TEN



 
 

津田島「TEN」でパスタを食った。

風さえも生き急ぐ街、津田島。
紡木川を吹き渡る寒風に背を押され、忙しなく人々が行き交う年の瀬の駅前を通り過ぎる。商店街を抜けた先に、その店はあった。

外の寒さが嘘のような、どこか荘厳ささえ感じる落ち着いた店内。バーのマスターのような風貌の店の男がカウンター内から微笑みかけてくる。他に客はいなかったが、俺はテーブル席を断り、あえて男の前に座る。
男の淀みない説明を受けて注文したのは、本日のパスタセット、1400円。2種類のパスタから「ズワイガニと白菜、青のりのペペロンチーノ」を選ぶ。この店には何度か来ているが、同じパスタを今まで一度も見たことがない。追加でグラスワインも頼む。
パスタを大盛りにしますか、と聞かれ、反射的に「いや、普通で」と答える。その直後、メニュー下端の文言が目に入り「やっぱり大盛りで」と厨房に引っ込んだ男に声をあげて訂正する。久々で忘れていた。パスタ1.3倍無料。これで大盛りにしない理由は、俺にはない。

この店に来たらワインは必須だ。大ぶりのグラスに注がれた赤い液体の香りを、まずは楽しむ。そっと口に含む。鼻腔を抜ける余韻。「92年のコレジオーネ、か」俺はワインボトルのラベルを読み上げ、知っていたかのような顔でうなずく。

店の静寂とワインの暗紅色が、俺を感傷へと誘う。今年も多くの友が人生の荒波に飲まれ、かつての輝きを失っていった。
牛乳を買ってきてと妻に頼まれたが、誤って豆乳を買ってきて以来、妻のみならず5歳の娘まで憐れむような目を向けてくる気がする岡田。
義父の葬儀で焼香の仕方が分からず、口に入れたために棺の前で嘔吐してしまい、それ以来義実家に行きづらい久保。
急な腹痛で病院に駆け込んだはいいがうっかり産婦人科に行ってしまい、受付で慎重な対応をされた橋本。
そして伝説の男、吉田。やつに関する思い出は特にない。

店の男がチーズフォンデュを持ってきて、俺は感傷から連れ戻される。ワインとチーズ。その好相性は言うまでもない。チーズを絡めたパンや野菜を串で丁寧に口に運んでは、ワインを一口。この価格で、この至福。

完璧なタイミングでパスタがやってくる。一口食べて思わず目を見開く。なんといううまさだ…。塩加減の絶妙さ。白菜とカニのコントラスト。それらをふわりと包む青のりの香り。この店は肉料理もオーブン料理も美味いが、パスタのうまさはここらでは群を抜いている。
幸福のあまり思わず天を仰ぐ。そう、俺にもいずれ輝きを失う時が来る。しかし美味いものさえあれば、俺は何度でも輝きを取り戻せる。

店を出る。もはや寒さなど気にならない。来年もまた、俺の旅は続くのだ。

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