十二年目の帰郷 (三)


 カナちゃんをなだめるのは大変だった。どうしても私と一緒に父を探すのだと言い張ったのだ。十年以上も顔を合わせていなかったカナちゃんが、こうまで父を探すのに協力したがるのは、やっぱり初恋のせい、なのだろうか。
「アオバちゃん、この辺りのことぜんぜん分からないんでしょう? こんな広い街で人探しをしようっていうなら、土地鑑のある人が一緒にいたほうが絶対にいいって」
 私が自分の言い分を押し通す気になったのは、彼女の申し出がどこか親切の押し付けじみて感じられたからかもしれない。それとも、親切を装った好奇心というべきか。彼女は本心から好意的な申し出をしてくれたのかもしれないけれど、彼女のまぶしいほどの明るさがかえって私のよくない癖――つい人の好意の裏を読んでしまう、習性じみた心の動きを誘ってしまった。事が私の根深いコンプレックス、父親や家族についての調査だということもあるかもしれない。そんな疑り深い自分が、ときどきひどく醜い人間に思える。しかしとにかく私は、これは私の家族の問題だから私一人で解決したいの、ときっぱりいった。それはカナちゃんがどうというのとは関係なく、紛れもなく私の本心だった。
 カナちゃんはまだぶうぶう言っていたが、何か分かったら必ず報告すること、を条件にようやく同行を諦めてくれた。しかしその「報告」についてもひと悶着あった。私が携帯電話を持っていないと知ったときのカナちゃんの反応は、セリナが見せたものよりずっと親身ではあったが、ずっと大げさでもあった。頭を抱え、子供を諭すように彼女は言った。
「あのねアオバちゃん。家庭の事情ってのもあるだろうからあんまり突っ込んで聞こうとは思わないけどさ、ケータイもなしにいまどきどうやって人探しするの? 知らない人と待ち合わせするとか、何か思い出したら連絡をもらうとか、いろいろ必要でしょう?」
「家庭の事情ってわけでもないんだけど。いや、家庭の事情でもあるんだけど」私は簡単に養父母との生活について説明したが、カナちゃんは首を横に振るばかりだった。携帯がなくても十分やっていけるということを、携帯に慣れた人に説明するのは難しい。
「じゃあこうしよう。うちの固定電話の番号、緊急用に使わせてあげる。私は家族とのやりとりもケータイでやってるし、家の電話にかけてくる人なんて滅多にいないから、連絡用に使ってくれてぜんぜん問題ないよ」
 京子もまた、事情を知らないなりに協力を申し出てくれた一人だ。私は夜遅くならないうちに、さっそく電話を借りて京子に連絡を入れた。私の部活欠席については特に問題にならなかったらしい。私が今東京にいることをうっかり口にすると、京子は驚きの声をあげた。
「なんだってまたそんなとこにいるのよ。都会に憧れちゃったの?」
「いまどきそんな子いないって。それに人は多いしすんごく暑いし、どっちかっていうと早く帰りたいよ」
 ため息が聞こえた。「青葉、あんたが何してんのかは知らないけどさ、私にできることがあったら遠慮しないで言うんだよ?」
「遠慮してるみたいに見える? 別に大したことはしてないよ。それにたまたまだけど古い友達に会ってね。すごくいい子で、今夜もその子の家に泊めてもらうことになったの」
「なんだか危なっかしいなあ。……まあね、別に無理に事情を聞き出そうとはしないけどさ。京子さんが心配してるってことは憶えときなさいよ」
「おっけ。ちゃんと憶えとく」
 笑って電話を切った。どうやら私は世話好きな友達に恵まれたようだ。
 養父母にも電話を入れようかと迷ったが、結局しないでおいた。声が届きにくいからではない――なぜか私と電話で話すときだけは、養父母の耳は普通の声で話しても私の言葉を聞き取ってくれるのだ。それでも電話をしなかったのは、特別話せることがなかったからだ。友達の家に泊まると言って出てきた以上、その夜に一報入れるというのも不自然だろう。それにやっぱり、養父母に対する後ろめたさもある。もしもっと長く東京に留まる必要が出てきたら、そのときに連絡すればいい、そう思った。

 翌朝、まず私はカナちゃんの案に従って、自動車会社の営業所に電話をかけてみた。その番号は母の住所録に載っていたものだが、昨日まではそこが父の勤め先かもしれないなどとは思いもしなかったため、スルーしていたのだ。しかしカナちゃんの記憶と重ね合わせてみると、父が客ではなくお店側の人間だったかもしれない、という可能性が見えてくる。
 電話は通じた。しかし応対に出た若い女性の反応はごく事務的な、そっけないものだった。
「水原という社員は弊社にはおりません」
