歪んだ背中


「寒いっすね」
 若い男は窓拭き用のワイパーを握った手をもう一方の手でさすりながら、半ば独り言のつもりでつぶやく。返事は期待していない。
 案の定、彼に右のほほを見せて立っている年かさの相方はむっつりと押し黙ったままだ。顔の筋ひとつ動かさない。年齢的にも、清掃業界でのキャリアでいっても、若い方の男より二十年は上のこの男は、職場では皮肉交じりに「職人サン」と呼ばれている。色黒のかさかさに乾いた顔面の皮膚は、吹き荒れる真冬の風などものともせず、震えもしなければ赤らんだりもしない。それとも一緒に仕事をする若造に――いや同業者であれば誰であろうと――弱みを見せまいと頑固に耐えているだけなのだろうか。
 若い男も、何も今日初めてビルの窓の清掃業務を担当するわけではない。新卒入社からの約一年で担当したビルの数など彼は数えていないが、大学時代のアルバイトでもビル窓拭きは数も種類もこなしており、経験数だけなら一部の中堅クラスの社員と同等だろう。それにもともと、平気でビル窓拭きをアルバイト先の候補にしていたくらいだから、当然、高所に対する恐怖心もなかった。
 今日の作業は地上約百五十メートル、三十階建てのビルが相手だが、彼の経験からいえば高い方ではあるものの、もっと高い場所での作業も何度か経験している。二本のワイヤーで吊られた清掃用の常設ゴンドラは、高所特有の強風にあおられ、慣れない人間には異常と感じられるほどの勢いでぐらぐらと左右に大きく揺れている。しかしそれすら多少の不安がときどき胸をかすめるくらいで、いまさら彼を悩ませるものではない。ただ、寒い。作業衣の下に厚めに着込んであるものの、顔と手は素肌を直に大気にさらしているのだ。この寒さだけはどうにも苦手だった。冬の太陽は愛想よく天空で輝いているが、ほとんど彼の役に立ってくれていない。
 ゆっくりと下降していたゴンドラが止まり、それと同時に、繰り出されるワイヤーのうなりも止んだ。彼らのちょうど目の前の窓の内側では、パソコン作業をしていた人が何人かちらと視線を送ってきたが、窓拭きを見慣れているのか仕事で忙しいのか、すぐに自分の作業に戻っていく。
 ゴンドラの操作ボタンから手を離した年かさの男も、すぐに洗剤塗布用のモップを手にして自分の仕事を始めようとした。が、急に動きを止めてきっと若い男を睨みつけた。
「次が控えてんだ。寒いとかナマ言ってねえでとっとと働け、新入り」
「す、すいません竹中さん」
「謝ってる暇があったら動けって言ってんだよ新入り。いつまでスクイジー握ってやがる」
「はい、竹中さん」
 おれは新入りじゃねえ、武藤って名前があるんだ、と口から飛び出しそうになる憤懣をこらえて、武藤は水切り用のワイパー、正式にはスクイジーと呼ばれるそれをモップに持ち替える。窓の汚れを落とそうと腕を伸ばすが、手がかじかんで力がうまく入らないことでいっそう腹立ちを覚える。
 作業は安全第一とすること。ヘルメットを着用すること、ゴム手袋を着用すること、命綱を装着し不慮の事態に備えること――ゴンドラ取扱講習会でお題目のように並べられた、素人が聞いてもごく常識的なそれらの「指針」は実際の現場では多かれ少なかれ軽視される傾向がある。しかし「職人」竹中は並みの作業員の上をいく。彼には自称職人気質からなる自己流の「鉄則」があり、同僚からの忠告くらいでは断固として曲げない。その上それを共同作業者にも押し付けようとするため、仲間内の評判ははなはだ悪い。あれは独り身のひがみだ、と愚痴る者もいれば、あの性格だから独り身なのよ、とささやく者もいる。灰汁の強い人間に対して悪評が飛び交うのは世の常だが、竹中の場合は肝心の清掃業務も特別できるわけではないため、陰口は一層冷ややかなものとなる。武藤にも彼を尊敬する気持ちも、悪い噂からかばいたくなる気持ちもない。
