ホーム > 小説 > 親切な魔法 |
――暑くて寝られないや。
気がくさくさして、ヴィトーは寮を抜け出した。月以外の誰にも見咎められなかった。窓を乗り越えているところを守衛に見つかったりしたら、こっぴどく叱られて、手ひどいおしおきを受けただろう。なにしろこの寄宿学校の第一の方針は、「良識のある生徒の育成」なのだから。
風が吹いていることを期待したのだが、その期待は見事に裏切られた。夏も終わりだというのに、大地は昼間の熱気を残しており、草の匂いがむっと鼻についた。見上げれば月までが大きな顔でヴィトーを見下ろしている。ヴィトーはばかにされているみたいに感じた――そして誰からだろうと、ばかにされるのはもういやだった。
むやみやたらと歩きつづけるうちに、ヴィトーは広い原っぱに出た。月明かりにしらじらと浮かぶ草原には、見渡すかぎり誰もいない。そよとも動かぬ空気。世界はすっかり寝静まっている。夜のまんなかにヴィトーただひとり……しかしそれで気分がよくなるものでもなかった。もういちど、誰もいないのを確認して、ヴィトーは唐突に歌いだした。
おお、わが心に巣食う野望の灯火よ
劫火となりて我を満たし 不滅の魂を――
我ながらどうしようもなく下手だなあ、と思いつつ、それでもどうにか上手く歌おうと根気よく声を張り上げる。どうせ誰にも聞かれる心配はないのだ。練習すればいくらかましになるかもしれない。半分やけになって、顔を真っ赤にほてらせながら懸命に歌っていると、背後からふいに誰かに声をかけられた。
「なによその歌。辛気臭いわねえ」
飛び上がりそうになって――実際五センチくらい飛び上がったかもしれない――心臓をどきどきいわせながら、ヴィトーは振り向いた。いつの間にそこにいたのか、十二、三歳くらいの、つまりヴィトーと同い年くらいの女の子が、腰に手をあてて立っていた。よもぎ色のシャツに、よもぎ色のスカート。若草色の長い髪に、澄んだ若草色の瞳。……いや、相手が女の子だろうと守衛のおじさんだろうと関係ない、歌を聞かれたことが問題なのだ。きまりのわるさにヴィトーは耳まで赤くなった。
「だ、だ、誰だよ、きみ」
「なによ、人を化け物みたいに」女の子はほほをふくらませた。「わたしはメルエン。いい名前でしょ」
「メルエン……?」
「そ、メルエン」にっこりしたかと思うと、またしかめっつらになる。ずいぶん感情表現のはっきりした娘だ。「しっかしひどい歌だったわね。そんな歌聞かせられちゃあ黙ってられないわよ。まったく、なんて歌うたうのよ」
ヴィトーはかちんときた。「悪かったね、下手くそで」
「ん? ああ、そうじゃなくて。歌い方より歌う内容が問題なのよ。『劫火となりて』とか『野望の灯火』とかなんとか、そんなの歌っててつまんなくない?」
「しかたないよ。合唱コンクール用の曲なんだから。クラスみんなで歌わなきゃならないんだよ」
「ふうん。そうか、それでひとりで練習してたのね? みんなの足を引っ張らないように」
そのとおりだった。ヴィトーだけ音程が外れているぞ、蛙よりひどいぞ、などと、昼間クラスメートにさんざんばかにされたのだ。いまだに悔しくて胸がちくちくする。それを、見も知らぬ他人にまで言い当てられたのでは、たまったものではなかった。
「いいじゃないか。人が何してたって」
「まあね。努力するのが間違ってるなんていわないわ」
ヴィトーはいらいらしてきた。
「いったいなんなんだよ、きみは。さっきから人をばかにして――」
娘はなだめるように両手を前に差し出し、いった。
「怒らない怒らない。わたしはメルエン。ただの歌の精よ」
「歌の精?」
「そ、歌の精」
「じゃあきみは、歌を上手く歌えるのかい?」
ノンノンノン、とメルエンは長い指をふった。
「歌を歌うのは、歌い手でしょ? わたしは歌の精。いってみれば歌そのものなのよ。わかった?」
「わからない」
「丁寧に教えてあげたのに」
「わからないってば。歌そのものって、どういうことさ」
「そっか、それがわかんないのか。じゃあ見せてあげる」
メルエンは一歩後ろに下がった。何を? とヴィトーが聞き返す暇もなかった。
彼女は両手を軽く広げて顔を上げ、唇を開いた。すると、澄んだ、きれいな、そよ風のような歌声が、最初は小さく、やがて夜いっぱいに響きわたった。なんだ、やっぱり自分で歌ってるんじゃないか、と言いかけて、ヴィトーははっとした。彼女は歌っていないのだ。声はどこからか自然に流れ出てくる。しかし彼女の口からではなかった。
