ペン


 道端に絵描きが坐っている。「似顔絵描きます」と書いた板切れのまえに、人物や風景を描いた画用紙が六枚並んでいる。夏の乾いた日差しを受けて、男も、画用紙も、ちりちりと音をたてそうに見える。
 立ち止まってその光景を眺めていると、スーツ姿の自分にひどい違和感を感じた。男と目が合った。ぼくは顔を伏せ、その場を去った。
 コンクリート・ジャングルとはよくいったものだ。この暑さは半端じゃない。街全体がかげろうを帯びて、熱帯どころか砂漠さながらにゆらめいている。そのなかをスーツ姿で歩く人々。ご苦労なことだ。そのご苦労な集団に自分も含まれるのだと気づいたら、笑うに笑えなくなった。
 ともあれ、次の面接まではまだ間があった。面接会場の近くに公園を見つけて、ふらりと入った。木陰のベンチに腰を下ろし、時間潰しに、午前中に受けた商社の面接を思い返してみる。
 へまはしなかった。結果はまだわからない。が、人事担当の気乗り薄な態度がすべてを黙して語っていた。そりゃそうだ。新卒なら知らず、明日には三十になろうという冴えない元フリーターなど、誰がすき好んで採るというのか。
 午後にはスーパーと製紙工場の面接がある。正直、勤め先なんてどこでもよかった。就職することそのものに意味があるのだから。
 額に浮いた汗をハンカチでぬぐっていると、子どもたちの声が聞こえてきた。右手の砂場で、三人の女の子が砂の城を作っている。せわしなく鳴き続ける蝉の声も知らぬげに、ここは塔、ここは門、と熱心に砂を盛っている。乾いた砂にバケツの水が注がれる。砂はつかの間ひんやりと固まる。
 その砂場から少し離れたところに、こちらは男の子が一人、しゃがみこんでしきりに何かをなでている。猫だ。猫をなでている。男の子の体がつくった小さな影だまりに丸くなって、目を閉じ、背中を優しくなでられている茶色毛の猫――。
(きれいな茶色だ)
 頭の中にキャンバスが現れ、白い表地にぱっと絵が浮かぶ。陽だまり。男の子。そして茶色毛の猫。構成はそのままでいい。
 あとは――
(背景は何色がいいだろう)
 そこではっと我に返った。蝉の声が戻ってきた。頭を振って、イメージを頭から追い払う。また自分の世界に没頭してしまったらしい。悪い癖だ。
 もう二度と絵は描かない、そう決めたのに。
 立ち上がって公園をあとにした。自分自身の色の濃い影を踏みながら、かげろうの中の灰色の建物に向かった。

 アパートの部屋に帰りついたときには、長い夏の日もさすがに暮れていた。くたくただった。汗で体にへばりついたワイシャツ、靴擦れのできた右のくるぶし、そしてなにより、何十社もまわっていまだに手応えがないことに気分が苛立った。
 隣の部屋からは薄いベニヤの板壁を通して、ドラムとギターの音がガンガン響いていた。隣人は迷惑という言葉を知らない。以前はどなりこんで音量を下げさせていたが、最近ではそれも面倒になった。夕飯用に買ってきたサンドイッチを放りだして、電気も点けないままごろんと畳に寝転がった。
 小さな窓から月明かりが差しこんで、部屋の隅に青白い影を投げていた。そこには、まっぷたつに折れた絵筆が無残な姿をさらして転がっていた。自分への戒めとしてそのままにしておいたのだ。ひと月たった今では、それを見ても何の感慨も浮かばない。
 壁の時計を見た。あと数時間で、ぼくは三十になる。夢見る時間の終わり。時間切れだ。
 仰向けになってすすけた天井を睨んでいると、昼間見た絵描きの姿が目に浮かんできた。それはひと月前までの自分の姿でもあった。絵を描いて、バイトに行って、帰ればまた描いて、休日には大通りに出かけ、道端に作品を並べ、道行く人から声がかかるのを、なかば諦め、なかば期待して待ち続け――。
 この十年でわかったことがあるとすれば、絵で食べていこうなんて夢のまた夢だってことだけだ。
 目を閉じると、隣室の騒音が畳から直に伝わってきた。隣に大学生が引っ越してきたのは一年前だ。ぼくはそれより九年も前から、ずっとこの部屋で絵を描き続けてきた。浮かんできたイメージを画布に描きなぐった。思うように描けなくて自棄にもなった。何度も描くことをやめようとして、そのたび思いとどまった。そうやって十年。われながら好き放題やったものだ。
 でも、このままの生活を、五十になるまで続けられるか? 関節痛に耐えながら、ストーブ一つないぼろ部屋で、画材ばかりためこんで生活できるか? ほんの少しの想像力があれば、答えは自ずとわかる。
 三十になる今が潮だろう。そろそろ現実的になるべきだ。ひと月前にようやくその結論に達した。そして、描くことをやめた。自分にけじめをつけるためだ。愛用の筆も折った。次の給料日には、画材ではなく就職情報誌を買ってきた。
 いらいらと寝返りをうった。情けない。未練たらしく考えるのはもうやめだ。現実的になるんだ。明日は四社面接がある。余計なことは考えず、さっさと寝ることだ。
 スーツも脱がず、サンドイッチも食べないまま、そのままの格好で眠ってしまった。
 そうして、夢を見た。
 明るい日差しが降りそそぐ、平日昼間の公園。男の子が一人、かがみこんで猫をなでている。茶色毛の猫。音のない世界。陽を受けた砂がきらきらと輝く。
(そうだ、背景は砂色にしよう)
 そこで目が覚めた。隣の騒音は止んでいた。
 起き上がって電気を点けた。サンドイッチを食べながら、就職情報誌でも読もうと思った。スーツの上下を脱ぎすてた。押し入れにしまいこんであった画材をひっぱり出した。
 部屋の隅の折れた筆に手を伸ばしたとき、自分のしようとしていることに気づいて動けなくなった。ぼくは何をするつもりだ?
 時計を見た。十一時五十九分。あと一分で、ぼくは三十になる。
 ぼくにとってのタイムリミットはいつなんだ?
 秒針が音もなく時を刻む。首すじを汗が伝う。とらえようのない夜が、耳を圧して迫ってくる。
 ぼくは、筆をとった。