 ちなみに竹中が堂々と放言したところによれば、作業中にゴム手袋をしない理由はこうだ。「手袋越しにモップ握ってちゃ、汚れ落としの力加減が分からなくなるだろうが」。
 じゃあ素手で窓拭けよ、と内心イラッときたのは武藤だけではないだろうが、少なくとも武藤にとっては、思考が多少歪んでいようと仕事をろくに教えてくれなかろうと、竹中が先輩であることに変わりはない。しかも空中で孤立しているゴンドラの上にいるのは彼ら二人きりで、他の先輩のフォローに期待することもできない。仕事は仕事、と割り切って耐え、竹中が押しつける「鉄則」に諾々と従うほかなかった。鳥のフンらしき汚れに向かって、武藤はぎこちない手に力を込めてごしごしとモップをこすりつけた。
「ばかやろう、ガラスが傷むだろうが。もっとうまくやれ新入り」
 竹中の叱責が飛ぶ。武藤は歯を食いしばる。肌を刺すような突風がゴンドラを直撃し、ぎりぎりと不気味な音を立てて大きく左右に振れる。武藤の耳が真っ赤になり、キンと芯に響くような頭痛が彼を襲う。

 ****

「じゃあ、お仕事行ってくるから、一人でお留守番お願いね。ピンポン鳴っても出ちゃだめよ。おやつは台所のテーブルに置いてあるからね」
 そう言い残して子ども部屋を出ていく母親の背中を、明日美は無表情に見送る。エアコンの暖房はその広い部屋を丸ごと、そしてもちろん彼女の体をもぽかぽかと温めてくれているが、彼女の心の中にわだかまる冷え冷えとしたものは、母親がいなくなると同時にますます声高に存在を主張し始める。四歳の彼女にはまだ、その虚ろな心の寒さをうまく言葉に表現できない。閉じた扉の向こうに消えた、ピンクのセーターの背中に向かって、いってらっしゃい、と小声で言うのがやっとだ。
 朝早く出勤し夜遅く帰宅する父親の顔は滅多に見ない。母親も用事で家を空けることが多い。明日美が今の自分の気持ちを拙い語彙で人に伝えようとすれば、「あたしもお兄ちゃんか妹がほしい。みどりちゃんとかさつきちゃんとこみたいに」というやや遠回しな表現になるかもしれない。しかし仮に今その言葉を思いついたとしても、すでに伝えたい相手は家の中に一人もいなくなっている。
 明日美は床に座り込んだまま、ライムグリーンのカーテンが開かれた大きな窓を見上げる。南向きのその窓は、外に広がっているはずの世界のほんの一部を白い枠で四角く切り取って、いつもと変わらない単調な景色を描いている。しかしそれは目に見える以上のもの、憧れに似た夢として彼女の目に映る。
 子ども部屋に置かれたふかふかのベッドと、枕元におとなしく並んでいる大きなクマやウサギやカピバラのぬいぐるみたち。小さな引き出しがたくさんついた、かわいらしいデザインの小物入れ。その引き出しはお気に入りのクレヨンや色鉛筆、キャラクターの絵柄のついた小さなメモ帳、子ども用のペンダントやブレスレットでほとんどいっぱいになっている。明日美の母親がいる日に限って遊びに呼ぶことができる幼稚園の友達は、それらのぬいぐるみや小物類を目にすると決まって歓声をあげ、例外なく明日美のことを単純な言葉で羨む。いいなあ明日美ちゃんは。
 それでも明日美は一人になると、自分の部屋に背を向けるかのように窓の外へと目をやる。直接目に映る何かを見たいわけではなく、ただ長いこと窓の向こうをぼんやりと見ている。そしてこの部屋にあるよりもたくさんのもの、たくさんの面白いことを漠然と思い描く。鮮明にイメージできるものも少しはある。年上の兄姉や両親と、外でかけっこやおままごと、砂場遊びをしている友達の姿。
 実際に明日美がその窓から見ることができるのは、向かいの家の赤い屋根と、その庭に植えられた冬でも葉を茂らせている枝の細い木、その向こう、ずっと遠くにそびえ立っているいくつかの背の高いビル、そしてどこまでも高く澄んだ青い空だけだ。明日美が部屋の真ん中で床にぺたんと座ったままだと、木のてっぺんに近い部分とビルと空しか見えない。木は厳しい北風のために細長く繊細な枝を震わせ、ときおりもぎとられた葉が飛ばされてあっという間に明日美の視界から消えていく。それを見て明日美はさっきのイメージを少し修正する。この風じゃ砂場遊びはできないわ。目に砂が入って痛いもの。
