明花



 

今日の昼飯は大蔵谷の「明花」で中華と決めた。
台風が近づいている、と予報が出ていたが、構うものか。降る前に行き、降る前に食い終え、降る前に帰れば済むことだ。
俺は愛車MAMA-CHARIにまたがり家を出た。

店の年季の入った見た目に少々不安になる。
これ、もう閉店していたりしないか? OPENの札がかかってはいるが、はるか昔に店員が置き忘れていっただけだったりしないだろうか。
引き戸の隙間から店内を覗き見る。いた。店の親父と思しき男が、カウンターの中で新聞を広げている。昼飯時真っ只中だというのに客の気配はない。
オーケー、店は開いている。しかし、入るのに勇気が要った。

思いがけず愛想のいい親父に勧められるまま、テーブル席に腰を下ろす。
暗い店内。何度見ても、客は俺一人だ。
肉野菜炒めを、と頼むと、単品のみだという。さすがに白米もなしに肉野菜炒めをかっこむ気にはなれない。すると親父は俺の迷いを察し、ライスを注文すればスープもつけると受けあった。初見の客と阿吽の呼吸。この親父、できる。

料理を待つ間、喉の乾きを潤そうとコップの水を一口飲み…驚きにコップを二度見する。美味い。別にレモンとかなんとかが入っているわけではなく、純粋に水として美味い。そして何より、コップが清潔だ。
こう言ってはなんだが、オシャレという言葉と程遠い店に対しては、元々期待値が低いものだ。コバエさえ止まるのをためらうような手垢水垢まみれのコップ。小学校の掃除用のバケツの臭いを彷彿とさせる水。丼に手を添えただけで南海トラフ地震が来たかと錯覚するほどガタつくテーブル…しかしこの店にはそれがない。なんならまず水をお代わりしたい。

なぜ肉野菜炒めを注文したか。なんのことはない、お勧めされたからだ。しかし、肉野菜炒めは肉野菜炒め。特別な料理とは呼べない。店によっては、これなら俺が自分で作るのと大差ないな、と思うこともままある。
この店のもそうだ。一口食べて、淡い失望が空っぽの腹に響く。いや、いいのだ、別に高級中華屋に来たわけではないのだから…パクパク…そういうのをご所望ならそういう店に行けばいいだけで…パクパク…文句を言うのはそれこそ筋違いというもので…パクパク…そうそう美味けりゃ別に何だって…ん?…パクパク…
止まらない。箸が止まらない。なぜだ。特別なところなど何もなさそうなのに。なぜだ。
これが年季か。これがプロの技なのか。

夢中になって食い進めていると、妙齢の女が一人来店した。目の覚めるような美人だ。注文に慣れた様子からして初見の客ではなさそうだ。掃き溜めに鶴、という言葉が頭の中でひらひらと舞う。あまりに不似合いな店と客…そう、店も人も見た目ではない。美味ければ誰でも、何度でも足を運ぶ。それはこの絶望の底に沈んだ世界のひそやかな希望。そうではないだろうか?

さらにもう一人、男が来店。すぐに店長と気軽に言葉を交わす。明らかに常連だ。注文は肉野菜炒め。いるぞ。おまえと同じ注文をした男がここにもいるぞ。俺は心の中で密かに快哉を叫ぶ。この絶望に沈んだ世界では、その心の声が男に届くことはない。

帰り際に降り出した雨を心配して、「自転車? もうちょっと中で休んでったら?」と親父が声をかけてくれる。
これぞ下町。心温まる風情が、この街にはいまだにあるようだ。
だがここは俺も小粋に返したい。
「なあに、本格的に降り出す前に、一息に帰るさ。俺の帰りを待っている者もいるからな」
そんな者がいただろうか、と思わず浮かんできた疑問を脇に置き、愛車にまたがると、店の親父に別れを告げて颯爽と出発する。
そして道半ばにも達しないうちにずぶ濡れになった。

家が近かったら常連となっていたかもしれない店が、また一つ増えた。

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