十二年目の帰郷 (二)


 部活に行くふりをして、私は制服姿で駅へと向かった。部活用のスポーツバッグには古い住所録と地図、電車の時刻表、念のために普段着や下着の替えを数日分詰めてある。それともちろん、あの鍵も。
 向かう先は、東京。値段を確かめて切符を買った。結構な金額だった。駅前のすすきの原をぼんやり眺めながら電車を待った。車内はがらがらだった。
 養父母は昔から、私の両親の話をまったくしようとしなかった。それが意地からなのか、私への遠慮からなのかは分からない。だがどのみち話を聞けたとしても、養父母は彼らの視点から見た両親の姿しか話すことができないだろう。それは多分に悪い偏見を伴ったものであるはずで、それではあのとき目にした母の背中に申し訳ない気がした。私はありのままの事実を知りたかった。だから、養父母には何も聞かなかった。今日は京子のうちにお泊まりしてくるから、とだけ伝えて私は家を出た。
 母の数少ない遺品の中に、花柄の住所録があった。丸みのある几帳面な字で、五十音順のページにそう多くない連絡先が記されていた。小さい頃にそれを見たときはなんとも思わなかったが、今にして思えば母はかなりアナログな人間だったのだろう。昨夜のうちに、押入れの中から遺品を納めたケースを引っ張り出し、その住所録を繰って、都内の一般家庭の住所らしいものをいくつかピックアップしておいた。それをもとに、養父の部屋にあった日本地図とにらめっこして、私が行くべき場所の目星をつけた。電車の駅でいえば、山手線の渋谷駅。ニュースの天気予報によく出てくる街だ。
 そう、私は以前住んでいた場所のことをまったく憶えていなかったのだ。探偵めいた方法で目星などつけてはみたけれど、行けば何かがわかるという保証はまったくない。一方では、それは気楽なことだった。わざわざ東京まで足を運んでみて何も得るものがなければ、それはそれで諦めがつく。むしろ諦めざるを得ないのだ――父について知ろうとすることを。どんなささいなことであっても、行動できるときに行動しないことが、私にとっては一番悔いの残ることだった。
 渋谷までの道のりも、家にあった時刻表で調べてあった。JRを乗り継いでいくだけだから、電車に疎い私でも迷うことはなさそうだ。実は東京に出るのも、引っ越して以来、つまり記憶にある限りでは初めてなのだ。もし何も成果がなかったら、観光でもして、京子へのお土産だけ買って帰るつもりだった。
 カタンカタンと単調に揺られること三時間、ようやく山手線に乗り換えた。すでに東京圏内に入っていたけれど、乗り換えの駅で降りたときに初めて都会に出てきたことを実感した。スーツ姿の大人が多いせいか、イメージしていた都会の華やかさはない。ただただ人が多くて、みんなせかせかしていて、人いきれで息がつまりそうになった。十両以上も繋がった電車に、それでもぎゅう詰めにならないと収まりきらないたくさんの人、人、人。渋谷駅のホームに吐き出されたときにはすっかり気分が悪くなっていた。こんなところで生活している人がいるなんて信じられない。養父ではないが、人ごみがいっぺんに嫌いになった。
 人の波にさらわれるようにして駅を出た。駅前広場は人でごった返しており、夏の太陽が頭上からギラギラと照りつけてきた。地元と比べてひどく蒸し暑い。周囲には巨大なビルが威圧的に建ち並んでいて、空がひどく狭い。人に囲まれていては見通しが悪いので、広場の端までどうにか人波をかきわけて出た。広い道路をひっきりなしに車が走っていき、赤信号で止まった車からは熱がかげろうのようにのぼっている。道路に沿った歩道も人でいっぱいで、立ち止まって周囲を確認するのも難しい。
 早くもため息が出た。とりあえず目についた見慣れた看板を頼りにファーストフード店で昼食を済ませ、どうにか気合を入れ直す。とにかくまずは、足を使って調べるしかない。
 しかし私はすぐに、今まで気づかずにいた自分の欠点の一つを知ることになった。私はいわゆる、地図を読めない人だったらしい。道端で養父の地図をこっそり広げ――道行く大勢の人たちから奇異の目を向けられたが――その地図を回転させてみてようやく、行こうと思っていたのとほぼ反対の方角に歩いてきてしまったことに気がついた。
