H師物語



 夕日は水平線に沈みながらまぶしいほどの光を投げかけ、世界を真っ赤に染めあげていた。たそがれ色の空に浮かぶきれぎれの雲。聞こえるものは海鳥たちの鳴き声と、眼下の浜にうち寄せるさざ波のささやきだけ。今日という日は穏やかに終わろうと していた。
 H師は手すりにひじをあずけてこの風景を眺めていた。すぐ隣には助手のSが立っている。彼女の長い髪は風に吹かれるたび、H師の腕に軽く触れていった。静かな海沿いのペンションにはまるで二人しかいないかのようだ。SはH師の肩にそっと寄りかかってきた。
「きれいね」
 Sはいった。揺れる水面に反射した陽光が、彼女の顔を優しく照らしていた。
「何が?」
 Hはわざととぼけてみせる。
「こんな景色は都会じゃ見られないもの。ほら、夕日があんなにきれい」
「…そうだね」
 H師は彼女に向かって微笑んだ。
「ほんとうに…

長い波長というものは
視神経を活発に刺激するものなんだね」

 Sはこっくりうなずいた。
波動としてのエネルギーは低いはずなのに。…そう考えると不思議だわ」
あの太陽だってあと五十億年もすれば膨張した末に、自分の重力におし潰されてなくなってしまうんだよ」
「ええ…そのときにはこれまでにないほど大量の放射線が放出されることでしょうね。新しい観測機械を用意しなければならないかしら」
楽しみだね。観測史上最大の値が得られるだろう。膨大な量のX線が地球の大気と摩擦することによって、両極以外の場所でもオーロラが出現するこ とも考えられるね。…地球はオーロラに包まれて死んでいくのかもしれない」
「まあ。あなたって詩人なのね」
 笑いかけてきたSに、H師は真面目に答えた。
「違うよ。ぼくは…

物理学者さ」

 太陽はとっくに沈んでいた。二人の会話はいつ果てるともなく続いた。

終。


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