 昼食を食べたばかりでお腹がいっぱいの彼女は、おやつを食べる気にもなれない。仕方なく――彼女自身不思議なのだ、欲しくて欲しくて、やっと買ってもらえたはずなのに――仕方なく、買ってもらったばかりのお人形の家のセットで遊ぶことにする。おもちゃの家には前面の壁がなく、すべての部屋の中が見えるようになっていて、各部屋に人形を立たせたり座らせたりできる。付属の人形は全部で四体。パパ、ママ、男の子、女の子。男の子と女の子は同じくらいの背丈なので、どちらが年上なのか分からないが、明日美は兄と妹だと思うことにした。おままごとは、家族四人がテレビのある居間で楽しく過ごしているところから始める。そして妹をいちばん構ってくれるのは優しい兄だ。想像力の豊かな彼は面白い遊びを思いつき、妹を誘って外に遊びに連れ出してくれる……。
 早くも明日美は妹役の人形に気に入らない点を見出した。人形の長い髪は自分と同じようにおさげでなければならない。髪留めも自分とお揃いの、白いボンボンのついたものにしたい。
 明日美は小物入れの引き出しを引っかきまわし、都合のいい髪留めがないことを確認した。今度パパに会えたときにおねだりしよう。ママがいない隙にかわいく頼めば、絶対にパパは買ってあげるよと約束してくれる。でも次にパパに会えるのはいつだろう。本当に買ってくれるのはいつになるだろう。土日でさえ「お仕事」で出かけてしまうことが多いのだ。そういう日はスーツではなく、ずっとラフな服装だが。
 また何気なく窓の外に目をやった明日美は、遠くのビルの一つに普段はないものがぶら下がっているのを見つけた。明日美は目がいい。ビルの屋上のクレーンから吊り下げられたゴンドラと、二人の人間の姿を、澄んだつぶらな瞳ははっきりと捉えた。彼女は男女の人形を両手に持ったまま、いつもと違うその光景にじっと見入った。
 彼女はゴンドラという単語を知らない。クレーン車なら知っている。ビルの屋上のクレーン車から、細長い箱が一本のヒモみたいなものでぶら下がっていて、そこに人が片手でつかまっている。そしてその人はもう一人の人の手を、箱につかまっているのと反対の手で握っている。二人目の方は宙ぶらりん。彼女にはそう見えた。

 ****

 その瞬間何が起きたのか、武藤ははっきりと記憶していない。
 激しい寒風のうなりを超える、叩き切るような金属音が響いたかと思うと、突然足場が傾いだのだ。それは体感的には傾いだというより、足場が突然消えた、というのに近い。ぐらりと体が踊り、みぞおちを冷たい手でなでられたような落下感が彼を不意打ちした。体が倒れる間際、彼の視界の隅で竹中がやはりバランスを崩し、その頭から外れたヘルメット他愛もなく地上に落下していったのが見えたが、それを最後に武藤の頭は真っ白になった。それから続いた、金属と人間の肉体がぶつかりあう音、金属どうしのこすれる悲鳴のような音、武藤の体が無意識のうちにどう動き、どうやって落下を免れ、本能で伸ばした手に何をつかんだのか、武藤はまったく憶えていなかった。
 彼が気づいたときには、すでに抜き差しならない事態に陥っていた。
 ゴンドラを吊って支えていた二本のワイヤーのうちの一本が、突然切れてしまったのである。建物に向かって左側、竹中が立っていた場所に近い方のワイヤーだった。職業柄、ゴンドラの事故がままあることは武藤も知識として知ってはいたが、それがいつか自分の身に降りかかるかもしれない、とは考えたこともなかった。しかしもし彼がもっと心配性で、いつゴンドラの事故に巻き込まれてもおかしくないと考えていたとしても、今のような状況など想像もできなかっただろう。
