その足の翼は (一)


 本郷武史は公園のベンチにだらしなくふんぞり返り、ぼんやりといわし雲を眺めていた。
 住宅街の真ん中にあるその小さな公園には、遊具らしい遊具は古びたブランコと滑り台しかなく、昼下がりのこの時間帯でも子供や母親たちの姿はない。頭上から注ぐ日差しは遊具の影をくっきり地面に落としているが、ときおり吹きつける風はきりりと冷たく、武史の運動着からのぞく裸の腕やももから容赦なく体温を奪っていく。そのたびに武史は身震いして、手にした煙草を反射的に吸った。吐き出した煙は風にさらわれ、冷え切った鼻は煙草の香りをかすかにしか感じなかった。
「……ったく、かったりいなあ」
 武史はぼやいて、煙草をそばの灰皿でもみ消した。金網から吸殻を落とすと、古いヤニの臭いがふっと立ちのぼってきた。
 ふとその灰皿越しに目をやると、太り気味の三毛猫がでんと座って武史を見上げていた。武史が気づくのと同時に、三毛猫はぷいっと横を向いて、にゃあと二度鳴いた。武史はだらしない格好のまま、首だけ伸ばして声をかけた。
「なんだ、ダイノじゃないか。おまえこんなとこ散歩してんのか」
 猫は答えない。武史が少し視線をずらしてやると、猫はまた武史にまっすぐ顔を向けてにゃあにゃあと甘えた声を出した。いや、甘えというにはふてぶてしい声である。
「んな声出したって、食い物なんか持ってねえよ。そんなに腹が減ってんなら、家に帰ってジジイにおねだりしろよ」
 三毛猫は不機嫌そうな声を上げた。ぴんと耳を立てたかと思うとのそりと立ち上がり、のろのろと歩いていく。武史が目で追っていくと、猫は公園の中央に立っている時計のところまで行き、支柱にガリガリと爪を立て始めた。薄青い塗装が細かく剥げては落ちる。
「ばぁか、何やってんだよ」
 やれやれと体を起こしたついでになにげなく時計を見上げた武史は、思いのほか時間が経っていることに驚いた。時計は五時限目の終了まであと十分ほどの時間を指している。秒針のない時計盤を武史はしばらく睨んでいたが、つと眉を上げるとにやりと笑った。
「ダイノ、おまえひょっとして、わざわざ知らせてくれたのか。案外おまえも気が利くじゃねえか……」
 言いかけて目線を下ろすともうそこに猫はいない。辺りを見回す。三毛猫はちょうど体型に似合わない身軽さでフェンスに飛び乗り、公園から出ていくところだった。
「……なんだよ、愛想のねえやつ」
 武史はつまらなそうに一つ大きなあくびをした。それから立ち上がり、軽く肩を回してから、高校へと向かう道をだらだらと走り始めた。
 武史の高校では、体育の授業はニクラス合同で行われ、男子と女子それぞれに体育教官がつく。十月も半ばのこの時期になると、授業内容は男女ともに持久走となる。入念な準備体操の後、学校の敷地を出て、男子は一周四キロの、女子は三キロのコースを走る。授業のたびに個人個人のタイムが計測され、教官の台帳に記録される。
 この一連の流れは、去年武史が一年生だったときとまったく一緒だった。走るコースも同じだったため、武史は前の年と同じ方法で授業をサボることができた。コースを始めの方で折れ、住宅街へと入り込んで途中にある公園で時間を潰し、クラスの連中が半分ほどゴールした頃を見計らって、何食わぬ顔で学校に戻るのである。
 ショートカットを抜けて本来のマラソンコースに出ると、武史は軽くピッチを上げた。汗一つかかずにゴールすると体育教官に目をつけられ、なんのかのとうるさく説教をされるからだ。武史が長距離走の授業をサボるのは、単に長い距離を走るのが面倒だからだが、後で長々と説教されるのもそれはそれで面倒である。教師に目をつけられない程度にサボれれば、それが一番理想的だった。
