小説家・安安藤



 銀俵(ぎんだわら)警部は犯人を追って走り出した。胸元から拳銃を取り出し、夜の街をひた走る。犯人は足が速く、銀俵は遅い。二人の差が少しずつ開いていく。
 しかし、天は銀俵に味方した。三つ先の通りを横切ろうとした犯人を、猛スピードで飛ばしてきた無灯火のスポーツカーがはね飛ばしたのだ。道路にたたきつけられた犯人は脚を抱えてうずくまった。銀俵はしめたとばかりに走って近寄ろうとしたが、二つ先の通りを横切ろうとしてトラックにはねられた。


「殺すなぁぁぁぁぁぁっ!」
 不意に耳元で叫ばれ、安安藤(やすあんどう)はのけぞった。
うわっ! びっくりした。銀俵警部じゃないですか。どうやってうちに入ってきたんです?」
「ふっ、私の手先の器用さを忘れてやしないか? 玄関の鍵くらい、ポストの裏にテープで留めてあった鍵をちょちょいと使って……」
「それって不法侵入って言うんじゃないんですか?」
「堅いことを言うな。用があったから来たに決まってるだろう。ところで……」
 銀俵は安安藤の手からノートをふんだくり、ひっくり返して表紙を見た。
「なに、『銀俵の事件簿 第十巻』だと? ほほう、小説を書いているとか言っていたが、私の話を書いていたのか。とりあえず目の付け所は満点だな」
「いえ銀俵警部の話は最近手をつけたばかりで……」
「最近手をつけたばかりでもう十巻か?」
「短編なんですよ。毎回、銀俵警部がいいところで犯人を取り逃がすんです。一巻では犯人を護送中にスクーターに轢かれます。二巻では犯人を追ってパラシュート降下中に飛行機に轢かれます」
「現実とかけ離れた話だな。ところで安安藤、小説家に転職でもするつもりか?」
「まさかあ。私には警官以外の道はありません。銀俵警部もいますしね」
「それはどうでも構わんが。しかしそれにしてもすごい量だな」
 アパートの二階、北西の角の四畳半という安安藤の部屋はノートだらけだ。床に散らばっているもの、ちゃぶ台に積んであるもの、天井からみかんの網に入れて吊り下げられているもの。日当たりが悪いせいかカビているものも少なくない。
「これ全部に小説を書いたのか?」
「ははは、趣味ですから」
「本業より熱心そうじゃないか。全部刑事ものか?」
「いえ、ジャンルは決めてません。たいていのジャンルは書いてます」
「ほう」
 銀俵は床に散っている中から一冊のノートを取り上げた。表紙には『ファンタスティック☆ジョイ』というタイトルが書いてある。
「ジャンルがちっともわからないタイトルだな」
「それですか。よかった。タイトルには苦心しましたから」
「で、ジャンルはなんだ?」
「硬派の推理小説です」
 銀俵はそれ以上聞かずに適当にページを開き、声に出して読んだ。


 朝になった。権三は洗面所へいき、顔を洗って、乾いた雑巾で顔をごしごしこすった。


「……痛そうだな」
「痛いですよ」
「試したのか」
「リアリティを求めてますからね。できることは自分で試して書いてます」
 銀俵は続きを読んだ。


顔中傷だらけになり、鼻からも血が出た。花瓶にはチューリップが咲いている。


「チューリップを持ってきたところで残酷さは誤魔化せないな」
「やはりそうでしょうか」
「無茶だろう。だいたいなぜ乾いた雑巾なんだ?」
「硬派ですから」
 銀俵はさらに何ページか先へ進んだ。


 権三は笑いながら、サランラップの切れ端をゴミ箱に捨てた。
 この五年後、サランラップと燃えるごみが分別されることになろうとは、その場の誰も――権三でさえ――知る由もなかった。


「そりゃあ知るわけがないな。しかしずいぶん庶民的なネタだな」
「誰にでも読みやすい、をモットーに書いてますから」
「もう少し緊迫感のある場面はないのか?」
「それは、順番に読み進んでもらわないと……ってダメですよいきなり最後までいっちゃあ」
 銀俵は構わず最後の方を開いた。


「来ないで! 来ないでください!」
「奥さん、あなたはこの崖から信一さんを突き落とした。そうですね?」
「私は何も知らない。何も知らないんです――!」
 野上裕子は権三から逃れようと後ずさりした。
「奥さん、危ない!」
 野上裕子は「えっ?」と下を見た。彼女の両足は宙を踏んでいた。彼女は一瞬テレビカメラを見つめて大げさに肩をすくめ、それから手足をばたつかせ、三秒後に崖下へと落ちていった。
「あーれー」


「マンガじゃないか」
「ギャグマンガの原作のつもりで書いていたんですよ」
「硬派の推理小説と言ってなかったか?」
「途中から路線を変更したんです」
「北極行きと南極行きくらい路線が違うな……お、こっちの方がマトモそうだ」
 銀俵は次のノートを手にした。タイトルは『夢の中の瞳』。銀俵は適当にページを開き、声に出して読んだ。