 ゴンドラには通常、床面に対して前後左右を囲む、大人の胸くらいの高さの柵が設けられている。このゴンドラもごく一般的な作りで、鉄製の柵が巡らされている。今やワイヤー一本で宙吊りになっているゴンドラだが、よほどひどい偶然が重ならなければ、こういうときでも清掃員が落下するような羽目にはならない。普通彼らは命綱をしているものだし、もともと高所作業に慣れている彼らのバランス感覚であれば、たとえ床が縦向きになってしまっても柵の部分に足をかけ、体勢を整えることは充分可能だろう。片手一本、自由に動かせる体勢にさえできれば、あとは落ち着いてゴンドラの上昇ボタンを押せばいい。ワイヤー一本でも、ゴンドラと人の重さを支えて一回上昇するくらいの強度は充分あるはずなのだ。すでに一本切れてしまっている以上、もう一本のワイヤーの強度を信じきるのが難しい状況ではあるが。
 しかし武藤たちが置かれた状況はひどいものだった。武藤は事態を理解して震え上がった。
 彼らは命綱をしていない。
 いま命綱の代わりとなっているのは、武藤の右腕だった。彼の右手はゴンドラの前側の柵の、横棒のちょうど真ん中あたりを握り締めていた。片腕一本、それだけの支えで彼はなんとか落下を免れていたのだ。一度状況を意識してしまうと、今まで肉体が本能的に行っていたことを、今度は頭で考えて実行しなければならない。それだけでも武藤の恐怖と疲労感は倍加した。
 何も障害がなければ、うまく反動をつけて、宙ぶらりんになっている足を柵に絡めることもできただろう。彼は恐怖に囚われてはいたものの、意識はしっかりしていたし、若い肉体にふさわしい力もあった。体勢をうまく安定させられさえすれば、ゴンドラの操作ボタンを押すことは容易にできる。ボタンは彼の右手のすぐそばに見えている。
 しかし、障害は彼の左手にあった。そちらの手は、武藤自身がまったく意識しないうちに、竹中の右手首を全力で握り締めていた。竹中の体は完全に宙に浮いた状態で、武藤の左手の握力によって、かろうじて落下せずに済んでいた。武藤の両腕は二人分の体重を支え、天と地に向けてぴんと張りつめている。竹中の腰が、風で激しく揺れ続けるゴンドラのへりにときどき当たっては鈍い音を立てているが、竹中はそれに対してぴくりとも反応しない。彼の重さと体そのものが邪魔になって、武藤の体の思惑通りの動きを阻んでいる。
「竹中さん!」
 武藤は真下を見下ろして、風に負けないよう腹から声を出したが、竹中は返事を返すことも、うなだれた顔を上げることもしない。よく見るとヘルメットの取れた竹中の側頭部に血がにじんでいる。ヘルメットが落ちた後で、どこかに頭を打って気絶したんだ、と武藤は悟った。ヘルメットのバンドをしっかり締めず、だらりとさせたままにするという竹中のやり方は、いったいどんな哲学だったからか。
 命綱をつけない理由なら武藤は憶えていた。身動きしづらくなるから。同じ理由で命綱をつけない、あるいは形式的でまったく実用性のない装着の仕方のまま、ゴンドラによるビル窓拭きを行う人を、何人か知ってもいた。
 ただでさえ寒さにかじかんでいた右手は、鉄の柵によってわずかな熱も余さずしぼり取られ、徐々に感覚を失い始めていた。いま右手を離したら手の皮が、鉄柵に吸い付いたまま剥がれてしまうのではないかと不安になるほどの奇妙な密着感と、それに付随する凍てつくような痛みが、ときどき思い出したように右手を襲う。一方で左手は、竹中の右手が濡れているせいで、わずかずつではあるが徐々に滑りつつある。少しでも気を抜けば竹中の浅黒い腕は、武藤の手からするりと抜け、竹中の体と命とともに無残に落下してしまうだろう。せめて二人ともゴム手袋をしていれば、その摩擦力でもっとしっかり握っていられたかもしれない。竹中の手が濡れているのは汗のせいではなく、清掃時の汚水によるものなのだ。
