H氏



 著者が特別世話になったお方である。日本人なのに自らミドルネームを名乗る彼。当然数々の伝説に彩られている。
 彼との出会いは入学当初、まだ右も左もわからないころにやってきた。計算機 概論の授業中、「mule」と「netscape」を同時に立ちあげろ、という指示を受けた私は どうしていいかわからず、ただ呆然とキーボードを見下ろしていた。それを見かねたH氏は すっと後ろにやってきて、私に為すべきことを教えて下さったのだ。そのときのセリフがこれ。

「ここをこうやって、こう。うん」

 一人で納得しつつ、にゅっと伸ばした手でキーボードをなぞったかと思うと、もう私 の問題は解決していた。 「速すぎてよくわからなかったんですが……」と言おうと振り返ると、氏はいつのまにか どこかへ消えている。大学という場所のおそろしさを知った最初の事件であった。
 さて、それから一ヶ月もすると私もいくらかUNIXに慣れてきた。人間の習性の一つに、学んだばかりの事を使ってみたくてむずむずするという現象がある。私もむずむずした。で、「ls -a」 なるコマンドを使ってみた。するとどうだろう。ずらずらと並んだファイル名のな かに、作った覚えのないものがあるではないか(例えば「.Xdefault」とか)。試しにファイルを 開いてみると、妙な記号が延々と並んでいるだけである。なんだこれは。よくわから んな。消しておこう。 即断した私は、早速ディレクトリの大掃除に乗り出したのであ った。先頭にピリオドのついたファイルをガンガン削除。これが何を意味するかは、 わかる人にはわかるだろう。
 翌日、端末に向かった私は画面がおかしいことに気づいた。パスワードをいれても いつもの画面が出てこない。いくらやってもらちがあかないので、私は初めて技官室 のドアをたたいた。例によってそこには技官たるH氏が待機していたのだが、すっかり混乱 していたうえにド素人の私はうまく状況を説明できない。

「あのう、出てこないんですが」
「なにが」
「あれが」

 とにかく腰をあげたH氏だが、普段からの渋い顔が余計にしかめられていたことは確か である。私の隣に座り、しばらくキーボードを叩いていたが、氏はすぐに原因に思い 当たったらしい。

「きみ、もしかして「.Xdefault」消した?」
「ええ」

 このとき、いついかなるときも厳格な顔つきを崩さないH氏がいきなり表情を 変えた。氏のあんなに情けない 顔はあとにも先にも見たことがない。そしてやはり情けない 声でこのように叫んだ。

「だめだよ~それ消しちゃあ!」

このとき初めて「そうか、あれは消してはいけなかったのか」と気づいた私もアサハカ だが、当時は氏の珍妙な顔と声に心を奪われてそれどころではなかった。
 むろん、氏はへこたれたわけではなかった。あっという まにどこからか「.Xdefault」をもってきたらしく、直ったからもう一度たちあげて みろと言って きた。そうか、もう問題は解決したのか……とほっとしたのは早かったようだ。まだま ともに動かない。氏はそれを見てしばらく考え込んでいたが、 やがて恐るべき結論に達したらしい。

「きみ……もしかしてほかにも何か消した?」
「ええ、あと三つ四つ

 これを聞いたH氏、本当に泣きそうになった。

「だめだよ~っ!」

それからは私が何か消したのを発見するたびに「だめだよ~っ!」 を連発、端末室は混乱のるつぼと化した。 そう、設定ファイルの大部分を消した初心者以下の 私は、H氏を「泣かせた」初めての人間となったのであった。


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