 だから校門をくぐって校庭が視界いっぱいに開けたとたん、違和感に続いてざわりと湧き上がってきた感情は、「しまった」だった。
「……おまえか、本郷」
 今年の体育教官であり、クラスの担任でもある柏葉は、武史が目の前を通り過ぎるのと同時にストップウォッチでラップタイムを取ると、思わずといった調子で言った。生徒たちにロダンとあだ名される彫りの深い顔には、困惑がありありと浮かんでいる。とっくに異常を察していた武史だが、柏葉と目が合ってしまった以上、いまさらきびすを返して校外に戻るわけにもいかない。渋い顔でそのままゴールするしかなかった。
 トラックの反対側には先に走り終えた女子生徒たちが思い思いの格好で休憩しており、何人かはちらちらとこちらを見ては囁き合っているが、トラックのこちら側には武史と柏葉以外誰もいない。ひざに手をつき、息が上がった振りをしながら校舎にかかった時計を見ると、その長針は公園の時計よりも十分以上前を指していた。
(……おいおいふざけんなよ)
 声に出さずに悪態をつく。公園の時計は進んでいたのか、それとも紛らわしい時間で止まっていたのか……腹が立ったがいまさらどうしようもない。
 数分もしないうちに、男子生徒が次々と校庭に駆け入ってきた。前野、岡田、出島……クラスでも長距離走が速いと言われている連中だが、本当に彼ら速いのだということを武史が知ったのはこのときが初めてである。彼らの上気した顔と、湯気のように白く立ち上る呼気を見れば、彼らが指定のルートを真面目に、しかも全力で走ってきたのは一目瞭然だった。荒く息をしながらゴールした彼らは一様に武史にいぶかしむ目を向けたが、その場で武史に声をかける者はいなかった。
 ざわめきが起こったのはニクラス分の男子生徒が全員校庭に帰還し、集合がかけられた後のことだった。体育教官の柏葉が、地面に腰を下ろした一同の前に立ち、全員を見渡して、こう切り出してからだ。
「スタート前にも言ったが、今日のタイムで来月の持久走大会の選抜メンバーを決める。各クラス、上位五人が選抜メンバー、六位が補欠だ。今から順に名前を読み上げるので、呼ばれたら前に出るように。――まずは三組。一位、本郷!」
 名前を呼ばれた武史は思わず天を仰いだが、再度名前を呼ばれてしぶしぶ立ち上がった。その場にいる全員の視線が突き刺さってきた。好奇と困惑の入り混じったざわめきの中、むすっとした表情のまま、生徒たちの間を抜けて前に出る。まじかよ、という声が聞こえたが、それは武史本人も口にしたい台詞だった。
 前に出ると、柏葉がまっすぐ目線を合わせてきた。短く刈った髪の下の目は、体育教官らしからぬ穏やかな視線を投げかけていたが、武史はその落ち着いた目がどうも苦手だった。武史が視線を外すと、それを追いかけるように、柏葉は静かに尋ねてきた。
「本郷、おまえ本当に、真面目に走ったんだな?」
 問いかけの真意をはかりかねて、武史は思わず、彼よりわずかに上にある柏葉の顔を仰ぎ見た。柏葉は当然、聞くまでもなくその答えを知っているはずである。しかし彼は揶揄するでもなく、説教の前触れというふうでもなく、率直に、有無をいわさぬ態度で尋ねてきた。
 いえサボってました、と開き直ってみたらどうだろう。ちらりとそう考えた。しかしそれでは、柏葉になぜか気圧されそうになった自分がますますみじめに見えそうな気がした。武史はぶっきらぼうに答えた。
「当たり前じゃないすか」
 生徒たちの騒ぎが少し大きくなった。そのほとんどはからかうような調子だったが、中にはあざけりや、低くののしるような声も混じっていた。
