ぼくの何がまずかったですか


 飲みませんか、と甲田から携帯メールが入ったのがイブの真夜中で、できれば明日にでも、とクリスマスの夜を指定された時点で、イブに何があったのか八割がた見当がついた。そして飲む店を指定された段階で、どんな相談をされるかもほぼ確信した。
 駅から歩いて十分という微妙な位置にあるビルの、目立たない地下への階段を下り、とっつきの扉をくぐる。外とは対照的な暖かさにほっとすると同時に、狭くて薄暗い店の雰囲気になんとなくそわそわする。カウンターが五席、テーブルが三席のこじんまりとしたバー。酒棚をバックに、黙々とグラスを布で磨いている年配のマスター。すでに一番奥の席に腰かけて待っている甲田。どういうわけか甲田の相談に乗るときはいつも、この店には他に客がいない。
「園原さんすいません、こんな年の瀬に急に呼び出したりして」
 スーツ姿の甲田は店に入ってきたのがおれだと気づくと、ぱっと立ち上がり、頭頂部が見えるくらい深々と頭を下げた。野球部時代に染みついた習性だ。あの頃は「ひざに額をつけておじぎ」が先輩に対する礼の仕方だったから、九十度くらいのおじぎでも、だいぶ社会に順応できてきた、と認めてやっていいのかもしれない。
 しかし、だ。おじぎが丁寧なのはいいが、今日をただの「年の瀬」で済まされるのはちょっといただけない。クリスマスだぞ、クリスマス。そこが遠慮のしどころだろう。日本人にとっての本番はイブかもしれないが。だがまあ、口にするほどの不満でもないか。
「まあ、座れよ。注文まだだな。飯は?」
「軽く食ってきました。園原さんは?」
「おれもだ。残業が長かったから早めにな。お前はソルティドッグだったな。おれはまず一杯ビールいかせてもらうわ」
 おれはコートを脱いで壁のでっぱりに引っかけ、甲田の隣のスツールに腰を下ろす。まだ体が冷えているからスーツの上着は脱がず、ネクタイだけ外して鞄に押し込む。
 バックにごく低い音量でかかっている、聴いたことはあるが名前のわからないジャズの演奏に遠慮するように、マスターが滑らかな動きで飲み物を用意し、細身のグラスをおれたちの前にすべらせる。カウンターは艶のある黒。清潔で、すべすべした肌触りが心地いい。
 甲田が少しこけた顔をこっちに向ける。
「園原さんは年末の仕事、いつまでですか?」
「三十日まであるよ。おまえは?」
「ぼくは明日までです」
「さすが、でかい会社は余裕があるな。……まあいいや、とりあえず」
 二人でグラスを掲げる。気の置けない空気に、仕事で張り詰めていた心が和む。
 部活時代の仲間とときたま顔を合わせて飲むときは、必ずといっていいほど思い出話の応酬になる。グラブを手にはめたまま、グラブが見つからないといって部室の床を這いつくばって探してたやつのこととか、顧問の悪口満載の応援歌の替え歌を、後ろに顧問がいることに気づかずに熱唱してめちゃくちゃに叱られたやつのこととか。思い出があとから増えるはずもなく、つまりは会うたびに同じ話が繰り返されるわけだが、不思議と飽きることがない。むしろこの先何十年もそうやって同じ話ができると思うと、悪くない気がする。
 グラスを置くとカタンと軽い音がした。今の、バントの音に似てましたね、と甲田が言い出し、さっそくその「同じ話」になる。
 おれたちの付き合いをさかのぼると高校時代にたどり着く。中学時代に県下で名を馳せたピッチャーということで、鳴り物入りで入部してきた甲田の、女房役つまりキャッチャーに指名されたのが、一学年上のおれだった。二人のバッテリーとしての関係は、おれが三年の夏に部活を引退するまで続いた。つらい練習に明け暮れた日々、その記憶を思い返すと、ほとんどのシーンに甲田の汗まみれの顔がある。
 バッテリーとしての最後の試合は、おれが三年のときの夏の県大会だった。準決勝まで進出したが、その試合であと一歩というところでサヨナラ負けを喫した。ちなみにそのときの対戦相手はその年、甲子園に出場した。――あれから七、八年になるが、県大会ベスト4入りというのは、母校野球部の最高記録としていまだに破られていないはずだ。
