物語中の出来事を時系列で並べ、全体を考察してみる。
まず、すべての始まりである起点の罪(scene 1)。マシルト・クリムがベクター宅に強盗に押し入り、証拠隠滅のために放火。火事によりクロムを残してベクター一家は全員死亡し、クロムの額には火傷の跡が残った。マシルトはその後逮捕される。
マシルトが殺害されたとき56歳だったこと(scene 9)、服役期間が約20年であること(scene 1)、出所後に生まれたカナリアがマシルト死亡時に6歳だったこと(scene 9)から、このときマシルトは29歳以下。まだ若く、子供もすでに3人いたことから、生活苦による犯行だったのだろうか。
マシルトの逮捕により、クリム家は周囲から数々の嫌がらせを受けて数十回転居を繰り返す。長男は精神を病み、長女は生活費を稼ぐために麻薬に手を出し逮捕もされている。
事件から約20年後、マシルト出所。ただしこの20年という数字は供述ビデオ(scene 1)に出てくるだけで、撮影の後すぐ釈放されたとも限らない。実はさらに10年以上服役していたかもしれないが、最初の事件が20年以上前に起こっていたとしても物語の他の要素には影響しない。クロム・ベクターが事件当時すでに生まれており、放火事件をはっきり記憶するくらいには物心がついていれば齟齬は生じないので、とりあえず20年としておく。
マシルトの出所からしばらく後、B.D.誕生(scene 0)。PC版にはなかったこのシーンの追加によって、赤いシルエットの女と帽子の男の関係、赤いシルエットの女がB.D.の実の母親であること、が示されるようになった。二人が住んでいたのであろう家、その外にいる幼いB.D.を抱いた赤いシルエットの女と帽子の男、とくれば帽子の男と赤いシルエットの女が夫婦かそれに近い関係であり、B.D.が二人の実子であると考えるのが自然。また会話の内容から、二人ともゼブル計画に積極的に関わっていたことも察しがつく。
B.D.の年齢は不明だが、マシルト死亡から間もない頃にはまだ小さな子供だった(scene 35、猫が殺された時期)ことと、マシルト死亡時にカナリア・クリムが6歳(scene 6)、つまり出所から死亡までに最低7年は経過していることから、B.D.が生まれたのはマシルトの出所とほぼ同時期と推測できる。おそらくB.D.とカナリアとはほぼ同い年ではなかったか。
帽子の男ことクロム・ベクターは自分だけが生き残った強盗放火事件のことを忘れられずにいる(scene 3)。それどころか自分がB.D.であることが露見しないか、また自分も犯罪を犯すのではないか、と常に怯えている。そのため自室の窓は常に閉ざしたままで、B.D.への対応策である『罪の遺産』執筆のための調査やゼブル計画実現のため、家を空けていることが多い。
犯罪の増加とそれに対する国民の苛立ちや不安の高まりはscene 9のニュース記事への投稿に表れている。犯罪に関わった者もまた犯罪者になりやすい、という考え方はすでにこの国には広まっていたようで、その発想を根拠のないものとするために『罪の遺産』には「犯罪者の家族による犯罪発生率はゼロ」と極端なことまで書かれたが、国民はかえって猜疑心を抱く。
ベクターが『罪の遺産』の著者であることは市場のおじさんをはじめ近隣住民には知られており(scene 15、先生と呼ばれている)、娘のB.D.もよく行く図書館で「『罪の遺産』に書かれていることは本当か」と聞かれている(scene 9)。
そんな状況下で自らがB.D.であると知られることは、やはりリスクがあっただろう。人目を気にして自室の窓をずっと閉め切っていたことや、『罪の遺産』編集チームがベクターの過去に気づいていなかったこと(scene 57)から考えても、ベクターはマシルト殺害前から、過去の事件の傷跡を隠していたのではないだろうか。窓を閉めた部屋にだけ彼の帽子が置かれていたということは、事件前から帽子もかぶりっぱなしで額の傷を隠していたのかもしれない。彼の恐怖が相当に深かったことは確かである。
