出られない (四)


 人気がないことを確認すると、淳子は発信履歴から番号を選んで電話をかけた。二度目のコールで繋がった。
「麗子。今終わったわ。例の倉庫の近くまで車を寄こしてくれる? 友達も一緒なの。彼を家まで送ってもらいたいんだけど、この場所のことは知られたくないから遠回りで。できれば麗子に来てほしい」
 電話の向こうから大人びた声がした。
「分かりました。私が伺います。お友達は、お二人、ではないのですか?」
「一人よ。もう一人は地下で眠ってるわ。あとで和美に救出させて。ただ、彼は……」少し言い方を考える。「……彼は、失礼な男ね。あまり近くにいてほしくない人だわ」
「……分かりました」事務的な返事が返ってくる。これで木下のことは忘れてしまってもよくなった。退学か、停学か、転出か、とにかく目立たないように麗子がうまく片付けてくれるだろう。彼は淳子が誘導するまでもなく、誤った結論に飛びついて舞台から退場してくれた。計算外の因子であったにも関わらず、淳子のシナリオ以上に役に立ってくれた。だが、あの不躾な男のことはもう思い出したくなかった。顔を思い浮かべただけで鳥肌が立ちそうだ。
 ため息とともに頭を切り替える。
「それで、今度の新しいアトラクションの案なんだけど。やっぱり、すぐには実用化できそうにないわね。個人の能力の違いが各部屋の通過時間に大きく差をつけてしまう。事前にある程度予測はできていたけれど、思ったとおりだったわ」
「そうですね、想定時間内ではありますが、時間がかかりすぎる範疇ではないかと」向こうで時間を確かめる気配がした。「しかし……やはり少々難易度設定が高かったのではないでしょうか。お友達のお一人は、脱出ゲーム未経験者でしたよね? お嬢様のサポートなしでクリアできたのでしょうか」
「いいえ、駄目だった。慣れの要素が大きいのかもしれないわ。現にもう一人は予想以上に早く、いくつかの仕掛けを解いた。あれより簡単にしてしまうと、何の苦もなくクリアする人も出てきてしまうわ。それだとパパの目指す『すべての人に楽しさを提供する』っていう点をカバーできないと思うの」
「この案そのものを白紙にした方がよい、とお考えでしょうか?」
「いいえ、でももう少し検討が必要ね。一人当たりの通過時間の試算も難しいし」一度言葉を切り、冗談交じりの口調で続ける。「和美にはいい出来だったと伝えてちょうだい。一つ一つの細工の作りが本当に丁寧だったわ。昨晩中に修正依頼した部分も含めて、ね」
「かしこまりました。伝えておきます」
「ただ……あのダーツはちょっといただけなかったわ。すごい速度に見えたわよ。スプリングが強すぎたんじゃないかしら。あれ、本当に安全なんでしょうね?」
「少々お待ちください……設計図によりますと、先端は吸盤状ですので形状としては問題ありません。ただ、向かいの壁まで届かせるためにはばねの力を強めなければならなかったようです」
「もう少し弱くてもよさそうだったけど。あれでは先が尖っていようといまいと、怪我人が出るわよ」
 電話の向こうの声に不安が混じった。「何か問題が発生したのでしょうか?」
「ええ、まあ……あとで検証さえしてくれればいいわ」浩介に守ってもらった場面を思い出し、一人赤面した。彼の行動は予想外だった。彼女は矢の射出口からさりげなく身を避けていたから、あそこまでしてもらう必要はなかったのだ。筋書きにない、彼にとって危険な行為だった。
 だがあれは、格好よかった。