「破られてない、よな、たしか」
「破らせてません」甲田は断言する。そしてグラスの中のほの白く濁った液体を見つめる。「一点リードの九回ウラ、相手の最後の攻撃。二死ランナー二塁、カウントツーストライクワンボール。バッターはあの大会でちっとも目立った活躍をしていなかった六番打者。……いまだに夢に見ます。もしぼくがあのとき、園原さんの指示に従って外角低めにフォークを投げていたら。決め球をストレートにこだわらなかったら。……全力で投げきった球をスタンドまで叩き返されたんだから、悔いはないです。でも、いまだにもしもを考えちゃうっていうのは、やっぱり未練ですかね」
「……」
 あおったビールが苦い。この話も卒業以来、何度したかわからないが、この先が語られることはない。いまさら言い出せない、言っても仕方のないことだってある。
 ここでいつも話は途切れる。二人とも顔を合わさず、少しの間、別々の思いにとらわれる。
 やがてアルコールの効果を腹の底にわずかに感じ始め、おれから本題を切り出す。
「……で、今度はどんな娘に振られたんだ?」
「……なんでわかるんですか」
「そりゃ、いつもと同じパターンだからな。つーかさ、その手の相談をおれにするのって、間違ってないか? 元野球部のメンツにだって、色事マスターみたいなやつが他にいるだろ。そうだな例えば、ほら、児玉とか球浦とか」
「だって――だって園原さんはぼくの女房じゃないですか!」
「おい、せめて女房役って呼べよ。人が聞いたら誤解するだろ」
 といっても店内には他にマスターしかいないのだが。ちらっと様子を見る。このマスターがまた変に味のあるじいさんで、白い口ひげや、長いのどにエラのように張った皮膚をみると七十はとっくに超えていそうなのだが、やせ細った長身をタンチョウヅルみたいにしゃきっと伸ばして、暇さえあればせっせとグラスを磨いている。薄開きの目はたいてい真正面を向いていて、ワタクシはお客様の話を盗み聞きなんてしませんから、と暗に主張しているようにも見える。今夜は何か思うところがあるのか、彼の目の前、こちらから見てカウンターの裏側に十個のカクテルグラスを並べて、端から順に手にとっては、布巾で念入りにこすっている。
「まあ、当たってるんですけどね。昨日振られました。いや、あれは振られたのかな……うん、たぶん振られたと思うんですが」
「そりゃおまえ、振られてるよ」
「でもなんで振られたのか、はっきりとはわからないんです。ソウシソウアイだと信じてたんですが」
「しゃれた言葉が似合わないやつだな。うかつに使うとボロが出るぞ」
「とっくにボロボロです」
「どんくらい付き合ったんだ?」
「五ヶ月、くらいでしょうか」
「なんだ、新記録じゃないか」
「だからわからないんです。何の問題もなかったはずなんです。ぼくの何がまずかったのか、教えてほしいんですよ。出会いから全部、話しますから」
 やっぱり。甲田から二人きりで飲みに誘われるのはこれで四回目だが、必ずこの話題になるんだ。
 おれは高校卒業とともに野球をやめたが、根っからの野球バカだった甲田は大学でも野球に没頭し続けた。そして大学三年目に肩を壊し、半年ほど失意のどん底で這いずり回っていたが、これからは野球は観戦するだけでもいい、とようやく吹っ切れて、そこではじめて広い世間に目を向けた。異性に対する興味もその頃ようやく芽生えたほどだから、こういうのも一途な性格と呼んでいいのかもしれない。
 顔立ちからすれば上の下くらいには整っていて、野球バカのくせになぜか成績はそれなりによく、何より華のエースだった甲田は、高校時代にはたっぷり黄色い声援を浴びて、おれたちをたっぷりうらやましがらせたものだ。しかし当時の甲田は練習、練習と呪文のように繰り返すばかりで、どんなにかわいい子が寄ってきても見向きもしなかった。ちなみにおれは顔の造形でいえば下の中、成績もまあそんな感じで、仲間からは「キャッチャーマスクをかぶって歩いた方がモテるんじゃないか」とまでからかわれていた。