 地図によると、そこは渋谷センター街というところだった。名前くらいは聞いたことがある。雑然と店舗ビルが立ち並ぶ通りを、若い人たちばかりが行き来している。私とほとんど歳が違わないであろう女の子たちとすれ違うたび、その服装につい目がいってしまった。あれでも普段着と呼ぶのだろうか、どの子もファッション誌から抜け出てきたみたいな服装だ。ときには漫画みたいな奇抜な格好の子もいたけれど、地元とはおしゃれの次元が違う。制服にしてもそうだ。賑やかな女子高生の集団を見かけるたびに、このあたりの高校はどうしてこうもかわいい制服ばかり揃えているのだろうと思ってしまった。自分の服を野暮ったいと感じたのは、自分で服を選ぶようになってから初めてのことかもしれない。
 とにかく道を間違えてしまったからには、いったん駅まで戻らなければならない。きびすを返しかけたとき、人形みたいな女の子の姿が目に飛び込んできた。ゴシック系の服を着た女の子を実際に目にするのは初めてだった。短めのレースの黒いスカートに、フリルが特徴的なブラウス、明るい茶色に染めた髪を長いリボンが緩く結んでいる。服装ばかりでなく、化粧も目を引くものだった。少しきつめのアイシャドーに、大きな瞳をさらに強調しているマスカラ、少しつんとした唇を艶っぽい口紅が飾っている。そのきれいな、少し浮世離れした姿の女の子に、しつこく言い寄っている男がいる。黒づくめの若い男で、彼女の歩みに歩調を合わせながら、長身を折り曲げ、ご機嫌伺いでもするみたいな格好で愛想のいい言葉をかけている。ナンパだろうか。女の子は見向きもしないが、男が前に身を乗り出すようにしているために歩きにくそうだ。ヒールの足音がいらいらと不規則に響いてくる。
 見ない振りをするのが一番賢い選択だったのだと思う。しかし私は、周囲の人たちがまさにそうしていることに気づいてしまった。人ごみが彼ら二人を大きく迂回して行き過ぎる様子が、ひどく冷淡なものに映り、そんな無数の顔と同じ側に立つのは恥ずかしいことに思えた。それでつい、声をかけてしまったのだ。
「ごめんごめん、遅れちゃって。……ごめんなさい、友達とこれから買い物なんで」
 アドリブの台詞ごと、思いきって二人の間に割って入った。男はしゃべりかけた言葉を宙に浮かせたまま、その場にぽかんと立ちすくんだ。私はやはりぽかんとしている女の子の腕を引っ張って、すぐそばにあった家電屋さんに急いで入っていった。狭い通路を人を避けつつ奥に進み、携帯電話の商品棚を回り込んで、陰から様子を窺う。男は追ってこなかった。しばらくお店の前で所在なさそうに突っ立っていたが、やがて人ごみに紛れてどこかに行ってしまった。私はほっと胸をなでおろして、知らずにきつくつかんでいた女の子の腕をようやく放した。と同時に、女の子のつけている香水の香りにも気づいた。
「ずいぶんしつこかったね、あの人。大丈夫?」
 そう話しかけると、女の子は目をぱちぱちさせてから、舌足らずな口調で言った。「大丈夫って、何が?」
「何がって、さっきの男の人。しつこく誘われてたでしょう」
「ああ、あれ? ただのキャッチじゃない」女の子は口の端を持ち上げた。きれいな顔をしているのに、あまり感じのいい笑顔ではなかった。カラーコンタクトをしているのだろう、西洋人形を思わせる水色の瞳で、私を値踏みするように頭から足元までじろじろと眺めた。「あんた、このへんの学校の子じゃないのね?」
「え、うん、ちょっと……遠くから来たの」
「田舎から?」
「まあ、田舎から」
 女の子の笑みに、少しだけ親しげな感じが加わった。「じゃあ、ああいうの見慣れてないのね。このへんじゃ珍しくないよ、ああいうの。ずっと無視してればそのうちどっか行っちゃうよ。興味があればついてってもいいけど」
「……ひょっとして、興味あったの?」
「まさかあ。ないない」女の子はけらけらと笑った。「あんた、面白いこと言うねえ。でもさっきのはちょっとウザかったから、助けてもらって嬉しいかも」
 嬉しいかも、というのは嬉しいのか嬉しくないのかどちらだろう。
「修学旅行か何か?」女の子は私に興味を持ったようだ。
「ううん、ちょっと遊びに来ただけ」