「い、いや……ぼくは、その」
「いいから行って来い。絶対合格してるさ。自信を持てよ」
 宮代がぽんと茂の細い肩を叩くと、茂はおずおずと笑った。
「そう……だよね。受かってるよね」
「絶対だ。合格祝いに寿司を買っといてやる。道草食わずに帰って来いよ」
 宮代は内心の不安を押し隠して笑った。合格している、と思う。しかしもし不合格だったら……茂の細い神経は、ショックに耐えられるだろうか。
(この子はまた、あの時のようになったりしないだろうか?)
 茂はランドセルを背負いなおし、バスの乗降口に足をかけた。そこで最後に振り返り、言った。
「じゃあ行ってくるぜ、宮代の旦那。寿司は特上でたのむぜええ!」
 茂は「がははは」と笑いながらその巨体をバスの中へ――


「待て待て待て。ちょっと待て。人が変わってやしないか?」
「どこです?」
「茂ってのは『がははは』なんて豪快に笑うキャラか?」
「はははは銀俵さん、それはトリックですよ。銀俵さんもだまされているんです」
「他には誰がだまされたんだ?」
「私ですよ。作者もだませないようじゃあ、ミステリとは言えませんね」
「気のせいかもしれんが……おまえ、多分間違ってるぞ」
 銀俵はそれ以上読む気がせず、『夢の中の瞳』を放り出すと次を適当に拾い上げた。
「なになに……『コーヒーはブラック 砂糖は抜きで』? 料理本か?」
「ハードボイルド小説ですよ。ちょっと自信作です」
「ほお」
 銀俵は真ん中あたりを開くと声に出して読んだ。


 キャサリン博士はうっすらと笑った。
「それが彼、ヘンリーに与えられた力ですから」
「キミらの技術はそこまでいっていたのか」デューイは驚きを隠しもせず、グラウンドを見つめていた。ちょうどバッターがホームラン級のヒットを放ったところだったが、セカンドのヘンリーがまたも大ジャンプを見せ、ボールをキャッチしてしまった。
「ヘンリーにはいったいどんな力が備わっているのだね?」
「走れば百メートルを五秒半で走ります。ジャンプすればあの通り、五十メートルは軽く飛べます」
「驚いたな……」
「それだけではありません。彼の背中にはロケットエンジンが積んであって、マッハ五で空を飛べます。肺にはシリコン製の膜が取り付けられていて、水の中でも呼吸が可能です。彼が本気で拳を振るえば象も二秒で打ち倒せます。足のジェット噴射を使えば宇宙にだって行けますわ」
 デューイは腕組みしてうなった。「ううむ、まるでハードボイルド小説のようだな」


「……安安藤」
「はいなんでしょう」
「おまえ多分、ハードボイルドの意味を間違ってるぞ」
「そう判断するのは早すぎますよ。このあと木星の衛星から未確認飛行物体が飛んでくるんです。テーマは“異世界との交流”です」
「なおさら違う気がするが……」
「そうでしょうか」
 安安藤はまた一冊のノートを差し出した。
「これなんてどうです? 結構自信あるんですが……」
 手渡されたノートのタイトルは『やまンば』。


 やまンばは包丁を持って駆けてくるのだ! 目を血走らせて駆けてくるのだ!


「昔話系か?」
「まあ先を読んでくださいよ。きっとびっくりしますから」


 まな板に置かれた魚をあっという間に三枚におろした! 玉ねぎをみじん切りにした! 大根の皮をむいた! キャベツを千切りにした!
 この切れ味。やまンばも大満足。
 やまンば包丁、680円。……こいつはお買い得だ!


「なんてお買い得なんだ!」
「作者のおまえが驚いてどうする。しかしなんだこれは」
「包丁の宣伝です」
「小説じゃないじゃないか」
「たまにはこういうのもいいかと思って」
「悪いとは言わんが……」
「次はどれにしようかな……あ、これなんてどうです?」
「いや、もうずいぶん長いこと邪魔をした。そろそろ帰る。家でピーターとマーニャが待ってる」
「誰ですかそれは」
「飼い犬と飼い猫だ」
「ペットを飼ってらしたんですか。でも銀俵警部のアパートはペット禁止だったような……」
「証拠物件だと言って置かせてもらった。なあに、手帳と手錠を見せたらおとなしく言うことを聞いてくれたよ」
「変なところで職権乱用しますね。……でもまあ、もう少しここにいたいって言うなら止めません。他ならぬ銀俵警部の頼みじゃあ断れないです」
「さりげなく会話がすり返られた気がするな。とにかくもう帰るぞ。引き止めてくれるな」
「でもまだ傑作が……」
「うるさい。ピーターとエマニュエルが待っているんだ」
 銀俵は立って部屋を出た。出がけに振り向いて言った。
「そうだ、言うのを忘れていたが本部から呼び出しがあったぞ。銀行強盗事件が発生してな、銃を乱射して手におえないから全職員急行せよとのことだ。私は非番だから嫌だと言ったんだが、御鎚(みづち)のやつがうるさくてな。たいした理由もなく来ないやつは左遷だ、クビだと騒いでいたぞ。おまえはどうする?」
「そりゃあすぐ行きますよ! ていうか落ち着きすぎです銀俵警部! ……警部は行かないんですか?」
 銀俵はふっと笑い、すすけた天井を見てため息をついた。
「……ピーターとエミーが待っているんだ……」
「なに現実逃避してるんです。行きましょう警部!」
 二人は出発した。このあと二人の身に信じられないことが起こるのだが、その時の二人には知る由もなかった。
 花瓶にはチューリップが咲いている。


「銀俵」へ