赤の呪い


 八月ももうじき終わろうかという日曜日の午後、チャイムの音とともにそれはやってきた。
「なんだよ、これ」
 うだるような蒸し暑さの中、大荷物を抱えて三階分の階段を上ってきてくれた配達員に、まずは敬意を表するべきだったかもしれない。だが彼は額の汗をぬぐうとすぐに立ち去ってしまい、その直後にぼくの口から漏れたのは不審のつぶやきだった。なんだよ、これ。
 でん、と不恰好な五重の塔よろしく玄関に積み上げられた、五つのダンボール箱。一番上の箱に貼られた配達伝票によると内容物は「ナマモノ」だそうだ。最初ナマケモノと読んだのは湿度が高いせいで目がかすんだのかもしれないが、差出人の名は読み違えようがなかった。義父、つまり妻の父親の名前なのだ。記入欄に収まりきらない豪快な文字に、なんとなく不安がよぎる。宛名は妻の明子になっていた。
「明子、お義父さんからの届け物だったよ」
 奥の部屋に声をかけると、嬉しそうな返事があって、明子が軽い足取りで出てきた。カッターナイフを持ってきてくれたのはさすが気が利いている。
 箱と一緒に届いた封筒を渡すと、明子は丁寧に封を切ってメモ用紙のような紙切れを取り出した。読んですぐにくすくす笑いだし、紙切れを裏返してぼくに見せる。
「引越しのお祝いに、ですって」
 たしかに鉛筆書きの義父の字で、めいっぱい大きく書いてある。
 学生時代からの付き合いだったぼくと明子は先月末に結婚式を挙げ、それからすぐにそれぞれの一人暮らしをやめて、このアパートに移ってきた。だから引越し祝いというのは、タイミング的にそれほどおかしくない。だが、この時期に五箱のナマモノというのはタイミング的にどうなのだろう。
 明子からナイフを受け取り、一番上の箱のガムテープを切って上部を開いてみた。青い匂いが広がって、つんと鼻を刺激した。姿を現したのはつやつやした真っ赤なトマトである。中くらいのサイズのがざっと二十個ほど、簡単な緩衝材に挟まれてきゅっと詰め込まれている。続いて二箱目を開くと、これまたトマト。三箱目もトマト……要するに全部トマトだった。
 呆然として固まったぼくに、明子がのんびり聞いてきた。
「あれ、純ちゃんトマト嫌いだったっけ?」
「嫌いじゃない。嫌いじゃないけど……二人で食べるには多すぎるだろこれ。それともあれか、どこかのお祭りみたいに、投げて当てっこでもしろってことかな」
「畑の恵みは食べるためにあるのよ。粗末にしちゃいけないわ」
 明子は大真面目に答える。彼女の実家は農家なのだ。
「いや、まあ、投げるのは冗談にしても……食べきれなくて腐らせたら同じじゃないか。ご近所さんにおすそ分けでもするか」
「また居留守を使われちゃうんじゃない? ほら、引越しの挨拶に行ったとき、どっちのお隣さんもチャイム鳴らしても出てこなかったじゃない」
 そうだった。三回も訪ねたのに、そして明らかに部屋にいる気配があるのに出てこなかった、挨拶さえさせてくれない隣人たち。前のアパートでも同じ経験をしている。地方に住む人には信じられないかもしれないが、都内における近所づきあいは今やかくも難しい。
「じゃあ……じゃあ二箱ほどぼくの実家に送るとか」
「私たちがお祝いとしてもらったものを、他の人に送ったりするものじゃないわ。そんなに心配しなくても、これから一週間くらい食事をトマト中心にすれば、これくらい二人で食べ切れるわよ」
「一週間、毎日トマトを食べんの?」
「だってこの量じゃ冷蔵庫にも入りきらないし」
「そんなことしたら、週末には皮膚が赤く染まってるんじゃないか」
「それはミカンでしょ」
 明子はくすくす笑った。一瞬、その笑顔に義父の豪快な笑い顔が重なる。しかしその浅黒くていかつい顔は、色白でほっくりした明子とは似ても似つかない。