歌声は幾重にも重なって夜空を舞った。歌声そのものが見えるようだった。帯のように広がった声は、ヴィトーの体を涼やかに包み込んだ。草が、空気が、月が震え、ヴィトーは胸が高鳴るのを感じた。胸を抑えつけていた悔しさや苛立ちが、みるみるうちに溶けて消えていった。
手をつないで踊れ踊れ 風の乙女たち
はしゃぐ声は春の息吹 輪になって皆を包むよ
ひとつひとつの旋律は単純で、胸にすっと染み入ってきた。メルエンはその音色に合わせ、両腕をいっぱいに広げてくるりくるりとまわりだした。夜はいっせいに歌い始め、ヴィトーの口からも、自然とメロディーがついてでた。ヴィトーの声は夜の声とからみあい、混ざりあって調和した。
手をつないで踊れ踊れ 風の乙女たち
揺れる髪は夏の緑 光浴びて木々を包むよ
(歌っていうのはね、いちばん古い魔法のひとつなの)
メルエンはにっこり笑ってヴィトーの手をとった。メルエンの軽やかな動きにつられてヴィトーまで、くるりくるりとまわりだす。
(できないことなんてないんだから)
よもぎ色のスカートが風に揺れる――夜の草原はふんわりとした風に満たされていた。さっきまでは押し込められたようにそよとも吹かなかったのに。まるでヴィトーのささやかな願いがかなったかのように。
こんなに気持ちがいいのは久しぶりだな、とヴィトーは思った。寄宿学校の厳しい先生たち。規則にしばられた窮屈な毎日。テストの点の競争。それが何になる? ここには歌がある。誰からも自由な風の歌だ。ヴィトーはメルエンの手をぎゅっと握ってくるりくるりとまわった。いまなら空だって飛べそうな気がする。
(ええ、飛べるわよ)
手をつないで踊れ踊れ 風の乙女たち
染まるほほは秋の訪れ 高く舞って空を包むよ
ぽうっと緑色の光が宙に浮いた。草原を埋めつくす草の一本一本が、星空に向かって手を伸ばす。葉の先からぼんやりと緑色に光る球があらわれ、ぽんっ、と空に放たれる。それは夜を染めながら弧を描き、ゆっくり速さを増しながら空へ、空へと舞いあがる。
いつしかヴィトーとメルエンの体は地面を離れていた。くるりくるり、旋律は変わらずに二人のまわりを流れ続ける。月が輝く。風が心地いい。
(言葉と、心に触れる旋律さえあれば、魔法はいつでも動きだす――忘れないでね)
手をつないで踊れ踊れ 風の乙女たち
細い指は冬の白さ 心優しく星を包むよ
緑色の光はひとつひとつ空に吸い込まれ、ひとつひとつ見えなくなった。旋律は夜の底へと静かに散っていった。足元には、確かな地面の感触。
ヴィトーはあたりを見まわした。風の鳴る草原に、メルエンの姿はなかった。季節はもう、ひと巡りしてしまったのだ。
引き止めることはできない。それはなんとなくわかった。それでも、ヴィトーは小声で、メルエンの名を呼んだ。
(ごめんね。もう行かなきゃ)
メルエンの声が夜に弾けた。
「なぜ? 歌が終わってしまったから?」
(ううん。そうじゃない。歌はね、誰か一人のためのものじゃないから。みんなのための魔法だから)
そうだった。ヴィトーはそれを思い出した。歌を一人占めすることは誰にもできはしない。そんなことをすれば、歌は力を失い、泡のように消えていってしまうだろう。
でも、一人占めになんてする必要はないのだ。会いたいときは、いつでも会える。魔法はいつだって動きだす。言葉と……そして心に触れる旋律さえあれば。
答えのわかっている問いを、その答えを聞きたくて、ヴィトーは口にした。
「また、会えるかな」
(いつでも)
返事はすぐに返ってきた。そうして、メルエンは今度こそ行ってしまった。
どこまでも広がる草原には、ヴィトーと、月と、さやさやと鳴る風だけが残された。その風には、秋の気配が混じっていた。
手をつないで踊れ踊れ 風の乙女たち
ヴィトーは小さく口ずさんでみた。少しだけ音が外れたけれど、ちっとも気にならなかった。それでも魔法は動いたのだ。いちばん古くて、そしていちばん親切な魔法。
ヴィトーは秋の風をめいっぱい吸い込んで、帰り道を歩き出した。胸をはって、足を高くあげて。
月は優しく草原を照らしつづけた。
了
400字詰め原稿用紙換算枚数:12枚
戻る