第4話 連続無差別殺人事件



 男は三角布とエプロンを身につけ、手にはモップを持ち、ぶすっとした顔で床を拭いていた。安安藤(やすあんどう)刑事はそれを見つけて、暗い廊下を走っていった。
「銀俵(ぎんだわら)さん! 銀俵さん探しましたよ」
 エプロン男はむっとした顔で振り向いた。
「なんだ安安藤か。相変わらず騒々しいやつだな。廊下は走ってはいかん」
「そんなの誰が決めたんですか」
「小学校のとき習っただろう」
「ああ……あのころのことはすべて忘れましたよ」
「急に暗くなるな。……それよりいったい何しにきた」
「銀俵さんこそこんなところで何してるんですか」
「これを見てわからんか? 推理してみろ」
「エプロンに三角巾、手にはモップ……そうか掃除ですね」
「ちがう、仮装大賞に出るためのトレーニングだ」
「ああ、それなら私も出たことがあります」
「仮装大賞にか? 何の仮装をしたんだ?」
「扇風機」
「まんまじゃないか」
「どういう意味です。……しかし汚いアパートですねえ」
 廊下は日が差さないためじめじめしていて、天井にはクモが巣をはっている。銀俵がモップをかけた床は水が乾かないためにぐっしょりしている。
 何が棲んでいてもおかしくなさそうな建物である。
「なぜこんなところで掃除を?」
「仮装大賞だというのに」
「停職処分を食らってバイトをしているんだろうと、御槌(みづち)警部が」
「知ってるなら聞くな。いったい何しに来た」
「そうだった。これを見て下さい」
 安安藤はふところから身の丈ほどもあるファイルブックを取り出した。
「そのファイル、見るたびに大きくなるな」
「犯罪は増加の一途をたどっているもので」
「そんなものを私に見せてどうするんだ。今の私はただの掃除人……ふっ、人生とは不合理なものだ」
「いえね、どうしても解決できない事件があるんですよ。御鎚警部もお手上げでして」
「なに御鎚がか。あいつが無能なのはいまに始まったことじゃないが……そうか、やはり私がいないとだめらしいな」
「ええ、ワラをもつかむ気持ちでここまでやってまいりました」
「妙に気になるセリフだな。で、事件とは?」
 安安藤は声をひそめた。
「『吾郷里(あごうり)連続殺人事件』……といえばわかりますよね」
「わからん」
「……新聞、読んでないんですか?」
「あんなものは社会の敵だ。嘘と理屈とごまかしだけでできたクズだ。恐れいるがいい」
「なんだかずいぶん嫌ってますね」
「私もいろいろ書き立てられた」
「……まあようするに、吾郷里で起きた連続殺人事件です」
「わかりやすい解説だな」
「この1ヶ月で被害者は5人。いずれも殺害方法が一致しているほかは相互関係はまったくありません」
「そうともかぎるまい。おそらく5人とも人間だ」
「そうでもないです。一人は動物園のサルですから」
「くそっ」
「被害者なんですが、今回はざっと説明しますね。43歳主婦、有園たつえ。26歳会社員、森下新三郎。32歳無職、加納五郎座衛門、66歳美食家、麻呂・ピエール・岡崎、そして4歳サル、タロウ。以上5人です」
「ピエールが犯人だ」
「彼らは被害者ですってば」
「それにしてもバラエティ豊かだな。本当にサルも同一犯の犯行なのか?」
「全員、のどをばっさり十文字に切り裂いてあって、おまけにガソリンで焼かれているんです。おかげで身元の確認が大変でした。殺害状況は外部に漏らしていませんから、まず同一犯とみて間違いありません」
「しかしハリワラな話だな」
「なんですそれは」
「針のやまから藁を抜き取るような話だということだ」
「すばらしくわかりにくい造語ですね」
「ほかに手がかりはないのか? 犯人が残していった指紋とか、髪の毛とか、手帳とか、名刺とか……」
「名刺だったらよかったんですが、別のものなら残していってます」
「ほうらやっぱり」
「これです」
 安安藤は胸ポケットから小さなビニール袋を取り出した。中に何か入っている。
「これは……ま、まさかタバコじゃないのか!?」
「驚くほどのことですか?」
「ばかもの。たわけもの。タバコを見れば世界が見える、という言葉を知らんのか」
「大きく出ましたね。誰の言葉です?」
「昨日夢に兄貴が出てきてそう言ったのだ」
「お兄さんがいましたか」
「ああ。だが、20年前に――」
「そうですか……」
「教師になった」
「……でそのタバコなんですが、日本で売っている銘柄ではなく、イタリアでごくわずかしか生産されていないものです。第4の殺人現場でその大きな吸殻が見つかりまして、不審に思った御鎚警部がほかの現場についても調べさせたところ、どの現場からも同じ吸殻のかけらが見つかったんです」
「ガイシャの中にそのタバコを吸うものは?」
「いません。犯人のものであることはまず間違いないですね」
「それで、☆の目星は?」
「いまのところまったく――なにしろどの場合もうまいこと人目を盗んでの犯行でして」
「なるほど……たしかに見当もつかん事件だな。たったそれだけのデータで犯人を特定することなど神業に近い。ましてや私はずっと掃除をしていて、事件のことを知ったのも今が初めてだ。だから犯人がわかってしまった」
「話の流れがめちゃくちゃですね。でももう犯人がわかったんですか?」
「左様。落ち着いて考えるがいい。犯人は自分から犯行を認めているのだ……」