 義父がとにかく冗談の好きな男だというのは、今までの数回の顔合わせで十分すぎるほどわかっていた。結婚披露宴での親戚縁者の苦笑っぷりなどは特に記憶に新しい(明子だけはくすくす笑いっぱなしだったけど)。だからぼくには、このトマトの山も義父の悪ふざけとしか思えないのだが、「食べ物を粗末にすべからず」と小さい頃から叩き込まれてきた明子はぼくが何を言っても目を覚ましてくれない。
 その結果、この日の夕飯はさっそくトマトづくしとなった。トマトソースのスパゲッティにトマトサラダ、そして焼きトマトが小さなテーブルに並べられ、その赤を基調にしたメニューのおかげで、狭いダイニングキッチンが不釣合いなほど華やかになった。
「トマト料理のレパートリー、もう使い果たしちゃったわ。でもちゃんと勉強しておくから、心配しないでね」
 そう言いながら淡々とトマトスライスをほおばる明子。有言実行は明子のモットーだし、彼女の数ある美徳の一つだとは思う。料理も上手で、今夜のメニューも一品一品はとてもおいしいのだが、さすがに全品トマト味というのはイタリア人でも厳しいんじゃなかろうか。酸味が一口ごとに体に蓄積していく気がして、ぼくの食事のペースはゆっくり確実に落ちていった。
「お義父さんがトマトの栽培もしてたなんて、今まで知らなかったよ」
「あら、そういえば私も聞いたことないわね。最近始めたんじゃないかしら」
 ぼくは口に突っ込みかけた焼きトマトを思わず止めた。
 ――そりゃつまり、ぼくらが味見役に使われてるってことでは?
 トマトの酸味に当たったのか、ぼくはイライラした気分になっていた。怒りの矛先は必然的に義父とトマトに向けられる。目の前に義父がいたら、たぶん焼きトマトを投げつけていただろう。
 どうにか自分の分を食べ終えてから、寝室に布団を並べて敷いて横になるまで、ぼくはどうすればトマト地獄から穏便に脱け出せるかと真剣に頭を悩ませていた。転んだふりをしてトマトの箱にボディプレスをかます? だめだ、ぼくは演技が下手だし、見破られたら明子が悲しむだろう。一つずつ丸かじりで食べたふりをしてゴミ箱に捨てていく? どうも効率が悪そうだ。箱からいくつかずつ抜き取って隠しておき、燃えるゴミの日にこっそり出してしまう? うん、これならまとまった量を減らせるかも。やるなら木曜の朝に決行だな……。
 せっかくの日曜の夜をこんな陰謀で台無しにしつつ、布団のいくらかでも冷たい部分を求めて寝返りを繰り返しているうちに、ぼくはようやくうとうとし始めた。と、何かがぼくのほほを突っついてきて、いやらしく安眠の邪魔をしてくる。明子のいたずらかとも思ったが、隣から聞こえてくるはずの寝息も、寝返りを打つ気配もない。どうやらぼくはすでに夢の中にいて、いたずらの主は夢か幻の類のようだ。
 仕方なく目を開けてみると、湿気っぽい闇の中にぼんやりとした人影のようなものが見えた。そいつはすぐ横に屈みこんで、ぼくをのぞきこんでいるようだ。何度かまばたきしたら、明かりもないのに不思議とその姿が鮮明になってきた。頭頂部にだけ生えた緑色の髪に、やや角ばったふくれ顔。顔色は血色と呼ぶには赤すぎるほど赤い。そしてぼくをつついていたのは、細くねじれた根っこのような指だった。
「これ起きんか、罰当たりめが」
 そう言って、そいつはさらにぼくをつつく。
「な、なんだよあんたは」
「わしか。わしはトマトの精じゃ」
 当然のように名乗る赤ら顔のオヤジ。なるほど、ぼくは早くもトマトにうなされる羽目になったらしい。
「んで、そのトマトの精が何の用で?」
「よくもまあぬけぬけと」トマトの精は顔をしかめ、ますます赤くなった。「トマトの恵みに感謝もせず、あろうことか食べずに処分しようとまで企んだことはとっくにお見通しじゃ。燃えるゴミにしよう? 考えるだけでももってのほか。わしはそのおぬしの不埒な態度を戒めにやってきたのじゃ」