 そんな、おれから見たら生まれつきの貴族みたいに恵まれている甲田だが、野球を諦めて自分から女に目を向けるようになったとたん、どういうわけかモテなくなってしまったらしい。世の中うまくいかないものだ。そして恋愛に失敗するたびに、どういうわけかおれを頼って相談するのだ。古い女房役というだけで。あいかわらずモテないこのおれに。
 長い話になりそうなのを見越して、おれたちは無言で酒をあおった。甲田はまたソルティドッグを注文し(彼はなぜかそれしか飲まない)、おれはつまみにチーズとナッツの盛り合わせと、カクテルの「カジノ」を頼む。この店ではシェイカーを使って作る類のカクテルを注文するのがいい。そうすればここのマスターの華麗なシェイカーさばきが見られる。背筋をピンと伸ばしたまま、肩から先だけを別の生き物みたいに動かし、無駄のない滑らかさでシェイカーを振るさまは、悔しいが気圧されるほどかっこいい。カウンターまわりの照明がおもにマスターを照らし出すように配置されているのは一見不自然だが、一度マスターのテクニックを目にすれば納得させられてしまう。この歳でシェイカーを振るのは大したものだが、たぶんこのじいさん、酒がなくても自分の技に酔えるのだろう。
「始まりは……」と甲田はじいさんの技など気にも留めず、カウンターに目を落としたままぽつぽつと話し始める。「子安さんとの出会いは……ああ、彼女は子安っていう名前なんですけど」コトッ、と小さな音を立てて新しいグラスが置かれ、古いグラスが持ち去られる。「仕事先に行って、降りる階を間違えたのがきっかけでして」
「あん?」
「ああ、エレベーターのことです。ビルの十二階で降りなきゃいけなかったのに、間違って二十一階で降りちゃったんです。当然目当ての会社のオフィスなんてないわけですが、ローマ字の似たような名前の会社があったもんだから、さらに早合点しちゃいまして。無人の受付に行って、内線で取引相手のお客さんを呼び出そうとしました。そしたらたまたま繋がったんですが、出たのが思ってたのと違って女の人の声だったんです。んで開発部長補佐は、いえそんな者はおりませんが、みたいなすれ違ったやりとりをしていたら、埒が明かないと思ったのか女の人が出てきてくれたんです。それが子安さんだったんですが……一目見て鳥肌が立ちましたよ。色白の顔にさらさらな髪、色白な手、色白なほほ、前で合わせた色白のほっそりした指、色白のうなじは――」
「わかったわかった、色白なのはよくわかった。てか説明が下手すぎだろ。漂白剤に漬け込んだみたいなイメージになっちまったじゃないか。写真とかないのか? 携帯とか」
「ぼくの携帯にはカメラがついていません」
 そういう機種なのか、単に古すぎるのか。こいつの性格からすれば、後者だろう。
「……ようするに、美人なんだな?」
「それはもう」甲田がギラギラした目をおれに向けてくる。照明の当たり方がまずいのか、前髪の影がほほまで落ちて幽霊じみて見える。高い鼻に光が当たって、トナカイを連想させる。
「ついでにスタイルもいい?」
「それはもう」
「歳は?」
「ぼくより三つ下です。だからあのときは二十一、今は二十二ですね」
「……それだけわかればいいや。続けてくれ」
 甲田はカクテルを一口くっとあおって、のどを潤わせてから話を続けた。
「面と向かって話して初めて、ぼくが会社名を間違ったってことに気づいたんです。彼女はぼくの目当ての会社については知りませんでしたが、同じフロアにはないはずだと教えてくれました。なるほど降りる階まで間違えたんですね、って笑ったら、彼女もにっこり笑ってくれて。その笑顔にすっかり参っちゃったんです。ぼくは思い切って、表情を改めて彼女に言ったんです。でもぼくがあなたに会えたのは間違いじゃなかった、今日ぼくは女神に出会えました、って」
