか。で、その文字とは」
「たった一文字です。この写真を」
「ほう、『歌ってジェニファー』のエンディングテーマでジェニファーとキャシーが走ってるときの背景の模様のひとつか」
「えらくマイナーなものを持ち出しますね。写真を横にしてみてください」
「おやおや、今度は『S』と見えるな」
「ええ、おそらくエスでしょう。ジェニファーの可能性も消えませんが」
「それなら簡単だ。ガイシャの身辺をあたって、イニシャルがSの人物を探せばいい。いけ、安安藤!」
「戦隊物の次回の予告みたいな声を出さないで下さい。……それに、金銭(かね)の線で調べた結果、ホシの見当はだいたいついたんです」
「なら話は早い。そやつをしょっぴいてくるがいい。逮捕状ならわたしの家にコピーがある」
「うわっ、違法じゃないですか」
「そうなの?」
「そんな真顔で問いかけないでください。照れるじゃないですか」
「おまえこそ顔を赤らめるな。いいからはやく捕まえてこい」
「そうもいかないんですよ。なかなか込み入ってるんです。まあ聞いてください」
 安安藤はファイルを繰った。
「最初に言っておきますが、疑いのある人物は5人もいまして――」
「戦隊物では基本の人数だな」
「好きだったんですか、戦隊物」
「好きだ。特に緑のやつが好きだ」
「微妙な趣味ですね。……では、その5人について簡単にお話します。まずは佐々木茂樹」
「いきなりSだな。よし、そいつが犯人だ」
「まあ最後まで聞いてください。……佐々木氏は年齢32歳。大手スーパーに勤務。次に宗田進、28歳」
「うん? またSか」
「彼は魚屋ですが魚は嫌いだそうです」
「それじゃ人生も嫌になるだろうな」
「続いて鈴木佐知子、38歳。掃除婦。余り物で料理をつくるのが得意」
「冷蔵庫が空だったら役立たずだな」
「それから沢渡四郎、55歳。すき焼き屋チェーン店のオーナーで、最近盛大な誕生パーティーを開いた――」
「さっきからどうでもいい解説が続くな」
「最後に塩野誠一、41歳。小学校の教師で、山野の緑を守る会の会員。……とまあ、そろいもそろってSなんです」
「名字も名前もSか。おそろしく作為的だぞ」
「私のせいではありません」
「ふっ、それだからおまえはまだ甘いというんだ。名前がだめなら別のものを指していると考えるのが、こういう場合の常套手段だ」
「たとえば職業」
「なんだわかってるじゃないか」
「それが、職業もみんなSなんです」
「なに? ……うお、本当だ。実はおまえがでっちあげたんじゃないのか」
「まさか。そんなことしても意味ありませんよ」
「ふん、にしてもずいぶん気合が入ってるな」
「ああ、どうすればいいんだ」
「うろうろするな、目障りだ」
 銀俵は眉根にしわをつくって考えだしたが、3秒後には顔を上げて薄気味悪い微笑をもらした。
「警部、恐いですよ」
「ふっふっふ。安安藤、やはりおまえの目はフシアナだったな」
「ええ、よく言われます。でも藤井アナって誰ですか」
「犯人がわかったぞ」
「えっ、もうですか。あいかわらず早いですね」
「うむ。おまえももう少し考えてみるがいい」

「もうわかっただろ、安安藤」
「さっぱりです」
「頭を柔らかくしてみろ。いいか、今回の事件は『S』というダイイング・メッセージが鍵になっている」
「待ってください。よく考えれば、あれが『S』を表しているとは限らないんじゃないですか? いや、そもそもあれがダイイング・メッセージであるとは限らないのでは」
「うるさい。あれはダイイング・メッセージだ。わたしがダイイング・メッセージだと言ったらダイイング・メッセージなんだ」
「ダイイング・メッセージもそれだけ言われれば嬉しいでしょうね」
「そこでSが何を示しているのかを考える。名前ではない。職業でもない。ということは宗田が犯人だ」
「そりゃ飛躍のしすぎです」
「考えてもみるがいい。奴は魚屋だといったな。魚とS。これでわからなかったら警察などやめてしまえ」
「わかりました。帰って退職願を出して職安いきます」
「そのまえにわたしの話を聞いていけ。いいか、魚でSといったら何がある? 魚にはSで始まる名前がたくさんあるんだ。サバ、スズキ、塩焼き――」
「塩焼きはたぶん泳げませんね」
「ほかのやつよりSが関係する確率が非常に高い。こいつは偶然かね安安藤」
「なるほど。因果律が成り立つわけですね」
「ほう、かっこいい言葉を知ってるな。まったくそのとおり。この事件はインガー率によって幕を閉じるのだ。メモしておけ、安安藤!」
「はいっ。宗田が犯人、と。早速しょっぴいてきます!」
「まあまて。あまりに解決がはやいと御鎚に悪いだろう」
「そうでしょうか」
「きっと警視はこう言うに違いない。『なに、銀俵はもうホシを挙げたのか。あいかわらず優秀だな。そろそろ上のポストに座らせてやるか。……それに比べて御鎚のバカはどうしようもないな。やつはくずだ。都会のくずだ』」
「妙に個人的な独り言ですね」
「それでは御鎚がかわいそうだろう。だから猶予をやろうと思ったのだ」
「さすが警部。心が広いですね」
「よし、これだけだべれば充分だろう。ただちに逮捕に向かえ」
「え、あ、はい、警部!」
 全力で駆けていく安安藤を見送って、銀俵はひとり、空を見上げてため息をついた……。


 宗田の逮捕は証拠がないために行われなかった。
 3日後、御鎚警部が沢渡四郎を殺人容疑で逮捕した。鍵は被害者の遺したダイイング・メッセージだと彼は語った。畳に記された『5』という数字から、最近55歳の誕生日を迎えたばかりの沢渡を指していることに気づいたという。ガイシャは沢渡氏の誕生パーティーに出席し、そこで彼が55歳になったことを知り、それを憶えていたのだろう、と御鎚は静かに語った。使用された薬物については現在、友人関係を調査中である。

 安安藤はそのことを銀俵に伝えた。
「やはりな」
 警部はそう言ってにやりと笑った。


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