「学校の制服で?」
「ちょっと、いろいろあって」
「なるほどねえ」女の子は何かに納得したようにうなずいた。「あたし、セリナっていうの。あんた、名前は?」
「……青葉」
「アオバちゃんね。東京にはしばらくいるんでしょう?」
「え? うん、たぶん二日くらい。もしかしたら三日かも」
「困ったことがあったら連絡ちょうだいよ。力になれるかもしれないから」
 セリナは服に合った、黒いつやつやしたバッグから携帯を取り出した。私は店員の目を気にしてしまった。
「ねえ、ここ携帯電話の売り場だよ」
「それが? ああ、大丈夫よ別に。赤外線でいい?」
 セリナはネイルアートが施された細い指ですばやく操作しながら、携帯を私に突き出してきた。私はいろいろな意味で気まずくなった。
「私、携帯持ってないの」
「そんな嘘つかないでよ。大丈夫だって。あたしとアド交換するのイヤなの?」
「そうじゃなくて、ほんとに持ってないの。なくても困ることはないし」
 これは嘘ではなかった。私には本当に携帯が不要だったのだ。耳の遠い養父母の家では、電話は私のためにあるようなものだった。町の人たちも養父母のことは知っていて、新聞や保険の勧誘も電話では絶対にしてこない。電話越しに養父母と会話をしようと思ったら、それなりに精神力と体力を消耗するのだ。というわけでかかってくるのは自然と私宛ての、つまり友達からの電話ばかりになる。友達との長電話で叱られることもほとんどない。……そのあたりの事情を話せば長くなるし、わざわざ初対面の人に話すことでもなかった。
 セリナはもともと大きく見える目をさらに見開いた。「あんたんとこって、よっぽど田舎なのねえ」
「そういうんじゃないよ。クラスメートはほとんどの子が持ってるよ」
「そっかあ。アオバちゃんいろいろ大変なんだねえ」セリナはバッグにするりと携帯を落とし込みながら、また口だけで笑った。「んじゃ、何か困ったらこのへんに来てよ。そうだなあ、ハチ公とか、分かる? あのへんにその制服で座っててくれればたぶん見つけられるよ。夜がいいかな。わりとよくこのへん来るから」
「う、うん、ありがとう」
「今日泊まるとこはあるの? てかこれからどっか行くアテあるの?」
「うん、これから……友達のとこに」
「ああ、もうトモダチいるのね。なんだ、そっかあ」ずるそうな目をちらりと私に向けると、そういえば、と思い出したように言った。「そうだ、あたしもトモダチと待ち合わせてるとこだった」
「そうなの? ごめんね、なんか……引き止めちゃって」
「いいよいいよ気にしないで。ちょっとくらい遅れてもぜんぜん平気だから。じゃあまたね、アオバちゃん」
 胸のところで小さく手を振りながら、セリナは弾むような足取りでお店から出ていった。お店にいる人たちは彼女がそばを行き過ぎるとちらっと目を向け、すぐにそらした。
 彼女の姿が見えなくなると、私は大きく息をついた。正直ほっとした。自身のうかつな振る舞いを反省したい気持ちもあったが、セリナが私に対して見せた奇妙な親密さのほうが、より私を当惑させた。これだけたくさんの人が集まっている街だから、いろいろな人がいるのだろうとは思う。それとも、初対面で携帯のアドレス交換をするのは、東京では普通なのだろうか。

 気を取り直して駅へと向かった。大きな交差点を横目に、駅の反対側へとぐるりと歩いていき、歩道橋を渡って大通りを越えた。そのまま地図を頼りにやや細い道へと入っていく。
 私は教会を探そうとしていた。おぼろげだが、教会の前を通って母と二人、手をつないで買い物に行った記憶があったのだ。背の高い小塔と、その先端に取りつけられた十字架。母の頭よりずっと高いところに見えた風景。渋谷駅の近くにあったと思われるその教会を見つけ出せれば、さらに何か思い出せるかもしれない、そう思ったのだ。
 しかしそううまくは運ばなかった。地図に載っているとおりの場所に、教会はあった。だが建物の形が私の記憶と合わなかったし、その周辺の様子にも懐かしさを感じることはなかった。もっとも、さほど教会に期待していたわけではなかったから落胆もなかった。なにしろ私が東京に来るのは十二年ぶりなのだ。私の記憶にある建物がまだ建っているのかどうかも怪しいし、場所は同じでも建て替えられている可能性だってある。こんな大都会のことだ、街並みなど短い時間でどんどん変わっていってしまうだろう。
