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その老婆は、新月の夜にしか口を開かないという。 私はじりじりとその日を待った。 朽ちかけた家の奥まった部屋で、老婆は一本のろうそくとともに私を待っていた。 私が挨拶しようとすると薄明かりにかっと目を見開き、唐突に語り始めた。 「ヒッチハイクの若者の話をしよう……」 「ヒッチハイク、ですか」 「少し前の話じゃ。隣村にゴルフ場と、ゴルフ客を見込んだホテルが建設された。これが美しい、美しすぎるほどのホテルでの……わしの村にはそういったものは作られん。リラクゼーション設備付きの、高齢者向け保養所を作れと村長には何度もかけあっておるのじゃが、あの若造め予算がどうとか抜かしていつものらりくらりかわすのじゃ。村長といっても元はと言えば三軒隣のヨネ子んとこの洟垂れ息子でな、五歳のときには動物の医者になりたいと騒いでおったが、七歳のときに飼っていたにわとりを怒らせて五キロ先のポムポム山まで――」 「あのすみません、すみませんヒッチハイクの話から遠ざかっていくようですが」 「そうじゃ! 肝心なのはホテルじゃ。あの美しくも恐ろしい、西洋風のホテルのことじゃ……」 老婆はお手伝いさんが置いていった湯呑みを手に取り、ずずずと茶をすすった。見ると老婆の長い白髪が湯呑みにすっかり浸って、まるでつゆにつけたそうめんのようだ。顔を上げると、白髪の先からぽたぽたと茶が滴った。これは汚い。 「なにしろ美しいホテルじゃ、若者にも人気での。あるとき暇と金を持て余した若い男女が四人、マイカーに乗ってやってきた。日が暮れるまでゴルフを楽しんだ彼らが、そろそろホテルに戻ろうと車に乗って走り出してまもなく、道端に一人の若い男を見つけた。ヘッドライトに照らされた男は、右手の親指を上げていたという」 老婆はそう言いながら、震える手を持ち上げて親指を立て、なぜか笑った。 「そう、こんな風にじゃ……それを見た彼らは車を止めた。なぜ気前よく止まったのか? 若い男の愛想のよい顔を一目見た途端、自然と乗せてやりたくなった、と彼らは後に語っておる。若い男は彼らにこう言ったそうじゃ。 『すみません、ホテルまで行きたいんですが道に迷ってしまって。よかったら乗せていってもらえませんか』 しかし彼らの車は四人乗りじゃった。詰めれば後部座席にもう一人くらい乗れるかもしれん。しかし若い男は笑って首を振った。 『いえ、私は上でいいですから』 そう言うと、若い男は身軽に車の上に飛び乗った。そして上で腹這いになったのじゃろう、運転席と助手席の雨よけを両の手でがっちり掴んだのが、車内の彼らからはっきり見えた。中に入れといくら言っても、男はここで大丈夫だと笑って下りてこない。仕方なく、彼らは車を出した。 ホテルまでは二十分ほど山道を行かねばならん。木々が頭上を覆う真っ暗な、右へ左へとうねうねと曲がるその道を、彼らは車を飛ばしていった。途中、一度も止まらなかったのは間違いない、と後に四人とも断言しておる。しかしホテルの駐車場についたとき、彼らが見たものは……」 「……」 「……不思議なことに車の上には……」 「……」 「あの若い男の姿はなかったそうじゃ……」 「……それは……」 「……」 「……事故、ですね……」 「……」 「……」 「……」 その夜は何事もなく静かに更けていった。 ・第二話へ ・「奥二重の郷新し話」へ |