フローティングペーパー



 人体下部背面より排出される黒き悪魔、ビッグ・ベン。

 人は生まれてから死ぬまで、この悪魔を体内から、家庭から、そして社会から延々と退け続けるわけだが、その最初の関門たるトイレ内において、今まで筆者はいささかの不便を感じてきた。それは他でもない――水洗便器へと落下したビッグ・ベンのあげる水しぶきが、筆者の下部背面にたびたび跳ね上がるのである。特に冬場は水の冷たさも手伝って、思わず声を上げて飛び上がってしまうことも少なくなく、非常に不快である。しかもビッグ・ベンとの戦いはほぼ毎日行われる……何かよい対策はないものか、とここ数年、筆者は頭を悩ませてきた。

 と、そこへ思わぬところから朗報が飛び込んできた。ツイッターである。たまたまリツイートされてきたツイートを、いつものようにさらっと流し読みしかけて、筆者は思わず二度見した。その、世界を震撼させたツイートをここに引用しよう。

 “トイレットペーパーをトイレの水面にあらかじめ浮かべておくと、大便しても水が跳ねてこない。 #有益なことをつぶやこう” (@hassotoilet)


 これだ……筆者が求めていたものは、まさにこれだ!!
 さっそくその日から試してみたところ、すぐに効果を実感。著者はこの手法を「フローティングペーパー」と名付け、愛用し始めた。

 が、事はそれほど簡単ではなかった。この手法、フローティングペーパーにはいくつか重大な欠点があったのだ。以下に著者の研究の軌跡を記してみたいと思う。
 まず、誰でも頭に浮かべるであろう、一般的なフローティングペーパーは次のような形だろう。


フローティングペーパー


 しかし少し想像すれば分かるように、これでは圧倒的に強度が足りない。ビッグ・ベンの初弾はほぼ防いでくれるものの、それとともにペーパーは水底深く沈んでしまい、続けざまに二の矢、三の矢のビッグ・ベンが襲来するとまったく役に立ってくれないのだ。
 ではどうするか。そう、厚みを増せばよいのだ。筆者はこれを「フローティングペーパー・ダブル」と名付けた。


フローティングペーパー・ダブル


 これなら三発分くらいは防いでくれる。もしマシンガンのごとくビッグ・ベンが襲ってくる体質・体調であっても、トリプル、テトラ、と厚みを増してやるだけで対応できる計算になる。実に簡単、素朴、手軽である。

 だがこの手法も完全ではなかった。ビッグ・ベンがペーパーの中央に落下しなかった場合、ペーパーが横に流れていってしまい完全に無効化されてしまうのである。例えばセンターから少し横にビッグ・ベンが逸れたとしよう。ペーパーの横端がビッグ・ベンに触れるが、その衝撃によりペーパーは一気に横方向へと押し出され、戦場から遠ざけられてしまうのである。これでは二発目以降にまったく対処できない。
 ペーパーの設置テクニックにより多少は改善されるが、それも原理的に完全ではない。ご存知のとおり水面というのは常に動いている。動いているからにはその上に浮いているペーパーも自然と動かざるを得ない。水を多く溜めるタイプのトイレでは特にその傾向が顕著だ。そしてビッグ・ベンは設置直後にやってきてくれるとは限らない……。そう、ここで時間が敵にまわるのだ。せっかく大量に重ねたペーパーもふらりふらりとステージ中央から漂い出てしまってはただの紙の無駄、反エコ、すぐ脇を素通りしていくビッグ・ベンをぼんやり見物するだけの意味不明な塊と化してしまうのだ。

 試行錯誤の末、筆者はついに画期的な手法を編み出した。紹介しよう……これが「フローティングペーパー・X」である。


フローティングペーパー・X


 図を見れば分かるとおり、二枚のペーパーを交差させるのが本手法の肝である。ある程度ペーパーに長さがあれば便器内の壁に対してつっかえ棒のような形になるため、位置がずれることはまずない。あとは各自が体の作りに合わせてあらかじめクロス部分の位置を調整しておくだけで、確実にビッグ・ベンをペーパー中央にヒットさせることができる。
 筆者のトイレ生活はこの「フローティングペーパー・X」の登場により劇的な改善を見た。もう二度とビッグ・ベンの攻撃に悩むことはなくなったのだ……。

 と思うのはまだ早かった。ある日、筆者はあの懐かしくもおぞましい水跳ね攻撃を久しぶりに受けて心底驚愕した。一体何が起きたのか。おそるおそる状況を確認した筆者の目に飛び込んできたのは、信じがたい惨状であった。


フローティングペーパー・Xが!


 なんと、水分含有量が乏しく、そのために強度を得た小粒のビッグ・ベンによって、フローティングペーパー・Xのクロス部分が破壊されていたのである。その後マシンガンのように飛び出した後続ビッグ・ベンによって、無防備となった筆者の下部背面は手痛いダメージを被ったのだった。

フローティングペーパー・X、破れたり――!


 もちろん、相当数のペーパーを重ねる「フローティングペーパー・X・ダブル」のような手法ならこの問題もカバーできるのだが、そんな物量を投下するだけの手法ではビッグ・ベンに勝った気がしない。どこまでも知恵と勇気によってビッグ・ベンに打ち勝つことこそ、筆者の望みなのである。

 現在のところ、数学理論を取り入れた「フローティングペーパー・カオス」が最適解となっているが……。


フローティングペーパー・カオス


 これは、くしゃっと乱雑にペーパーを置くことで生じる空気の層まで利用してビッグ・ベンの圧力を逸らす、というものだが、これではより効果的な置き方の検証が困難な上、何より美しくない。さらなる「紙の一手」を求め、今日も筆者は上司に高らかに宣言してトイレという名の洗浄へと向かうのであった。

 ――ビッグ・ベンに行ってきます、と。


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