 十年ほど前まで勤めていたかもしれないんですが、と食い下がってはみたが、申し訳ございませんが分かりかねます、と丁重に繰り返されるばかりで、それ以上は何も聞けずじまいだった。
「若い人が出たんじゃ仕方ないんじゃない?」首尾を伝えると、カナちゃんはなんでもないというように肩をすくめてみせた。「電話を取るのなんて若手の仕事だろうし。もし他に行く当てがなくなったら、直接お店に行って、どうにかして年配の人を引っ張り出して話を聞いてみたら?」
「どうにかって、どうしたらそんなことできるかな。父を知っていそうな人をお願いします、なんていうのもおかしいし」
「生き別れた父がここに勤めていたはずなんです、くらい劇的な言い方でもいいんじゃない? 嘘じゃないんだし。それに相手は自動車屋さんでしょ。アオバちゃんの年格好を見たら、車を買いに来たお客さんじゃないって一発でバレちゃうから、インパクトのあることを言わないとまともに相手にしてもらえないよ」
 そうだね、と私はうなずいた。大げさな物言いは好きじゃないけれど、手がかりが見つかるかもしれない場所でためらって門前払いされては、元も子もない。
 差し当たっては近所にあるはずのパームハイツをもう一度訪ねてみるつもりだった。昨日着ていた制服は、ブラウスが汗でぐっしょりしていて今日も着るというわけにはいかなかった。ついでだから洗濯しといてあげるよ、とカナちゃんが言ってくれたのでお言葉に甘えることにして、用意しておいた私服に着替えた。このあたりの子たちの服に比べたら地味かもしれないが、どのみちファッションショーに出るわけではないのだ。
 まだどこか不満顔のカナちゃんに見送られて、私は出発した。空は今日も快晴で、朝だというのに空気はすでに熱っぽく、数分も歩かないうちに、カナちゃんの家で出掛けに飲んできた麦茶が恋しくなってきた。蝉も暑さに耐えかねているのか、ジリジリという鳴き声はどこか元気がない。
 地図を回しながら歩きだしてすぐに、昨日通った公園に行きついた。そこからパームハイツまではすぐだった。建物はあいかわらず陰気で、廃屋、という言葉を連想させた。昨日は見かけなかった自転車が、一階の部屋の一つに寄せてあって、一応住人がいることがはっきりした。かといってそれらの部屋を訪ねるつもりはない。
 私は管理人部屋のチャイムを押して、誰かが出てきてくれるのを待った。窓の内側にかかったレースのカーテンはこそりとも揺れない。もう一度押してみたけれど、やっぱり反応なし。今日も空振りか、と諦めかけたとき、背後から昔話でもするような間延びした声がした。
「はいはい、何の御用です?」
 振り向くと、腰の曲がった小柄な老婆が、大きな丸眼鏡越しに私を見上げていた。前掛け姿で、真っ白な髪を後ろで束ねてだんごにしている。買い物帰りなのだろう、一方の手にバッグを、もう一方に大きなスーパーの袋を提げていて、そこから長ネギがにょっきり顔を出している。
「ええと、ここの管理人さんですか?」
「そうですが」
「あの、私――」あらかじめ考えておいたとおりに切り出す。「小さい頃に、この近くに住んでいた者なんです。そのころ仲のよかった友達がたぶん、このアパートに住んでいたと思うんですけど、今もいるのか知りたかったもので……」
 管理人さんはちらちらと私の様子を眺めた。「そのお友達はなんていうお名前?」
「水原、というんですけど」
「みずはら、みずはら……さて、今はそういう人は入ってないねえ。どれくらい前の話なの?」
「十二年前です」
「それじゃあもういないよ。ここで一番古い人でも、十年ぐらいだもの」
「あの、むかし水原さんがここに住んでいたかどうか、調べてもらうことはできませんか? できたらどこに引っ越していったのかも」管理人さんが不審そうに眉根にしわを寄せたので、慌てて付け足す。「その子とはすごく仲が良かったんですけど、父の仕事の関係で急に引っ越さないといけなくなって、ちゃんとお別れもできなかったんです。今日はたまたま東京に用があって出てきたんですけど、ひさびさにこのあたりを歩いてみたら懐かしくなって。それで、当時の友達と少しでも話ができたらいいなと思ったんです」
「それはまあ、そういう気持ちは分かるわよ」管理人さんは「懐かしい」という言葉に共感したのか、こころもち警戒を解いてくれたようだった。「もしその人がほんとに昔ここに住んでたんなら、あたしが憶えてなくても帳面には残ってるでしょう。それを見てきてあげるから、ちょっと待っててね」
 家の鍵を取り出そうと、管理人さんは片方の手に荷物をまとめようとした。「持ちましょうか?」と大きな買い物袋を支えて受け取ってあげると、管理人さんは感心したように私を見た。
