その足の翼は (九)


 大会当日は朝から垂れ込めるような曇天だった。気温も低い。朝のニュースではこの冬一番の冷え込みになると、天気予報士が注意を呼びかけていた。
 武史の学校では、全学年の生徒が半そで短パンの体操着姿でグラウンドに集合していた。寄り集まって少しでも暖を取ろうとする者、自分の体を抱くようにして震えている者、こんな季節にふざけたイベントを企画しやがって、とぶつぶつ文句を言い合う者。
 集合がかかるまで、武史はそんな学生たちの輪から離れたところにいた。寒さを感じないわけではないが、この二か月というもの朝晩に気温に耐えてきたためだろう、他の学生たちほど体が震えはしない。学外との境目にあるフェンスに寄りかかって座り、白い息が空に上っていくのをぼんやりと眺めながら、鼓動に合わせてきしむように痛む両足に注意を払っていた。本番に向けて少しでも足への負担を軽くしておこうと、足の位置を少しずつ変えては具合をみる。
 意識が内に向いていたため、近づいてくる足音に気が付かなかった。
「調子はどうだ、本郷」
 顔を上げると、南方の端正な顔があった。吐く息の白さとは対照的に、その引き締まった体は少しも震えていない。最後に屋上で会ったときのことを思い出して、武史は渋い顔をした。あのときも南方に見下ろされる格好だった。
「そう怖い顔するなよ。今は勧誘に来たわけじゃない」
 南方は武史の表情を誤解して言った。武史が邪険にあしらおうと口を開いたそのとき、南方の背後がざわめいた。冷やかすような、ちょうどいい見世物を見つけたというような笑い声。ちらりと目をやると、羽黒を中心とした武史のクラスメート数人の顔があった。
 軽く背後に首を向けた南方に、武史はやれやれという調子で言った。
「おまえ、結構有名なんだな。あれはうちのクラスの連中だよ。いつかの練習会以来、競馬の注目レースでもやるみてえに騒ぎ立てられて迷惑してんだ」
「くだらないな」と南方はそっけない。
「ああ、くだらねえ。……でもよ、人のこと言えるかよ。おまえも十分くだらねえよ」
 問いかけるように眉を上げた南方に、武史は低い声で言った。
「調子はどうだ、と訊いたな。おれの調子がおまえになんの関わりがあるってんだ。まさかおまえもあいつらみてえに、おまえとおれとでいい勝負になると思ってんじゃねえだろうな」
「違うのか? 一応楽しみにしてたんだが」
「違うね。おまえなんざおれの足元にも及ばねえよ」
 南方の顔に困惑の色が浮かんだ。
「それくらい、速くなったって言いたいのか?」
「見てりゃ分かる。せいぜい本気で走りな。余裕かましてっと全校生徒の前で醜態さらすことになるぜ、陸上部のエースさんよ」
 へらへら笑ってみせると、南方の表情がはっきりと硬くなった。そんな態度を向けられるとはまったく予期していなかったのだろう。武史自身、今の今までそんな態度を取るつもりはなかったのだが。
「そのでかい口が口だけでないといいんだがな」
 言い捨てて、背を向けて立ち去る南方を、武史は笑みを消して見送った。今日のおまえは敵だ。絶対的な敵だ。なれなれしくするんじゃねえよ。絶対手加減なんかするんじゃねえぞ。
 朝礼台のあたりに体育教官たちが集まってきた。大原が台に乗り、マイクも使わずに集合の合図をかける。武史はゆっくり立ち上がった。集合場所に向かう途中で、羽黒がにやにやしながら声をかけてきた。すぐ隣に敵意を含んだまなざしで出島もいた。
「よううちのエース。南方に喧嘩売ってたろ。すげえ自信じゃねえか」
 あの距離で小声の会話が聞こえたのだろうか。それとも二人の様子から類推したのか。いずれにしてもくだらないことに対する熱意の入れようがどうしようもなく腹立たしい。
 無言で通り過ぎようとすると、出島が針を含んだ声で言った。
「ずいぶんお高く止まるようになったじゃないか。あんまり調子に乗るなよ。今日はおまえの得意の手はまったく使えないんだからな」
 得意な手、が何を表すのか一瞬ピンと来ず、武史はつい足を止めた。すぐに思い当たったが怒りは沸かず、まだそんなことを言ってるのか、と出島に憐れむような目を向けてしまった。露骨に馬鹿にされたと思ったのか、出島の顔が赤くなった。空気の変化を感じて羽黒のにやけ顔もひきつった。