 わざわざそんなおぼろな記憶を最初に頼ったのは、たまたまその教会が本命の場所への道筋にあったからだ。私はまた地図を開いて、次の目的地を確認した。行き先は「パームハイツ」。建物名からしてアパートかマンションだろう。母の住所録に、この建物の住人の連絡先が何件かあったのだ。それは私の幼稚園の同級生の住所かもしれないし、父の仕事仲間の家かもしれない。ひょっとしたら私たち一家が当時そこに住んでいて、ご近所さん、ということで載せてあったのかもしれない。まだ建物が残っていれば、大家さんに話を聞くこともできるかもしれないし、なんなら住所録に載っている部屋番号を頼りに、一軒ずつ直接訪ねてみたっていい。……ちょっと勇気が要るけれど。
 養父から拝借してきた地図には小さな建物名までは載っていないが、住所で探すことならできる。私は地図を何度も回転させて向かうべき方向を念入りに確認しながら、脇道へと入っていった。その並木道から横に折れると、閑静な住宅街に出た。センター街の人ごみが嘘のように、そのあたりにはほとんど人がいない。なんだかほっとした。
 こじんまりした児童公園を突っ切り、さらに狭い小道に出た。左に続く石垣から、つややかな葉を茂らせた木々が頭をのぞかせていた。その道を歩いているうちに、奇妙な感覚に捉われ始めた。世界が縮んでしまったような、あるいは自分が大きくなってしまったような。石垣と平行に延びた地面の白線はもっと太く、石垣はもっと高くなければいけない気がした。木々にしても、もっと背が高いはずだ。塀の向こうに森があるように感じるはずなのだ。
 私は直感した。きっと、ここは昔、小さな私がよく歩いた道なのだ。幼稚園への行き帰りに使っていた道だったのかもしれない。母と、あるいは仲の良かった友達と手をつないで、黄色い肩掛けカバンを提げ、黄色い帽子をかぶって。
 私は過去に手を引かれるように、懐かしい景色の中を進んでいった。途中、何度か右往左往して地図で位置を確認したものの、またすぐに見覚えのある景色を見つけ出すことができた。そしてとあるマンションの前で、私の足はぴたりと止まった。
 三階建ての古い建物。灰色の漆喰の外壁がはがれてぼろぼろになっている。両隣の新しい、太った建物に圧迫されて、なんだか苦しそうだ。入り口のアーチを見上げると、「マンションパームハイツ」という字が銅のプレートに浮き上がっていた。これも以前どこかで見た覚えがある。やはり私はここに住んでいたのかもしれない。
 ここから先の行動には少し勇気が要った。アーチをくぐってすぐの部屋の前に立つ。そこには受付窓があり、台の部分に「管理人」と書かれたプレートと、呼び出し用のチャイムが置かれていた。冷たい金色のチャイムを押すと、くぐもった派手な音が窓の向こうから響いてきた。しばらく待って、もう一度。でも中に人の気配は立たなかった。留守なのだろうか。
 一階に並んでいるドアに目をやる。隣の建物の陰になっているせいもあるだろうが、木のドアはどれも陰気で湿っぽく見えた。表札はまったく見当たらない。ドアに部屋番号が書かれているだけだ。でこぼこの外壁には埃くずがくっついていて、ところどころ埃が連なって糸状に垂れている。狭い通路を挟んで上への階段があるが、その剥き出しの金属の造りとところどころに浮いた錆びは、周辺の建物と比べてもやっぱり古びた印象を与えている。
 いざとなったら部屋を一つずつ訪ねてまわればいい、そう私は気楽に考えていたはずだ。しかし私はそのとき、どんな場所を想像していただろう? 一人一人を訪ねて、いったいどんな話を聞けると思っていたのだろう? 時代に取り残されたような建物を前にして、私はひどく心細くなった。
 もしかしたらもう誰も住んでいないかもしれない、という期待めいた考えが頭に浮かんだ。しかしよく見ると、一階の一番奥の部屋だけ、ドアについた郵便物の受け口にたくさんのチラシが詰め込まれていた。他のドアにそれがないということは、奥の部屋だけ空き部屋なのか、それともそこの住人だけが面倒くさがり屋なのか……とにかく他の部屋には誰かが住んでいるということだ。それなら管理人も、今は留守にしているだけなのだろう。私はもう一度だけチャイムを押し、まったく反応がないことを確認してから、アーチをくぐって道に出た。振り返って建物名の入ったプレートを見上げたが、最初に感じた懐かしさはすっかり消えてしまっていた。