「ありがとう。いまどき珍しいねえ。まだ若いのに」
「え……ああ、うちの――親が、腰を悪くしているもので」
「それでも、そういう心ばえはなかなか育たないものよ。ご両親は立派な方たちなのねえ」
 私は複雑な気分でその褒め言葉を受け取った。
 荷物を持ってあげただけなのに、管理人さんはすっかり私への疑いを解いてくれたようだった。上がっていくように促されたので、管理人さんについて狭い玄関へと入った。台所まで袋を運ぶと、そのまま畳敷きの居間に通された。簡素な部屋だった。真ん中に丸い木のテーブルがあり、それを挟むように座布団が二枚。座ってしばらく待っていると、管理人さんは奥から台帳を持ってきて、私の差し向かいに腰を下ろした。
「お友達のお名前は、なんといったっけね」
「水原、です」
「水原さんね。十年以上前、と……」ぱらぱらと台帳をめくる。「ああ、これかな……三階の部屋に五年くらい住んでいた方だね。ご家族と」ふと口をつぐんだ。「思い出した。思い出したよ。あの水原さんか。そういえば、小さな娘さんがいたっけ」
 胸が高鳴った。私のことだ。
「はい、そうです」
「三0五号室に住んでた水原さんだね。ああ、やっとはっきり思い出したよ。年が経つとなんでも忘れてしまうものだねえ」管理人さんは私に顔を向けたが、しわだらけの顔には戸惑いの色があった。「残念だけど、水原さんがどこに行ったのかはわからないよ。隠してるわけじゃない。誰に聞いても分からないんじゃないかね」
「どうして……ですか」
「急にいなくなっちまったんだよ。失踪しちまったんだ。あのときはちょっと騒ぎにもなってね……」
「何が、あったんですか?」
 管理人さんは気まずそうに視線を泳がせた。しばらくためらってから、他に誰もいないのに声を低めて言った。
「水原さんのお宅、変な連中に絡まれていたみたいだよ。別に水原さんのことを悪く言うつもりはないんだけどね、当時うちの前に変なビラがばらまかれてたことがあってねえ」
「ビラ、ですか?」
「たぶん、ただの嫌がらせなんだろうけど。ほら一時期あった、援助交際っていうの?」管理人さんの口調には覚えたての言葉を口にする子供のような、どこか得意げな響きがあった。「今もあるのか知らないけど。水原さんが女学生といかがわしい場所にいるような写真が、尋ね人でもするみたいな文句と一緒に印刷されててね。気味が悪いから全部まとめて処分しておいたけど、水原さんとこの一家がいなくなったのはそれから少ししてからだから、無関係ではないかもねえ」
 援助交際。その言葉はそれほど縁の遠い言葉ではなかった。放課後にクラスメートたちが交わす噂話の中で、ときどき耳にしたことがある。ねえ聞いた? 二組の○○さんたちのグループ、エンコーしてるみたいよ。知ってる知ってる、だからあの子たちっていつもあんな高いバッグ買えるんでしょ。
 私はそういう噂の輪には加わらない。私の友達にもそういう噂をする子や、その手の噂の的になるような子はいない。でも雰囲気で知っている。私たち女子高生にはそういうお金の入手法があって――嫌な表現だけれど、今が一番高く売れる年頃なのだということを。
 女学生、と管理人さんは言った。その古風な言葉がどれくらいの年頃の子を指すのかは分からない。でももしかしたら、父は今の私くらいの子を「援助」していたかもしれないということか。私は父の「罪」をいろいろ想像してきたが、そういった類のことは無意識のうちに避けていたのか、考えたこともなかった。そして想像するとひどく気分が悪くなった。もしそれが本当なら、母と私をよそに移し、父が失踪した理由というのは……。
 私はよほど深刻な顔をしていたのだろう。管理人さんは慌てて手を振った。
「いやいや、べつにお友達がどうにかなったっていう話じゃないんだよ。それに水原さんはしゃんとした人だったから、あれはきっと性質の悪いいたずらだったんだよ。ただ、ひどい嫌がらせをされたもんで居づらくなっただけさ。そうだよきっと。水原さんの娘さんも、今頃きっと元気でやってるよ」
 励まそうとしてくれるのはありがたいけれど、「水原さんの娘さん」がその後無事に暮らしていることならよく知っている。私が知りたいのは、私と母がここから出ていったあと、父がどこへ消えたのかだ。父は一人ここに残って、いったい何をしようとしていたのか。
 管理人さんはそれ以上のことは知らないようだった。私はお礼を言って家を出た。アーチをくぐってから建物を振り返り、三階の一番奥の部屋を眺めてみたが、訪ねようとは思わなかった。そこには父はいない。私たち一家のあとに誰があの部屋に越してきたとしても、私たちとは何の関係もない人だろう。