「どうだわかったか」
「もう少し時間をください。3秒は少なすぎます」
「だめだ。待ちくたびれた」
「……」
「事件の唯一の証拠があったな」
「イタリア製のタバコですね。でもそれだけで犯人を特定するなんて……」
「できるのさ。おまえの身近に、そのタバコを所持している者がいるだろう」
「うーん……どうだろう。いたかなあ」
「私だ」
「なんてこった、銀俵・元・警部が犯人だったなんて……」
「その肩書きはよせ。……しかし私にはアリバイがある。ずっとここで掃除をしていた」
「ずっと? まったく外出しなかったわけではないでしょう? 食事とか買い物とか……」
「いやずっとだ。この仕事に就いている間、私はここから出してもらえないのだ」
「囚人みたいな生活をしてるんですね。それで、タバコの由来は?」
「私は以前、イタリアに旅行したことがある……道中、列車の中で親切なお年寄りに会ってな、しばらく話をするうちに、お互いに言葉が通じないことが判明した」
「まさか日本語で話しかけてたんですか?」
「何が悪い。……その老人について列車を降りて、駅前で別れた。5分ほど歩いたところ、道端にタバコが一箱落ちていた。迷わず拾った……」
「老人はまったく関係ないわけですね」
「しかし私はタバコは吸わん。そこで愚か者のうえにヘビースモーカーである御鎚にくれてやったのだ。どうだ、これでやつが犯人だとわかったろう」
「それって何年前の話ですか?」
「ほんの5年前だ」
「無理があるなあ」
「おまえ、ずいぶん常識的な物の見方をするようになったな」
「御鎚さんの教育のおかげですね」
「甘チャン辛チャンなやつめ。その御鎚ではこの事件を解決できなかったということを忘れてはいないか?」
「それは……御鎚さんが犯人だったら当然のことでは……」
「つまりおまえも御鎚が犯人だと感じているわけだ!」
「そうなるかなあ」
「よって御鎚が犯人。いいからさっさと捕まえて来い。やつのことだ、自信過剰のあまり署のデスクにふんぞりかえって過去の犯罪者名簿でも読みあさっているに違いない。例によって大量のタバコを口にくわえながらな」
「リアルな描写ですね。当たっているから怖い」
「やつの行動くらい予想がつく。そうだ、今がチャンスなんだ! 事件解決にとっても、私にとっても!」
「そうですね、とりあえず捕まえてみて、違ったら釈放すればいいんですよね」
「その調子だ。いけ、早く行くんだ安安藤!」
 安安藤が行きかけたそのとき、背後からイタリア系の顔立ちの初老の男がふらふらと現れた。
「おお、ピエールじゃないか。相変わらず顔色が悪いな」
「オオーぎんだわらサン、ゴキゲン、ウルワシ」
「そんなでっかい包丁を持って。またすし屋のバイトか?」
「ソウデース。カッサバキに行くのデース」
「なんでもいいが、仕事が済んだら包丁くらい拭いてきてくれ。こないだは血が垂れて廊下が汚れてボスにさんざん怒られた」
「おっけーデース。今度はチャンとフイテきまーす」
 男は去っていった。
「……今の男は誰です?」
「まだいたのか安安藤。あれはピエールだ。麻呂・ピエール・岡崎。1ヶ月ほど前からここに住んでいる」
「なるほど」
「……」
「……」
「……」
「……あっ!」
「なんだ安安藤。歯医者の予約でも思い出したか?」
「それもありますが……ピエールですよ、麻呂・ピエール・岡崎! 被害者の名前と同じじゃないですか!」
「はっはっは。安安藤、最近面白いことを言うようになったな。ピエールが犯人だとでもいうのか? いつも包丁を持ち歩いているだけの善良な男が?」
「話を聞くだけのことはあると思いますが……」
「よせよせ。事件が起こった時期と彼がここに住み始めた時期が同じで、名前が被害者と同じで、美食家で、66歳で、イタリアのタバコを持ち歩いているからって、事件とは関係ない。他人のそら似だ」
「ちょっと、行ってきます!」
 安安藤は駆け出した。銀俵はすすけた天井を見上げてため息をついた……。

 麻呂・ピエール・岡崎は吾郷里連続殺人事件の容疑者として逮捕された。
 彼は犯行を自供しているという。このところの不景気で職につけず、精神的に追い込まれていたのだと、弁護士は言う。検察側はあくまで責任能力を追及する構え。4番目の犠牲者が果たして誰であったのかは、いまだに不明である。

 安安藤はそのことを銀俵に伝えた。
「やはりな」
 銀俵はそう言ってにやりと笑った。


第5話へ
「銀俵」へ