 午後の太陽が町並みを埃っぽく照らし出していた。私は日陰を拾いながら、さっき通ってきた公園まで戻り、木陰のベンチで一休みした。背中にじっとりと汗がにじみ、不快感が募る。公園内には誰もいない。ブランコや滑り台が、逃げ場もないまま強い日差しに焼かれているだけだ。片隅に建っている時計を見ると、三時半を少しまわったところだった。
 今からなら家に帰れるな、と思った。終電の時刻は調べてある。
 結局のところ、過去を暴きだして私はどうしようというのだろう。過去に何があったのか、父が何をしたのか、どうしていなくなったのか、それが分かったところでどうなるというのだろう。パームハイツは私の夢想の産物ではない。現実であり、その現実をいざ前にしただけで私は怯えてしまった。そこには想像との大きな隔たりがあった。自分は現実的なつもりでいたけれど、多分に空想的だったことを認めないわけにはいかなかった。この先何かが分かったとして――例えば父の「被害者」と差し向かうことになったとして、私に何ができるというのだろう。
 被害者。そこで私はあの目を思い出した。夕日の中で私を見つめていた、知らない男の目。あれが誰だったのかは知らない。父と関係のある人物だったのかは分からない。でも水原の名で呼ばれただけで、激しく動揺してしまったのはたしかだ。私が築き上げてきたはずの自信は、あの程度の出来事で揺れてしまうほどもろいものだった。これからも心の隅に不安を抱いたまま日々を送れるだろうか? うまく自分に隠しおおせてきた不安に、こうして気づいてしまった今でも?
 バッグを開き、小物入れからあの鍵を取り出してみた。父からもらった鍵。日の光を受けてそれはぎらつき、その射るようなまぶしさに私は目を細めた。これこそ、私の不安そのものなのだ。水原の名で呼ばれたことはきっかけにすぎない。この鍵を捨てられずにいることこそが、私が吹っ切れていない証拠なのだ。過去に光を当てない限り、私は過去に縛られ続けるだろう。
 私はベンチから立ち上がった。できるだけのことをしよう。たとえ何も見つからなくても、行動したことは自信につながるはずだ。今までだってそうやってきたのだ。自分を信じよう。
 私は公園内を見回したが、あいにく探し物はそこにはなかった。仕方なく再度、駅のほうへと戻る。人と車の往来の激しい大通りまで戻ってようやく、通り沿いに並んでいる電話ボックスを見つけることができた。中に入ると、こもった熱気にむせそうになった。
 バッグから母の住所録を取り出し、ページを繰る。住所を頼りに知らない人を直接訪ねるのは思っていたよりずっと難しいが、電話越しなら仮にきまり悪いやりとりになっても、心の負担はだいぶ軽く済むだろう。
 家からそれらの番号に電話してみることも、昨夜考えはした。でもできなかった。過去を訪ねるためには、水原の名を口にしなければならない。養父母のいるあの家で、電話でとはいえ水原の姓を名乗ることに、どうしても抵抗があったのだ。それは今まで育ててくれた養父母を裏切るようなものだった。金子青葉を知らない街、水原青葉が埋もれているかもしれない街でしか、私は古い名を名乗りたくなかった。
 住所録に記された名前や住所、連絡先。その中の個人のものらしい番号に、「あ」の行から順に電話をかけていった。昔どこかでもらったきり使ったことのないテレホンカードを機械に入れ、熱を帯びたプッシュボタンを押す。ほてった受話器に耳を当てて身構える。
 四つ続けて不通だった。番号を押すとほぼ即座に、おかけになった番号は現在使われておりません、という機械の音声が返ってきた。予想していなかったわけではなかった。なにしろ十年以上経っているのだ。引っ越してしまった人もいるだろうし、携帯の番号だって変わっていてもおかしくはない。むしろ今でも通じる番号のほうが少ないだろう。ひょっとしたら一つも生きている番号はないかもしれない。