 柏葉は少しの間、黙って武史を見つめていたが、やがて前を向き「静かにしろ!」と一声注意してから、武史に脇に立つように言うと、続く選抜メンバーの名前を淡々と読み上げていった。柏葉の注意でざわめきは小止みになったが、すっかり収まることは最後までなかった。武史は仏頂面で空に浮かぶ雲を睨みつけながら、面倒なことになっちまった、と内心そればかり考えていた。

 教室に戻ってきた男子生徒たちは、人気のなかった部屋の冷えきった空気に身震いしながらさっさと短パン半袖の体操服を脱ぎ、制服に着替えた。人心地つくと、他愛のない会話や冗談の声が大きくなった。
 武史は教室の一番後ろの席で背もたれに寄りかかり、一人ぼんやり窓の外を眺めていた。彼の周りに人の輪ができることは滅多にない。自分から周囲のおしゃべりに加わることもあまりなかったが、この日はクラスのお調子者の羽黒が、教室の真ん中から甲高い声で呼びかけてきた。
「よう、本郷選手。おまえ、あのぶっちぎりレースはどういうことよ。ついに本気になっちまったのか?」
 武史は無視しようかと思ったが、返事を期待する周りの空気を感じて肩をすくめ、
「ああ、まあな」
と短く答えた。とたんに笑いと冷やかしの声があちこちで上がった。こういう注目のされ方をするのは初めてだったが、悪い気はしなかった。
 普段ほとんど付き合いのない羽黒が、今日は格好のネタを見つけたと思ったのかしきりと絡んでくる。
「おまえが走るの得意だなんて話、聞いたことないぜ。帰ってこっそり練習でもしてたのかよ」
「んなわけねーだろ。誰がそんな面倒な」
「おいおい、じゃあ練習もせずに陸上部の連中をぶっちぎって見せたってのか?」
「ああそうだよ。実力だよ実力」
 ノリに任せて出まかせを言う。どうせみんな冗談だと分かっているのだ。
 周囲の注目を感じて気をよくしたのか、羽黒が口調を変えて、見えないマイクを差し出してきた。
「本郷選手、持久走大会に向けて、抱負を聞かせてくれますか?」
「抱負ってなんだよ」
「なんだよはねえだろ、目標だよ。目標。いろいろあるだろ? 八位入賞とか三位以内とかさ」
「んなしょぼくれた目標があるかよ。やるからには当然、トップ狙うに決まってんだろ」
 軽く片腕を挙げてガッツポーズをしてみせると、おおっとどよめきが上がり、すぐに笑い声に変わった。「なんだよ、意外とノリのいいとこあるじゃねえの」という羽黒の言葉もこそばゆい。普段は周囲の会話がばかばかしくて混ざる気になれないだけで、その気になれば話くらいできるし、やろうと思えば笑いだって取れるのだ。
 そのとき、廊下側の席から低い、しかしはっきりした声が飛んできた。
「で、具体的にどんくらいのタイムを目指すんだ、本郷」
 棘を含んだその声に、教室は水を差されたようにしんとなった。
「あ?」
 武史は声の主を探した。すぐに浅黒い不敵な顔を見つけた。出島直哉、陸上部の学生だ。席に座ったまま、上体だけねじってこちらに向けている。学生服のボタンは上まできっちり留めてある。口の端を片方持ち上げているが、目は笑っていない。
「タイムだよ。タ・イ・ム。ストップウォッチで測るやつ。分かる?」
「んなこた分かってるよ。それがなんだよ」
「持久走大会でトップ狙うんだろ? つまり学校一だぜ? 三年は受験があるから真面目に走るやつはいないだろうけど、おまえ二年で一番速いやつがどれくらいのタイムか知ってんのかよ?」
 武史は口を半端に開いてはみたが、答えようがなかった。ちょうど更衣室で着替えを終えた女子たちが教室に戻り始めていた。二、三人ずつまとまっておしゃべりしながら入ってきては、すぐに教室の雰囲気を察して声をひそめる。