 ため息を一つだけつくことを自分に許してから、私はパームハイツに背を向けて歩き出した。

 次は自動車会社を訪ねるつもりだった。幸い目的の営業所は歩いていける距離にあった。地図を回しながら位置を確認する。駅まで行って、そこから大通り沿いに歩いていけば迷わずに済みそうだ。
 歩道橋を越えると、駅に出入りするたくさんの人の群れに飲み込まれそうになった。うまく人の流れに乗り、大きな交差点を横切って大通り沿いに進む。道路の反対側にあるはずのお店を見逃さないよう目で探しながら歩き、看板を見つけて近くの横断歩道を渡ろうとした。信号は赤だった。私はなにげなく道路の反対側を眺め……そこに腕時計を気にしている男の姿を見つけて、あっと声をあげそうになった。
 スーツ姿の猫背。あの男だ。私を水原と呼んだ、あの小男。
 四車線の道路を挟んだ向こう側で、男は重そうなカバンを持ち直しながら、ひょいと目を上げて信号を確認した。私は急いで顔を隠そうとしたが、わずかに遅かった。男と私は、ひっきりなしに通り過ぎる車の流れの両岸で、目と目を見合わせてしまった。
 男の口が「あ」の字に開いた。それと同時に、私は逃げ出した。
 徐々に増えていく信号待ちの人の群れをかきわけ、小道に入り込み、小さな十字路の日陰に身を隠す。そこからそっと首だけ出して様子を窺った。大通りに沿ってたくさんの顔が行き来しているが、あの男の姿はない。しばらく待ってみたが、男が追ってくる気配はなかった。
 顔を引っ込め、深呼吸を二つ。そうやって気を落ち着かせながら、私は混乱する頭で考えた。なぜあの男とばったり出くわしたりしたのだろう? 地元と東京、こんなに離れた場所で再び顔を合わせるなんて、そんな偶然があるだろうか。それとも人の移動が激しい都会では、知っている顔とすれ違いやすいのだろうか。
 それに、なぜ私は反射的に逃げたりしたのだろう。あの男は数少ない手がかりかもしれないのに。この疑問の答えはすぐに見つかった。あの目だ。あの男が私を見るときの、どこか卑屈な、すがりつくような目。私を「水原」の姓で呼んだことは私を動揺させたがそれ以上に、あの異様に熱を帯びた目つきが、私に身震いするほどの嫌悪感を抱かせるのだ。彼は誰に対してもあんな目つきをするのだろうか。
 あの男は時間を気にしていたようだったから、たぶん仕事の待ち合わせか何かがあるのだろう。それなら私を探して長々とそのへんをうろついたりはしないはずだ。私はそろりと大通りまで戻り、あたりを窺ってみた。幸か不幸か、男の姿はなかった。見えないものにいつまでも怯えているわけにはいかない。男のことはいったん忘れることにした。
 今度は何事もなく、営業所の前までたどり着けた。大きなショーウィンドウの向こうには、三台のぴかぴかの車が見栄えのするように斜め向きに並べてあり、奥には丸テーブルと椅子のセットが置かれている。平日の昼間だからか客の姿はない。入り口近くの受付に制服姿の女性がいるだけだ。
 自動ドアが開くと、エアコンの風が寒いくらいに吹きつけてきた。私はきれいに化粧した受付嬢の前に立った。
「あの、ここに勤めている水原の娘ですけれど、父をお願いできますでしょうか」
 カナちゃんのアドバイスには遠く及ばないが、これでもがんばって演出したつもりだ。受付嬢は、水原ですね、と確認しながらちょっとだけ首を傾げた。受付の電話を取って誰かと話し始める。受話器からわずかに洩れてくるのは、年配の女性の声だった。水原という社員はおりません、とまたあっさり突っぱねられたらどうしようと考えていると、意外にも受付嬢は受話器を下ろし、あちらにお掛けになってお待ち下さい、と商談用のスペースを曖昧に示して、涼しげに笑いかけてきた。私はどうも、と答えておとなしく一番手前の椅子に座った。まさかとは思うが、父本人が出てきたりしないだろうか。その想像のせいで、外に聞こえるんじゃないかと思うほど心臓が激しく鳴った。
 まさか、はなかった。ほどなく奥からスーツを着た四十代くらいの女の人が出てきて、私についてくるよういった。スタッフオンリーと書かれたドアを抜け、机と書類だらけの小さなオフィスの横の通路を通る。なるほど受付嬢が首を傾げるわけだ。机の数からして社員数はそれほど多くない。水原という社員がいたら、確認するまでもなくすぐに思い当たっただろう。
 そのまま会議室のような部屋に案内された。沈んだ赤色のソファが、がっしりした低い机を挟んで二つずつ置かれている。奥の壁にはこの会社の新しい車のものらしいポスターが張られている。