 やってくるって、どこから? ひょっとしたら義父がトマトと一緒に箱に詰めてよこしたんじゃあるまいか。そういえば、彼の顔はどことなく義父に似ている気がする。
「いいかよく聞け」彼は根っこじみた鋭い指をびしっとぼくに突きつけ、恐ろしい声で宣言した。「おまえはトマトの怒りに触れた。われらの怒りがどれほどのものか、とくとわからせてやろう。おまえには『赤の呪い』をくれてやる。一週間、呪いがおまえにつきまとい、恐ろしい目にあわせるだろう。たっぷり苦しむがいい。そして七日目、おまえにとって最悪な罰を与えてやろう――」
「あのう、すみませんが寝させてもらえませんか? 明日も会社、早いんで」
 ぼくは寝返りをうって無視を決め込んだ。トマトの精はまだ盛んに怒りの声を上げていたが、ぼくの意識がより深い眠りの底に沈んでいくのとともに、その声もだんだん遠のいていった。
 その夜はそれ以上邪魔が入ることもなく、朝までぐっすり眠ることができた。むしろ目覚めはいつもよりすっきりしていたくらいだ。しかし目が覚めてからも、さらには日が経っても、トマトの精の夢はぼくの頭にくっきりと刻まれていた。夢の内容なんかすぐに忘れてしまうぼくにとっては、珍しいことだった。
 そうして、赤の呪いが始まった。

 明くる月曜日。憎らしいほど晴れ渡った空の下、焼けつくようなアスファルトの歩道を、ぼくは営業の竹田とともに客先へと向かっていた。周りに林立する建物群は中途半端に背が低くて、うまく日差しを遮ってくれない。おかげで側頭部に日が当たり、髪が焼け焦げそうだ。
「今日のプレゼン資料、ちゃんと必要部数揃えられた? 印刷、ぎりぎりまでやってたみたいだけど」
「大丈夫っす。印刷に時間食ったのはコピー機の紙詰まりに苦戦しただけっすから」
 学生時代は野球とラグビーで鳴らしたという竹田は、横からぼくを見下ろして、にいっと笑った。白いワイシャツが巨大な体に汗でぴったり張り付いている。ぼくらは二人とも、移動中はスーツの上着を腕にかけていた。
 ぼくらは業務改善のコンサルティング会社に勤めている。というとすごい仕事をしていそうだが、実際には監視カメラの設置から電気配線の見直し、果てはデスクやコピー機のレイアウトまで、仕事内容は「何でも屋」に近い。ちなみにぼくの担当は電気や機械なんかの、いってみれば技術分野だ。竹田は入社四年目のぼくより一年だけ後輩の営業担当で、ぼくらは組んで仕事に当たることが多い。
「紙詰まりなんて、直し方がコピー機の横っちょに書かれてるもんじゃない?」
「読みましたよ。読みましたけど、紙を引っ張れっていうから引っ張ったらすぐ破けるもんすから」
「力、加減しなよ」
 どうでもいい会話をする一方で、どうにか彼の体を日よけに使えないかと、ぼくは彼の影を見ながら立ち位置や歩き方を小刻みに調整していた。そうやって、あまり足元ばかり気にしていたのがまずかったのだ。ふと顔を上げたとき、ぼくの視界の大半は、すでに真っ赤な何かに遮られていた。
 赤いものがまっすぐ向かってくる。それはわかるのだが、あまりに唐突で危機感すら起こらない。太陽熱でほてった脳に、止まれ、という言葉が白く浮かび上がったものの、言葉の認識に体の動きがついていかない。「赤い何か」はみるみるぼくの顔めがけて迫ってきて――
「先輩!」
 竹田の声とともに、それはぼくの顔面にあと十センチというところでピタリと停止した。生暖かい風がふわりと顔をなでる。そこで初めて、ぼくの脳はそれが何なのかを認識した。赤い三角形に、白い「止まれ」の文字。
 一時停止の標識だった。
「大丈夫すか、先輩」