ベクターが仕事にのめりこんでいるため、一人娘のB.D.はほとんどの時間をひとりぼっちで過ごさなければならなかった。B.D.がごく小さい頃は、彼女の母親である赤いシルエットの女も一緒の家で生活しており、天気のいい日は庭で食事もしていた(scene 22、家族「みんなで」という表現から)。が、B.D.が物心つくかつかないかという頃に母親は家を出てゼブルに向かい、それきり帰っていない。B.D.に関する自らの仕事を早く先に進めたかったのだろう(scene 0、「その「いつか」を待ってはいられない」)。一人きりのB.D.は母親がもう戻ることはないと理解しつつも、母親が去ったバス亭に毎日通い続ける(scene 4)。
母親が不在になってからは、市場への買い物から父親と二人分の食事の用意までB.D.が一人でやっていたが、当時6、7歳ほどであったろうB.D.のその姿は人々の同情を誘ったのだろう。市場のおじさんなどは決まってりんごを1つおまけしている(scene 15)。
友達もおらず、いつも物置からガラクタを持ち出しては、廃屋で一人で遊んでいた(scene 11、13)。父ベクターは部屋の窓を閉め切っているくらいだから、近所に対しても社交的とはいえない態度だっただろう。B.D.に友達ができなかったのは彼女の性格のほかに、そういう理由もあったかもしれない。一人ぼっちを寂しく感じていたB.D.は庭にいつもいた猫(scene 7)に興味を持つが、猫もまったく懐こうとしない。それでも彼女はその猫を見ているだけで、いくらかでも寂しさを紛らわせていたようだ。
ベクターはそんな娘にいつも申し訳なく思っているが、胸を張って娘を迎えられる状況を作るため(scene 0)、いつか娘が理解してくれると信じて仕事中心の生活を続ける(scene 18)。娘が普通の家庭生活に憧れ、市場への帰り道にある店のショーウィンドウ越しにマネキンの家族をずっと眺めていたこと(scene 19)を、彼は知らなかった。
そんなある日、初老の男ことベクターの上司がベクター宅を訪ねてくる(scene 22)。彼は調査報告書を持参したのだが、ついでにゼブル計画に対する疑問、若干の反感を見せる。ゼブル計画関係者をベクターも含め「我々」と呼んでいるにも関わらず、「きみにはきみの、我々には我々のやり方がある」とベクターを突き放している。そして犯罪者マシルトに関する最後の調査資料をベクターに手渡して去る。上司はこのとき、マシルトとベクターの関係にまだ気づいておらず、後にその不手際を指摘されている(scene 56)。
この最後の報告書にはマシルトの出所について書かれており、ベクターはそれを知って苦悩する。父親のそんな姿を見て、母親に続きまた大切な人が去ってしまう、という悪い予感をB.D.は抱く。
復讐心に抗えなかったのか、ベクターはある夜クリム家に押し入り就寝中の一家を刺殺する。しかし当時6歳のカナリアだけは、額の火傷の跡を見られたにも関わらず殺すことができず、それどころか傷一つ負わせることなく逃走した。カナリアに一人娘の姿を重ねてしまったのだろう。
カナリアは家族を殺されたショックで一時意識を失っていたが、回復すると犯人の特徴をうわごとのように口にし始めた。そのニュースを、一人きりの夜にB.D.はテレビで見ている。
ベクターは自分が早々に捕まることを覚悟し、娘に早めの誕生日プレゼントを残して家を出た。もう娘と会えないだろうと考え、今の娘には大きすぎる帽子を買っている。このことはマネキンの家族の記憶と重ねて述懐されている(scene 21)。
B.D.が帰宅したときにはすでにベクターは去っており、父の書き置きに不安を覚える。父親からの最後のプレゼントとなったその麦わら帽子を、その後B.D.はずっと大切にし続ける。
