- 戦場
としまえんプール・ハイドロポリス(総コース数31本)
- 記録
「すいません、今日はスライダー何本動いてますか?」
その日のとしまえんは、こんな奇妙な電話の質問で始まった。
その日は朝からの悪天候。ただし雨ではなく、曇り。これこそが、あの男が待ちわびていた気候であった。前日の土曜日は予報が曇りだったにも関わらず快晴になってしまい、「晴天延期」までしたのだ。
なぜ曇りがよいのか? それは曇りなら客が少なく、スライダーの待ち時間が減り、より多く滑走を試みることができるからである。また日差しによる体力の損耗も抑えることができる。ただし雨が降るとスライダーが止まったり、ひどいときはプール自体が運営中止になるため、この判断が難しい。
さらにとしまえんでは天候によって、全31本あるスライダーのどれくらいが稼働するかが決まる。あの男は昨年その事実を学んだため、朝から冒頭のような電話をかけ、戦場偵察を試みたのだ。
「はい。…え? あ、はい、少々お待ちください」
このような質問はあまりないのだろう、担当の女性の声がうわずる。そして待つこと数秒。
「本日、ハイドロポリスは13本運営しております」
この言葉に彼は満足げな笑みをもらした。実はこの日、彼はすこぶる体調が悪かったのだが、猛暑の今夏にこんなチャンスは滅多に訪れない。今日、決行である。
ときは北京オリンピックの真っ最中。前日には人類最速の男を決める戦い――男子100m走が行われ、ボルトによる世界記録、人類初の9.6秒台がマークされたばかりである。そして今日はスライダー最速の男を決める戦い。昨年は果たせなかった、A7コースでの人類初の「7秒台」が出るか出ないかという場面なのである。
彼は戦場に到着すると、まずは体の慣らしも兼ねて、昨年滑っていないコースに向かった。最初にC25を試みたのだが、実はこのコース、昨年計測を断念したC29と同種の、ストレート・屋根なし・ハイスピードコースであった。いきなりの予期せぬハイスピードは準備運動にしては激しすぎたが、彼はつい遊び心を起こし、同じコースにマックス21で再挑戦した。結果は昨年の予想どおりで、彼の体は途中で完全に空を飛んだ。幸いストレートコースだったためコース外に転落してしまいましたという大惨事は免れたものの、着地の際にしたたか背中を打ちつけ、タイムも伸びず、やはり速度を求めるには不向きという結論を身をもって実証するのみで終わった。こうした失敗も人類の将来のためには貴重な財産であろう。
続いてC24にチャレンジしたところ、こちらはC29と似た、緩やかに続く160mもの長さを誇るロングコース。その難易度の低さから客が長い列をなし、なかなか滑走順がまわってこないという状況。しかも長いわ緩いわで滑っているうちに飽きてしまうという難点もあり、タイムも伸びなかったため、こちらも測定を断念した。
昨年より増えたのはこの2本と、浮き輪を使うスライダーが2本で、残りは昨年とまったく同じコース編成であった。このためこの日は残りのすべての時間をかけて、昨年からの目標コースであるA7を滑り続けることになった。
A7を滑り始めて3本目、彼はいきなり7秒4という世界記録を樹立。昨年の記録を一気に1秒近く縮めたこの快挙は、「今日中に6秒台が出てしまうのでは!?」と関係者を騒然とさせた。しかし7秒4~7秒6という好タイムを立て続けにマークするも、7秒の壁は破れない。何度も挑戦するが、体調不良のためか徐々にタイムが落ちていき、降り出した雨による気温の低下もあって、この日は20数本を滑って途中退場することとなった。選手生命を考えれば止むを得ないことであろう。
以下は昨年の記録に今回の記録を追加したものである。新たに経験したC24・C25と、A7の記録以外は昨年と変わっていない。
スライダー番号 | 通常滑走タイム | マックス21タイム |
A2 | 22"4 | ―― |
A3 | 25"0 | 22"2 |
A5 | 27"0 | 24"0 |
A7 | 9"8 | 7"4 |
C24 | 18"0 | 18"0 |
C25 | 8"0 | 7"9 |
C29 | ―― | ―― |
C30 | 18"5 | ―― |
残念ながら挑戦本数は少なかったが、今回も厳しいレースであったことは間違いない。なぜなら昨年の半数ほどの滑走であったにも関わらず、彼の背中には打ち身による大きなあざができていたのだから…。
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