 竹田の低い声が慌てている。彼のがっしりした手が、標識の支柱の部分を押さえて止めてくれていた。そのままひょいと持ち上げてくれたおかげで視界が開け、ようやく状況が飲み込めた。どうやらすぐ先の交差点に立っていた標識が、根元からぽっきり折れてぼくに倒れかかってきたらしい。
「うん、助かった。ありがとう」礼を言って初めて心臓がざわっとした。もし標識がまともに顔に当たっていたら――たいした怪我はしないかもしれないが、相当痛い思いをしただろう。
 竹田がやむなく歩道の隅に寝かせた標識を、ぼくはまじまじと見つめた。
「なんでこんなものが倒れてくるんだ?」
「ずっと同じとこに立ってて飽きたんじゃないすか」竹田の深刻な声は冗談に聞こえなかった。
 誰かがぼくに向かって標識を押し倒したのかとも思ったが、竹田は誰も見なかったという。標識が立っていたはずの場所に目をやると、白い支柱のぎざぎざに折れた部分だけが、焦げたような茶色に変色していた。そこだけなんらかの理由で劣化していて、たまたまぼくが通りかかったときに弱りきって折れたということか? 不自然さはどうしてもぬぐえなかった。

 火曜日。やはり竹田を連れて炎天下を客先に向かっていると、今度は瞬きする間もなく視界が真っ赤に染まった。
 昼過ぎの大通りは人も車の通りも多くて、ぼくらは人の流れに流されるように黙々と歩いていた。交差点を折れ、ガードレールのないやや狭い道に入るとともに、人の流れからも逸れた。ずっと目の前にいた長身のスーツの男がいなくなり、見通しがよくなったな、と思ったところまでは覚えている。そのまま歩いていると突然、ぶざっ、という音とともに世界が赤一色になった。ほぼ同時にシンナーの強烈な匂いが襲ってきて窒息しそうになる。それから頭や顔、首すじを中心に、汗よりも粘度の高いべとつき感がじわじわと襲ってきた。背後と頭上で誰かが叫んだ気がした。
 ぼくは何をどうしたらいいかわからず、前髪からぽたぽたと赤いしずくが落ちるのを途方に暮れて眺めていた。左腕にかけたスーツの上着も、右手に持ったスーツケースも鮮やかな赤色にまだらに染まり、そのシミはみるみるじんわりと広がっていく。足元には血だまりのようなものができていた。どうやら頭から液体を……ペンキのような塗料をかぶったらしい。塗料が目に入らなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
「す、すみませんでした! これ、これ使ってください」
 若い男の声がして、横からにゅっと伸びてきた手が、昔は白かったであろう手ぬぐいを差し出してきた。鞄と上着を乾いた地面に置き、手ぬぐいで頭と顔と手を拭うと、どうにか気分が落ち着いてきた。ようやく声がした方を見ると、白いTシャツに作業ズボンといういでたちの若い男が、青ざめた顔をして目を泳がせていた。
「いやほんと、すみません。看板の塗り替えをやってたんですが、ペンキのバケツを蹴とばしちゃったみたいで」
 男が指した建物を仰ぎ見ると、四階建てのビルの屋上に、途中まで塗り替えがされた不動産屋の看板と、彼が作業していたのであろう銀色の足場が見えた。なるほど、ぼくは漫画みたいなネタをリアルに体験してしまったらしい。せっかくならバケツそのものが頭に落っこちてきてくれれば、ほんとにギャグみたいでむしろ笑えたかもしれない。男は必死に頭を下げてくるが、ぼくは混乱のためか怒る気がしなかった。まあ誰にでも失敗は……みたいなことさえつぶやいた気がする。
「先輩、頭、すごいことになってますよ」
 振り向くと、竹田が目に涙をためて笑いをこらえていた。彼にとっては、ぼくの姿はすでに十分ギャグになっているらしい。たしかに早くも日光で乾燥してしまったようで、頭髪がごわごわしてしまっているが、笑うことはないだろう。