 女の人は名刺入れから名刺を一枚取り出し、私に差し出した。名刺をもらうのは初めてだった。篠崎菊子、という名前が、会社のロゴの下に印字されていた。
「篠崎といいます。あなたが……水原さんのお嬢さん?」
「はい。水原青葉といいます」
「そう。青葉さん。水原さんから昔、お名前を伺ったことがあります」
 篠崎さんは静かな口調で言った。ふくよかな顔には厳しさと疲れがしわとなって刻まれているが、表情は穏やかだった。彼女は向かい側に座るよう私を促し、自分はドアに近いほうのソファに腰を下ろした。
「今朝電話をくださったのもあなたね。そのとき応対した者が伝えたと思うけど、先に結論を言ってしまうと、お父さんはもうここにはいません」
「父は……父はやっぱり、ここで働いていたんですね」
 篠崎さんはうなずいた。「十年以上前になるかしら、突然いなくなってしまって、それっきりです。一応おうちのほうにも社員が伺って、大家さんに頼んで家の中を見せてもらいもしたのだけれど、もうほとんど引越しをしてしまったあとみたいで、家具もあまりなかったみたい。……あなたがここを訪ねてきたということは、お父さんはあれ以来ご家族のところへも帰っていないのね。もう長いことお父さんを探しているの?」
「いえ、今度が初めてです。私はあの頃まだ小さかったですし、父の顔も憶えていません。母も早くに亡くなりましたし、今は親戚の世話になっていますが、父の写真は一枚もなくて」一度言葉を切って篠原さんの反応を待ったが、相手は膝の上に両手を揃えたままじっと私を見つめている。「父がどんな仕事をしていたのかも、実は昨日東京に出てきて、やっと聞き知ったばかりなんです。他に手がかりもなくて、こちらで何かお話を聞ければと思って伺ったんです」
「そう。少しでもお力になれればいいのだけれど」篠原さんは小さくため息をついた。「あれから十年も経つのね。水原さんの娘さんとこんな形でお話することになるとは思わなかったわ」
「父とはその……どういう関係だったんですか?」
 我ながら変な切り出し方をしてしまった。篠崎さんは眼鏡の奥の目を少しおかしそうにやわらげた。
「水原さんとは同じ時期にこの会社に入社したの。彼は営業で私は事務スタッフ。オフィスが小さいから、毎日のように顔を合わせていたけれど……印象としては、あの人のほうが先輩みたいだった。そんなふうに感じてた人はたくさんいたと思うわ」
 あの人には兄貴分みたいなところがあってね、と篠原さんは微笑んだ。
「社内でもめごとがあったり、お客さんとのことで困っている人がいたりすると、いつも調停役や相談役をかって出てくれたの。本人だって自分の仕事があったでしょうに、他人が困っていると放っておけないみたいなところがあってね。……今ではもう、当時の仲間はこの会社にはほとんど残っていないけれど、あんなふうに突然姿を消してしまったものだから、私たちはいつも水原さんの身を案じていたわ。でもまさか、まだご家族の元にも戻られていないとは思わなかった」
 篠崎さんはまた小さなため息をついた。最後の言葉は私を気遣ってくれたものかもしれない。十年以上も失踪したままなのだ。家族の元に帰りたがっているとは考えにくいし、もしかしたらもう、この世にいないかもしれない。
 ともかく、好意的な対応をしてくれる人に会えただけでもありがたい。客でもない小娘に仕事の時間を割いてくれているのだ。しかもいなくなる前の父のことをよく知っている人だ。私は肩の力を抜いた。聞きたいことはすべて聞いてしまおう。
「いなくなる前に、父の様子に変わったことはなかったですか? 例えば、何か悪いことをしたとか……」
「悪いこと?」
「……例えば、やましい、罪になるようなことを」
 援助交際をしていたのではないですか。そう直接訊けなかったのは、相手が同姓だったからかもしれない。篠崎さんの反応をまずは見たかった。
 篠崎さんは考え込んだ。そこへちょうどさっきの受付嬢が入ってきて、私たちの前にお茶の入った湯飲みを置いていった。暑い日に湯気の立つ飲み物を出すなんて、と恨めしく思ったが、クーラーの効いた部屋ではちょうどよかった。一口すすって、篠崎さんの返事を待った。
「青葉さんは、お父さんが帰ってこない理由をいろいろ考えたのね」一語一語、注意深く篠崎さんは言った。ひざに重ねていた手を握り、慎重に言葉を続ける。「水原さんが姿を消した理由は、当時仲間たちの間でもいろいろ取り沙汰されたわ。あの頃私たちは、水原さんがご家族と一緒に姿を消してしまったのだと思い込んでいたけれど、よほどの事情があったか、事件に巻き込まれたか……とにかく水原さんが悪いことをした、と考えた人は誰もいなかったわ。あの人の性格ならむしろ、諌めるほうだもの。どんな場面でも悪いものは悪いと言うことができる人で、でも人をやり込めるのではなくて、ちゃんと相手を立てた言い方で、諌めることができる人だった」
