第1話:港にて



 荒れる海を眺めるのが、彼は好きだった。
 コートをはためかせる風、そのたたきつけるような冷たさ、その匂い。前に一歩踏み出せば黒々とした海に落ち込んでしまう、桟橋の突端。
 空洞寺権助はまっすぐ前を見つめた。
 水平線が見える。天と地とを分け隔てる境界、たどりつくことのない世界の果て。木切れのように見えるのは漁船のマストだろう。波と風とにいいようにあおられるそれはあまりに弱くもろく、生きている人間がそこに乗っているとはとても思えない。彼らは何ゆえに海に乗り出したのか? 空洞寺にはわからない。
 思えば彼自身も似たようなものだ。探偵という職業は人の海に乗り出す小舟である。人を見、人を探り、人を暴く。その作業ははたして必要なものか? 否、である。知らずに済ますことができることを、人は知りたがる。そうせざるを得ない。それが人間というものだと、彼は思っている。
 突風。向きを変えて襲ってくる風。空洞寺は海を見続ける。
 気配があった。振り返る前に、空洞寺はつい、推理してみる。
 あえて彼の背後に立つ人間はそうはいない。ましてやこの風である。用もなくこんな場所にくるものはいないだろう。声をかけてこないのは、空洞寺が振り返るのを待っているからだ。彼の知る限り、そのように行動する人間は3人しかいない。そのうち1人は日本にいない。もう1人はこの世にいない。
「どうした、恵くん」
 呼びかけながら、空洞寺は後ろを向いた。小柄な女性が立っていた。無造作に束ねた長い髪、かたく引き結んだ口、涼しげな目。表情はかたく、感情は表に現れていない。空洞寺の秘書兼パートナー、恵・ホワイトに相違なかった。
「ボス……」
 彼女は何か言いかけて、ふいに口をつぐんだ。恵がいいよどむことなど滅多にない。
「ああ」
 空洞寺は背中に迫る荒波を感じながら待った。恵・ホワイトが感情的になるとすれば今しかない、そんな考えが頭をかすめた。ここには人を落ち着かせるものは何もない。普段は隠されているものが、むりやりに外にひきずり出される、そんな力のみが、ここにはある。空洞寺は静かにそのときを待った。
 恵は開きかけた口を閉じ、そしてまた開いた。
「ボス……、鼻水が出てますよ
 彼女は表情一つ変えない。憎い女だ、と空洞寺は思った。
「寒いのならはやく戻ればいいんです。子どもじゃあるまいし」
「ああ…私も引っ込みがつかなくて困っていたんだ」
「何に対しての引っ込みです?」
「自分に対して。それに……」
 空洞寺は少し間をおいた。
「世界に対して」
「意味がわかりません。そんな暇があるなら仕事をしてください。風邪をひいても医者にかかるお金はありませんから」
「そうだな。ああ、たしかにそうだ」
 空洞寺は肩越しに振り返った。泡立つ海、吹きつける風。ああ、これ以上ここにいたらくしゃみが出そうだ。
 彼は恵に向かい、優しく言った。
「恵くん……寒いからそろそろ帰ろうか」
 答えもせず、彼女はくるりと回れ右をした。そしてすたすたと歩きだした。
 空洞寺はその背を見つめ、ふっと笑った。それから急いであとを追った。

続く


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