 そのときふと気づいた。竹田はぼくのすぐ後ろにいたはずなのに、赤ペンキを一滴もかぶっていないのだ。たまたま距離が開いていたのだろうか? しかし見回すと、道路にぶちまけられたペンキを迷惑そうに避けていく人ばかりで、ぼく以外にペンキを一滴でもかぶってしまって怒ったり嘆いたりしている人は一人もいない。これだけ人通りがあるのに、ペンキをかぶったのはぼく一人だけと知ったとき、何者かの底知れぬ悪意を感じて、ぼくは思わず身を震わせた。
「竹田……」
「はい」
「今日のプレゼン資料、おまえの鞄に入ってたよな」
「はあ」
「ぼくはこんな格好じゃ客の前に出られない。今日のは修正提案だからお前だけで大丈夫だろ。一人で行ってくれるか」
「先輩は?」
「……帰る」
 実際、ぼくの頭は奇抜なロックバンドみたいな染まり方をしているはずで、洗い落とさなければ会社にも戻れない。しかしそうでなくても、仕事を続ける気分にはとてもなれそうになかった。一刻も早くこの場所を離れたくて、竹田をさっさと追い立て、ぼくは血の色に染まった手でスーツのポケットから携帯電話を取り出した。上司に事情を説明し、早退の許可をもらう。
 ペンキをひっくり返した男は、電話の間も横でずっとぺこぺこと頭を下げ続けていた。彼以外の何かのしわざかもしれないのに。

 水曜日。出先から一人で会社に戻る道すがら、おばあさんに道を尋ねられた。
「駅ですか? 駅ならこの道をまっすぐ行って――」
と指し示したすぐ先に、二本足で立つ赤い鳥がいた。正確には、赤い鳥というのは英語番組によく出てくるキャラクターに似た着ぐるみで、ぼくの指が触れそうなほど近くにあるのは、その鳥が持っている赤い風船の束だった。その真っ赤な取り合わせが目に入ったとたん、嫌な予感がした。予想は次の瞬間に的中して、風船が一斉に破裂した。
 そこは繁華街にあるおもちゃ屋の前で、「新装開店」と書かれた看板に午後の太陽が鈍く反射していた。小さい子どもたちはわだかまる熱気などどこ吹く風と元気よくはしゃぎまわり、母親たちは日陰に寄り集まって話に興じている。そのにぎやかで楽しそうな雰囲気は、風船とともに木っ端微塵となった。
 空気を裂く音が耳を圧し、その銃撃戦のような破裂音に、短い悲鳴が重なった。一瞬静まり返ったあと、幼い子どもたちがわっと泣き始め、母親たちが慌ててなだめにかかった。ざわめきがゆっくりと広がっていく。
 耳元で風船に破裂されたぼくは身を縮めて硬直していた。思わず閉じていた目をゆっくり開くと、まず目に入ったのは呆然と突っ立ってぼくを見つめている赤い鳥だった。その手からは風船のひもだったものが物悲しく垂れている。おばあさんも目をぱちぱちさせて、やっぱりぼくをぽかんと見つめている。なんだか様子がおかしい。視線を感じて見回すと、なぜか周囲の人たちはみんなぼくに注目していた。うさんくさそうにぼくを横目で見やり、ひそひそ声を交わしている。
 そこでようやく気付いた。道案内のために伸ばしたぼくの指が、風船のあった場所を指したままになっていたのだ。なるほど、見ようによってはぼくが風船を割ったみたいに見えそうだ。だからみんなぼくを疑っているのだろう。……冷静でいられたのはそこまでだった。
「いや、違いますよ。ぼくじゃないですよ?」
 もちろんぼくは何もしていない。何もしていないのに思わず走ってその場を逃げ出した自分がなんとも情けない。

 そう、この頃には、ぼくは「赤の呪い」を本気で気に病むようになっていた。などと言うと大げさに思われるかもしれないが、事件はここまでに挙げたものだけじゃないのである。小さいものまで挙げればきりがない。赤いハイヒールに足を踏まれた。赤いビー玉に滑って転んだ。赤いクリップに指を挟まれた……。
