H師



 このお方は著者がもっとも尊敬するお人であるため、特別に「師」の称号をもって 呼ばせていただく。
 師には物理学の基礎を教えていただいた。師のおおらかな姿が教室に現れると、 あまりの心地よさに多くのものが安眠の境地へと導かれたものである。常に仏の ような笑みを浮かべ、何事にも決して怒ることなく、師の授業はいつも淡々と進め られた。以下に師のひととなりを紹介していこう。
 その1。彼はわれわれ生徒の理解を助けるため、説明には絵を使うことが 多かった。ある日師は「物体の表面における磁力線の湧きだし」を説明するため、黒板に 大きな円を描き、そこへSと書いて物体の表面であるとした。そこで師はおもむろに振り返 り、恥ずかしそうにこう言った。

「マンガで申し訳ないんですが…」

 これこそ師のおくゆかしき一面を示した名言ではないか。しかし師よ、安心して ほしい。それはマンガとはいわない。
 その2。師の授業の時間になると、いつもきまって校舎の外からバイクの騒音が聞こえてくる。師の授業を妨害するとはけしからん奴だが、師はこんなときでも冷静沈着、決して声を荒げることはなく、 それどころか声量すら少しも変えずに済ましておられる。その結果、

「このようにガウスの定理において重要なことは…
ブロロロロロロロロロロ…
…となるわけです。何か質問は?」

…ならば言おう。師よ、 最初からお願いできますか?
 その3。師にとって時間の観念は、われわれとはやや違ったものであったらしい。授業がキリのいいところまでいかないと彼の講義は終わりにならないのだ。授業終了時間が近付くと生徒は自然とそわそわしてくる。いや、われわれはまだいいのだが、次の講義を受けるために、教室の外にも人が集まってがやがやし始めるわけだ。すると師は温厚な顔をこころもちあげてドアを開け、よくとおる 声でこのようにのたまう。

「まだ授業中だから静かにして」

そして教壇に上がり、何事もなかったかのように授業を再開。このときすでに授業終了予定時刻を5分は過ぎている。こいつは横暴だ。
 その4。師はわれわれの授業の理解度を確認するため、学期に4回ほど、簡単な問題をだしてレポートとして提出させていた。師にとっては簡単なのだろうが、われわれにとってはまだまだ難解なものばかり。私などは初めてのとき、問題の1問目からわからなくておおいに苦しんだ。それを見かねたわけでもあるまいが、師はレポート提出後しばらくして、問題の解答を配るとおおせになった。さすがは師である。私はさっそく配られたプリントのトップに目をやったが、そこにはただ一言。

「問い1 省略」

 ああ、師よ、それでいいのか?
 さらに。物理一筋のようにみえる師だが、その意外な一面をかいまみた話をしよう。
 ある日私は、校舎外でばったり師と遭遇した。師の隣にはうら若い女性が「……なんですよ~」などと明るく笑っており、それにかぶせて「はっはっは」という師の朗らかな笑い声が。ああ、師よ、あなたも普通の会話をなさるのですね!?  私は無意味に感動したのだが、それはちと早かったようだ。彼らが私のわきを通り過ぎる瞬間、師の会話の断片が耳に飛び込んできたのである。

「う~ん、それじゃあ……

負の無限大に飛ばしてみたらどうかな?」

 ……彼らは去っていった。私と師との距離は無限大に発散した。


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