 でも、と篠崎さんの口調に苦いものが混じった。
「誰もがみんな、忠告や非難を受け入れられるわけではないわ。おかしな受け取り方をして、自分勝手な解釈で腹を立ててしまう人もいる。恨みを買うような人ではなかった、なんて言葉では簡単に言えるけれど、そんな人はいないわ。どんな人だって、逆恨みをされることはある」
「父は誰かに恨まれていた、ということでしょうか」
 篠崎さんは首を横に振った。
「そういう可能性しか上がらないくらい、みんな失踪の理由を見つけられずにいたということよ。……何か悩みごとがあったみたい、という話なら聞いたけれどね。困っている友達がいて、相談を受けているのだけれどうまく力になってあげられない、というような」
 曖昧な話だ。篠崎さんも私の思いを見通したみたいに言った。
「はっきりしないわよね。当時、水原さんに悩みを打ち明けられたという人がいたのだけれど、はっきりした内容は教えてくれなかったの。プライベートに関わることだし、失踪に繋がるようなことじゃないから、とは言っていたわ」
 篠崎さんはほんの一瞬、私から目を逸らした。話しすぎてしまった、とでもいうみたいに。そして口をきゅっと引き結んでしまった。
 それは知っていることを隠しているというより、はっきりしないことは口にすべきでないという、篠崎さんの厳格さの表れのようだった。篠崎さんは本当はどう思っているのだろう。本当は、その悩みというのが失踪の直接の原因であると――うかつに口にできないような理由がたしかにあったのだと、ずっと疑っていたのではないか。
 援助交際。ビラの話が頭をよぎる。篠崎さんはビラのことを知っているだろうか。
「父が誰かから恨まれていた、ということは本当になかったんですね? 会社に嫌がらせの電話とかメールとか……中傷ビラのようなものが送られて来たということもなかったですか?」
「なかったわ」篠原さんははっきり言った。「あの人は外回りが多かったから、嫌がらせの電話なんかがあったら私が取った数のほうが多かったでしょうね。でもそういうことは一度も」
 言葉を切って、手元に視線を落とし、また私を見つめた。「おかしな話をしてしまったせいで、おかしな想像をさせてしまったかしら」
 私はかぶりを振った。「いえ、ただの思いつきです」
 篠崎さんはお茶を一口飲んだ。のどが渇いたからというより、思案をまとめるためみたいだった。「青葉さんは、今はどちらにお住まいなの? 東京にはもうしばらくいるの?」
「あまり長くはいられません。明日か、あさってには帰らないと」養父母のことを思った。あまり心配をかけたくない。「それに頻繁には来れません」
 地元のことや家庭のことを手短に説明すると、篠崎さんはすぐに納得してくれた。
「じゃあ早いほうがいいわね。当時の仲間たちに声をかけて、あなたと話す時間を作れないか聞いてみるわ。ほとんどみんなよその会社に移ってしまっているから、時間の調整が難しいけれど。もしかしたら、私が忘れてしまっていることを誰かが憶えているかもしれない」
 水原の娘になら打ち明けられることも出てくるかもしれない。篠崎さんは本当はそう言いたかったのではないか? 私の考えすぎだろうか。
 連絡先を聞かれて、私はカナちゃんの家の番号を伝えた。彼女の機転に感謝しながら、やっぱり携帯があったほうが便利だな、と初めて思った。

「じゃあ、おじさんの昔の友達と会えるかもしれないんだね」
 カナちゃんは夕飯の冷凍ドライカレーをほおばりながら、よかったじゃない、と言ってくれた。シャワーから上がった彼女はパジャマ姿で、しっとりした髪がときどきクーラーの風に揺れて、つやつやと輝いた。
 向かい合って座った私は、貸してもらったTシャツを着ていた。背の高いカナちゃんの服はぶかぶかだったけれど、寝巻き代わりにするにはむしろちょうどよかった。そして一緒に夕食を食べながら、私は約束どおり、今日の首尾をカナちゃんにほとんど話して聞かせた。昔の家の管理人さんと話したことも、篠崎さんのことも。
 父と女子学生が写っていたというビラの話を除いて。
「うん、だから今は連絡待ち。他にはもう、当てがないから」
