小説家・安安藤2



 銀俵(ぎんだわら)警部は犯人を追って走り出した。胸元から拳銃を取り出し、倉庫街をひた走る。犯人は若く、銀俵より身が軽い。二人の差が少しずつ開いていく。
 しかし、天は銀俵に味方した。三つ先の倉庫を横切ろうとした犯人を、猛スピードで飛ばしてきたフォークリフトがはね飛ばしたのだ。道路にたたきつけられた犯人は腕を抱えてうずくまった。銀俵はしめたとばかりに走って近寄ろうとしたが、二つ先の倉庫を横切ろうとしてラジコンカーにはねられた。


「はねられるかぁぁぁぁぁぁっ!」
 と、銀俵が一人で騒いでいるところへ、安安藤(やすあんどう)が帰ってきた。
「ただいま……ってうわっ! びっくりした。銀俵警部じゃないですか。なんでうちにいるんです?」
「いまさらそんな固いこというな。昨日はきみの家、今日は私の家、と昔の人物もいっているだろうが」
「まったく聞き覚えがないのですが」
「そうか? 銀俵一族には代々受け継がれてきた言葉なんだが」
「安安藤一族には伝わっていないようです」
「なら文句をいうな。しっかしこの部屋はあいかわらずだな。いったいどうしたらこんな部屋に住み続けられるんだ」
 四畳半の安安藤の部屋はノートの山にすっかり占領されていた。天井まで届く山が五つはある。窓は半分ふさがれ、ただでさえ日が入らない部屋はすっかり湿気っている。
「そうですね、実質二畳くらいしか生活スペースがなくなってしまいましたが、なんとかやってます」
「こないだ来たときにはちゃぶ台があったと思うんだが」
「捨てました。置き場所がないので」
「先にノートをどうにかしようという発想はないのか」
「なにぶん、書いただけ溜まるし、捨てられないものですので。押入れもだいぶ前にノートで埋まりました。冬用の布団もそのとき勢いで始末しちゃいまして、冬になったらどうしようかと」
「そんなものなくても人は生きられる。生きられるさ……」
「ああすいません、わたしが未熟でした」
「しぶとく生きろよ。ところで……」
 銀俵はさっきまで読んでいたノートの表紙を安安藤に見せながら言った。
「『銀俵の事件簿 第三十五巻』いつの間にこんなに進んだんだ」
「いやあそれが案外好評なシリーズでして。続けてたら三十巻を突破してしまいました」
「好評って、誰が読むんだ」
「わたしです」
「他には」
「天井裏に住むピピロッカ一族が」
「流していいんだよな。……そもそもこの話、前に読んだのとそっくりな気がするんだが、いつもこんな調子なのか」
「変わらずに愛されるシリーズというのは得てしてこういうものですよ」
「三十五巻分もよく似たようなものを書けたな」
「ええなかなか苦労してます。銀俵さんが最後に何にはねられるかが毎回見所なんですが、ネタがかぶらないようにするのが大変でして。前回は銀俵さんがリアカーに轢かれました。その前は馬車に轢かれました。その前は蒸気機関車に轢かれました。その前は大名行列に轢かれました。その前は飛脚に轢かれました。その前は……」
「いやいい。時代設定が気になるがとやかくは言わん」
「銀俵さんにそう仰っていただけると張り合いがでます」
「やる気になられてもな……まあせっかくだから新作でも読ませてもらうか」
 銀俵は比較的背の低い山からノートを一冊手にとった。
「『追憶の1953』なんだかそれっぽいタイトルだな。ミステリか?」
「読んで頂ければわかりますよ」
 銀俵は声に出して読み始めた。


 私は目が覚めると「おはよう」と大きな声で言いましたが、部屋には誰もいませんでした。一人暮らしでしたから当然です。私は寂しくなりました。


「いろいろな意味で寂しくなる状況だな」
「ええ、つい涙ぐんでしまいますね」
「そこまで感情移入できないんだが」


 冷蔵庫には蜜柑が二房入っていました。いえ、間違いなく二房です。前日に食べ切れなかった分を、もったいないからとっておいたんです。


「……なんだか貧乏臭い話だな。そもそもなんなんだこれは。誰が誰に話をしているんだ?」
「読んでいけばわかりますって」


 朝食はトーストとオレンジジュースでした。パンをトースターでカリカリに焼いて、皿に移して食べました。パンくずが百四十七個ほど、皿の上に散りました。十八個ほどが床に落ちたと思いますが、正確な数はわかりません。もう少し多かったかもしれません。


「細かいやつだな。そんなにパンくずの数が重要なのか?」
「読んでいけばわかりますって」
「面倒くさい。最後だけ読むぞ」
「それじゃわたしの苦心が」
「うるさい黙れ」
 銀俵は安安藤の制止を振り切って最後のページを開いた。


