きっかけ


「どうも、わざわざありがとうございました」
 部屋の前まで付き添ってくれた看護士にこっくり頭を下げて、早苗は一人でそっと病室に入った。部屋はがらんと静まっていた。四つあるベッドのうち三つは空いていて、窓際のベッドに若い男が一人いるきりだった。
 男は起きていた。背中に枕を当てて身を起こし、窓の外を眺めるともなく眺めている。そこからは海が見えた。冬の空を映した海は一面の灰色で、冷たく音もなく凪いでいた。
「座ったらどうです?」
 どう声をかけていいのかわからず突っ立っている早苗に、男は振り向きもせずに言った。白いセーターを着た早苗の姿が、窓ガラスにぼんやりと映っていた。男はその像に向かって声をかけたようだった。まるで直接顔を合わせるのを怖れているかのように。
 早苗はうわずった声で返事をして、ベッドの横の長持に腰かけた。ベッド脇の台の上に、アルバムらしいものが何冊か重ねてあるのが目についた。
「昨日は父と母だという人が来ました」男はようやく早苗に顔を向けた。目の下にうっすらと隈が浮いている。「あなたは? 今度は妹ですか?」
 早苗は答えかけて、男の頭に巻かれた真っ白な包帯にふと目を留め、思わずうつむいてしまった。
「本当に、何も憶えてない……んですね」
「どうもそうらしい」
 男――河合創一が交通事故に遭ったことを、早苗は創一の母親から昨日、電話で聞かされたばかりだった。よそ見運転の乗用車が接触したために転倒し、ガードレールに激しく頭を打ちつけたということだった。外傷は打ち身や擦り傷程度で済んだが、頭を強打したことが災いし、重度の記憶障害を負ってしまったのだという。携帯電話から聞こえる創一の母の声は、新聞でも読み上げるように抑揚がなかった。
(創一、私たちのこともわからなくなってるのよ……)
 何も憶えていない――自分の名前も、両親の顔も、婚約者の早苗のことも。
 すぐには信じられなかった。記憶喪失なんて、ドラマの中にしか存在しないものだと思っていた。しかし、いま目の前にいる創一は、紛れもなく早苗を見知らぬ他人として見ている。その冷たい、どこか不審そうな表情に、早苗は怖くなり、それから言いようもなく悲しくなった。
「大丈夫。きっと、すぐに思い出しますよ。だから、気を落とさないで」
 早苗は努めて明るく言った。創一はただ当惑したように、自分の手のひらに目を落とした。それは気落ちなどという言葉では言い表せない、虚ろな仕種だった。それでも早苗はぽつりぽつりと、励ましの言葉を口にし続けた。

 翌日から、早苗は毎日のように創一を見舞った。平日なら仕事帰りに、休日なら昼間から。職場から病院までは近いとはいえなかったが、残業さえなければ、平日でも三十分は面会することができた。
 創一の両親は高齢で、そのうえ病院から片道二時間以上かかる隣県に住んでいた。遅くにできた一人息子の身を案じてはいたが、なかなか見舞いに来られない。そこで早苗は自ら申し出て、創一の衣服の面倒や日用品の差し入れ、その他こまごまとした身の回りの世話を一手に引き受けた。
 自然、二人で過ごす時間が多くなった。病室に創一と二人きりのときは、記憶を取り戻すきっかけになればと、早苗は二人の思い出を話して聞かせた。それは医者にも勧められたことだった。
(何がきっかけになるかはわかりません。ですが心に強く残った思い出やショックをもう一度与えてやることで、うまくすれば記憶が戻ることも――)