「おい、集合だ集合! 駆け足!」
 大原の怒声が飛び、三人は険悪な雰囲気をひとまず置いて、ばらばらと走り出した。すぐに武史はそのひと幕を忘れた。忘れさせられた、という方が正確かもしれない。あまり高く足を上げないよう気を配りながら、余計な駆け足なんかさせるんじゃねえよ、と壇上の教師に心の中で悪態をついた。

 大会が始まると、それまでぶつくさと文句の多かった生徒たちの間にも少しずつ活気と興奮が広がっていった。
 一年生から三年生までが男女別に縦割りのグループに分けられ、男女交互にそれぞれ四キロ、三キロのコースを走る。コースの途中には各クラスから選ばれた補助係と選抜の補欠メンバーが配置され、トランシーバーで途中経過を報告していく。その声はグラウンドに設置された本部へと送られ、放送部員が順次、実況として読み上げていく。体を冷やさないよう、待機中はジャージを着て校庭に散らばっている生徒たちは、クラスメートが順位を上げれば歓声を上げ、大きく抜かれたと知れば落胆やブーイングの声を放った。ゴールした順位に応じてクラスの点数が集計され、朝礼台そばのボードに張り出された模造紙に、点数がマジックで大書されていく。
 そんな周囲の盛り上がりをよそに、武史はまた校庭の隅に座り込み、上だけジャージを着て、足はあえて冷えるままにしていた。出番が来るまでの時間がおそろしく長く感じられた。クラスの点数などまったく興味がなかったが、武史が発している近寄りがたい雰囲気などまったく意に介さず近づいてきた女子の一団が、わざわざ状況を伝えてきた。
「うちのクラス、このままいけば五位以上は間違いないよ」
「選抜の点数って大きいし、十分逆転狙えるよ」
「本郷くんて速いんでしょ? 男子も期待してるみたいだし」
 武史が返事をするか迷う暇もなく、女子たちは内輪で盛り上がり始めた。
「なんか、陸上部で一番速い人と張るんだって」
「それ南方くんでしょ? インターハイで入賞しちゃうような人だって二組の玲奈が言ってた。垂れ幕でも名前見たことあるし」
「え、なになにそんな人に宣戦布告しちゃったの本郷くん」
「なによ宣戦布告って」
「噂で聞いただけなんだけど、南方くんを前にして、おまえじゃおれには勝てない、って宣言したって」
「えーすごい! ほんとなの本郷くん」
「あんまりそういう感じしなかったけど、本郷くんて運動神経よかったんだね」
「応援してるからがんばってね」
 あっけにとられたままの武史を置いて、女子の集団はわいわいと騒ぎながら移動していった。あれならわざわざ武史の元にやってこなくてもよさそうなものだ。
 南方とのやりとりを広めたのが誰かははっきりしている。おそらくその内容には時間とともに、尾ひれが長々とくっついていくことだろう。何が目的なのか。プレッシャーを与えようとでもいうのだろうか。そんなことで、と武史は鼻で笑おうとしたが、強がっている自分に気づいて愕然とした。
「やりゃあいいんだよ、やりゃあ」
 膝を抱え、自分に向かって小声で毒づく。冷え切った足は棒のようで感覚がなくなっている。感覚がないままの方がむしろ都合がいい。そうだ、問題なんかねえよ、と自らの暗い思いを振り払った。

 大会も終盤になり、先に女子の選抜メンバーの競技が終わった。力走を終えたメンバーに各クラスの女子たちが歓声を上げて駆け寄る。そのどこか芝居じみた騒ぎを横目に、最終競技者である男子選抜メンバーはスタート地点の校門付近に集まり、思い思いに準備体操を始めた。武史も上体のストレッチをして体を温めた。ここまで動かさないようにしていたことが功を奏したのか、歩いても足には鈍い痛みしかなかった。これくらいなら無視できそうだ。
 離れたところに、ぽつんと詩乃が立っているのが目に留まった。寒さをこらえる振りをして組み合わせた両手は、はっきりと祈りの形を取っていた。武史は目顔で大丈夫だと伝えた。詩乃はかすかにうなずいた。