 甲田は三振を取ったときみたいに右手でガッツポーズを作ったが、おれは手にしたチーズを取り落としそうになった。信じられずに甲田を見つめてしまう。いきなりそれはないだろ、と突っ込みたいところだが、ここはぐっとこらえる。甲田は一度にたくさんのことを指摘されると処理しきれなくなるタイプなのだ。だから一通り話を聞いてから、これぞという指摘を一発だけ見舞ってやった方がいい。それに今回は付き合いが半年近くも続いたというんだから、ここで即アウトという話じゃないだろうし。
 しかし……これでうまくいったんだとしたら、甲田の顔のよさのおかげだろうか。おれのこの見てくれで、初対面の女にそんなクサい台詞を吐いたら殴られかねない。
 案の定、甲田の口調は明るい。
「彼女、一瞬ぽかんとしたんですが、それからお腹を抱えて笑い出したんです。そんな古い台詞どこで覚えたんですか、って聞かれたんで、ぼくのオリジナルだって言ったら余計に笑われちゃいました。でもそんなこんなで打ち解けて、週末のお茶に誘ったらオーケーしてくれたんです。あのときはもう、明るい未来が見えた気がしたもんです」
「あーそう。よかったな」
 そんなこんなで打ち解けて、ね。おれは目の前に置かれたカクテルグラスに手を伸ばした。グラスの内側、雪の色をした液体を透かして、沈んだチェリーのほんのりとした赤味が見える。
 初めて甲田とこのバーで飲んだときのことを思い出した。一発目の甲田の失敗は、初めて声をかけた女にいきなり「ぼくの味噌汁を作ってくれませんか」とほざいたことだった。なんでうまくいかなかったんだろうとしょげてるもんだから、ギャグ漫画の台詞なんて鵜呑みにするな、と教えてやったっけ。ついでにいえば二回目の相談は、恋愛マニュアルみたいなのを熟読して、そのとおりやったのに失敗したと言って首を傾げていたんだった。今回はそのときの失敗を踏まえて、オリジナルに徹したんだろう。突っ込みどころはあるものの、こいつも成長したもんだ。
 そんなこんな、が七月の始めのことで、それから毎週末、甲田は彼女と会うようになる。
「彼女、紅茶が趣味だっていうんで、紅茶のおいしい店を片っ端から調べて、ちょっと食通みたいなデートをしてましたよ。もっともぼくは紅茶の違いなんてさっぱりわかんないんですけど、彼女が熱心に解説してくれるおかげでいろいろ覚えました。えーと、例えば、アールグレイとか。話してみると彼女、性格もいいんです。待ち合わせの時間よりいつも早めに来てくれるとこなんか、感動しましたね」
 それで美人ならさぞかしモテるだろうと思ったが、女子高から短大に進んだために、あまり男友達はいないのだという。卒業後は派遣会社に就職したのだが、今の派遣先も女性の方が多い職場なのだとか。そういう女は意外と多い、みたいな噂は耳にしたことがあるが、実在する人物の話を聞くのはこれが初めてだ。
「えーとそれで、まあ、そのうち一緒に食事や映画に行くようになって……」
「映画? 映画なんて、おまえろくに見ないだろ」
「そんなことないですよ。でも彼女の方がずっと映画に詳しかったですね。紅茶の次くらいに映画が好きみたいでした」
「彼女は、例えばどんなのが好きなんだ?」
 うーん、と首をひねりながら、甲田はいくつかのタイトルを挙げてみせる。おれも映画にはそんなに詳しくないが、テレビCMや雑誌なんかで得た半端な知識と照らし合わせるだけでも、おおよそどんな内容のものかは予想がついた。恋愛もの、友情もの、ミステリ。それも戦場で銃弾に散った愛がどうこうみたいな激しいのではなくて、ヨーロッパの片田舎を舞台に淡々と話が進むような、おとなしいものばかりだ。
 おまえの趣味っぽくないな、と聞くと、甲田は肩をすくめてみせた。
「ぼくとしてはそんなに映画にこだわりもないし、彼女が見たいっていう映画を一緒に見られるなら何でもよかったんですよ。つまらなそうだと思っていた作品が案外面白かったりとか、そういう発見もあったし。あ、あとやっぱり映画っていったらポップコーンですよね。二人でラージサイズのやつをですね……」
 ふんふん、とおれは適当にあいづちを打ちながら、幸福そうな部分は聞き流した。カクテルを飲み、チーズをつまみながら、暇つぶしにマスターの様子を観察してみる。十個並べたグラスをぴかぴかに磨き終わったマスターは、また最初のグラスに戻ってさらに念入りにグラスをこすり始めた。意味がわからないが、年末だけに大掃除でもやっているつもりなのかもしれない。マスターが宙に向けた目はやたら遠くを見つめているようで、異国の風景でも妄想しているんじゃないかと思わせる。
