こんにちはトルコ人


 「ICQ」をご存知だろうか。知らない方のために少しだけ説明しよう。知っている方は「さて」まで読み飛ばしてもらってかまわない。
 ICQとはチャットをするためのソフトウェアである。ふつうのチャットと違い、わざわざチャットの置いてあるホームページへ行く必要がない。使用者はICQサーバに登録して個別のナンバーをもらい、これを電話番号のように使ってほかの人とチャットをする。チャットは相手がネットに接続していないとできないが、友達のナンバーをICQの「コンタクトリスト」に登録しておけば、その友達が現在ネットに接続しているかどうかが一目でわかるという機能もある。これは便利だ。
 またICQには個人情報を載せるプロフィール欄がある。ハンドルネーム(以下HN)、性別、年齢、住んでいる国や都市名、などをここに書きこんでおくと、ICQを使う人たちはそのデータを自由に見ることができる。初対面の人にチャットを申し込むときなどに有効だろう。
 ICQにはリアルタイムで話ができるというチャットの特性のほかに、他人に会話を知られずに話せるというふつうのチャットにはない利点もある。しかもフリーソフト。近頃急速に普及しつつあるのもうなずける。

 さて、私もICQを使っていた。ICQを使い始めた当時、私は個人情報を一切公開せず、プロフィール欄にはHNのみを記入しておいた。ちなみにHNは”Mine”である。
 学校の友人に勧められて始めたICQ、当時は学校の友人と話すのにしか使わなかった。当然、友人たちにしかICQナンバーを教えていないため、彼ら以外の人間からメッセージが届くことはなかった。
 ところがある日、私のもとに奇妙なメッセージが届いた。そのメッセージは、「melhaba」という謎の言葉で始まっていた。読めない。
 気になって発信者の個人情報を見てみると、なんと国籍がトルコになっている。するとこれはトルコ語か。しかしトルコ人に知り合いはいない。むろん友達もいない。相手は返事を待っている。
 きっと誰かのナンバーと間違えたのだろう。そう思った私は、トルコ語はわからないのでとりあえず英語で返事をしてみた。
「すいませんが、番号を間違えていませんか? 私は日本人です」日本人であることなど明かさなくてよいのだが、多くの日本人はこういう場合にのみ妙な民族意識を発揮するのだ。
 ともかくそのトルコ人からはメッセージが来なくなった。要するに、間違い電話だったと思えば不思議はない。ICQナンバーには国番号などないから、国境を越えた間違い電話もありうるわけだ。おもしろいこともあるものですね――などと終わらせてしまうのは早かった。

 三日ほどして、またも「melhaba」で始まるメッセージが来た。発信者のナンバーを見るとやはりトルコ人だが、今度は前のとは別の人らしい。私は首を傾げつつ、前回と同じメッセージを送ってよこした。しかし数日後にまた別のトルコ人が。さらにまた。多いときには一日に三人のトルコ人からメッセージをもらうという奇妙な状態に陥ってしまった。友人にいわせると、この頃の私はあまり笑顔をみせなかったらしい。

 ところで、私は学校のPCにもICQを入れている。ナンバーは家のと同じである。ある日、学校で作業をしていると、あろうことかまたもトルコ人が来襲した。たぶん通算四十人目くらいだったと思う。ちょうど近くに先生がいたので、業を煮やした私は先生に手短に事情を話し、どうしたらいいか聞いてみた。
 その先生はつい先日までトルコに出張していて、挨拶程度のトルコ語なら読めるとのこと。さっそく届いたメッセージを見てもらった。結果、「melhaba」とはトルコ語で「こんにちは」くらいの意味だとわかった。その先は文字化けしていて読めない。当然だ。私のPCにはトルコ語を扱う機能などない。どうしたらよかろう、と聞くと、先生は他人事と思ってかろやかに仰せになった。
「友達になればいいじゃないですか」
 先生が生徒に敬語を使うことの是非はともかく、この言葉は私の意表をついた。トルコ人と友達になるという概念はなぜか私にはなかったのだ。先生と相談し、私はくだんのトルコ人に以下のようなメッセージを送った。日本語は通じまいから、ぎこちないが英語を使うしかない。
「こちらの端末はトルコ語に対応していないので文字が読めません。英語にしてくれませんか?」
 てっきり無視されると思ったら、相手の答えはあっさり「OK」。こうして、見知らぬトルコ人とチャットをするという妙な経験をする羽目になる。
 ところで、私には一つの確信があった。これまでやってきた未知のトルコ人はそろって男だったのだ。つまりMineはうら若い女性だと思われている可能性が高い。このことを念頭に、この「ボスポラス」と名乗るトルコ人と会話をした。以下はその記録を日本語に訳したものである。

bosphorus:どうも
Mine:こんにちは!
bosphorus:こんにちは ???
Mine:すいません、ここトルコ語のコード出ないんです。
できたら英語でお願いします。
bosphorus:いいよ
bosphorus:???
Mine:どうやって私のナンバーを知ったんですか?
私、日本人なんですが。
bosphorus:ああ、日本人かい
Mine:最近、トルコ人からよくメッセージもらうんですが。
どうしてなんでしょう?
bosphorus:君の名前はトルコ語の名前だよ
Mine:'Mine'は英語です!
'Mine'はトルコ語でどういう意味ですか?
bosphorus:花(flower)だよ
Mine:そうですか。ありがとう
bosphorus:いやいや
'Mine'は英語でどういう意味なんだい?
Mine:'私のもの'ですよ。
……もしかして、'Mine'は'flower'とは別の意味があるんじゃないですか、トルコ語で
bosphorus:ああ
bosphorus:もう行かねば
Mine:さよなら!
bosphorus:さよなら
またそのうちChatしようね

 いいところで逃げられた。Mineはトルコ語の俗語かもしれないと思って訊いたのだが、相手はその答えを言わずに去ってしまった。どちらにせよまともな意味とは思えない。気分が浮き立つはずもない。
 会話終了後、「ボスポラス」が私のナンバーをコンタクトリストに追加したという通知が来た。これですっかりお友達になってしまった。これでしばらくはボスポラス攻勢が続くだろうと予想したら、はたしてそのとおりになった。

 授業中、ボスポラスから突然のメッセージ。
「やあ、こっちは朝だよ」

 それから夕方ごろに再び。
「やあ。いま昼休みでね」

 自己紹介のやりとり。歳を聞かれたから二十一歳だと答えると、三分ほど嫌な間があって、
「へえ、二十一なんだ」
 逆にこちらから歳を聞くと、これまた五分ほどしぶった挙げ句、
「社会人だよ」

 とりとめのない会話に飽きて返事をしないでいたら、
「おーーーい、そこにいるんだろ?」

 いいかげん嫌気がさした私は彼のナンバーを無視リストに放り込み、二度と着信を受けつけないようにした。さようならボスポラス。特に何の感慨も浮かばなかった。
 この経験に懲りた私は一計を案じた。ICQのプロフィール欄の性別のところにはっきり「男」と記入したのである。ボスポラス事件以来なぜか倍増していたトルコ人攻勢は、これによりすみやかに減少した。最近では週に一人か二人が迷いこんでくるだけになった。先生は「どっちもありの人じゃないですか?」と嬉しそうな顔をする。だがまあ、まずは安心というところである。

 トルコのどこかのホームページにはおそらく、私のICQナンバーがでかでかと公表されているのだろう。そうとしか思えない。まあどちらでもよい。私はICQを使うのをやめてしまったから。
 後の調べで、「Mine」は「ミーネ」すなわちトルコ人女性の名前だと判明した。ボスポラスの言葉は素直に信じるべきだったようである。

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