 機械の音声が聞こえるたび、私の緊張は少しずつほぐれていった。だから五つ目が繋がってしまったとき、私の心臓は跳ね上がった。
「もしもし?」
 女性の、明るい声だった。大通りの喧騒が邪魔で、少し聞こえづらい。太い受話器に耳を押しつけ、もう一方の耳を空いている手でふさいだ。電話が繋がったらどう話を始めようと思っていたか、必死に思い出す。
「あ、あの、榊原さんのお宅でしょうか?」
「……どちらさまでしょうか?」
 相手の声が用心深くなった。ただし、それはこちらも同じだった。十二年ぶりに、私は自分の口から、古い名を名乗った。
「私、水原青葉といいます。昔、うちの父か母がお世話になっていたと思うのですが」
 言いながら、私は相手の年齢を予想していた。声からして、たぶん年上。ちょうど私たちの年代にとっては両親くらいの歳ではないかと思った。父母と直接の付き合いがあった人だとすれば、すんなり話が通じるかもしれない。
 しかし電話の相手は黙り込んでしまった。長い沈黙が続く。私はどうにか話を続けなくてはならなかった。しかし私が話の接ぎ穂を見つけるより先に、相手から戸惑ったような声が返ってきた。
「アオバちゃん?」
 はい、とおそるおそる返事をすると、相手の声が明るさを取り戻した。若々しさが声音に加わった。
「すごい久しぶり。私カナよ。幼稚園が一緒だった。憶えてる?」
「カナ……ちゃん?」
 記憶の扉が少しだけ開いた。そこから聞こえたのは懐かしい声だった。

 幼稚園以来の再会でも、お互いちゃんと相手が分かるのだから不思議なものだ。駅の改札口で待ち合わせた私たちは、顔を合わせたとたんに相手を認めた。手を振りながら近づいてくるカナちゃんのほほにゆるゆると笑みが浮かんできた。たぶん、私も鏡写しみたいに同じ表情をしたのだと思う。
 私たちは久しぶりに会った女の子どうしらしい、賑やかな挨拶を交わした。
「でも、最初は見違えちゃったわよ」
 カナちゃんはにこにこしながら言った。私も同じ言葉を返したけれど、どちらがより「見違えるほど変わった」かは一目瞭然だ。
 カナちゃんはグレーのタンクトップに白い緩やかなブラウス、黒のショートパンツにエナメルのパンプスといういでたちで、ラフなのに大人っぽく、魅力的だった。うらやましくなるようなさらさらの髪を肩のあたりでふわりとカールさせ、先だけきれいな茶色に染めている。そのすらりとした長身の横に立った学生服姿の私は、傍から見ればさぞかし子供っぽく映っただろう。
「すっごい久しぶりよね。アオバちゃんが引っ越しちゃって以来だもん。今はこっちの学校に通ってるの?」カナちゃんは私の制服をじっと眺めた。「見かけない、制服だね」
「今日はたまたま……ちょっと用があってね。電話でも話したけど、私も東京に出てきたのは引っ越して以来よ。今は地元の高校に通ってる」
「あ、そういえば言ってたね。今住んでる家は遠いの? 今日は日帰り?」
「遠いよ。まだぎりぎり帰れるけど。でもまだ用事が済んでなくて、今日はこっちに泊まろうかなって思ってるんだ。なかなか出てこれない距離だしね」
 カナちゃんは大きな目をぱちぱちさせた。「用事って、どんな? 観光ってことはないよね。夏休みの宿題の調べ物とか?」
「うん、まあ、そんなとこ。もしかしたら今日だけで済むかな、って思ってたんだけど、不慣れな場所だしいろいろ時間かかっちゃって」
「なんか大変そうだね。宿題もめんどくさいのはほんと、面倒だからねえ。泊まるとこはもう見つけたの?」
「ううん、これから。宿泊場所を探すのって初めてなんだけど、駅の旅行案内所で聞けば紹介してもらえるって、旅行好きの先生に聞いたことがあってね。本当かどうか、あとで試してみるつもり」
「ふうん。それなら」カナちゃんはさらりといった。「今夜はうちに泊まってかない? それともどうしてもその旅行案内所ってのを試してみたい?」
「え? 悪いよ。うちの人にも迷惑だろうし……」
 カナちゃんはにこっと笑った。「それなら大丈夫。私、一人暮らししてるから」
 いいから、とにかくちょっと寄ってってよ。その気軽な口調に誘われて、私はカナちゃんの家までついていくことになった。思いがけない展開だ。道すがら、彼女は自分のことを話して聞かせてくれた。