 あのとき、突進してくる浩介が何を意図しているのかすぐには分からなかった。射出口を横切るようにやってくるのを見て戸惑い、しかし止めるのも不自然だという考えが頭をよぎり、混乱で頭が真っ白になった。彼が自分をかばってくれたのだと分かったとき――そして安全なものであるはずのおもちゃの矢が、思いがけない速度で彼のすぐ後ろの空気を裂いていくのが見えたとき、彼女は一瞬、それがゲームの要素であることを忘れて狼狽した。と同時に、自分を抱きすくめている男の存在を肌で感じ、顔が真っ赤になったのが自分でも分かった。彼には気づかれなかっただろうか。
 あの矢については、その先端が金属製の針だと、彼は今も思っているだろう。淳子の位置からは、半透明の小さな吸盤が見えていた。だが壁の色が吸盤を目立たなくしていたのと、モンステラの葉がうまいこと挟まったおかげで――葉を端に挟んでなお壁に吸着したのだから、やはり威力が強すぎたと淳子は思うのだが――あれを想定以上に本物の矢のように見せることができたのだ。吸盤のことが知られることは計算の内で、フォローする用意もあったのだが、その必要もなかった。
「……お嬢様」麗子が遠慮気味に訊いてきた。「あのお二人、本当に眠らせてまで連れていく必要があったのですか? 同級生の方はあの状況では止むを得なかったところもありますが、上級生の方は……」
「前に話したとおりよ。脱出ゲームに興味のない人間を使ってテストするには、あれが最適だと思ったの」
「今でもそう思っておられますか?」
「思っているわ」
 麗子は何か勘づいている、と淳子は察した。麗子は淳子が知る中でももっとも頭の回転の速い人間の一人だ。それに入学初日に、急に新しいアトラクション案の実験を提案し、ここまで急ピッチに事を進めてきたことも、そのターゲットが学校で知り合った男性一人だということも、その人物を薬で眠らせて連れてくるということも……筋の通る説明をしたつもりではあったが、繋ぎ合せるとどうしても無理が生じてしまうのは淳子自身分かっていた。そしてあの、木下だ。浩介を車に連れ込むところを見られたかもしれず、やむなく彼まで連れていく羽目になったが、おかげで状況がややこしくなってしまった。なぜあの晩、彼は浩介の後をついてきていたのだろう。偶然帰り道が同じ方角だったのだろうか。それとも……それとも、飲み会で自分が浩介とよく話をしているのを見て、妬いたのか?
 また肌が粟立ちそうになり、淳子は考えるのをやめた。木下に直接聞いても、理解できる答えが得られるとは思えないし、直接口を利く機会はもう二度とないだろう。彼のことは今後、データとして以外に考える必要はない。
「でも、次からはもう少しやり方を考えるわよ」淳子は慎重に譲歩してみせた。嘘をつくときの癖で、ついほほを指で引っかいてしまう。「さすがに、目が覚めたら知らない場所だった、っていうのはショックが大きすぎたみたいだしね。もっと……そうね、もっと穏便な方法がないか考えてみる。麗子もいいアイデアを思いついたら教えてちょうだい」
「かしこまりました」
「とにかく、パパには実現の見込みはあるけどもう少し実験が必要、って伝えておいて。細かいことは帰ってから打ち合わせましょう。……お腹空いちゃったわ」
「そうでしょうね」初めて麗子の声に温かみが表れた。「帰りの車内でお召し上がり頂けるような軽食をお持ちします」
「二人分、ね」
「かしこまりました」
 淳子は電話を切った。そっと浩介の様子を窺う。彼は門に寄りかかって天を仰いでいた。疲れが出たのだろう。
 彼女も疲れていた。彼女サイドの人間には新アトラクションの実験だと思わせ、浩介には変質者の仕業と思わせる。これからもしばらくは二つの役回りを演じ続けなければならない。この新案がすぐに採用され、テーマパークの新しい呼び物としてお披露目されてしまったら、確実に浩介の疑いを招いてしまう。調整が難航するよう、あるいは案そのものが棄却されるよう、時間をかけて事を運ばなければならない。
