第1.5話 海岸殺人事件



 朝の潮風に誘われるように、銀俵(ぎんだわら)警部はふらりと現場に現れた。
「あ、来た来た。おはようございます警部」
 部下の安安藤(やすあんどう)刑事が手を振って迎えた。
「おお安安藤。すいぶん眠そうだな」
「あんな時間に電話で叩き起こされましたからね。警部は今起きたみたいにさっぱりしてますが、たしか警部のおうちはこの近所では?」
「ふむ、電車で5分というところだな」
「連絡があったのは3時間ほど前だと思うんですが」
「知らんな。寝るときは電話線を抜いているんだ」
「携帯にも連絡があったでしょう」
「ない。なにしろ携帯を持っていないからな」
「いまどき持っていない人も珍しいですね」
 とたんに銀俵は目をむいた。
「ほう? じゃあおまえは携帯を手に持って生まれてきたのか?
「え? いえ、まさかそんな」
電波の届かないハロハロ島の住民も携帯を持っていないといけないのか?
「それはないですが、警部はハロハロ島に住んでない――」
少数民族パパンデポパンの村に行っても同じセリフを吐けるんだな?
「いや、それは……ていうかパパンデポパンって何――」
ここが、パパンデポパンの村でないと、おまえは、断言できるんだな!?
「うああああ! すみません警部! 軽はずみなことを言いました!」
 安安藤がうろたえるのを見て、銀俵は重々しくうなずいた。
「いいか安安藤。刑事たるもの常識なんぞにとらわれてはいかん」
「はい」
「それに携帯を持っている人間が少ないとしたら、その中に犯罪者がいる可能性はむしろ低いだろう」
「あっ、なるほど」
「言い換えれば、携帯を持っている人間ほど怪しいということになる」
「たしかにそのとおりです」
「つまり携帯は犯罪者のタマゴだと思って差し支えない」
「ありがとうございます! 勉強になります!」
 二人が騒いでいるところへ、びしっと決めた御鎚(みづち)警部補が携帯を手に砂浜を歩いてきた。安安藤はここぞと走り寄った。
「御鎚警部補も犯罪者のタマゴですね!?」
「また余計なことを吹き込まれたな。……おはようございます、警部。あいかわらずお着きが遅いですね」
「ああ。ひそかに八谷署きっての遅さだと豪語している」
「豪語かあ。憧れるなあ」
「憧れんでいい。警部も豪語の方向性がおかしいです」
「カタいことを言うな。だから石よりおカタいミヅチッチなどと陰口を叩かれるのだ」
「誰ですかそんなことを言っているのは」
「わたしだ。あと安安藤だ」
「えっ、わたしはそんなの初めて聞き……」
(うんと言え、安安藤。ここはそういうシーンだ)
「そんなシーンはありません。……そろそろ仕事に戻ってよろしいでしょうか」
「おおいいぞ。存分に戻りたまえ」
「いえ警部も来るんですよ」
「ではわたしはここで留守番ですね?」
「当然君も来るんだ。砂浜で突っ立っていても仕方ないだろう」
 さっさと歩いていく御鎚の後を、銀俵は渋々着いていった。銀俵がさっさと歩かないので、そのまた後ろを歩く安安藤もまた遅れ気味になり、銀俵ともども御鎚に叱られるのがやりきれなかった。