 そういえば、この店の名前からして「バー・アレキサンドリア」というのだ。やけに仰々しい名前だが、その割には店内の装飾は地味だった。壁も床も板張りで、セーヌ河かどこかの絵が一枚、ぽつんと飾られているだけだ。もちろんエジプトのポスターなんかは見当たらない。
 彼女が海に行きたいというんで、というところから、再び甲田の話を聞いてみたくなる。
「……ここ二、三年、海で泳いでないっていうんですね。それなら、というんでぼくが予定を立てて、車を出して大洗の方まで行きました。いやあ、よかったですよ大洗の海は。小さいとき親に連れてってもらったときの思い出のままで、澄んだ海がとにかくきれいでしてね。ハマグリもたくさん採れました」
「なに?」聞き間違いかと思った。「なんでハマグリが出てくるんだ?」
 甲田は目をぱちくりさせる。「あ、そか、話が抜けてましたね。潮干狩りに行ったんです」
「泳がなかったのか?」
「だって潮干狩りですから」
「いやいやいや。彼女、泳ぎたがってたんだろ?」
「やだなあ、海に行きたいって言ってただけですよ。あとは、ここ二、三年海で泳いでないってだけの話で」
 なぜその二つを分けるんだ。ここで突っ込むか? でもまだ早い気がする。
「……で、彼女どうだった? 楽しそうだったのか?」
「潮干狩りに行こうって誘ったら、ちょっとびっくりしてましたね。聞き返されたりしましたよ。小さい頃に行っただけみたいで、久々すぎて言葉がうまく出てこないらしくて、口をぱくぱくさせてました。だからそんなにしばらくぶりならぜひやろう、貝も採れるし、って言ったら、うん、そうね、貝も採れるし、って最後はうなずいてくれました」
「で、当日は楽しそうだったのか?」
「楽しかったですよ」
「おまえじゃなくて、彼女だよ」
「もちろん楽しんでましたよ。麦藁帽子が似合ってました」
 この「もちろん」は疑わしいな、と頭の片隅に憶えておくことにした。おれの表情を伺って、甲田が不安そうな顔をする。少しの間、話が途切れた。マスターがグラスを拭くきゅっきゅっという音が少し大きくなった気がした。
 海へ行ったのが八月の最初の週末で、八月の終わりには彼女の誕生日があったという。
「たまたま彼女の誕生日を教えてもらったのが、ちょうど海に行く車の中でしたね。それ聞いてからは、どうやってお祝いしようか仕事中もずっと考えてましたよ。んでいろいろ調べたら、ホテルのディナー、なんてものがあるのを初めて知りました。宿泊した人しか食べられないわけじゃないんですね、ホテルって。雑誌を買ってきて、よくわからなかったけど料理の写真がおいしそうなとこを選んで、えいっと予約しました」
 えいっと予約できる経済力がうらやましくなる。甲田は誰もが名前を知っている家電メーカーに営業職として勤めていて、売り上げ成績もいいらしい。ちなみにおれは誰もがそこそこ名前を知っているトイレ用品メーカーの、孫請け会社の営業。
「当日、彼女は黒いワンピース姿でやってきて――ええもちろん、色白な腕が映えてきれいでしたよ、少し日焼けしてましたけど――すごく楽しみだと言ってくれました。でもこういうのはあんまり慣れてなくて、ってちょっと緊張してるみたいでした」
 あんまりどころか初体験の甲田の方は、たぶんまったく緊張しなかっただろう。甲田は昔から正念場に強い。
 レストランはホテルの三十二階。案内された席は窓際。窓は天井までの高さのガラス張り。丸いテーブルには向かい合わせではなく、甲田の右手側に彼女が座る格好。二人の前、テーブルに置かれたキャンドル越しに広がるのはライトアップされた港の夜景。……甲田の下手な説明を要約すると、そんな状況になる。料理はフレンチのフルコース。食事は進む、会話は弾む……。
