写生


 まだ幼い時分、故郷の山で絵描きと出会った。
 バッタ取りに夢中になり、青々と茂った草むらをかきわけているうちに、見晴らしのよい峠に出た。湿気を含んだ初夏の匂いが、一瞬の風に散った。すでに夕暮れ時になっていることに、そのとき初めて気がついた。
 ふもとの村と、遠く霞む山々を見渡せるその峠の端に、折り畳み式の木椅子を置き、男が腕を組んでじっと座っていた。背を向けているその男をとっさに絵描きだと思ったのは、男の前に置かれたイーゼルと、そこに載せられた何かの絵が遠目に見えたためである。
 目に入りそうになった汗を拭い、空の色をうかがい、夕飯に間に合うように家に帰るには充分時間があると踏んだ私は、物珍しさに男の元へと走っていった。肩からひもで掛けた虫かごが腰でカタカタと揺れた。かごには捕まえたバッタがびっしりと詰まっていた。
「おじさん、画家?」
 声をかけたときには、その答えはとっくに分かっていた。男は手に絵筆を握っていたし、男のひざには小学校の図工の時間に使うものより大きめの、何色もの絵の具が載ったプラスチック製のパレットが置かれていた。彼の足元には絵の具のチューブが乱雑に入れられた皮製のケースがあった。ケースのわきには絵が数枚、草の上に無造作に放ってあり、その上を一匹のムカデがもそもそと這っていた。それらの絵はいずれも異なるタッチで描かれていたが、イーゼルに掛かった描きかけの絵と同様、すべてその峠からの景色の写生であった。昼から夜へと移り変わる頃合の空の色と、夕陽に淡く染められたちぎれ雲が、ある絵では精緻に、ある絵では抽象的に、ある絵では控えめに、しかしいずれも美しく描かれていた。
 男はちらっと振り返って、ああ、そうだよ、と簡単に答えた。当時の私の感覚では彼は「おじさん」だったが、今思えばまだ三十くらいであったろう。汗で背中にへばりついた白いシャツに、背骨が点々と浮いていた。
「いまは休憩してるの?」
「まあ、そんなところだ」
「絵、上手だね」
 男は再び振り返り、私がまだ小さな子どもであることに初めて気づいたように目を見張った。そして寂しそうに微笑むと、またすぐに自分の題材である景色に向き直った。どうやら本人は自分の絵を上手いと思っていないらしかった。私は絵と実際の景色とを交互に見比べ、それから景色の方をよくよく観察した。太陽はちょうど左手の山に隠れようとしており、巨大な山の影がふもとから村にかけて威圧するように覆っていた。正面の空は天頂から地上に近くなるにつれて昼、夕、夜の色へと次第にその色合いを変え、特に夕と夜の間のグラデーションは胸に迫るようで、私のまだ幼い心にも、懐かしくなるような切なさを訴えてきた。
「……及ばんなあ」
 男は厳しい表情で前方を見つめ、ぽつりと言った。独り言の切れ端のようだった。その横顔は泣き出しそうにも、苦痛をこらえているようにも見えた。自分の絵が自然の景色に及ばないという意味だろうか。その大人びた言葉に、私はふと意地悪な気分になった。
 ――そんなの、及ばないに決まってるじゃないか。
 絵描きの絵は充分きれいに描けている。だがそもそも絵の具などで、あの空を紙の上に写しきれるとはとても思えなかった。考えるまでもないじゃないか、とさえ思った。
 そんなことを考えているうちに、陽はゆらゆらと山の向こうへと沈んでいき、あの胸を衝くような空の色は消え失せ、あっという間に夜が濃くなった。私は母に叱られないうちにと、絵描きを置き去りにして走って帰った。バッタたちが虫かごの中で乱暴に揺さぶられ、かさこそと気障りな音を立てた。一度だけ振り返ると、絵描きの姿はさっきの格好のまま、峠の影絵の一部になっていた。
 なんとなく気になって翌日も夕暮れ時に峠に行くと、やはりあの絵描きが前日と同じ場所に座り、一心に筆を走らせていた。その翌日も、そのまた翌日も。私はもう絵描きの傍には寄らず、彼の様子をただ遠巻きに眺めるだけで、彼が飽きもせず前日と同じことを繰り返していると分かるとすぐに去った。五日目に絵描きが頭を抱えているのを見たのを最後に、私は彼への興味を失った。それ以来、絵描きの姿を見ていない。

