赤ふんスイマーズ (七)


 歓声が水の音にかき消された。視界を白い泡が覆い、それを突き抜けると濃い水色が視界いっぱいに広がった。
 水底に強い夏の日が綾模様を描いている。水の動きに合わせてのろのろとゆらめくその金色の模様は、自分の泳ぎまでのんびりしているように錯覚させる。孝和は夢中でドルフィンキックを打った。そうやって飛び込みの勢いを維持しつつ、徐々に水面へと浮上していく。手の先が水上に出るか出ないかというところで足をバタ足に切り替え、腕で体の下の水をかく。交互に左右の腕を回す。
 自分の影が、手でかいた水の跡が、手を入水させたときにできる波紋が、プールの底に映る。もっと速く、もっと速く。水底の影と競い合うように両腕をかき、前方の水を引き寄せる。隣のコースのことは気にせず、自分の泳ぎに集中しようとする。
 悪くない、と思った。腕も足も、アップのときに感じて恐れたほど疲れてはいない。思いのほか余力を残している。さらに腕の回転を速めてみた。水を割って突き進んでいく感覚に体中が興奮する。呼吸は手のかき四回につき一回。顔を横に向けるたび、細切れになった声援が耳に入ってくる。ときには誰かの声だけが目立って聞こえることもある。どちらの場合も、何を言っているのかまでははっきり聞き取れない。だが自分に向けられた応援だと分かればそれで十分だった。大会のときとは違い、声援は彼だけのためのものだった。
 三十メートルを過ぎた頃、急に体が重くなった。がくんとスピードが落ちたのが自分でも分かり、焦る。午前中の練習でたまった疲労、その後日差しを浴び続けたことでさらに蓄積された疲れが、激しい全身運動によって目覚め、体のあちこちで反乱を起こし始めた。水上で腕が描く弧が浅くなり、頭のすぐ前の水に手が突き刺さってしまう。もっと前方の水をかかなければ。強引に水中で腕を前に伸ばす。体が傾ぐ。呼吸のタイミングが崩れ、水を飲みそうになる。大庭の心配をするどころではなかった。体力があまり残っていないことに、孝和はようやく気づいた。
 不安のあまり、左のコースに目をやってしまった。やや前方に、枝島の細い足の裏が見えた。その動きはアップのときとはまったく違う。しなやかで軽やかで、それでいて速い。白い足が県大会での惨めな記憶と重なる。離されてしまう。五十以上歳の離れた人間と競っているのだという現実が、焦りに拍車をかける。目を逸らし、自分の泳ぎに意識を向けようとするが、心は乱れたままだ。ついさっき祐天寺に大見得を切ったことが頭をよぎる。レースに負けたときの仲間たちの遠慮がちなフォローや、一年生たちの冷ややかな態度が、すでに定められた未来の記憶として頭をかすめる。冷たい水と違い、生温かい水は体を引き締める役割を果たしてくれず、ただでさえ泳ぎにくい。今ではその水はずっしりと重く、密度を増したように感じられる。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。こんな情けない泳ぎでこのレースを締めたくない。
 何かを忘れている。何かを見失ってしまっている。切羽詰った思いが孝和の胸を締めつけた。老人や中年のオヤジたち相手に負けるのはみっともないとか、下級生に笑われたくないとか、祐天寺に何を言われるか分からないとか、そんな小さなことよりもっと大切なものがあるはずだった。今しか手に入らない何かがあるはずだった。それを自分はまだ見つけ出せていない。見つけ出せないまま時が過ぎてしまう。容赦なく流れ去ってしまう。もし今その何かを得られるのなら、一生分の力をここで使い切ってしまってもいい、そう思った。それと同じ祈りをもう何度、何度繰り返してきたことだろう。大会のたび、記録会のたび、全力を出し尽くした先にあるものに、ただただ憧れ続けて。
 しかし、もう満足に腕が上がらない。力んだ足は水を蹴るというより、叩くだけになっている。ひじを高く上げるハイエルボーがよいとか、体の芯がぶれないように泳ぐとか、そういう理屈っぽいことはもう考えたくもなかった。熱く靄がかかった脳裏に、石田の泳ぎを眺めて微笑んでいた枝島老人の小柄な姿が浮かんだ。あのときの老人の独り言。
 ――彼は、あのほうがいい。
 壁が見えた。計時の樹里はそこに来ているのだろうか。プールの外の様子は目に入らない。隣のコースの様子も見えない。前へ。その気持ちだけで孝和は泳いでいた。そして壁の手前までくると、最後の手のかきの反動で体をくるりと回転させた。壁に足が触れたのを感じると同時に体をひねる。壁を蹴るとともに体を一直線に伸ばす。水の圧力を体中に感じながら体の向きを水平に戻す。ドルフィンキックで推進力をもたせようとするが長くは続かない。体が浮上するのに合わせて、重い腕を回して水をかき始める。最初のひとかきを終えて水上に上がった右腕を、前方に放り出す。難しいことは何も考えず、ただ前へ、という一心で手を伸ばす。
 その手が、水をつかんだ。
 二かき、三かき。その感覚は変わらず腕に、体に感じられる。孝和は水をつかんでいた。そうとしか言い表せない。疲れ切っていたはずの体が、動く。水の流れにうまく体が乗り、腕全体、体全体で推進力を得ているような奇妙な感触。それはやがて、自らの力で進むのと同時に、水に導かれているかのような感覚をもたらした。水との一体感。初めての体験に気分が高揚する。腕の回転数を上げてもその感覚が変わらないことを確信できる。思いのままに水をかいていい状態だと、体が知っている。初めてのはずなのに、体はこの感覚を憶えている。
 前へ、前へ、前へ。
 もっと遠くへ。
 心が欲するままに、孝和は夢中で水をかいた。加速していくリズム。どこまでも泳いでいけそうな期待感。隣に競争相手がいることを孝和は忘れた。呼吸するときも周りの様子など目に入らない。それは純粋に息を吐き、吸うための動作でしかない。すぐに水の中に顔を戻す。より遠くの水をつかもうと腕を伸ばす。ただ泳ぐことのみに没頭した。もっと速く、もっと前へ。
 残り二十五メートルのラインが眼下を過ぎる。後方へとぐんぐん流れていく。
 セイ! セイ! セイ!