「……と、ここまでが私が憶えている四十年前の……1953年の今日起きた出来事です、刑事さん」
「なるほど、な」刑事は腕組みをして飯塚をにらんだ。「うん、やはりこの事件の犯人はお前だ」
「な、なぜそうなるんですか。いまお話ししたとおり、節子が死んだ日には、私は節子のところには行っていないんですよ?」
「細かすぎるんだよ、状況の説明が。それだけ事細かに事件当日のことを憶えているということは、それだけショッキングな何かが起こったという証拠さ」
「ああっ、私はなんて愚かな供述をしてしまったのだ!」

ー完ー


「いや、完、と言われてもな……終わりが唐突すぎやしないか?」
「まさにそれです。唐突感、ショッキング感を狙った終え方なんですよ」
「悪い意味でショッキングではあるが……もう少しこう、ポップなやつはないのか?」
「ポップですか? これなんかどうでしょう」
 手渡されたノートのタイトルは『ザ・グレイテスト・ヒーロー』。銀俵は適当にページを開くと、声に出して読み始めた。


 母親はハンカチを目に当てながら言った。
「気をつけるんだよ、ダイゴロー。都会には悪い人がいっぱいいるというからね」
「大丈夫だよ、母さん」と小柄な少年は答えたものの、不安そうに乗客たちの様子をうかがっている。
「何かあったらすぐ連絡をちょうだいね」
「……うん」
「いつでも戻ってくるんだよ」
「うん……そろそろ電車が出るから。じゃあぼく、行ってくるよ」
「いってらっしゃい。無理するんじゃないよ」
 母親に別れを告げると、少年は「そこの席、空いてますか」と小声で尋ねてまわり、ようやく車両の端の席に座ることができた。周囲の大人たちの目は恐ろしげだった。なるべく小さく体を丸めて、ダイゴローは眠りについた。

 それから二時間後、列車はビッグホットシティに無事到着した。
 ダイゴローは「あらよっ」とサンドバッグを背中に背負い、電車の出入り口をくぐるようにして降りた。その筋骨隆々とした姿に、停車場の人々はみな目を丸くした。小さな男の子が彼に無邪気に問いかけた。
「おじちゃん、どうしたらおじちゃんみたいに大きくなれるの?」
 するとダイゴローは「ガハハハハ」と豪快に笑い、子供の頭をわしづかみにした。
「強くなろうと願うのさ。人間、夢見ることが大事なんだぜ」
「そっかー。うんわかった、やってみる!」
 そのとたん、男の子はみるみる大きくなった。筋骨隆々としたその姿はまさにデストロイヤーと呼ぶにふさわしい……


「待て待て待て。いったい何の話だこれは。しかも微妙に既視感があるぞ」
「あ、気がつかれました? 前回お見せした話があまり気に入ってもらえなったようなんで、別のあらすじで作り直してみたんですよ」
「いや、何を言っているのかさっぱり分からん。しかもこの調子だと世界中がマッチョであふれ返るぞ」
「なるほど、そういう終わり方もいけますね」
「感心してどうする。というかポップの意味を間違えてないか? これはハジけてはいるがポップとは言わんだろう」
「そうかなあ。銀俵さんが難しく考えすぎなんじゃないですか?」
「だとしたらおまえが難しいと思う作品はどうなるんだ」
「難解な作品、ですか……これなんてどうでしょう」
 手渡されたノートのタイトルは『ようこそフモフ星へ』。中を開くと、こんな文章が書かれていた。


「ふも! もふふもふももふふもももふもふふも!」
「もふふもふふもふふふもももも、ももふふもふふもふもふふふふもも!」
「もふふもふももふふふもふふももも、ももふふふふふももふもふふももふふふふふふもふふふふふふももふふもふ……」


「……新手の宗教か?」
「巻末を見てみてください」
「巻末? ……うお! 巻末という言葉では収まりきらんくらい巻末資料が多い!」
「私が考案したフモフ語の翻訳資料です。いやあ、これ書くのには苦労しましたよ」
「おそろしく無駄な労力を費やしている気がするんだが」
「しかも言葉そのものに欠陥がありまして。文の頭をどこで区切るかで意味が変わっちゃうんです。なにしろ『ふ』と『も』しかありませんから。日本語に翻訳するのはまず無理ですね」
「恐ろしく手の込んだトラップだな。最初から訳を書けば楽だったろうに」
「書き手がそんな楽をしてはいけません。読者との一騎討ち、それが理想です」
「解読できないのに一騎打ちも何もないと思うが……お、こっちの方がポップそうじゃないか」
 銀俵は『ウッキー&ウイッキー 午後は二人でヒッチハイク』と書かれたノートを手に取った。
「ああそれですか? その作品は現代社会における青年たちの心の闇と葛藤を描いたものなんで、どちらかというと硬派なところが売りなんですが」
「なんだかタイトルに似合わず難しそうだな。まあ手にしてしまったからには読んでみるしかあるまい」
 銀俵は適当なページから声に出して読んだ。