 うまくすれば。医者が口を滑らせたその言葉の意味を、深く考えることはしなかった。
「中学生のとき、あなたと私は隣どうしの席だったの。あまり話をしたことはなかったけど、ある日私が男子にちょっかい出されてたのを、あなたが割って入って助けてくれたの。でね、泣いてる私に、『女を泣かすやつは最低だ。でも、めそめそするやつは男でも女でも大嫌いだ』って」
「おれって、キザだったんだ」
「うん。あ、いえ」
 毎日のように顔を合わせているうちに、事故後はじめて会ったときのようなぎこちない話し方は自然としなくなった。しかし依然、創一は他人のままだった。共通の思い出が他人のことのように扱われるたびに、早苗はついスカートを握りしめた。
 休日にはときどき、創一の両親と病室で一緒になった。両親は家から持ってきておいたアルバムを繰りながら、これは四年生の運動会、これは中学の修学旅行、と創一が小さかった頃の出来事を一つ一つ語って聞かせた。そしてたびたび、何か思い出せたかい? と期待を込めて訊くのだが、創一は首を横に振るばかりだった。
 また創一の会社の同僚が数人で見舞いに来たこともあった。「仕事のことを聞けば一発で全部思い出すさ」と、彼らは創一が携わっていたプロジェクトのことを、冗談や上司の悪口を交えつつ――早苗という「部外者」の前であることをあまり気にする様子もなく――話して聞かせたが、創一には話の内容さえ理解できないようだった。仕事に関する専門用語も忘れてしまっていたのだ。同僚たちはその様子に動揺を隠しきれず、早苗にすまなそうに頭を下げると、肩を落として帰っていった。
 仕事の話を聞いたらひょっとして、という思いは早苗にもあった。入社四年目の創一は、初めてプロジェクトを任されたことで気負っていたし、そもそも事故に遭ったのも、客先へ急ぐ途中でのことだった。早苗が結婚を申し込まれてから約一年が経つが、その先の話がなかなか進まなかったのも、創一が多忙になったためだ。だが、それほどに彼を独り占めしていたはずの仕事も、創一の記憶を呼び覚ますよすがにはならなかった。そのことにわずかだがほっとしてしまった自分を、早苗は恥じた。
 この一年というもの、創一と会えた日はほとんどなかった。プロポーズを受けた後だけに、それはいっそう寂しさを募らせ、不安をあおった。本当に私なんかでよかったのだろうか――ときどき頭をもたげてくるそんな気弱な迷いを振り払うためにも、自分が創一の力になれることを信じたかった。
「中学以来会ってなかったのに、ある日偶然、電車の席で隣り合わせたの。懐かしいなあっておしゃべりしているうちに、じつは二人とも同じ大学に通ってるってわかって。不思議でしょう。三年間も同じキャンパスにいて、お互いまったく気づかなかったのね」
 創一は話を聞こうと努力しているようだった。ただ、熱心に耳を傾けながらも、ときどき眉間にわずかにしわが寄るのを、早苗は見逃さなかった。思い出話といっても、今の創一にとっては初めて耳にする他人の話でしかない。
 それでも、やめるわけにはいかなかった。早苗は二人の記憶を丹念になぞっていった。
「学食でよくお昼を一緒に食べたわ。あなたはいつも、一番安い素うどんばかり注文してた。よくこれで部活とアルバイトまでこなせるなあって。私だけ定食なんて食べてると悪い気がして、私まで――」
 好きな食べ物? 好きなスポーツ? 面白かった映画?
「二人で初めて横浜の中華街に行ったときにね、あなたったら――」
 あなたが記憶を取り戻すきっかけは、なに?