 麗子に指摘されるまでもなく、強引なやり方だったのは分かっている。だが、彼女には心の余裕がなかった。これと決めた人間に、できるだけ早く彼女の支えになってほしかった。
 彼女は小さい頃から、空の高いところにいた。彼女が望んだわけではなく、周囲の人々がその高みにガラス張りの檻を置き、そこに彼女を閉じ込めたのだ。そして自分たちより高いところにいるという理由で彼女を崇め、敬った。ときにはその高みを利用しようとする者さえいた。彼女自身ではなく、彼女の地位と財産に惹かれて近づいてきた者たち。おかげでいままでの思い出にはろくなものがない。
 淳子には、彼女自身を見てくれる他人が必要だった。そういう人も存在するのだと信じたかった。もっともそれに近い人間は麗子だが、彼女は常に淳子と一定の距離をおくよう自ら戒めている感がある。それが麗子の、プロとしてのやり方なのだろう。
 淳子が一度でも違和感を感じた人間は、みな彼女自身を見てくれていなかった。世界には、彼女の身の回りだけでも数え切れないほどたくさんの人間がいるのに、みな彼女の横をすり抜けていってしまい、誰も自分の傍に留まってくれない。その恐ろしいほど巨大な孤独感に耐え、未来に希望を見出すためには、多少強引なことでも実行する必要があった。
 入学式の日に地味なビラを渡して勧誘してきた浩介を一目見たとき、今まで接してきた人たちにはない何かを感じた。人がこの話を聞けば、ラブロマンスの始まりだと冷やかすかもしれない。そういう願望がないとは言わないが、それよりも重要なのは、自分が相馬家の一人娘と知っても変わらず彼女自身と向き合ってくれる人物かどうかだった。そして短時間で彼の人となりを観察し、もし信用するに足る人物であれば強い絆を築き上げる、それには苦難を共有するのが一番だと考えた。危機的状況を協力して乗り越えた者たちが生涯の長きにわたって信頼関係を保ちやすいことを、彼女は心理学関連の書籍や遭難事故などのドキュメンタリーを通じて知識として持っていた。
 相馬の名前を出したとき、彼が驚きを隠そうとしたのを、淳子はちゃんと見抜いていた。今までにもそうする人はいた。だがそういう態度を取る人間は、たいてい自分のために感情を隠そうとする。自分の将来のために淳子との信頼関係を保とうとするのだ。しかし浩介は違った。彼は淳子が自身の生い立ちに苦しんでいることを素直に受け止め、淳子を傷つけないように、自分の動揺を見せまいとしてくれたのだ。淳子はそれを理解できたし、それが何より嬉しかった。そして時折見せてくれた彼の優しさは、最後まで変わらぬ温かさで彼女を包んでくれていた。木下が落下したときなどは、自分でも過剰かなと思うくらいに恐怖に怯える演技をしてみせたが、そんな醜い自分を受け止め、その背中を浩介がさすってくれたときは、申し訳ない気持ちと嬉しさとで本当に泣きそうになった。
 淳子は思う。私はおかしいのだろうか。私だけが特別なのだろうか。自分を捕らえて離さない透明な檻は、私だけが感じているものなのだろうか。姿形こそ違え、他の人も同じように何かに閉じ込められているのではないか。もしかしたら、そこから解放された人の方が少ないのではないか。
 浩介に目をやる。彼はまだ瞳を閉じている。夕日に照らされて一人孤独に立っている。彼にも檻はあるのだろうか。彼はそこから出られたのだろうか。
 ――あの純朴そうな人となら、私はここから出られるだろうか?
 その答えは、時を経なければ分からない。だが彼一人だけでも、わずかな時間でもいい、淳子を淳子として見続けてくれたなら、その経験はいつまでも自分を支えていってくれる気がした。たとえ……たとえ彼がいずれ去ってしまうときが来ても。
 淳子は携帯をバッグにしまった。そして浩介の元へ向かって、足を一歩踏み出した。