 長じて私は医者になった。都内の大学病院に勤めてもう七年になる。
「……ご臨終です」
 ペンライトによる瞳孔拡大の確認までを終え、担当していた入院患者の死を家族に向けて告げる。それから腕時計を見、時刻を正確にカルテに記入する。午前十時二十一分。その老人が亡くなったのが、私が臨終を宣言したためであるかのような錯覚が、夜勤明けの疲れた頭を襲う。
 老人の手をずっと握っていた婦人――老人の長女が、その痩せた手をおし抱くようにしてすすり泣きはじめた。婦人の兄弟であろう男とその妻、その他親戚と思われる二人の男女がベッドの横に並んで立ちすくんだまま、揃って肩を落とす。患者と婦人に交互に声をかけていた担当看護師も、顔を伏せてそっと脇に寄る。私はすでに、白い影でしかない。
 これほど多くの死を目の当たりにするとは、医者を志した頃には想像もしていなかった。多い年で二十人近くの死を看取ったこともある。医学の進歩は、私が学生の頃に夢想していたよりずっと遅々としたものであるようだ。入院中に次第に体力が尽きていく老人、容態が急変してそのまま意識が戻らなくなった少女、事故に巻き込まれて夜間救急で運び込まれ、手当ての甲斐もなく数時間後に亡くなった青年。
 すぐに慣れるよ、と先輩の医師に言われた。そして、慣れた。医局生時代のように内心の動揺を隠しきれずに遺族の前でうろたえてしまったり、勤務医となってすぐの頃のように、患者の死を自分の責任に感じて何日もふさぎこんだり、そういったことはなくなった。
 だが、無力感には慣れない。最善を尽くしたがために、むしろその努力のために、心をねっとりと蝕んでいく絶望にも似た感覚。
 遺族にお悔やみの言葉を伝えて頭を下げ、看護師にあとの処置を頼んで、私は病室を出る。今日の午前は休診だが、午後には大阪での学会で研究発表をする予定がある。医局に戻って汗の染みた白衣を脱ぎ、スーツに着替え、必要書類を整理し、鞄を手に駅へと向かう。腕時計の針は何も意識することなく、平然と時を刻んでいく。鞄に入れたノートパソコンと、読みかけの数本の医学論文が、私の歩みに合わせてごとごとと鳴る。
 西へ向かう新幹線に乗り込み、空いていた窓際の席に落ち着く。少しでも寝ておきたかったが、熱い靄のかかったような頭は眠ることをいたずらに拒絶する。
 列車は走り出す。シートにもたれ、外の景色を見るともなく眺めやる。ビル群が次第に青い山々へと置き換わっていく。とりとめのない想念が、景色の流れの加速に引きずられるように、頭の中でのろのろと揺れ動く。心電図。検温計。熱を出して寝込んだ幼い私。その私に差し出される、今は亡き母の日に焼け痩せ衰えた手。故郷の村。故郷の山。そして、絵描きの後ろ姿。
 最近になって、幼い頃に出会ったあの絵描きのことをしばしば思い出すようになった。最後に頭を抱え、背を丸めていた彼の姿が、今の自分に重なるように思えた。自然が見せる一瞬の美。移ろいゆく自然の営み。それをわずかでも留めようとする精一杯の人の努力。私と彼とが求めるものに、大きな違いはない。
 ――そんなの、及ばないに決まってるじゃないか。
 私はその、大自然と同じくらい残酷な言葉をあのとき口にはしなかった。何かに引き止められたように、口に出すことなく胸のうちに留めた。しかし絵描きの心の内にはすでに、同じ言葉が幾度となくこだましていたかもしれない。彼が絵筆を振るうたびに、その言葉は美しくも空虚な色彩となって、容赦なく彼の前に描き出されていたかもしれない。
 それでも。
 私は列車の冷たい窓に、額を押しつけるようにして目を閉じる。
 ――それでもあの男は今もあの峠で、ずっと絵を描き続けている気がしてならない。