第二話:置き土産のアップルパイ



 私は再び、あの老婆に呼ばれた。
 どうしても語らねばならない話があるという。

 新月の夜に私が訪ねると、老婆は突然語り始めた。

「ある日旅の若者がこの地にやってきた……そして四軒隣の石塚のオババの家の門を叩いた」
「その石塚さん、は何をしてらっしゃる方なんでしょう」
「それがな……その家に住んでおるのじゃ……」
「……」
「オババが出ると、若者は青い顔をして冷や汗を浮かべていたという。なんでも急に腹の調子が悪くなったので、トイレを貸してほしいというのじゃ。
 オババが招き入れると、若者はいてもたってもいられぬというように慌ただしく上がり込んだが、トイレに駆け込む直前にくるりと振り返り、小さな包みを差し出してオババにこう言ったという。
『すみません、このアップルパイを預かっていてもらえませんか。トイレに持って入るのもなんだし。なんなら何切れか食べてしまってもいいですから』」
「……アップルパイ、ですか? それはどういう……」
「なあに、どうせ隣村ででも買ったもんじゃろう。この村にはそんなシャレたものは売っておらんからな。
 オババは特別気にとめずにそれを預かった。若い男はようやく肩の荷が下りたというようにほっと息をつくと、すぐにトイレへと駆け込んだ。
 やがて男は帰っていった……帰っていったのじゃよ」

 老婆は口を開けてケケケと笑った。細くて黄ばんだ前歯に、最中の皮のようなものが張り付いているのが見えた。おやつの名残かもしれない。このまま歯を磨かずに寝るつもりだろうか。

「男がアップルパイを忘れていったことにオババが気づいたのは、その日の夜遅くになってからじゃった。オババはオジジに相談したが、男はとっくに村から離れておろうし、まさかこの山深い村まで、わざわざアップルパイのために戻ってくることもあるまい。といって、捨ててしまうのももったいない。そこで二人は、そのアップルパイを食べてみたのじゃ。
 するとじゃ、思いもかけないことに……」
「……」
「そのパイの味は……」
「……」
「……とてもまろやかだったそうな……」
「……」
「……」
「……」

 その夜は何事もなく静かに更けていった。

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