 デザートの前に、甲田は彼女にプレゼントを渡した。彼女はちょっとびっくりして受け取り、箱を開けていいかたずねる。箱の中身は腕時計だ。丸い文字盤には小粒のダイヤがあしらわれ、細いベルトは薄桃色というかわいらしい品。話を聞く限りでは趣味がいいし、彼女のイメージにも合っていそうだ。甲田の才覚とは思えないから、おそらく職場の誰かにでも相談したんだろう。
 そのときのことを鮮明に思い出したのか、甲田はグラスを持ったままにやにやする。
「彼女はとても喜んでくれて、その場で腕に着けてくれました。あのときの彼女の笑顔は忘れられないです。あんまり喜んでくれたんで、思いきって彼女の耳元に口を寄せて、誘ってみたんです……このあと、野球映画を見に行かない? って」
 これを聞いたおれは思わず口に入れたばかりのナッツを吹き出した。ラグビーボール型のナッツはきれいな放物線を描いて、マスターが大事に磨き続けているグラスの一番右端のに見事ホールインしてしまった。チリチリンと風鈴みたいな音が響いたが、マスターは七番目のグラスを今までよりも妙に熱心に磨いていて、ナッツの襲来には少しも気づかない。
「おまえ……さ」
「はい?」
 ぐっとこらえる。「そこで野球映画って、どういうセレクションなんだ?」
「気になってたんですよ。ちょうどあの、ええとタイトルは忘れましたけど、アメリカの野球選手が怪我で戦力外通知を受けて荒れていく話、あれまだ観てなかったんです。もう上映されてないと思ってたのに、ちょうどその日のレイトショーで観られるって出かける前にたまたま雑誌で――」
 おまえは子どもか? そう言いたくなるのをもう一度こらえる。ホテルディナーのあとならバーでも部屋でも、次の選択肢はいくらでもあるだろうに、よりによって野球映画? しかも「戦力外通知を受けて荒れていく話」でいっそう盛り上がれるとはどうしても思えない。
 なんとなく部活時代を思い出した。顧問に隠れて部室に持ち込んだエロ本を部員たちで回し読みしているときでも、甲田は一人、外で走り込みやピッチングフォームの研究をしていたものだ。そんな甲田が野球以外のことに興味を持ち始めてからまだ四、五年しか経っていない。ということは状況によっては四、五歳児レベルの行動や反応を見せたとしても、止むを得ないのかもしれない。
「……で、彼女なんだって?」
「彼女はぼくより映画が好きですからね、その作品のことはよく知ってました。ひょっとしてとっくに観てるんじゃないかって不安になるくらい、ぼくを見つめてずっと考え込んでましたが、いいわよ別に、ってちゃんと付き合ってくれました。いやあ、夜のデートなんて生まれて初めてでしたよ」
 ぜひともその場に居合わせて、彼女の反応をじっくり観察したかったものだ。彼女はどんな顔で甲田の提案を受け入れたのだろう。おれが勝手にイメージした彼女は、キャンドルライトに照らされたほほを引きつらせて苦笑している。その表情はひょっとしたら好意的なものを少しくらい含んでいたかもしれないが、ふわふわしたイメージからはわからない。
 その日は映画を観てさようなら。別れ際に彼女は笑顔で「今日は本当に楽しかった」と礼を言ったそうだが、その笑顔と台詞は果たして彼女の本音だったのだろうか。甲田はそう信じて疑っていないようだが、おれにはそう簡単に信じないだけの経験と実績がある。
 甲田はこくこくっとグラスの残りをのどに流し込み、またソルティドッグを注文する。すべすべしたカウンターに映り込んだ空っぽのグラスを見つめ、心持ちトーンダウンした声で話を続ける。
「夏から秋にかけては、二人で何度か野球観戦に行きました。彼女は野球についてはさっぱりだったんで……というよりスポーツ観戦はテレビでもしないみたいなんですけど、紅茶についていろいろ教えてもらったお礼にと思って、球場では隣でいろいろ説明してあげました」
「球場って、テレビ観戦じゃないのか」
「ええ。だいたい西武の試合を観に行ってましたね」
 そういえば、こいつは西武ファンだった。高校時代も松坂を意識して、フォークとチェンジアップをモノにしようと躍起になっていたっけ。