 水の音に混じって声援がぼんやりと聞こえる。どこまでも泳いでいけそうな気がする。胸を衝く懐かしい思いが体の芯からこみ上げ、体中に伝わっていく。未来のいつか、必ず、今日このときのことを思い出す。一切疑うことなく、孝和はそう信じた。
 しかし心の高揚とは裏腹に、体力は今度こそ底を尽きかけていた。加速した腕がきしみ、バタ足を続ける足が鉛のように重くなる。前へ、前へ、もっと遠くへ。その気持ちだけが動力源となり、水をつかむ感触を最後の最後まで感じ続けようともがく。自分のフォームがどうなっているのか気にする余裕はなかった。前方に残り五メートルのラインが現れ、もうすぐ終わるという安堵と、もうすぐ終わってしまうという口惜しさが胸の中を同時に行き過ぎる。力の失せかけた腕は感覚を失っていき、熾火のような疲労感がじわじわと広がっていく。
 ――ラストーっ!
 応援の声に導かれて最後の最後に伸ばした手が壁に触れる。そのざらついた感触とともに、高揚感がふわりと消えた。顔を上げ、思い切り息を吸い、それを吐き出しながら再び体を水に沈める。熱くほてった全身の疲れとともに、終わった、という感慨が迫ってきた。息苦しくなってようやく我に返り、足をついて立ち上がる。酷使された腕の筋肉が震えている。荒く息をしながら隣を見ると、ようやく枝島が残り五メートルラインを越えたところだった。アップのときよりやはりテンポが速いが、力まず淡々とした泳ぎだった。水面を滑るような身軽さで残りを一気に泳ぎきり、片手でしっかり壁に手をついた。それを見届けてから顔を上に向けると、石田が身を乗り出して右手を差し出していた。
「お疲れ」
 その小さな笑顔に誘われて、孝和は笑みを返し、疲れた腕を挙げて力なくタッチした。気配に振り向くと、枝島が隣のコースからやはり手を差し出していた。細くて染みだらけの、しかし想像もつかないほど長い時間、水をかいてきた腕。孝和は手を伸ばし、その手とがっちり握手した。しわだらけで骨張った手は、孝和に負けない力で握り返してきた。
 樹里がタイムを読み上げる声が、頭上から降ってきた。
「現役チーム、記録四分三十六秒八八! フリーラップ一分二秒九三!」
 仁科が負けじと声を張り上げる。
「OBチーム、記録四分三十九秒六五! フリーラップ一分十0秒六一!」
 それらの数字をどう捉えていいのか、孝和はしばらくの間分からずにいた。最初にやってきた理解は「遅いな」だった。練習の疲れを考慮したとしても、四分三十秒台というのは決していいタイムではない。それに自分のラップタイム。孝和は自分の手のひらを見つめた。水をつかむ、あの不思議な感覚はなんだったのだろう。記録に大きく影響しなかったのは確かだ。しかしまったく落胆はなかった。それよりも、またあの感覚が戻ってきてくれるのか、あの高揚感の中でまた泳げるのか、それだけが気になった。
 拍手と歓声の中、ふらふらしながらプールから上がると、大久保、石田、清水、大庭が孝和を囲んだ。みな笑顔ではあったが、「お疲れ」「お疲れ様です」以外の言葉はない。レースに勝つには勝ったが、素直に喜べないものを抱えているのが一目で分かった。それぞれがそれぞれの理由で、複雑な思いを持て余している。
 彼らの後ろに人影があった。祐天寺だった。その鋭い視線を、しかし孝和はやわらかく受け止めることができた。祐天寺は何も言わず、表情も変えずにすっと視線をそらすと、上履きを引きずりながらプールから出ていった。そのジャージの背中は、夏の日差しの中で風景と同じように色あせて見えた。そのあとに小田が続き、プールから三年生が一人もいなくなった。
「いやあ、歳は取りたくないものだな。ついに一分十も切れなくなったか」
 枝島の声に我に返って振り向くと、OBたちが天幕の下で輪になっていた。木内がパイプ椅子に座り、仁科が読み上げるラップタイムをノートに書き込んでいる。赤ふんの群れとスパッツとの取り合わせは、思ったほど不自然ではなかった。OBたちは過去の記録と今回の記録を比べては、口々に感想を言っている。
「木内、フォーム変えてから伸びたなあ。おれ絶対無理が出て失敗すると思ってたのに」
「今野さん、お腹がおっきくなった割にはコンマ二秒しか落ちてないのねえ」
「おれこれから千五計るからな。今野、おまえ付き合え。なんならバッタでやってもいいぞ」
「そ、それは勘弁してくださいよ」
 楽しそうだった。その様子をしばらく眺めていた孝和は、不意に熱いものに胸を衝かれた。それはあの、不思議な感覚の中で感じた高揚と似ていた。
 ――ああ、この人たちは、本当に……。
 枝島がくるりと孝和に顔を向けた。まだだいぶ息が荒いのに、にっと笑って言った。
「もう一本、やらないかい?」
 孝和は思わず笑ってしまった。新たな歓声が、まぶしく広がる夏空高く吸い込まれていった。