 篠崎さんと別れてから、私はまっすぐカナちゃんの家に戻ってきた。カナちゃんは家にいなかった。今日はバイトで少し遅くなる、と事前に聞いていたのを思い出し、貸してくれていたスペアキーを使ってお邪魔させてもらった。そしてまず、うちに電話をかけた。今日中に帰るつもりはなかったからだ。
 うちの廊下に古めかしいベルの音が騒々しく鳴り響いているところを想像しながら気長に待っていると、ようやく養母が出た。私は前もって考えておいた言い訳を、後ろめたい気持ちに気づかれないように軽い口調で言った。
「京子と宿題やってたんだけどね、面倒くさいやつがいくつかあって、昨日中には終わらなかったの。だから今夜も泊めてもらって、一気に片付けちゃおうってことになって」
「宿題はいいけど、着替えは? 今日だって部活あったんだろう?」
「着替えは多めに持ってきてるから大丈夫。あとひょっとしたら、今日いっぱいでも終わらなくてもう何日か泊まらせてもらうことになるかも」
「お食事も出して頂いているの? あまりよそ様に迷惑をかけちゃだめよ。あんまり長くかかるようならうちにも来てもらいなさい」
「うん、そうだね。話してみる。……おじいちゃんは元気?」
「たった二日で急に具合が悪くなるほどあの人はひ弱じゃないよ」と養母は笑った。「今日は筑摩さんとこの倉庫の荷物整理を手伝いに行ってる。あの二人のことだから、今日は帰りがけに飲んでくるんじゃないかね」
「そっか。また酔っ払って玄関先で寝ちゃったりしなきゃいいんだけど」
「しっかり見張っとくよ。あんたこそ気をつけるんだよ。部活やって勉強やって、はいいけど、暑さに参っちゃわないようにね」
 胸がつんとした。「心配ないよ。じゃ、長引きそうだったらまた明日連絡するね」
 受話器を置いた手を、しばらく放せなかった。
 それから気持ちを切り替え、母の住所録を頼りにまだ当たっていなかった番号に何件か電話してみた。しかしどれも繋がらず、やがて篠崎さんが電話してきたときに通話中になってしまうかもしれないと気づき、それきり電話を使うのを止めた。
 考えようと思えば、手立ては他にも見つかったかもしれない。しかし頭がうまく働かなかった。思いが乱れ、まとまったことを考えようとしても、思考はすぐに心の内の暗い想念に向かってしまう。広い居間で一人ひざを抱えて、頭の中のもやもやと格闘し続けた。
 篠原さんに慕われ、心配してくれる仲間がたくさんいたという父。
 養父と母の口論、援助交際の様子かもしれないという写真。
 悪い方向に想像を膨らませてもきりがないことを、私は経験上よく知っている。しかし私の中の父の像が今までよりもぼやけてしまったことは、私をどうしようもなく落ち着かなくさせた。父は篠崎さんやカナちゃんが思い描いているような、優しくて正義感の強い人間だったのだろうか。たまたま誰かに逆恨みされてしまい、私や母と離れざるを得なくなってしまったのか。
 それとも裏で後ろ暗いことをしていて、報いを受けたのか。
 今のところ、父のことを直接話してくれた人からは、父のいい印象しか浮かんできていない。悪い印象は中傷かもしれないビラの話と、幼い頃の曖昧な記憶が元になっているだけだ。今なら、父は止むを得ない事情で私たちと別れ、何らかの事件に巻き込まれて行方不明になった、と結論してしまうこともできる。ずっと私の中にあった歪んだ像を、父を直接知っていた人から聞いた温かいイメージでくるんでしまうことが、たぶんできる。
 これ以上知ろうとしなければ、できる。でも。
「アオバちゃん、あんまりお腹空いてないの? 夏バテ?」
 カナちゃんの声にはっとした。まだ明るいうちから堂々巡りしていた想念に、私はまた囚われてしまっていたようだ。
「ううん、ちょっと考え事しちゃって。慣れない探偵ごっこなんてしてるもんだから」
「あんまり根を詰めないほうがいいよ。とにかく体力つけなきゃ」
「そうだね、ありがと」私はスプーンを動かして食事を口に運んだ。「それにしてもドライカレーなんて久しぶり。おじいちゃんがからいものダメでね、うちではこういうの食べないんだ」
「私は逆。ここ一年でどんだけこれ食べただろ。よく安売りしててさ、ついつい買い込んじゃうの。作る手間もかかんなくて楽なんだよね」
「自分で料理作ったりはしないの? なんか栄養偏っちゃいそう」
「大丈夫じゃない? カレーっていろいろ入ってるじゃん。肉とか野菜とか」
「そんなに単純じゃないと思うんだけど」
「もともと料理はそんなに得意じゃないけど、どのみちバイトして疲れて帰ってきたら、自炊する気になんてなれないよ」
「無理してバイトしなくてもいいんじゃない? 生活費、送ってもらってるんでしょう?」