「なんだか気分がノッてきたわ」
 キャシーが嬉しそうに叫んだ。
「そうだろ?」ケインが浮かれて叫び返す。「このダンスは全身をシェイクすることによって頭の中までハッピーにしてくれるんだ。さらにボルテージをアップさせる秘密のシャウトもあるんだぜ」
「教えて教えて!」
「せーので、揃って『ウッキー&ウイッキー!』って叫ぶのさ。シャウトが熱ければ熱いほどハートがヒートアップするぜ!」
「じゃあ、さっそくやってみましょう!」
「『ウイッキー!』で手を高く上げて腰を振るのを忘れちゃ駄目だぜ」
「大丈夫。ちゃんとやるわ!」
「よーしOK、じゃあ読者のみんなも一緒に! せーの、ウッキー&ウイッキー!!!」


「……安安藤」
「なんです」
「その誘いかけるような手をやめろ。それと期待たっぷりの目でおれを見るな」
「なんと。ノッてくれませんか」
「のるか。だいたい登場人物が読者に直接話しかけてくるなんて斬新すぎるぞ」
「まさにそこがこの話の売りなんですが」
「さっきは硬派が売りといってなかったか?」
「どちらも売りなんです」
「硬派さをみじんも感じないんだが……お、この『波止場の涙船』というのはなんだ。なんだか演歌みたいなタイトルだな」
「そうですね、私にしては湿っぽい話を書いてしまったかもしれません……」
「そこでおまえが湿ってどうする。読むぞ」
 銀俵は適当なページを開いた。


 ドルエーン伯爵夫人は私の視線に気づくと、眉を上げて聞いてきた。
「あら、わたくしの顔に何かついてますかしら?」
「い、いえ」
「もしかして、ご飯粒でもついてます?」
「いえ」
「それなら、ぶり大根の残りかすでも?」
「いえ」
「では、すいかの種でも?」
「いえ」
「じゃあ、練馬のこんにゃくでも?」
「いえ」
「あるいは、くじらのほほ肉 赤ワインソース添えでも?」
「いえ」
「それじゃあ、エビフライの衣でも?」
「いえ」


「……おい安安藤、このやりとりはどこまで続くんだ」
「121ページです」
「なに?」
「121ページまで彼女は自分の顔にくっついているものが何かを推理し続けるんです。でもここだけの話、食べ物の名前がしりとりになってて、最後は『ん』がついて負けちゃうんですけどね♪」
「一体なんの勝負なんだ。しかも急に陽気になるな。湿っぽいのはどこへ行った」
「湿るなって言ったのは銀俵さんじゃないですか」
「それはまあそうなんだが、どうも方向性がぶれている気がするんだが」
「なんですと」
 急に安安藤の目が据わった。
「わたしの方向性がぶれている? 銀俵さんでも言っていいことと悪いことがあります。このバウンティ・小田をなめない方がいいですぜ」
「さりげなくキャラ変わってるぞ。それにバウンティ・小田って誰だ」
「私です。私のペンネームです」
「ペンネームというよりリングネームだな。売れないプロレス選手って言われた方がピンとくるぞ」
「よくわかりますね。じつはプロレスやってた友達から譲り受けたんですよ。生涯成績は四十二敗一分けで特別目立った存在でもなく……」
「なんだか縁起が悪そうだな」
「なあに、その運のなさをひっくり返してやれっていう友達からの熱いメッセージだと解釈してますよ」
「なんというか、友達思いだな。……お、もうこんな時間か。そろそろ署に戻るか」
「待ってください。そもそもなんでうちにいたんです?」
「ああ、午後から会議があってな。どうも眠くて出る気がしないから、安安藤から変死体を見つけたと連絡があったことにして出かけてきた」
「無茶な言い訳しないでください。わたしはどうなるんですか」
「いざとなったら夕飯用に買ってきたサンマの内臓と、人間の死体を見間違えたことにしておくさ」
「わたしがですか? さすがに見分けがつきますって」
「本当か?」
「……はい」
「本当に?」
「ああすいませんすいません、内臓苦手です」
「ふっ、なら問題ないな。ではさらばだ」
 そう言って立ち上がった銀俵の姿、ボロボロのスーツの上着を翻した彼の勇姿は、カビと湿気をバックにして輝いているように安安藤の目に映った。その神々しさに打たれた安安藤は一瞬のうちに理解した。ああ、彼こそは八谷署を背負って立つ男、この世界を導いていく者、そう簡単には打ち倒されない鋼の精神の持ち主なのだ、と。
 次回はタンクローリーに轢かれてもらおう。そう安安藤は決めた。


「銀俵」へ