早朝、門の前で記者たちの質問とフラッシュを浴びて、B.D.は父の犯罪をはっきりと知る(scene 30)。一方被害者であるクリム一家はこの時点でも周囲から浮いた存在だったようで、葬儀では誰一人泣いていなかった。運ばれていくいくつもの棺桶を、B.D.は現実感のないもののように見送る(scene 31)。
近隣住民がB.D.に向ける目は冷たく、家の壁には「人殺し」と落書きされ、彼女が親しみを抱いていた猫は嫌がらせとして殺される(scene 32、33、「贖罪」というサブタイトルから猫は近所の住民に殺されたのだろう)。彼女を責める言葉はやがて彼女の自責へと変わり、幼くして自殺を図るほど追い詰められる(scene 34)。
そんな中でもB.D.はゼブルに向かうバス亭に毎日通い続けていたが、あるひどい雨の日、ゼブルからやってきた赤いシルエットの女が彼女に「ただいま」と声をかける(scene 36)。その女はB.D.の実の母親であり、長い年月離ればなれだったにも関わらず、B.D.はすぐに母と認めている。母親は三日月の寓話とゼブル建設の目的についてB.D.に話して聞かせ(scene 38)、ゼブルに移住し記憶を削除される代わりに父ベクターの刑を軽くするという契約書に調印させる(scene 40)。おそらく母親は、「B.D.」となってしまった娘を救うにはゼブルに連れていくしかない、と判断したのだろう。しかし契約書の内容は不当な取引であり、「犯罪者家族による犯罪発生という仮定を、被験者の同意のもとに検証している(scene 56)」という主張の裏にこうした悪辣なやり口があったことを示唆している。
母はすでにそうした組織の強引な手口に不信感を抱いていたかもしれない(契約書を前にした娘に何も言っていない)が、幼いB.D.には「記憶を削除される」ということすらはっきり理解できていなかったかもしれない。彼女に見えていたのは父親の減刑という言葉だけだっただろう。
B.D.の求めに応じて、母はクリム一家の墓へ彼女を連れていく(scene 42)。ゼブルに永住するB.D.にとって、それが最初で最後の被害者の墓参りだった。母は娘の自責の念を見てとり、ゼブルの家に落ち着くと、もう誰もあなたを責めることはない、と言い聞かせる(scene 44)。娘が憐れでならなかったのだろう、B.D.から見た母親はいつも寂しそうな目をしていた。
クリム一家の葬儀が冬(scene 31)、墓参りが夏(scene 41)だったことから、ゼブルへの移住はベクターの犯罪から半年ほど経った頃と思われる。B.D.が嫌がらせを受けながら同じ場所に住み続けるのは困難であっただろうから、1年以上経っているとは思えない。
ゼブルには赤いレンガの門があり、その脇にはそこから先がゼブル領域外であることを明記したバリケードがあった(scene 46)。住民たちは街の外に出れば殺されると思い込んでおり、その怯えはB.D.にも伝わる。やはり記憶の操作をされているのか、住人はふらふらと落ち着きがない。
ゼブルの家には母が入ってはいけないという部屋があり、そこには隠すように置かれた材木と、母親の日記が置かれていた(scene 48)。日記の内容から、ラッサ材を用いた記憶の削除手法は母親が研究していたものと思われるが、幼いB.D.にはそこに書かれたことが理解できない。日記を読んでいる最中に母親が部屋に入ってきて、もうこの部屋には入らないようにと念を押す。
それだけでなく、いつも甘い味付けの食事(scene 50)とその言い訳や、キッチンで一度だけ見かけた蟻のたかるパウダー(scene 52)など、母親が何かを隠しているとB.D.ははっきり感じるようになる。