 武藤は直下の地面を見下ろした。はるか百五十メートル下に見えるのは、おしゃれな赤いレンガが敷き詰められた一直線の歩道。複数の赤いカラーコーンが描く四角いラインが、豆粒を並べて作った点線のように武藤の目に映った。汚水落下に注意、の意味で清掃作業に入る前に並べられたそのコーンは、いまや別の警告の意味を帯びてしまっている。武藤の頭の一部が麻痺して、場違いで滑稽な台詞をひねり出す。お気をつけください、もうじきこの付近に人間が落下致します……。
 腰の工具入れから、らせん型のコードが下方に向かって伸び、その先でワイパーやモップが揺れている。それらはときおりゴンドラに接触して神経質な音を立てる。本来ならゴンドラを上から支えていなければならない、ちぎれたワイヤーの残骸は、まるで奈落への不吉な誘導線のように地上に向かって垂れ、風にあおられて誘うような動きで身をくねらせている。
 地上では同僚が通行人への注意のために立っているはずだった。少なくとも社内規定では、彼は清掃作業が終わるまでずっとそこに立っていなければならない。しかし仕事始めにはたしかにそこにいたはずの彼の姿が、今はない。タバコでも吸いにいったのだろうか。直下の歩道は、昼休みをいくらか過ぎた時間帯のためか人通りがまったくなく、道の向こうはフェンス越しに電車の線路があるきりで、向かい側から人が不用意に駆け寄ってくる危険もない。同僚が退屈のあまり自主的に休憩に入ったとしてもおかしくはなく、普段ならなんとも思わなかっただろうが、今の武藤にとってはその「ちょっとした休憩」は絶望的な憎悪の対象でしかなかった。
 武藤は救いを求めて線路の向こう側に目を走らせる。そちらは住宅街だろうか、やはりフェンスの向こうに狭い道と、密集した家屋が見えるが、左右を見渡しても人影はない。
 ビル内にはひょっとしたら、異変に気づいた人がいるかもしれない。しかしゴンドラの底面がビル側を向いてしまっているため、ビル内の様子は武藤には分からない。しかし、と武藤は不意に思い知る。例えこの危機に気づいてくれた人間がどこかにいたところで、この状況から武藤たち二人を生還させる手段を瞬時に考え、実行してくれる人間などいないのではないか。下の道に誰かがいたとしても、あるいはこの瞬間に電車が走ってきて乗客がこの状況を目撃したとしても、結局のところ助けにはならない。二人分の命を支えている彼の右手は痺れ、仲間の命を繋ぎとめている左手は滑る。冷たい風が容赦なく襲いかかり、ゴンドラの形をした振り子はタイムリミットまでの時を荒々しく刻み続ける。時間との戦いは事故発生の直後から、とっくに終盤戦へと突入していたのだ。
 竹中が意識を取り戻す気配はない。竹中の助力ももはや期待できない。
 武藤の脳が擦り切れそうな勢いで回転する。
 一つの方法を思いつく。竹中を全力で引っ張り上げ、ゴンドラの柵に引っかける。彼が落ちないことを確認したら、空いた左手を伸ばしてゴンドラの上昇ボタンを押すのだ。振り子のように揺れ続けるゴンドラの動きに合わせ、タイミングを計って何度か試せば成功する、と武藤は思う。しかし簡単ではない。すべての動作は武藤の右手の腕力を必要とするが、そのふんばりにかじかんだ右手が耐えられるだろうか。何度もやり直しをするうちに、もし右手が限界を超えてしまったら、もう二人とも助からない。これは必ず成功するやり方とは言えない。
 では――武藤の脳は冷徹に計算を始める――もし左手を離したら? 竹中は落下する。この高さではほぼ間違いなく助からない。しかし自分は助かる。自分だけなら確実に助かる。それだけの体力も自信もある。
 他に方法は……ない。考えつかない。となれば道は二つ。
 しかし長く迷っていれば、右手の力が尽きてどちらの方法も採れなくなる。
 二人とも助かる道を選ぶ? 失敗する可能性があるのに?