 スタートラインに並んだとき、数人挟んで南方と目が合った。真剣そのものの目をしていた。そうだよ、そうじゃなきゃいけねえ。武史はすっと視線を外して前を見た。校門のすぐ外に柏葉が立って、自転車などの往来に気を配っていた。
 大原がラインの端に立った。
「おまえら、気合入れていけよ」
 ハッパをかけてから、競技用のスターターピストルを高く掲げ、腕ともう一方の手で耳をふさいだ。一瞬の静寂の後、乾いた破裂音とともに集団は勢いよく駆け出した。背後の歓声がみるみる小さくなっていく。
 武史の予想どおり、南方は最初から先頭に躍り出た。練習会のときよりもさらに一段速い、まるで短距離走のようなスタートだった。両脇の邪魔な連中をかき分け、武史も前に出た。何度も夢に出てきた背中が、今すぐ目の前にある。肩の力を抜き、ストライドを大きくとった。最初からぴったり後ろについていく、そのつもりだった。
 後続の息遣いがみるみる遠ざかる。車の多い道に出た。道路わきに屈んでいた補助係が口に手を当てて何か叫んだ。声援だったのだろうが、武史の耳には二人の走者の足音しか聞こえていない。
 南方の走りは鹿のそれを思わせた。軽快で滑らかで、呼吸をするのと同じくらい走る姿が自然に見える。武史はそのフォームに内心賛嘆したが、自身もそんな南方に、自分の歩幅でしっかりついていけていることはあまり意識していなかった。胸の内には不安も焦りもひとかけらもなく、震えるような喜びに体中の血が沸き立っていた。楽しい、とはっきり感じた。走ることがどうしようもなく楽しいのだ。
 一キロ地点に立っていた補助係の前を、二人の白い姿が飛ぶように過ぎていった。
 異変は二キロ地点に達する前に起きた。今まで足を覆っていた薄幕のようなものが、衝撃に耐え切れずに裂けた、武史にはそう感じられた。これまでが嘘のように、一足ごとに脳天まで激痛が響く。とても無視できる痛みではなかった。がくんとペースが落ちた。打たれたようにあごがはね上がる。
 ――冗談じゃねえ。
 懸命に腕を大きく振った。しかし足がついてこない。地面がいつにもまして硬く感じられ、まるで鉄の塊を踏みつけているようだ。すっかりおなじみとなっている、あの血が逆流するような不快感も戻ってきてしまった。足の裏からすねの骨へと走るきしむような衝撃と、それに悲鳴をあげるかのような血の流れ。
 ――冗談じゃねえっ!
 体の異変に気を取られているうちに、南方の後姿ははるか先まで行ってしまっていた。その絶望的な距離を、後ろから武史を抜き去ったランナーたちが少しずつ埋めていく。
「なんだ、もうバテたのかよ」
 誰かが抜き際に嘲笑った。クラスの陸上部員だった。かっとして言い返したくなった。誰がこの程度でバテるかよ。おれはバテてなんかいねえ。足さえ動けば、足さえついてくれば!
 血が出るほど唇を噛んだ。怒鳴り返したいのをぐっとこらえた。結果を出さなければ何を言おうと、うすみっともない悪あがきにしか聞こえない。
 南方の姿はずっと先の角を曲がって見えなくなった。それが目に入るとさらに力が抜けた。もはや足を止めずに走り続けるだけでもやっとだった。途中経過を校内の本部に伝えようと、道の脇に立ち、トランシーバーを口元に当てていた女子生徒が心配そうな目を向けてきた。その視線に気づいて武史は無理やりペースを上げた。異常を悟られ、途中で止められたりしたら終わりだ。
 まだコース全体の半分も来ていない。五キロという距離をこれほど長く感じたことはなかった。人数を数えていたわけではないが、自分がビリになったことは薄々感じていた。それほどたくさんの人間に抜かれた。そしてその最後尾、自分を最後に抜き去ったひょろりとした人影さえ、視界から消えようとしている。
 棄権、という言葉が頭をよぎった。すぐに頭を振ってそのイメージを打ち消した。何のためにここまでやってきた? 自分は何をしたかった? 疑問符が頭の中に渦を巻いた。
(そのでかい口が口だけでないといいんだがな)
 南方の声が響く。おれはやっぱり口だけなんだろうか。
(武史ちゃんが口ばっかりなんかじゃないって、私は知ってるから)
 詩乃の怒ったような声。本当にそうだろうか? 詩乃の買いかぶりなんじゃないのか?
