への字カフェ製造所





こちらで紹介されていた、津田島「への字カフェ製造所」で昼飯を食った。

ずっと気になっているのに、なぜか行けていない店。そういう店は誰にでもあるだろう。俺にとってはこの店がその一つだ。
我が人生も下半期の半ばを過ぎた。若き日の望み。叶えていない夢。この世に別れを告げれば、それらを実現する日は永遠に訪れなくなる。そこで最近俺は、死ぬまでに実現させたいことのリストを作り、端から次々実現させている。
まず幼少期からの夢、ボンレスハム並みの太さの魚肉ソーセージをむさぼり食うこと。1/4も食わずに飽きた。
次に、箱アイスを抱えて一気にむさぼり食うこと。1/3ほど食ったところで命の危険を感じてやめた。
ホールケーキを思うさまむさぼり食うこと。5号サイズを半分食ったところで、なぜか世の無常を感じてやめた。
この店に行くこと、はリストの4番目であった。

津田島いもげや正面の小道を入り、さらに右に折れる。住宅地に埋もれるようにして、その店はあった。

ドアを開けた途端、思わず「うっ」とうめいて後ずさった。
左手にテーブル席が2つ、右手の座敷にもテーブルが2つのこじんまりした店内には、乳幼児連れの母親たちがひしめいていたのだ。その喧騒。その空気。名前を呼ばれた綾波レイの複製たちのように一斉に振り向いた無数の顔。とてもではないが、12浪して今は無職ですアハハみたいな顔をした貧相な亜老人がウェルカムされる雰囲気ではない。
回れ右して帰りかけた俺の脳裏に、読みかけの『アンネの日記』の場面場面が甦り、俺を勇気づける。そうだ、アンネはもっとつらかった。アンネは挫けなかった。俺がこんなことでへこたれてどうする。アンネがんばれ。俺がんばれ。

奥のテーブルが空いているのをめざとく見つけていた俺は、席へと殺到しかけて店の女に止められた。
「そちらの席、12時半から予約が入ってるんですよー。ごゆっくりできませんが大丈夫ですか?料理はすぐお出しできますが」
俺は時計を見た。あと30分か。いける。いや、いく。
俺が頷くと、女は高難度ミッションを与えられた兵士のような顔で頷き返してきた。

どうやらこの店、メインメニューは1300円の日替わりセット2種のみだ。俺が選んだのはスペアリブの沖縄風煮込み。しかし同じメニューが次いつ出てくるのかは定かでない。

注文を受けた女がキッチンカウンターの向こうに駆け込むのを見届けると、席について店内をすばやく見回した。カウンターの向こうの、うちのようなキッチンスペース。うちにあるような冷蔵庫。うちにあるような炊飯器。笑いさざめく大量の母親たちの方はあえて見ない。

俺はバッグからアンネを取り出した。読書は心の糧。与え続けなければ、心は夏休み終わりの小学生の朝顔のように干からびる。さあ、書物よ、今日は俺にどんな世界を見せてくれるのか。俺はおもむろにページをひら
「お待たせ致しましたー!」
全然お待たせされてないぞ。心が飢えるだろ。

四角い皿を斜めに配膳するのは、前に日村のオシャレッティな店でも見た。密かな流行りだろうか。

ごろっと存在感のあるスペアリブ。一口噛んで、思わず骨ごと取り落としそうになる。美味い。やわい。肉の繊維がホロホロと口の中でほどける。じゅわっと溢れる肉汁。噛めば噛むほど味が染み出す。ああ、生きててよかった。そんな言葉が大仰でなく心の奥から湧き上がる。
付け合わせがまた美味い。肉と一緒に煮込まれたとおぼしきゆで卵は、黄身の芯までタレが染みている。ポテトサラダと春雨サラダも、しっかり存在を主張しつつも主役を立てている。定食の鑑とも呼ぶべきバランスだ。

さらに感じ入ったのが、写真を撮り損ねた汁物。飲めば満たされた気持ちになる、あたたかい味付けもさることながら、小松菜の根っこが入っているのがいい。今年に入って初めて、根菜の根が食える、それどころか最高に美味い部位であることを俺は知った。特にほうれん草だ。もし過去に戻って5分だけ自分に助言していいと神に機会を与えられたら、若き日の俺に迷わず言いたい。ほうれん草の茎を捨てるな、食え、そして味わえ、と。今まで捨ててきた膨大な量の美味を思って悪夢にうなされる……そんな思いはもう誰にもさせたくない。させたくないんだっ!

……などとアツく語る自分を妄想しながら、俺は満足して箸を置いた。来店から20分。予約客に俺の存在すら気取らせない早業だった。

俺はこの高難度ミッションの相棒、店の女とすばやく視線を交わした。
「また来るさ……次は食後のかき氷ももらおう」
「お待ちしておりますー」

かくして、俺が死ぬまでに実現させたいことリストは空になった。思い残しも、食べ残しもない。これでいつでもいける。いつでも食べられる。


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