 ではわざと左手を離す? 嫌われ者とはいえ、仲間を見殺しにするのか?
 武藤に決断させたのは、人の目だった。正確には、人の目がないことだった。彼からビル内が見えないのなら、ビル内からも彼の様子が見えないということだ。下の通りにも誰もいない。もっと離れた場所でこの状況に気づいている人間がひょっとしたらいるかもしれないが、ただでさえこの高さだ、遠目で細かいことなど分かるはずがない。わざと手を離したのか、それとも力を尽くしたが及ばなかったのか。どちらが真実なのか、自分以外の誰に分かるだろう?
 かじかんだ手よりも、針のような風よりも、氷のような鉄よりも、なお一層冷たいものが、武藤の心を瞬時に支配した。彼の顔はこのとき、能楽師の手を離れた能面よりも無表情になった。力を加え続けることよりも、力を抜くことの方が難しいと感じていた彼の心は解放され、ごく自然な感覚として、彼のすべての細胞がより楽な動作を望んだ。
 意識のないまま、竹中の肉体はしゃれたレンガの敷き詰められた地面に向かって、まっすぐに落ちていった。

 ****

 明日美は見ていた。ただ見ていた。
 二人の人間がぶら下がっていた。そのうちの下にいる方が落ちていった。その落下は途中から、向かいの家の屋根に遮られて見えなくなった。落ちた男が地面に叩きつけられる決定的な死の瞬間が、彼女の目に入ったわけではない。しかし彼の姿が見えなくなるまでの、実際には一秒にも満たないほんのわずかな時間の映像を、彼女は高速度カメラさながらに脳裏に写し取った。彼女にとってそれは、人生の半分にも思えるほど長い時間だった。しかし彼女が目にし、脳裏に焼きつけたその出来事の意味を、彼女はほとんど理解していなかった。
 彼女は知らない。翌朝の新聞に、清掃業者の作業員が業務中の事故で落下し、死亡したという記事が載ることを知らない。それがゴンドラの整備不良によるものだということも、明日美の部屋から見えるビルで起こった事故だということも、そして彼女自身が目撃した出来事そのものを指していることさえも。
 朝早く出勤する父親が食卓でその記事を読み、おや近くのビルの事故じゃないか、怖いね、と簡単な感想を漏らすことも知らない。最近エレベーターとかエスカレーターとか、いろいろ事故があって怖いわねえ、と母親が相槌を打つことも知らない。
 彼女は知らない。自分が見たものの意味を。ただその映像だけが脳の奥深くに沈み込み、二度と表層意識にはっきりとは上らなかったにも関わらず、彼女の心にある種の興奮を植えつけていったことに、彼女は気づいていない。
 彼女が成長し、同年代の友人よりもはるかに過激な音楽を好むことになるのを、彼女は知らない。髪をオレンジ色に染め、授業中にタバコを吸うようになり、やがては高校を中退し、それでも彼女の中にある曖昧な空虚は埋まらない。育て方を間違えたのはおまえだ、いえ家にいなかったあなたのせいよ、と両親が彼女の素行を巡って口論を繰り返すことになるのを知らない。そんな両親を冷ややかに見つめながら、自分は一体何を求めているんだろう、と彼女は自問することになる。
 やがて大人になった彼女が、妻子のある男と関係を持ち、やがて惨めに捨てられていくことを、彼女は知らない。男に冷たく用済み呼ばわりされたとき、床に這いつくばって悔し涙を流しながらも、心の底に得体の知れない、懐かしいぞくぞくするような興奮が蘇ることを彼女は知らない。去っていく男のものと同じ歪んだ醜い大人の背中を、はるか幼い頃にも見たという記憶が、閃光のようにほんの一瞬浮かび上がることを、彼女は知らない。
 明日美はまだ、たったいま自分の目の前に敷かれたばかりの一本のレールの存在を知らない。彼女はのっぺりとした表情のまま、目だけを大きく見開いて、窓枠に切り取られた世界をただただ見つめ続けている。