 彼女のお父さんは大手の化粧品会社に勤めていて、約一年前、ヨーロッパの支店への転勤が決まったのだそうだ。数年は帰ってこれないと分かっていたため、お父さんは家族を連れて行きたがったのだけれど、家族の中でカナちゃんだけが反対した。彼女は都内の難関校に入学したばかりだったのだ。せっかく猛勉強して、高い倍率を突破して受験に合格したのに、それを棒に振ってまでヨーロッパに行きたいとは思わない。そこで家族で話し合った末、カナちゃんだけが日本に残り、お母さんとカナちゃんの弟さんは、お父さんについてヨーロッパに住むことになったという。
「それってすごいね。一人暮らしなんて大変じゃない?」
「家事が面倒といえば面倒だけどね、慣れちゃえば気楽なものよ。私が行ってる学校には、実家が遠くて一人暮らししてる子だって結構いるよ。その子たちと比べたら、うちなんて実家だから家賃はタダだし、生活費も親からもらってるし、ずっと恵まれてるよ。それに、母さんも月に一回はこっちに帰ってくるし」
「一人で寂しくないの?」
「平日は朝から晩まで学校だからね。休みの日はぶらぶら遊びに出てることが多いし、友達呼んで一緒にテレビ見たり、家事を手伝ってもらったりもしてるし。ああ、でも安心して」カナちゃんはいたずらっぽく笑った。「今日のアオバちゃんはお客様だから、洗濯やらせたりなんてしないよ」
 カナちゃんの家は、例の公園やパームハイツと同じ方角にあった。さっきと違う道を通ってきたのでそれぞれの位置関係ははっきり分からなかったものの、同じ幼稚園に通っていたくらいだからご近所さんでも不思議はない。やがて彼女が指し示したのは赤銅色の瓦屋根に、クリーム色の壁の一軒家だった。改築したのか、手入れがいいのか、周りの家よりもきれいで清潔に見えた。
 ドアはオートロックのようで、閉まると同時に錠が下りる音がした。ひんやりとした玄関から板張りの居間へと通され、促されるままソファに座り、なんとなく落ち着かずにきょろきょろ部屋の中を見回していると、カナちゃんが台所から麦茶のボトルとコップを二つ、お盆に載せて持ってきてくれた。麦茶をコップに注ぎ、二人でささやかながら再会を祝って乾杯した。
「やだなあ。そんな硬くならないでよ。オバケでも出てきそうに見える?」
「そんなんじゃないけど。立派な家だなって思って」
「一人で住むには大きすぎるのよね。この部屋だけでも十分なんだもん。母さんたちの部屋と弟の部屋は封印しちゃった。埃だらけになってるだろうけど、わざわざ掃除してもしょうがないもんね。どのみちほとんどの家具は海を渡ってむこうの家に行っちゃってるし」
 それから、私たちはいろいろな話をした。幼稚園の頃のこと、小学校や中学校のこと、今の学校のこと、友達や男の子のこと。カナちゃんには少しすれた、大人びたところがあったけれど、親しみやすい温かさもあって、話は弾んだ。私たちは時を超えて、すっかり仲のいい友達どうしに戻っていた。女の子どうしで十二年も空白があれば、話題には事欠くことがない。
 それでも、話題は一巡りして戻ってきた。
「カナちゃんのお父さんて、化粧品の会社に勤めてるんだったよね。どんな仕事なの? 化粧品を作ってるの?」
「ううん、セールス企画担当だって。新作のキャンペーンを考えたり、売り場のコーディネートをしたりしてるんだって。たまに店員と一緒になって商品を売ったりもするみたい。それ聞いてから、化粧品売り場に行く時は警戒するようになったよ。お店で父親と鉢合わせしたらって思うとぞっとするもん」
「そういうものなの? お店のコーディネートなんて、デザイナーさんみたいでかっこいいじゃない。ちょっと憧れるな」
「そんなことないって。アオバちゃんのおじさんの方がずっとかっこよかったよ」
 思いがけず父のことを言われて、胸がとくんと鳴った。
「……そうかな」
「そうよ」カナちゃんは足を伸ばしてすっかりくつろいでいる。「今だから言えるけど、初めて憧れた男ってアオバちゃんのおじさんだったんだよね。かっこよくて優しくて。毎朝家を出たところですれ違うんだけど、必ず『おはよう』って声をかけてくれたの。まだほんの子供だったけど、それが嬉しくってさ、たまに会えない日があると落ち込んだりもしたものよ」