「純ちゃんの考えすぎよ」
というのが明子の意見だった。すっかり気を滅入らせて帰った水曜の夜、夕飯の席で、ぼくはついに「赤の呪い」の不安を明子に打ち明けたのである。といってもトマトの精うんぬんはさすがにバカバカしく聞こえそうなので口にしなかった。あくまで「赤」という色に呪われている気がすると訴えたのだ。
 ちなみにこの日の夕食はトマトのリゾットにトマトグラッセ、デザートにはトマトゼリーが用意されていた。飲み物は当然のようにトマトジュース。ついでに朝食はといえばこちらも徹底していて、トマトがたっぷり乗ったピザトーストだった。主婦業をおろそかにしたくない、と会社を辞めてパートとして働き始めた彼女には、料理につぎ込む時間があるのかもしれないが、なんだか意地になっているようにも思える。
「だけどさ、悪いことが起こるといつも『赤』が関係してるんだ。偶然だと思いたいけど、それにしては数が多すぎるよ」
「災難が続いてるのは間違いないわねえ」明子はトマトジュースをぐっと飲み干してから続ける。「でも今のところ、怪我一つしてないじゃない。でしょ? 他に何か被害ってあった?」
「ない、かな。仕事にも支障は出てないし、スーツも」と昨日のペンキ事件を思い出す。「――洗濯じゃ済まない状態になったけど、塗装会社の人が弁償費用を出してくれたし」バケツをひっくり返した彼は責任を取らされたかもしれないけど。
「ほら、悪いことっていったって、そんなに悪いことでもないのよ」と明子は微笑んだ。「純ちゃんは昔から、物事を悪く考えすぎなのよ。悪い面ばっかりじゃなくて、いい面を見つけてあげなきゃ」自分の皿に目を落とし、ひとつ息をついてから、詰め込むようにリゾットをほおばる。
「いい面なんてあるかな」
「思ったほど悪いことじゃなかった、っていうのがいい面じゃない」
「そうかな」
「そうよ」
「いまいち納得いかないんだけど」
「だから、難しく考えすぎなんだってば」
 明子はくすくす笑いだし、ぼくもついつりこまれて笑ってしまった。笑うと気分がふわりと軽くなる。明子の笑顔に助けられたのはこれが初めてじゃないし、きっと最後でもないと思う。
 しかし考えすぎとは言いながら、明子も気にかかるものがあったらしい。食事を終え、ぼくが食器の片付けをしている間に、彼女は二人の書斎として使っている部屋でパソコンを起動し、インターネットで調べ物をしていたようだ。呼ばれて行くと、彼女は振り返って調査結果を話してくれた。
「ちょっと気になって調べてみたの。ひょっとして、あんまりたくさんトマトを食べると体に悪いのかも、って思って」
「今さら調べるのかい?」
「思いつかなかったんだもの。でも調べてみると、トマトの好きな人って結構いるのね。そういう人は毎日たくさん食べてるみたいだし、それでお腹を壊したりもしてないみたいよ。私たちほどたくさん食べてる人は見つからなかったけど、私たちだって一日十個も二十個も食べてるわけじゃないんだし、他の食材だって使ってるし……」
 最後は自分に言い聞かせるみたいに言って、明子はほっとしたような、でも少し残念そうな顔をした。ぼくがトマトの食べ過ぎで過敏になっていると思ったのだろうか? ぼくが心配しているのは食べ過ぎじゃなくて、トマトの怒りに触れてしまったことなのだが……。

 「木曜の朝に可燃ゴミに出してトマトを減らそう作戦」はもちろん実行しなかったし、明子が言うようにそんなに悪いことは起こっていないのだ、と自分に言い聞かせもした。でもそんなささやかな反省や努力もむなしく、「赤の呪い」は翌日からも続いた。それどころか、呪いの内容は次第にエスカレートしていった。今までは軽い冗談だったとでもいうように。