「それも逆。働かなくても生活できるうちに、いろいろ経験しておきたいのよ。道楽みたいなもんね」カナちゃんは麦茶を飲み干すと、空のコップに向かって続けた。「それに無茶言って一人で日本に残ってるんだもの、自分の小遣いくらい自分で稼がないと」
 昨夜もカナちゃんの部屋で並んで寝ながら、ぽつりぽつりといろいろな話をしたけれど、聞くほどにこの子は前向きだな、と思う。私のように過去を引きずって生きていない。強い意志を持って、常に前を見つめている。
 それとも、抱えているものを見せまいとしているだけだろうか。私も傍からは、彼女のようにしっかりした人間に見えているのだろうか。
 他人については、分からない。でも今の自分についてなら、少しは分かる。迷いが生じても、不安に怯えて悩んでも、行き着く答えは決まっている。できることから逃げちゃいけない。やれるだけのことをやらないと、いつか必ず後悔する。中途半端なまま調査を投げ出して、いい思い出話で都合よく過去にふたをしてしまったら、またいつか再び私の前に亡霊が現れて、過去へと引きずり込もうとするだろう。
 私たちは食事を済ますと、クーラーの利いた部屋で一緒にテレビを観て過ごした。十時近くになり、カナちゃんがチャンネルを替えようとリモコンに手を伸ばしたとき、電話が鳴った。私たちは顔を見合わせた。
「……私、出てもいい?」
「勧誘とかだったら断っといてね」
 居間の隅にある電話を、私は取った。カナちゃんがテレビの音量を小さくしてくれたのが分かった。
「もしもし」
「夜分遅くにすみません。篠崎と申しますが」
 篠崎さんだ。私は勢い込んで「私です。青葉です」と名乗った。
「青葉さん。よかった、寝ていたところを起こしてしまわなかったかしら?」
「大丈夫です。友達とテレビを観てました」
「そう、それはよかった」受話器の向こうで電話の鳴る音がする。別の人の声がする。まだ職場にいるようだ。「あれから、水原さんと仲のよかった人に何人か当たってみたんだけど、一人だけ、明日都合をつけられるという人がいたの。仕事の都合で時間は限られてしまうけれど、青葉さんさえよければお話してみない?」
「はい、ぜひ」
「じゃあ明日の十一時に。場所は……」駅の近くの喫茶店を提案され、道順を聞いた。
「ありがとうございます。お忙しいのに。本当にありがとうございます」
「私にはこれくらいしかできないから。……お父さん、見つかるといいわね」
 心から言ってくれているのが分かった。私は受話器を抱えて頭を下げた。
 こうやって気にかけてくれる人がいるのだ。やっぱりどんな形であっても、父を見つけ出したい。父についての情報を、集められるだけの断片すべてを。
 時計を確かめてから、京子に電話した。夜更かし気味の京子はやっぱりまだ起きていた。もうしばらく泊めてもらっていることにしてほしい、と伝えると、京子は少しの間黙っていた。
「ねえ青葉、あんた変なことに巻き込まれてたりしないでしょうね」
「え、まさか。どういう心配よそれ」
「あんたって、人がいいからさ。今日部活で聞いたんだけど、あんたまた理瀬の恋愛相談に乗ってやったんだって?」
「乗ったっていうほどのものじゃ。話を聞いてあげただけだよ」
「私なら聞きもしないよ。あの子のはいつも、恋愛なんて大層なもんじゃないじゃない。……あんたのそういうとこ、私は好きだけどさ、あんまり親切にしてても、つけあがるだけって人もいるよ?」
 思いがけない忠告だった。他人の目に自分がどう映っているかなんて、本当に分からないものだ。
「私は別に、自分が親切な人間だなんて思ってないよ。そんなふうに心配してくれる京子のほうがよっぽど親切だよ」
「あんたは別。あんたってなんかほっとけないんだもの。危なっかしくて」京子はいったん言葉を切ると、声をやわらげた。「東京から戻ったら、ほんとにうちに泊まりにきなよ。一緒に宿題やるって名目でさ」
「ごめん、その手は使ったばっかなんだ」
「じゃあ京子さんが一人の夜を寂しがってるってことでいいよ。んで一緒にゲームでもしよ。最近買ったんだけど、人を撃ちまくるやつと、ゾンビを撃ちまくるやつどっちがいい?」
「もうちょっとソフトなやつはないの?」
「やってみるとスカッとするもんだよ。……まあとにかくさ、うちはいつでも空いてるから」
「ん、わかった。ありがと。近いうちに行くよ」
 電話を切ってからも、私はしばらく受話器を見つめていた。自分は話し相手を欲しているのだと、父や母や昔のことを何もかも打ち明けてしまえる相手を欲しているのだと気づき、すぐにその考えを振り払った。
 そんな気弱なことじゃいけない。弱いままじゃ生きていけない。もっと強くならなければ。