「ずっと昔のことなのに、よく憶えてるね」
「それだけ印象が強かったんだと思うよ」
 カナちゃんは幼い頃を思い浮かべているのか、遠くを見るような目でにこにこしている。彼女の思い出の中の父のことを、私はもっと知りたくなった。
 柱時計にちらっと目をやると、もう七時近くになっていた。今から家に帰ろうとしても、電車がない。今夜は東京に泊まるしかなくなったが、これから泊まる場所を探すというのはやっぱり気が重かった。
「あの……カナちゃん」
「ん?」
「おしゃべりしてたら、結構時間が経っちゃって。ほんとに今夜、泊めてもらっていい?」
 カナちゃんはにっこりして、喜んで、と言ってくれた。後の心配がなくなった私はほっとして、彼女に話の続きを促した。
「最後にうちの……父さんを見たのって、いつ頃? あ、つまり、最後の思い出ってことだけど」
「ええとね、小学校に上がった年の、四月の始め」
「すごい。よくそんなはっきり憶えてるね」
「入学式だったのよ」カナちゃんは私のコップに麦茶を注ぎ足してから、自分の背中を指で指してみせた。「朝ね、ランドセル姿を褒めてもらったの。アオバちゃんが引っ越したんだってことも、そのとき初めて知ったのよ。急だったんで挨拶もできなくてって、おじさん済まながってたっけ。おじさんはまだ用事があるからもう少しこっちに残るんだけどって――」
「用事?」
「うん、そんなこと言ってた気がする」カナちゃんは頬杖をついて、記憶をたどろうとぎゅっと目をつぶった。「スーツにネクタイ姿だったから、たぶんあの日も会社に出かけるとこだったんだろうね。アオバちゃんだけじゃなくって、もうすぐおじさんともさよならなんだって思って、すごく悲しくなったのを憶えてるよ。なにしろ初恋が終わっちゃったんだものね。……それにしても急な引越しだったね。やっぱりおじさんの仕事の関係?」
 私は無意識のうちに、曖昧にうなずいていた。頭が混乱していた。父は当時、母と私だけをよそに移して、自分一人で東京に残っていたというのか。しかも、仕事を続けながら。それは私がずっとそうだと思い込んでいた、父が私たち家族を捨てて姿を消し、幼い私を連れた母が親戚を頼って東京を出た、といういきさつとだいぶ違う。それに父の最後の姿は、カナちゃんに爽やかな印象を残している。多少美化されているとしても、身を隠そうとしている犯罪者のイメージとは程遠い。
 私が黙り込んでしまったためか、カナちゃんはつと席を立ってキッチンへ行き、夕飯にと冷凍ピザをレンジにかけて持ってきてくれた。お皿をテーブルに置き、私の横に座り直すと、そうそう、と、とある有名な自動車会社の名前を挙げた。
「こないだ雑誌の記事で読んだんだけど、この不景気でも業績が落ちてないらしいじゃない。やっぱりたいしたもんね」
 話題の変化に私はついていけなかった。
「ごめん、私、昔のことほとんど憶えてないんだけど……私って小さい頃、自動車が好きだったっけ?」
 そんなはずはないと思いつつも訊いてみると、案の定、カナちゃんはきょとんとした。
「アオバちゃんって天然だったっけ。もちろん、おじさんの話よ。……あ、もしかして、もうおじさん、あの会社に勤めてないの?」
 カナちゃんは触れてはいけない話題に触れてしまったかも、というように不安そうな目で訊いてきた。私はどう答えていいか分からなかった。しかし事情を曖昧にしておくのはそろそろ難しくなってきていた。この子に本当のことを話したら、どんな反応をするだろう? 父はやましいことに手を染めて失踪してしまったみたいで……などと言ったら、父への思いも、私を見る目も変わるだろうか。
 決めた。カナちゃんを信じたい気持ちと――多少の好奇心から、私は話すことにした。
「実はね、父さん、行方不明なんだ。十二年前から。私、父さんのことを調べるために東京に出てきたの」
 冗談めかしていうつもりだったのに、ほほが強張ってしまった。カナちゃんも笑おうとしたが、私の顔を見て真顔になった。
「……ほんとなのね」
 私は小さくうなずいた。そのとき初めて、自分のしていることがひどく深刻なことに思えてきた。