「おまえ、なにマジになってんだよ」
 冗談で紛らわそうと武史はにやっと笑顔を作ったが、出島のほうは作り笑いを引っ込めてしまっていた。訳が分からない。出島とは親しいわけでも、嫌い合っているわけでもない。いままでに言葉を交わしたことがあるかどうかさえ憶えていない、単にクラスが一緒というだけの存在だった。こんなふうに喧嘩腰で詰め寄られる理由がまったく分からない。
「おまえ、今日のタイムいくつだったんだよ」出島が畳み掛けるように訊いた。武史が言えずにいると憐れむように、「二位の前野より一分以上速かったらしいじゃないか? 陸上部の長距離選手相手にすげえよな。でもよ、よそのクラスにはおまえの今日のタイムよりずっと速く走るやつがいるんだぜ。もちろん、おまえと違ってまともに走ってだ。しかも大会当日は、今日みたいなズルなんてできない。それでもトップ狙うって、おまえ言うんだな?」
 普段あまり目立たない出島が、すっかり興奮して目をいからせ、歯をむき出して武史の返事を待っている。クラスの男子連中はにやにや笑って成り行きを見守っている。女子は武史と出島を結ぶラインを避けるようにして何人かずつで固まり、小声で何やら囁き交わしてはちらちらと二人の男子を盗み見している。
 すっかり注目が集まってしまった。いまさら引っ込みがつかないが、武史としてはできれば冗談で済ませたい。
 と、女子の一人と目が合った。教室の後ろの壁に友達と寄り添うように立ち、短く切った髪を無意識に指で引っ張りながら、心配そうに目を見張っている。小柄で機敏そうで、いつもどこかおどおどと頼りなげな雰囲気は小さい頃から変わっていない。米田詩乃。そう認識したときには、武史の口から威勢のいい言葉が飛び出していた。
「トップ狙うつってんだろ。タイムがどうとか細けえこと抜かしてんじゃねえっての。だいたい、たかが学校行事でなにムキになってんだよ。おまえひょっとして選抜で走りたかったわけ?」
 なんなら代わってやろうか、と続けたかったが格好がつかないので飲み込んだ。実際のところ、自分が走らなくて済むいい方法があれば――それこそ出島が「おれに代わりに走らせてくれないか」とでも申し出てきたら――あっさり受け入れていただろう。
 ところが今度は出島が詰まってしまった。顔を赤くし、何かもごもごとつぶやいたが、「自分で言ったこと忘れんなよな」と捨て台詞を吐くなり、くるっと顔を背けてしまった。拍子抜けしたものの、ぴんと張りつめていたものが急に緩んで、武史は思わずほっと息をついた。クラスメートはくすくすと忍び笑いをしながら出島と武史に交互に興味の視線を向けている。武史と合った目は、すぐにそらされた。自分が険しい目つきをしていることに、武史はやっと気づいた。
 横目で詩乃を探すと、彼女はいつの間にか武史にほど近い自分の席に着いて、次の授業の準備に忙しいというように机の中をのぞきこんでいた。武史の位置からは表情は分からないが、きれいに出した耳が申し訳なさそうに縮こまって見えた。また変な気を回して、無関係なことを自分のせいみたいに気にしてるんじゃないだろうな、と武史はいぶかった。余計な心配すんな、と最後に彼女に言ってやったのは、いったいいつのことだったろう。
 ずっと様子をうかがって引っ込んでいた羽黒がまたふざけたことを言いかけたが、ちょうど教室の前の扉がガラガラと開いて、化学教師の白髪頭がぬっと入ってきたのでショーは自然と中止になった。教科書やノートを開く乾いた音が一斉に鳴った。武史は教科書を立てて寝る態勢をとったが、いらいらと心が波立ってまったく眠くならなかった。