 答えは考えて出すものではなかった。誰になんと言われようと、自分を納得させるためには自分で答えを出すしかない。答えを出せるだけの結果を出すには、走るしかない。
 一歩一歩、足が骨ごと砕けそうだった。寒さが目に染みて、ぬぐっても涙が止まらない。おれは泣いてるんじゃねえ。これは寒さのせいだ。
 懐かしい声が脳裏に響いた。顔は見えないが、祖父の声だ。感情が乱れている武史には、何を言っているのか分からない。しかし何を言いたいかは理解できた。
「うるせえよ、ジジイ。んなこと分かってる、いちいち言われなくたってよ」
 前を見据えると、ビリから二番目の細い背中がゆるやかなカーブの先に見えた。そうか、まずはおまえからだ。おまえを抜いたら、その次のやつ。そうやって抜いていけば、必ずまたあいつにたどりつく。
 束の間、足に翼が生えたように感じた。懐かしい、あのどこまでも速く走れそうな高揚感。
 武史の目がぎらりと燃えた。

 校庭では二つのクラスの生徒たちがそれぞれゴール付近に集まっていた。中継を通して、自分たちの代表がゴールに近づいていることを聞き知っているのだ。接戦、という言葉を実況者が繰り返したため、他のクラスの生徒たちまで緊張して校門を見つめていた。
 そして、その二人は同時に姿を現した。生徒たちから一斉に応援の声が飛ぶ。
 長身の、端正な顔立ちの学生とほぼ横並びに、顔を真っ赤にした短い髪の二年生がふらふらと蛇行しながら走ってくる。胸に「本郷」という名札をつけた彼の走りは明らかに異様だった。彼と接戦を繰り広げている長身の学生は、ちらちらと横を気にしてばかりいた。恐れをなしているようだった。二人はもつれるように校門をくぐり、わあっという歓声が彼らを出迎えた。
 「本郷」はゴールテープを目にしてラストスパートをかけた――正確にはかけようとしたが、傍から見てもはっきり分かるその闘志とは裏腹に、足の回転速度はまったく変わらなかった。
 ほんの半歩の差で、長身の生徒が先にゴールした。激しく息をあえがせ、身を震わせる彼を、クラスメートがわっと取り囲んだ。

 先に切られたゴールテープを踏み越えて、武史は長いレースを終えた。
 意識はぼんやりしていた。足の痛みはすでに体の一部となってしまっていた。終わった、という言葉が感情を伴わずに頭の中で反響した。冷たい汗が冷え切って、体操着とともに全身にぴったり貼りついていた。
 吐いた息が真っ白に視界を煙らせる。地面に倒れ込みたかったが、走り終えてすぐに動くのをやめるのはよくないと思い、ふらふらと歩き続けた。誰に教わったことだったろう?
 乾いた破裂音が二つ聞こえた。それから、マイクの声が頭上から響いてきた。
「最後の選手がゴールしました。選抜メンバーのみなさん、お疲れ様でした。得点の集計をしますので、しばらくお待ちください――」
 徐々に意識がはっきりしてきた。今日が何の日で、自分が今まで何をしていたか、ようやく思い出した。立ち止まり、前方を見た。
 武史と最後まで張り合った、一年生の背の高い選手を、同じクラスの連中が囲んでもみくちゃにしている。よくがんばった、お疲れ様、そんな声が重なり合って聞こえてくる。
 その隣に、武史のクラスの生徒たちが密集し、無言で武史を見ていた。その刺すような視線が意味するものは非難ではなく、軽蔑だった。声をかけてくるどころか、誰も武史に近づいて来なかった。
 武史もその場から動かなかった。そういうよそよそしい空気は見慣れている。形は少し違うが、武史が選抜メンバーに選ばれたあの日、教室に満ちていたものと同じだった。武史のことをまともに見てくれている者など、最初からいなかったのだ。
 詩乃の顔が見えた。彼女だけは他とは違った。檻のように周囲を囲む生徒たちを押しのけて、武史のほうに出て来ようとしていた。それを察した武史は詩乃の目を捉えて、小さく首を振った。来るな。絶対に来るんじゃない。その強い拒否を受け取った詩乃の瞳が揺れた。武史を見つめたまま、彼女は身動きをやめて立ち尽くした。
 彼らのすぐ横に柏葉が立っていた。痛みをこらえるような目で武史を見ていたが、彼の元に駆け寄ってやれ、とクラスメートをけしかけるようなことはしなかった。それが武史にはありがたかった。今の柏葉にできることなど何もない。そう理解してくれていることがありがたかった。
 彼らの左手後方、ずっと早くにレースを終えて明るい笑い声を上げている集団に混じって、じっとこちらを見つめているのは南方だった。競技前に武史に罵られたことなどなかったかのように、その目には怒りや蔑みの色はなかった。武史はそちらに目を向けなかったが、彼の気持ちは不思議とまっすぐ伝わってきた。よせよ、なんでも分かってるみてえな顔しやがって。おまえに心配されるほどおれの足はひどくはねえさ。こんなもん、とっとと治して――内心、武史は小さく笑った。治して、なんだ? 心に灯った何かを、武史はあえてそれ以上突き詰めなかった。いずれ、それについてじっくり考えるときが来るかもしれない。今はまだ、そのときじゃない。
 武史はすっと背筋を伸ばした。敵意を含んだ無言の集団に向かって、武史は胸を張って歩いていった。