 一行は事件現場にたどり着いた。死体はすでに運び去られており、倒れていた位置を示すロープが人型に砂浜に置かれていた。
「なんだ、ガイシャがいないじゃないか」
「とっくに鑑識の仕事は終わっていますからね。警部が来るのが遅すぎるんです」
「ガイシャが一人で歩き去った、という線も捨て切れない……そうだな?」
「おお、さすが警部、目の付け所が違いますね」
「そんなところに付けなくていい。……警部にも不要な可能性を排除して頂きたいので、事件についてご説明しておきます」
 御鎚はふところから分厚い手帳を取り出した。
殺されたのは梶間鉄平。年齢54、男、身長169cm、体重84kg。職業はスキューバ用品の貸し出し業。死因は溺死。死亡推定時刻は今日午前1時前後。浜に倒れているところを早朝ジョギングの若夫婦が見つけて警察に通報しています」
「ううむ。個人的にはその、手帳の赤い部分が気になるな」
「すでに死んでいる、と強調しているのですが」
「その可能性も捨てきれないな……」
「先に進みますよ。……これは事故ではなく他殺の線が濃いと考えられます。ガイシャの肺に海水がたまっていたことから海で溺死したようですが、このとおり発見時の位置は満潮時の波打ち際よりだいぶ陸側です。人の手で移動させられでもしないとおかしい」
「待ってください。死体が歩いたという可能性はやはり捨てきれないのでは? 蘇った死体の群れが町を襲う、という話を何かの本で読んだことがあります」
「別の種類の本を読みたまえ」
「そうだぞ安安藤、宇宙人のしわざという線も忘れてはいかん」
「混ぜ返すのはやめてください。……もう一つ、ガイシャは知人からたびたび金を借りていて、過去に何度かトラブルもあり地元警察が通報を受けています。ここ数日、ガイシャと口論しているのを目撃された人物が3人おり、捜査員が事情聴取に向かっています」
「3人は多いな。一人に絞ってから報告してくれてもいいんだぞ? ただし手柄はわたしのものだ」
「無視していいですね? ……今わかっている範囲でですが、その3人についてお話しておきます。まず大石泰造、49歳。近所の漬物店の店主。この男はガイシャと殴りあいをするほど不仲で、つい1週間前にも危険を感じた近所の住民に通報されています」
「漬物石で殴ったんだろうか」
「だとすると犯行日時は1週間前になりかねませんね」
「溺死だぞ? ……二人目は猪又加州雄、38歳。海の家『パパンデポパン』を経営。この男もガイシャに小額の借金を繰り返されていますが、体が華奢なためかガイシャに凄まれると強いことを言えなかったようです。……ん、どうした君、顔色が悪いぞ」
「……いえ、やっぱりここはパパンデポパンの村だったのかと……」
「何を言っているんだ? ……3人目は魚野みう、32歳。貝殻を使った自作アクセサリーを販売していますが、ときどきガイシャが店のものを盗んでは勝手に売っている、と被害届を出しています。……今度は警部ですか。どうしました?」
 なんと、銀俵は真っ青な顔をして震えていた。
「いや……でもまさか……そんな、あのお方が……」
「警部? どうしました警部?」
「え、いや、な、なんでもない。昨日食べた激辛ピータンが当たったのかもしれないな。ははは」
「そうですか、健康管理には十分気をつけて頂かないと」
 そのとき御鎚の携帯が鳴った。御鎚は短い返事で通話を切り上げると、二人をさっと振り返った。
「今お話した3人を署まで任意同行させたそうです。聴取に行きましょう」
 しかし銀俵は首を振った。
「いや、いい。わたしはここに残る。おまえだけで聴取をしてくれ」
 御鎚はあっさりうなずいた。
「そうですか。おい君、ええと名前は」
「安安藤です!」
「安安藤、君は警部のそばにいてやってくれ。だいぶお加減が悪いようだからな」
「わかりました!」
「そのへんの貝など拾い食いしそうになったら止めるんだぞ」
「がってんです!」
「現代風の返事をしたまえ。では私はこれで」
 御鎚が行ってしまうと、安安藤は心配そうに銀俵の顔を覗き込んだ。
「警部、ピータンの具合はいかがですか? トイレは遠いので何かあったら海に入りましょうね」
「安安藤、じつはピータンの話は嘘なのだ」
「えっ?」
「本当は昨日食べたのは生クリームリゾットなのだ。だから腹具合はなんともない。消費期限を5ヶ月ほど過ぎてはいたがな」
「なら安心です。しかしどうしてそんな巧妙な嘘を?」
「おまえも御鎚も抜け作だな。特に御鎚だ。だからいつまでたっても警部補どまりなんだ。あいつの抜けっぷりを例えるなら、そうだな、あれだ、えーと、古くなったオモチャブロックの一番小さい部品を100個ほどくっつけて、天井から吊り下げておいて下から引っ張ったときのようだ」
「すみません、まったく伝わってきませんでした」
「だがわかるだろう? やつはこの期に及んで事情聴取などしに行ったんだぞ? もはやホシが誰かは歴然としているというのに」
「ええっ? たったあれだけの情報でですか?」
「逆転の発想というのを知っているか。それさえあれば、今回のホシは明白なのだよ。そして、このヤマに潜む恐ろしい権力も見えてくるのだ……」