一方で、母親はそれまで父と二人暮らしだったB.D.が着たことのないような服を与え(scene 54)、化粧の仕方も教えてあげると言う。母にとっては失われた娘との時間を取り戻しているようで嬉しかったのだろうが、B.D.はそうしたことを喜びつつも、自分の生活を母親の人形めいたものに感じている。
そうした母親への不信感からか、ゼブルを出ていこうとしたB.D.に、母は契約の内容を思い出させる(scene 55)。記憶を失っていく娘に、それでも忘れてほしくなかったのは自分たちが両親であるという事実だったか、それとも彼女が望まれて生まれてきたという、自責や記憶が消えることへの不安を和らげてくれる考え方だったのか。いずれにしても、B.D.は何と言われたかを忘れてしまっている。
ある日、B.D.は入室を禁じられた書庫に足を踏み入れ、書物に記された父親の仕事と、父とマシルトとの関係、「B.D.」という考え方について知ってしまう。『罪の遺産』を読んだのも、「マシルト・クリムの供述」のビデオを観たのもその部屋かもしれない。『罪の遺産』の執筆さえしなければ、父がマシルトの出所を知ることもなかった。それに今では彼女自身が「B.D.」と呼ばれる人間になっている――。記憶を失った彼女が自らをB.D.と呼んだことからも、そこで知ったことがどれほど彼女に衝撃を与えたかが分かる。
まだ父親のことをはっきり憶えていたということは、書庫での出来事はゼブルに移住してからそれほど年月が経っていない頃だろう。
また書庫にある「ベクターに関する報告書」にはマシルトがベクターの家族を殺したのが20年前となっており、他の情報と食い違う(27年以上前)が、これはこの報告書において「いつ事件があったか」の正確な日付は重要な情報ではないため、おおよその数字を挙げただけだと思われる。
そして月日は流れ、B.D.は暖炉のある部屋での一日の終わり、母親との会話の時間を居心地よく感じるようになっていた(scene 58)。そこはラジオの電波の届きにくい部屋だったが、記憶を消されるべきB.D.が外の情報を得ることを抑えるための環境だったのだろう。その部屋の帽子かけには古びた麦わら帽子がかけてあったが、母に捨てろと言われても、B.D.は捨てられなかった。それが大切なものだからという漠然としたこと以外、すでに彼女は帽子のことも、おそらく父親のこともほぼ忘れている。ゼブル移住から数年は経っていると思われる
そんなある夜、B.D.は脱獄囚がゼブル近辺に潜伏しているというニュースをラジオで聞く。母親に気にするなと言われ、不安ながらもB.D.は自室に戻ってベッドに横になるが、夢の中で懐かしい声を聞いた気がして夜中に目を覚ます。床には血だまりと、血のついていないナイフ(scene 60、64)。自分の服にも血がついていた。ラジオのニュースを思い出し、犯人が家の中にいるかもしれないと思ったB.D.は、ナイフを手に取って廊下へ飛び出す。
廊下にも血の跡があり、壁には犯人のものらしい血の手形がついていた(scene 62)。犯人は怪我をしているのかもしれない。
突き当たりの部屋のドアノブに血がついているのを見て、B.D.は意を決してその部屋に入る。そして部屋の奥に誰かがいると気づいて、思わずナイフを取り落とす。しかし同時にそれが知っている人に思えて近くまで寄っていく。顔を見て彼女が発した言葉は「父さん?」だった。
そこへ入ってきた母親に部屋に戻っているよう厳しく言われ、いったん部屋の外へ出る。家の外からはパトカーのサイレンが聞こえ、父が追われ追い詰められていることをはっきりと悟る。この時点で、一度消えた記憶は戻りかけていただろう。
ドアの前で、B.D.は中の会話を聞く。父が脱獄の際に撃たれたこと。罪の遺伝を自ら断ち切るために娘を殺しに来たが、果たせなかったこと。ずっと自身も犯罪者になることを恐れていたベクターにとって、それが現実となった今、愛する娘も将来犯罪を犯すであろうことが自分の中で決定的となってしまい、その意識に耐えられなかったのだろう。娘に罪を犯させるくらいなら自分の手で、という考えは彼の経歴から考えて不自然ではない。