「でも彼女、あんまり野球を好きになれなかったみたいです。直接そう言われたことはないですけど、彼女、優しいから言い出せなかったんじゃないかと。それでも見てればわかりますよね、楽しんでるかどうかって。だから野球観戦に連れていったのは五、六回で、それっきり一緒には行きませんでした」
 甲田はここにきて初めてため息をついた。野球を一緒に楽しめないというのは、こいつにとって少なからずショックだったのだろう。だがおれは「優しいから言い出せなかった」という彼女のことを考えていた。優しさと意志を伝えることは別だ。興味がないならないで、婉曲に伝えることだってできただろうに。そうしなかったのは……あるいはそうできなかったのは、単純な優しさからではないような気がする。
 そんなことを考える自分に気づいて、つい苦笑してしまう。他人のことというのはじつによく見えるものだ。もし同じ目で自分自身を見ることができたら、どれほど有益な発見があるだろう。もっともこれはおれだけじゃなく、誰でも似たようなものかもしれないが。
「それからはおもにお茶か映画のデートでしたね。ただ冬が近くなると、彼女の仕事が忙しくなったらしくて、なかなか会えなくなりました。いえ、避けられてたわけじゃないと思いますよ。実際、彼女はいつも誕生日にあげた時計を着けてきてくれましたし」
「へえ」
「ほんとに気に入ってくれてたみたいで、ちょくちょく眺めてましたし」
「……へえ」
 おれはグラスに残っていたチェリーを口に放り込んだ。カクテル自体の甘い味の中に、アルコールのくすんだ苦味が見え隠れする。マスターはすでに何週目かわからないほどグラスを念入りに磨いている。グラスに入ったナッツに気づいたときは一瞬動作が止まったが、何食わぬ顔でさっとナッツを放り捨ててすぐに元の作業に復帰した。新しい客はいっこうに入ってこない。
 甲田は身じろぎして、まるでビールをあおるみたいにカクテルをぐっと飲み干した。それでも落ち着かずに、カウンターに置いたグラスを指でつつく。
「ぼくは……」しばらくぶりに言いよどむ。「それでも不安だったんです。彼女と会う機会が減ったことが。だから彼女と……いえ、彼女にちゃんと、気持ちを伝えたいなって思ったんです。悩んで、悩んで、やっと決心して、イブの夜に会いたいと伝えました。公園で待ち合わせて、それから食事に行こうって。当日、つまり昨日の夜ですけど、彼女は約束の時間に少し遅れて、黒いコートの前をかきあわせるようにしてやってきました。ぼくはベンチから立って、街灯の下で彼女を待ちました」
 昨日の夜なら、おれは外回りでずっと客先を駆けずり回っていた。空は終日晴れていたが、夜には少し風が強くなった。公園の街灯の下にも、あの肌を刺すような冷たい風が吹きつけていたのだろうか。
「公園で待ち合わせたのは……先に彼女に渡したいものがあったからなんです。ぼくは来てくれた彼女に、ぼくの気持ちを伝えたい、だからぼくが一番大事にしているものを受け取ってほしい、と言って、それを差し出しました。祈るような気持ちで、頭を下げて。だから彼女の顔を見られませんでした。……しばらくして、彼女の小さい声がしました。やっぱりあなたは何も……って。その続きはためらって、ただ、帰るね、って。ぼくは意味が分からなくて、でも彼女の顔を見る勇気もなくて、頭を上げられませんでした。ヒールの足音が離れていきました。やっとぼくが顔を上げたときには、彼女の小さな後ろ姿がちょうど公園から出ていくところでした」
 甲田の声はだんだん力を失っていき、最後は消え入りそうになった。だが肝心なことを甲田は話していない。彼女に渡そうとしたものが何なのか、そこだけをぼかした。大事にしていたもの、というからには最近買ったもの、つまり指輪の類ではないだろう。
「……何を、渡そうとしたんだ?」
 甲田はなぜか済まなそうな目でちらっとおれを見て、すぐにまた視線を落とした。口を固く結び、ゆるめ、ため息をつき、それからやっと小さい声で言った。
「……グラブです。高校三年間、部活で使っていたやつです」
