これは、夢の話だ。

 夢の中で、ぼくは十二の少年に戻っていた。そこがどこなのかもすぐにわかった。むこうに見える二つのこぶのような山、その山と初夏の青空を映す水田、青い草と泥土の匂い。大学に行くために上京するまで、生まれてからずっと住んでいた土地だ。忘れるわけもない――でもそこが故郷であるということに、それほど深い意味はないような気がした。たまたまそんな景色が用意された、それだけのような。
 ぼくが立っていたのは、よく近所の連中と草野球をして遊んだ広い野っ原だった。夏のさなかには腰より高くぼうぼうと茂るのだが、この時期はまだすねくらいまでしか伸びていない。それでもむっと鼻をつく草の匂い。ひさびさにかぐ匂い。ぼくは半ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、ぐるりを見まわした。そうしてその子を見つけた。
 ときおりの風に揺れる草の原のむこうに、小さな女の子が立っていた。小麦色のワンピース、頭には大きすぎるくらいのむぎわら帽子。きょろきょろと首をめぐらして辺りをうかがっている。見知らぬ風景に戸惑いながら、それでもどこかわくわくしている、そんなふうに見えた。
 ぼくと目が合うと、彼女は目を輝かせて走り寄って来た。ぼくは思わず、
「なんだよ、おまえ」
そう言ってから、自分でおかしくなった。これじゃほんとの十二才の男の子の、同年代の女の子への接し方そのものじゃないか。いくらか分別らしいものを持ち始めた二十一歳の青年らしくもない。
「あたし?」彼女はむぎわら帽子の下からぼくを見つめた。「あたしまだ、名前がないの」
「は? なに言ってんだよ」ぶっきらぼうな返事が口をついて出る。自分であって自分でないみたいだ。彼女は気にするふうもなくにこにこしている。
「だから、生まれたばかりで名前がないの」
「なにわけのわかんないこと言ってんだよ」
「ねえ、あたしに名前をつけてくれない?」
「なんでそんなこと――」
「いいから。好きな名前で呼んでいいから」
 ぼくは首をひねった。好きな名前でいい、などと言われると余計に考えてしまう。さんざん悩んで、そうして頭に浮かんできた名前を拾い上げた。「さおり。そんならおまえはさおりだ」それが高校時代に付き合っていた娘の名前だと気づくまでしばらくかかった。
「うん。じゃああたしはさおり」女の子は嬉しそうだった。きっと名前なんてなんでもよかったんだ。「ねえ、鬼ごっこしようよ。最初はあなたが鬼ね」
「鬼ごっこって……おまえと二人でかよ」
「こう見えても足は速いのよ。それとも、自信がないの? ならやめてもいいけど」
「な……そんなことあるわけないだろ」
「じゃあ決まり。……ほらっ」
 そう言うなり、彼女は身をひるがえして駆けだした。その速いこと――二十一のぼくなら絶対に追いつけなかっただろう。でも、ぼくは十二才だった。背中と足とに小さな翼をくっつけた、幼い頃のぼくなのだ。
 ぼくたちは青い草原を駆けまわった。大きすぎるむぎわら帽子に追いつこうと懸命に走り、彼女の鈴のような笑い声を聞くうちに、なんだかぼくまで楽しい気分になってきた。何が楽しいと聞かれても答えられない。ただ純粋に楽しかった。その懐かしい感情を、懐かしいと感じる暇もなく、息を弾ませ、腕を振り、足を上げて、追って、追われて、追って、また追われて……。
 太陽が空にあったかどうか、よく憶えていない。ただ、夕暮れはいつしか忍び足にやってきていた。ぼくは足を緩め、しまいには立ち止まった。オレンジ色の空はみるみるうちに薄墨色に染まっていく。まるで世界に覆いがかぶせられていくようだ。
 背後に軽い足音がして、腕に暖かい手が触れた。
「つかまえた。さ、こんどはあなたが鬼ね」
「いや、もう帰るよ」ぼくは振り返った。むぎわら帽子の下の目が小さく凍るのが見えた。「もう帰らなきゃ。こんな時間だもの」
「だめ。だめよ」女の子は何度もかぶりをふった。おりから吹き始めた風が勢いよくむぎわら帽子を吹き飛ばし、梳かれた長い髪をあおった。二人とも、帽子のことなど見向きもしなかった。
 彼女は両手でぼくの腕をつかんだ。その手に力がこもった。強く強く、しがみつくように。
「あたしはこの世界にしかいられないの。あなたが行ってしまったら、あたしは消えてしまうの」
「でも行かなきゃいけないんだよ」ぼくは彼女を見下ろした――いつのまにか、心も体も、二十一歳のぼくに戻っていた。「ぼくは行かなきゃならない」声がかすれるのがわかった。
「だめ。行かないで。お願いだから」
「……ごめん」
 ぼくは彼女の手を振りきって駆け出した。追いつこうと思えば追いつけただろうに、彼女は追ってこなかった。そのかわり、すがりつくような声がいつまでも耳に残っていた。ぼくはひたすらに駆け、駆け、そこへ唐突に夜が降りてきた。

 ――そうしてぼくは、下宿の薄い布団の中で目を覚ました。うっすら汗をかいていた。煤けた天井が目に映った。表をトラックでも通ったのだろう、重いエンジン音が部屋を揺さぶって遠ざかっていった。
 あれはただの夢だったのだ。ぼくは体を起こしながら考えた。まったく、他愛のない夢。
(あたしは消えてしまうの)
 気にすることはない。夢の中のあの子は、結局ぼくの想像の産物だったのだ。そう自分に言い聞かせた。幻想にすぎない、と。
 けれどいま、ぼくは大学へ向かうバスの中に立って、不思議なものを目にしている。
 右腕についた、赤いあざ。
 昨日まではなかったものだ。触ってみると、わずかに熱を感じる。それはそう――まるで小さな手の跡に見える。両手でぎゅっと、強く強くしがみついたような。
 前のほうで黄色い帽子の子どもたちが笑い声をあげた。それに重なる軽やかな声を、ぼくは確かに聞いたように思う。
 ――あの子は、自分が存在した証をこの世界に残したんだ。
 認識とともに、漠然とした不安が湧き上がった。
 ――ぼくにもそれだけのことができるだろうか?
 窓の外には、灰色のアスファルトがただただ大学に向かって続いているばかりだった。