我々が娘に残してやれるものは(last scene)。その父の言葉が指すのはゼブルでの生活であり、記憶を削除された後に待っている、犯罪とは無縁の生活のことだろう。
何も知らなければ、両親が自分のために用意してくれた人生を送ることもできただろう。しかしすべてを知ってしまったB.D.は、母に聞いた太陽にも星にもなれるかもしれない三日月の話を思い出す。家の前でブレーキ音と車のドアが閉まる音。時間がないと知ったB.D.は再び部屋に入った。母の制止を振り切って父の元に駆け寄る。彼女が欲しかったのはどんなものであれ両親が「残して」くれるものではない。ずっと望んでいたのは当たり前の家族の生活であり、両親との日々の暮らしだった。それを伝えれば太陽や星に、彼女のなりたいものになれるかもしれない、その最後のチャンス。
それを奪ったのは銃声だった。続いてガラスを割り歩いてくる足音。
発砲し家に入ってきたのは両親の上司だった。彼は脱獄囚ベクターを迷わず射殺したが、そのB.D.である娘をもついでに殺すつもりだった(まだ息がある、という表現から狙ったのは明らか)。彼はベクターを犯罪に走らせた責任を問われていて(scene 57)ベクターを忌々しく思っていただろうし、同時にベクターが進めていたゼブル計画へも不信感を持っている(scene 22)。世間の風潮からも(scene 9)、「所詮B.D.はB.D.」という彼自身の台詞からも、犯罪者もそうなる可能性のある者も殺してしまえばよい、という考えを持っていて不思議はない。
上司は母親に、娘のとどめを刺すことが「親の責任だろう」と冷たい言葉をかける。夫を射殺され、娘も殺されかけ、B.D.を人ではないもののような口ぶりでけなす上司に対して殺意を抱いた母親は、彼に銃を向けて無言で引き金を引く。
『罪の遺産』の発想は、犯罪者の家族への非人道的な扱いを減らすことが、二次的な犯罪の抑止に繋がるというものだった。上司のような無理解な人間がいなくなりさえすれば、B.D.への対処はそれだけで十分だったかもしれない。
撃たれた物理的ショックと、父親を永遠に失った精神的ショックによりB.D.は一時的な失明に陥り、戻りかけていた記憶も再び閉ざされてしまう。母親はそんな娘を連れて逃げるが、多額の賞金をその首にかけられてしまう。犯罪者の家族の記憶を消して新たな記憶を植えつける、という倫理的に問題のあるゼブル計画そのものがいまだ秘密とされているのに、強引な手口で犯罪者の家族を実験に「協力」させていた事実(scene 40)が知れれば、ゼブル計画を進めていた委員会やゼブル建設を進めた国に対して猛烈な抗議運動が起こるだろう。内情を知る母親に賞金がかけられたのも当然といえる。
もう記憶の削除や偽りの生活を続けなくて済む以上、心情的にも逃走を続ける上でも、娘には記憶を取り戻させたほうがいい。しかしお尋ね者である以上、まともな医者に診てもらうことはできない。最後の事件から1年と3ヶ月が過ぎた頃、危険を承知でB.D.を幼少期を過ごした土地に連れてきたのは記憶が戻るきっかけを求めてのことだろう。
しかし思い出したくない記憶ばかりのB.D.は、幼い頃憧れたTVドラマの主人公、精神科医シアンの人格を作り、崩壊しかけた彼女自身の人格を保護しようとした。
ドラマのある回をなぞるように、シアンと電話で会話し記憶を取り戻していくB.D.。それは彼女自身に記憶を取り戻したいという欲求もあったことを示している。母親の協力を得てすべての記憶と視力を取り戻したB.D.は、母に問われて迷わず逃げる道を選ぶ。
その返事が生き生きとしていたのは、父を亡くした今、逃げることだけが残された家族と共に過ごせる唯一の道であり、そしてその道を今度こそ自ら選択できるという喜びからだったのかもしれない。