「どうだわかったか」
「すみません、逆立ちしてもわかりません。そもそも逆立ちができません」
「だから低品質な脳みそは困るのだ。目星くらいはつけてみたらどうだ」
「そうですね……3人の中で一番怪しいのは大石でしょうか。ガイシャを溺死させるだけの腕力がありそうなのは彼だけですし」
「まったく、本当におめでたいお祭り頭だな」
「ええよく言われます。ただこれは寝癖ではなくヘアースタイルでして」
「いいかよく聞け。犯人は大石ではない。猪又でもない」
「では魚野ですか」
「……それは口にできない」
「なんですと」
「物分りの悪いやつだな。いいか、今度のガイシャは海で溺死させられている。つまりこの3人の中でもっとも海に関連の深い者が怪しい。ここまではわかるな?」
「それだと3人とも同じくらい怪しいのでは? いや、漬物屋は関係ないか」
「海辺の町の漬物屋だからな、無関係とも言えないだろう」
「となるとまったく絞れませんが」
「はやまるな。ここで逆転の発想を使うのだ」
「逆立ちができないわたしでも大丈夫でしょうか」
「わたしが補助をしてやろう。いいか、もう一度容疑者の名前をよく見てみろ。全部ひらがなにしてみるとわかりやすい」
「ひらがなですか? えーと……おおいしたいぞう、いのまたかずお、うおのみう」
「それを逆さに読んでみろ」
「紙に書かないと難しいです。あ、砂に書けばいいのか。ええと……うぞいたしいおお、おずかたまのい、うみのおう。ん、うみのおう……?」
「消せ」
「は?」
「早く消せ。目をつけられたら終わりだ。いいから消せ」
 わけがわからないまま、安安藤は砂に書いた文字を払って消した。
 銀俵は安安藤に顔を寄せ、小声で囁いた。
「もうわかったな」
「うわっ警部、顔が近いです。目の充血がアップで見えます」
「そんなことはどうでもいい。わかったかと聞いているんだ」
「うみのおう、つまり海の王、ですか?」
「しっ、声がでかい。王の名を気安く呼ぶな」
「偶然の一致じゃないでしょうか」
 半笑いになった安安藤のこめかみを、銀俵は両手の中指の関節でぐりぐりと押さえつけた。
「ばかもの! たわけもの! あのお方をどなたと心得る!」
「痛い痛い。離してくださいもう笑いませんから。……お知り合いですか?」
「相手は王だぞ。知り合いであるかどうかなどたいした問題ではない」
「まだよく見えてこないんですが、すると事件のあらましはどういうことになるんでしょう」
「一人の愚かな男が、海の王の怒りに触れた。……これで十分ではないかね?」
「たしかに、どことなく説得力がありますね。映画のキャッチコピーみたいで」
「相手は海の王、これはもう神だ。そして悲しいかな、我々は警察だ。事件が発生すればホシを捕まえねばならん。つまり我らは神に戦いを挑もうとしているのだ」
「なるほど、それで震えていたんですね」
「神に挑んだらどうなると思う」
「天罰が下りそうですね」
「そうだな。だから行け! 安安藤! ホシに手錠をかけてこい!」
「嫌ですよ。わたしが天罰を受けるじゃないですか」
「ああ、だがわたしも天罰は受けたくないのだ。わかるな?」
「わかりたくないです」
「ぐずぐずするな。なあに、注射と同じだ。する前はついびくびくおどおどしてしまうが、終わってしまえばなんてことない」
「天罰が注射レベルだったらいいのですが」
 何度もせっつかれ、安安藤は渋々犯人逮捕に向かった。

 安安藤はまごついていたため魚野を逮捕しなかったが、銀俵は生クリームリゾットが祟って数日間腹を下し続けた。
 2日後、御鎚警部補が漬物屋の大石を逮捕した。夜中に海辺で話し合いをしようとしたが口論になり、かっとなって犯行に及んでしまったという。意識を失った被害者を見て我に返り、蘇生しようと浜に上げたものの、怖くなって逃げてしまったとのこと。御鎚は聴取を始めてすぐに大石の様子に不自然なものを感じたという。

 安安藤はそのことを銀俵に伝えた。
「やはりな」
 警部はそう言ってにやりと笑った。


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