 木曜日。昼休み中に社内の防災設備の点検があって、ぼくがトイレから席に戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから総務担当の人たちが消火器を両手に持ってやってきた。そのうちの一人がちょうどぼくとすれ違うときに、消火器を持ち直そうとして手を滑らせた。赤い物体の落下、をぼくは既視感のように眺め、消火器が案外重量のあるものだということを、ぼく自身の足のつま先で知ることになった。痛みが脳天まで突き抜け、思わず叫び声を上げてしまった。あとで見たら親指の爪の中が内出血を起こして、赤黒く染まっていた。
 「怪我をしたわけでもないし」という前日の明子の言葉は、こうしてたった一日で覆された。
 金曜日。日が暮れかけたので出先から直接家に帰ろうと、赤レンガ塀の続く古い街並みを一人で足早に歩いていると、突然塀の一部が崩れてばらばらとレンガが降ってきた。とっさにかばった右腕に、ごつっ、と鈍い音を立ててレンガが当たった。これもあざになっただけで重傷にはならなかったが、鈍い痛みがしばらく骨に響き、腕を抱えて声も出せずにうずくまってしまった。問題の家は改装工事の途中のようだったが、そのときは職人たちの姿も家の人の姿もなく、いきなり塀が崩れてくる原因が見当たらなかった。近くで猫の鳴き声を聞いた気もするが、仮に塀の上にいた猫が勢いよく飛び降りたとしても、レンガ塀がこんなに派手に崩れたりするだろうか?
 そして土曜日。交通量の多い道で横断歩道をなにげなく渡ろうとしたら、赤いポルシェが猛スピードで右から突っ走ってきた。車は一瞬前までぼくの体があった場所を、ほとんど減速せずに駆け抜けていき、やや蛇行しながらクラクションを鳴らして去っていった。竹田がぼくの襟首をつかんで全力で引き戻してくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
「何ぼんやりしてんすか、先輩!」という竹田の声で、ぼくの過失だったことにようやく気付いた。渡ろうとしていた歩行者信号は、赤。きつい西日が照らしていたが、それでもはっきり赤だと認識できた。ぼくは青だと思い込んでいたのだ。そのとき初めて、背筋を流れ落ちる汗が冷たいことに気づいた。
 呪いの力が強まっていることは疑いようがなかった。そしてトマトの精が宣言した呪いの期限は七日間。
 あと一日、残っていた。

 あまり眠れないまま早起きをした日曜の朝、ぼくは旧友に会うことになったと明子に嘘をついて、転がるように家を出た。一週間前に夢で聞いた言葉が、昨夜からずっと頭に響いていた。
 ――七日目、おまえにとって最悪な罰を与えてやろう。
 轢かれかけるのが最悪の一歩手前だとしたら、最悪の罰は……考えるのも恐ろしかった。家を出たのは、明子が呪いの巻き添えになるのを避けたかったからだ。もし家に閉じこもっていたら、誤って入ってきた空き巣狙いが逆上して、ぼくと明子にナイフを突き立て、部屋中血の海に――ならないとも限らない。それともどこかの家のガス漏れが原因で、建物ごと赤い炎で焼きつくされるとか。
 昨夜遅くに突発的な豪雨が降ったせいで、路面はまだいくぶん湿っていた。それを情け容赦ない太陽がかけらも余さず蒸発させようとするので、今日はいつにもまして湿気が多く、息苦しい。この蒸し風呂のような気候のせいで頭がきりきり働かないぼくは、町中に散在する赤い色を避けながら、なるべく人通りの少ない道を選んで、どこか安全な場所はないかと慎重に歩き回った。途中で商店街に入りかけたが、やはり他人を巻き込んでしまうのが怖くて、すぐにそこから離れた。