 おれは言葉が出なかった。甲田は野球道具を大切に扱っていたが、おれが引退する頃にはすでに、買い換えてもいいんじゃないかと思えるくらい傷んでいた。こいつの練習量で三年目も使い込んだなら、グラブはもうボロボロだっただろう。そのボロボロの、すすけたクズのようにしか見えないものを、こいつはロマンチックなイブの夜に、惚れた女に渡そうとしたのだ。それだけ聞けば、人は笑うだろう。
 だが、おれには笑うことなんてできなかった。できるわけがない。それはこいつにとって、すべてじゃないか。
「園原さん、ぼくの何がまずかったんでしょう。ぼくにはよく、わかりません」
 甲田のすがりつくような目と目が合った。どう答えればいい? 最初の声のかけ方か、海で泳がなかったことか? せっかくの誕生日の夜を盛り下げたことか? デートで腕時計ばかり見ていた彼女の気持ちを察しなかったことか? 興味がないとすぐにわかりそうな野球観戦に何度も連れていったことか? それともボロボロのグラブを……いや、これは言えない。冗談でも言えない。これだけは絶対に否定しちゃいけない。
 おれは長いこと、つい口に含んだままでいたチェリーの種をグラスに吐き出した。もう苦い味しかしていなかったそれは、グラスに吸い込まれて澄んだ音を立てた。おれは一度ぎゅっと目をつぶり、それからやっと口を開いた。
「何もないよ。何も間違ってない。おまえはできる限りのことをしたけど、たまたま相手に通じなかった。それだけだ」
 おまえを理解してくれる女じゃなかったんだと、最初はそう言おうとした。だが言わなかった。あの夏の最後の試合と同じだ。甲田が最後に投げた球は、おれが構えたミットに向かってまっすぐに、あの夏最高の球威で投げ込まれた。打たれたのは甲田のせいじゃない。やつがストレートを投げることを認めるかわりに、おれがボールのコースを決めた。そのコースがたまたま、あの打者の得意コースだったんだ。ミスなんてなかったし、仮にあったとすればミスをしたのはおれの方だ。
 だが終わった後で何を言ったって、全力を尽くした結果が変わるわけじゃない。甲田は正しい。全力で勝負して負けたなら、胸を張って次の目標に進むしかないんだ。相手のせいにしたって何も始まらない。
 甲田はおれの言葉を聞くと目を見開いた。おれは無言でうなずいた。甲田はおれの目を見つめ、それから口を歪ませて微笑んだ。
 注文もしていないのに、二つのグラスがおれたちの前にそっと差し出された。どちらもソルティドッグだった。グラスのふちにまぶされた塩は雪の結晶のように見える。顔を上げると、ツルに似たマスターがやっぱり遠くを見るような表情のまま、眠そうなウィンクをしてみせた。
「店のおごりです。クリスマスですから」
 初めて聞くマスターの声はかすれていたが、そのくせ渋くて、なんともいえない深みがあった。

 それからちょうど一年が過ぎた。
 あれ以来音沙汰のなかった甲田から、久しぶりに携帯メールが入った。
「ご報告したいことができました。よかったら明日の夜、例のバーで二人で飲みませんか?」
 報告。初めて甲田から聞くその言葉には、不思議と明るい予感があった。今までとは誘い方が明らかに違う。さては、と思いつくことがないでもない。おれもようやく女房役から解放されるかな?
 おれはスーツの胸ポケットからスケジュール帳を取り出し、予定を確認した。今日の欄も明日の欄も、書かれた内容に大差はない。客先を回ってからだから少し遅くなるが、それでいいなら、と返事を送る。
 スケジュール帳と携帯をしまい、おれは客先へと向かうべく、再び夜の街を歩き出した。北風がひゅるひゅると吹きつけてくるが、さっきまでより気にならなかった。遅刻気味なのに、つい明日の夜のことを頭に浮かべてしまう。地下の扉。温かく迎えてくれる薄暗い空間。マスターはずっとそうしていたようにグラスを拭き、甲田はスーツ姿でおれに向かって、九十度のおじぎをするのだろう。
 そしておれは今度こそ、甲田にまずいところを指摘してやるのだ。
 ――クリスマスの夜に飲みに誘うなら、少しは遠慮しろ。