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アスファルトが融けて流れそうな昼下がり。
いいかげん蝉の声も聞き飽きたけれど、そんな人の気持ちなど気にも留めずに、蝉は盛んに鳴き立てている。暑さをいやますその声にげんなりしながら歩いていると、遠くにゆらりと人影が見えた。
道は緩やかな上り坂になっている。このあたりは新興の住宅街で、道幅は広く、歩道のスペースも余裕をもってとってある。その歩道のはるか先、ちょうど坂が終わって空と繋がっているあたりに、その人影は現れた。と思ったら、人影は滑るようにぼくのすぐ目の前までやってきた。
「やっと見つけた」
若い男だった。大学生のぼくより三つほど年上だろうか。引き締まった体つきとは対照的に、肌の色が病的に白い。ランニングからのぞく二の腕などは太いくせに真っ白なので、たくましさよりむしろ、もろい印象が先に立つ。
「探すのにえらく苦労したよ。さっそくだけど、キミに見てもらいたいものがあるんだ。ついてきてくれないかな」
「なんだって?」
「いいからついてきてくれ」
そういうと、男はぼくの腕をつかみ、引っぱってでも連れていこうとする。その性急さと、触れた手の冷たさには面食らったが、男の顔を間近に見たら妙な気持ちになった。どこかで見た顔だ……ぼくと深く関わりのある人ではなかったか?
実のところ、ぼくにはこれといって用事もなかった。家で寝転んでいたってよかったのに、なぜわざわざ日に焼かれに出てきたのだろう。それにひょっとしたら男は知り合いで、ぼくが度忘れしているだけかもしれない――そう思うと、無下に断るのも気が引けた。結局ぼくはそのささいな後ろめたさとともに、引かれるままについていった。
その男についてある種の確信を得たのは、人気の多い商店街に入ってからだった。
買い物客は汗ばんだ顔を揃って不機嫌そうにしながら、だらだらと店から店へ行き来している。アーケードもないから、彼らの影は焦げ跡のように道にくっきり落ちている。そんな人々の間を縫うように抜けていくうちに、ぼくはおかしなことに気づいた。ぼくの手を引いていく男に誰一人、目を向ける者がいないのだ。ただでさえ男は人目を引くほど肌が白い上、一度ならず買い物客にぶつかりそうになったのに、誰も振り返ろうともしない。この暑さだ、誰もが多少のことでも、いらついた視線を投げてきそうなものなのに。
不審に思って男の背中を見つめていると、その白いランニングを通して、ふっと向こうの人や、店ののぼりがぼんやりと見えた気がした。そんなばかな。目をこすって見直したが、気のせいではなさそうだ。まるで蜃気楼のように、ときどき男の姿が揺れて薄らぐのだ。極めつけに――たったいま気づいたが――男には影がなかった。
そうか。道行く人たちは男を無視したのではなく、男が見えなかったのだ。
――この男、幽霊なんじゃないのか。
その考えは、すでに知っていたことのように頭に浮かび、すぐに確信へと変わった。けれど不思議と怖くはなかった。奇妙な親近感すら覚えたほどだ。
この男がぼくに話しかけたのは、たまたまぼくだけがこの男を感じとれたからかもしれない。そういえば、ぼくを探すのに苦労したとか言っていたっけ。霊感が強い方だと思ったことは一度もないが、もしぼくにしか彼が見えなくて、彼が誰かに何かを伝えたがっているのなら、ぼくがそれを聞いてあげてもいいじゃないか。
男はぼくに芽生えた親切心など知る由もなく、ただ黙々とぼくを引っ張っていく。つかまれ続けているぼくの腕は、その部分だけ凍るように冷えきっていた。
商店街を抜け、ぼくらは炎天下をしばらく歩いた。やがてごみごみした古い住宅街の、とある十字路に出た。四つの角はすべてブロック塀で、カーブミラーもなく見通しは悪い。狭苦しいために蝉の声がいっそう疎ましく感じられる。じりじりと焼けつくような声、声、声。
男は立ち止まった。十字路の右手の角に花が置かれているのに、ぼくは気づいた。
「トラックだった」
不意に男はぽつりと言った。
「スピードはそれほどでもなかった。制限速度を守ってたわけでもないけどね。そこへ横道から子どもの自転車が飛び出してきて、運転手は慌ててハンドルを切った。自転車は無事だったけど、トラックは壁にまともに衝突した。――そのとき巻き添えを食ったんだ」
たしかに、右手の角だけ壁が崩れている。近づいてみた。壁際に供えられた菊の花はまだ新しく、すぐ側には遺族が書いたのだろう、手紙らしいものが添えてあった。
ヒロユキヘ。表にそう書いてある。ヒロユキヘ。
「思い出したかい、ヒロユキ?」
男がぼくを振り返った。尋ねられる前に、ぼくはすべてを思い出していた。
ブレーキ音。迫って来る巨大な影。体がばらばらになるような衝撃。世界が真っ白になり、すぐに真っ暗になり……。
「そうだ、ぼくはここで――」
「ショックだったんだろうね。それでキミはこの世界に留まったまま、あてもなくさまよっていたんだろう。何が起こったのか理解できずに」
理不尽な終わりを理解できずに。
男はぼくの手を両手でぎゅっと握り、すまなそうにぼくを見た。ああ、そうだ、この男の顔は、あのとき最後に見た顔だ。フロントガラス越しに見えた必死の形相――そうか、運転手も助からなかったのか。
「キミには本当に悪いことをしたと思ってる。でも何が起きたのか理解したなら、キミももう行かなくてはならないよ」
男の幽霊がぼくの手を握ったまま、ふわりと宙に浮いた。と同時に、意識がふっと遠のいた。そのまま空に溶けてしまいそうになる。焦りに全身が熱くなった。
ちょっと待ってくれ。ちょっとでいい。ぼくはまだ――
「悪いけど、もう時間切れなんだ」
男はわずかに同情したようだが、表情はもうわからなかった。男の姿はもう半分ほど消えてしまっている。
視界がかすむ。全身の感覚が次第に失せてゆき、そして記憶が消えていく。嫌だ、嫌だ、忘れたくない。ぼくはすがれるものを探して必死にあたりを見まわした。
そのとき、夏空にひときわ大きく蝉の声が響いた。声は徐々に徐々に高くなって、ぼくの全身を包み込んだ。
――ああ、この声を聞くのもこれで最後か。
この声だけは忘れずにいよう。忘れるものか。
了
400字詰め原稿用紙換算枚数:8枚
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