 延々とさまよい続け、やがて住宅街の真ん中にぽつんと捨て置かれたような、小さな公園を見つけた。一面まっ平らに整地されて細かい砂利が敷かれている。遊具は一つもなく、代わりに地面にところどころ二本ずつ杭を打ったような跡があるから、きっとゲートボール場なのだろう。老人は朝が早いから、ここならもう今日一日、誰もやって来ないかもしれない。
 やっと隠れ家を見つけた気分になって、ぼくは隅っこのベンチに腰を下ろし、体を休めた。背後のブロック塀がちょうど日陰を作ってくれている。もちろん、ブロックが灰色であることはしっかり確かめた。ここで残り半日、なんなら日付が変わるまでじっとしていようか。それが一番いいのかもしれない。
 湿った暑さは日陰にいても徐々に体力を奪っていく。昨夜寝付けなかったせいもあるのだろう、ぼくは形のない赤い幻に怯えながらも、気がつくとベンチに腰かけたまま眠り込んでしまっていた。
 ……どれくらい寝入っていたのだろう。はっと顔を上げたときには日は傾きかけていて、赤みを帯びた日の光がぼくのジーパンの足を焼き、下着がじっとりと汗を含んで体に吸いついていた。ニイニイゼミが誰かの注意を引こうと辛抱強く声を張り上げている。人影はない。寝ている間に災いが降りかかってきたのかも、と思って両手で自分の体を探ってみたが、ぼくの体には何も変化はなかった。
 ぼくの体には。
 ――おまえにとって最悪な罰を与えてやろう。
 蝉がぴたりと鳴きやんだ。体中の血がわっと逆流した。無意識のうちに立ち上がっていた。なんてことだ。なんで今まで考えつかなかったんだろう。
 夢中で駆け出した。むやみに歩き回ったせいで家までの道がよくわからないが、方角の見当はつく。急いで家に戻らないと。
 ――おまえにとって最悪な罰を――
 かげろうの揺れるアスファルトを蹴り、曲がり角では塀に手をついて方向転換する。吸い込む空気が熱い。なんで気付かなかったんだろう。なんで考えもしなかったんだろう。ぼくにとって最悪の罰が、ぼく自身に直接降りかかる災難とは限らないじゃないか。
 朝方の不吉なイメージが頭をよぎる。ただし空き巣狙いに刺されて床に倒れているのは、今は明子だけだ。血。血だまり。鮮烈な赤。走りながら頭を振る。どうしてこんなことを想像するんだ?
 商店街の入り口が見えた。買い物客を避けて通り過ぎ、今度は家までの最短ルートを選んで走る。車の通りが多いことを気にしている余裕はなかった。体中がほてり、のどが渇いてひりつく。あえぐ息に気を取られた拍子に、角を曲がってきたトラックに危うくぶつかりそうになる。反射的に振り向くと、有名な運送業者のトレードマークが銀色の荷台にプリントされていた。もしこれが赤い郵便車か何かだったら、ぼくはここで最期を遂げていたかもしれない。
 ほっとすると同時に明子の笑顔を思い出し、またきゅっと胸が苦しくなる。あえぎながらまた走りだす。すぐにアパートのくすんだ色が見えた。足音の響く鉄製の階段を、二段飛ばしで一気に三階まで駆け上がる。
 部屋のドアノブを回すと、なぜか扉は抵抗なく開いた。なぜ鍵がかかっていないんだ?
「明子!」
 名を呼びながら飛び込んだぼくの目は、たちまち呪わしい鮮血の色を捉えた。玄関を埋め尽くす赤、赤、赤。
 その真ん中に明子がへたりこんでいた。顔を上げ、弱々しく微笑む。その目はうつろだった。
「純ちゃん……」
 急に薄暗い玄関に入ったためにとまどっていたぼくの目が、ようやく暗さに慣れてくる。明子の周りに散乱している赤い色。それらはこぶし大の丸い形をしてダンボール箱に詰められていた。一番手前の、ふたの空いていない箱に目を落とすと、伝票には「ナマモノ」と書かれていた。差出人欄の、枠にとらわれない豪快な署名。そして宛先は、今度はぼくの名前になっていた。全部で五箱。
 明子は心底弱りきった声をあげた。
「また届いたの。箱トマト」