「そうそう、あのときは雨に降られて、二人ともずぶ濡れになって――」
 だが、創一は何一つ思い出さなかった。それどころか日が経つにつれて、早苗がいるときでも、まるで誰もいないかのように窓の外に目をやることが多くなった。話しかけられても、あからさまに無視することさえあった。
 病院を出るとき、早苗は決まって小さなため息をついた。白かった息は、季節の移ろいとともに見えなくなって、早苗をいっそう不安にさせた。それでも、早苗は決して泣かなかった。そして翌日もまた明るい笑顔で、暗い病室を訪れた。

 事故から二ヶ月が経ち、創一は退院することになった。記憶障害はあっても精神的に安定しており、身体の諸機能に異常もみられない。これなら自宅で療養するほうが記憶も戻りやすいでしょう、というのが医者の判断だった。早苗はそれを言葉どおりに受け取ろうとしたが、さじを投げられた、という思いはどうしても胸にくすぶった。
 一週間後に退院と決まったその日も、早苗はいつものように創一を訪れ、いつものように一方的に話をした。創一は外を眺めるばかりで相づちすら返さなかった。早苗はふと話をやめて創一の視線を追い、思わず声をあげた。
「きれい……」
 久しぶりに素直に微笑むことができた。陽を受けてきらきらと輝く海は、寒々とした病室からは別世界のように見えた。うち寄せる波の音がほんのかすかに聞こえてくる。優しい気持ちになって、早苗はうっとりと海を見つめたまま、創一に語りかけていた。
「……憶えていないだろうけど、春にね、二人で海にドライブに行こうって、あなたに誘われたの。なんでこんな季節にって聞いても、あなたむすっとして答えないの。それでね、しばらく無言で海岸を走らせてから、いきなり車をとめて、『結婚してくれ』って。びっくりしたけど、すごく嬉しくて――」
「もうやめてくれないか」
 唐突に創一がさえぎった。声を荒げはしなかったものの、その硬い口調は苛立ちを抑えきれていなかった。早苗は一瞬で夢から現実へと引き戻された。血走った目が早苗を冷たく見据えていた。
「そんなこと言われても、困るんだよ。それは、おれじゃないんだ」
「あ……ごめんなさい」
 笑おうとしたが、遅かった。プロポーズの思い出だけは、すげなく扱われるのが怖くてこれまで話さずにいたのだ。こらえきれずにうつむいた。あふれてくる涙をどうすることもできなかった。唇をきつく噛んでも、スカートをぎゅっと握っても、止められなかった。泣かない、泣いちゃだめ、と自分に言いきかせても無駄だった。
 ぽたり、ぽたりと涙の粒がスカートのひざに落ちた。それでも早苗は身を震わせながら、しゃくりあげそうになるのだけは必死にこらえた。
 創一はさすがに気まずくなったのか、口を開けて何か言おうとしたが結局声をかけられず、震える早苗のうなじのあたりを見つめるばかりだった。と、その目にふと、けげんそうな光が浮かんだ。彼のとまどいは、やがて言葉となって、口をついて出た。
「泣いてるのか?」
 返事はなかった。創一は身を乗り出そうとしてやめ、不思議そうにつぶやいた。
「早苗が泣くのなんて、もうずっと見てない気がする」
「……だって、もうめそめそするなって、言われたから――」
 言いかけて、早苗ははっと顔を上げた。
 創一の目と目が合った。そこにははっきりと早苗の姿が映し出されていた。久しぶりに会えた――子どもの頃から変わらない、理解と優しさと、少しいたずらっぽさをたたえた瞳。
 早苗は手を差し延べかけた。うまくいかない。力が入らない。
 創一はまだ夢の中にいるように、ぼんやりとした声でつぶやいた。
「なんだか、ずっと昔のことを思い出したよ。早苗と初めて出会った頃のこと。中学のときだっけ」
「……うん」
「早苗、泣き虫だったよな」
 創一の声に、遠い波の響きが心地よく重なった。
「めそめそするなって……もう泣かないって約束するなら仲良くしてやるって、あなたそう言ったのよ」
「おれ、やっぱりキザだったかな」
「キザだし、ひどい人。誰のせいで、約束破ったと思ってるのよ」
 まるで子どもの頃に戻ったように、早苗は泣きじゃくり、創一は困ったように頭をかいた。昔と違うのは、ぶっきらぼうな言葉をかけるかわりに、創一が早苗の肩を抱き寄せ、泣きたいだけ泣かせてくれたこと。
 部屋が明るくなった気がした。春の海の照り返しかもしれない。