ホーム > 小説 > その足の翼は > (二) |
放課後、自宅に戻った武史は部屋に鞄を放り込むと、すぐまた家を飛び出してすぐ隣に建っている離れに向かった。「本郷敏久」と書かれたいかめしい表札と、それにそぐわない貧相な玄関ドアには見向きもせず、ぐるっと裏手にまわる。
「おーいジジイ、生きてっか」
靴を脱ぎすてて縁側から上がりこむ。気候はすっかり冷え込んできているというのに、外に面して閉じてあるのはいつもどおり障子戸一枚だけだ。それを無造作に開け放つ。畳張りの居室の真ん中には小さな卓袱台があり、急須と湯呑み茶碗、ガラス製の大きな灰皿が置かれている。灰皿の中には灰のかすがあるだけで吸殻はない。薄暗い奥の壁には仏壇があり、武史が生まれる前に亡くなった祖母の、笑顔の写真が飾られている。ふわりと線香の香りが漂ってきて、武史は鼻をひくつかせた。部屋に人影はない。
「ジジイ、便所かよ」
続けて奥に向かって声をかけたとたん、奥の襖が勢いよく開いて、むっつりした顔の老人が姿を現した。どんぐりまなこで武史をじろりとにらみつけ、骨ばった手でぴしゃりと襖を閉じる。
「便所便所と、余所にでかい声で宣伝するバカがあるか。おまえの騒々しい声なら一度呼べば十分聞こえるわ」
「便所便所なんて繰り返してねえだろ」
武史はぷいとふくれ面をしつつ、卓袱台の前でくつろいだ格好になった。武史の祖父、敏久は鼻を鳴らして、反対側にゆっくり腰を下ろした。
「みかんとか、ねえの?」
「人の家に勝手に上がり込んで言う台詞かよ」
「カタいこと言うなよ。家族じゃねえか」
「親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らんのか。ましてやオレは親族の最年長者だろうが。口の利き方をまず見直さんか」
「口が悪いのは遺伝だろ。……台所に茶菓子くらいあるんだろ。とってきてやるよ」
気軽に立ち上がると、武史はついでに卓袱台の上の急須を掴んで奥へと消えた。敏久は渋い顔をして、ポロシャツの胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出した。一本取り出して火を点け、味わうようにゆっくり煙を吐き出す。白い筋が天井に届かないうちにかすれて消えていくのを眺めていると、無遠慮な足音とともに武史が戻ってきた。
「菓子もうあんまねえじゃん。……あ、今日の一本もう吸ってんの?」
「ああ。明るいうちのほうがうまいからな」
「こないだは夜吸ってたじゃねえか。一日の終わりがうまいとか言って。ていうかさ、健康のためとかいうなら、すっぱり禁煙しちまえばいいのに」
「バカいえ、一日たった一本で不健康もクソもあるか。人の楽しみ奪っといて、長生きですねよかったですねなんざ、余計なお世話もいいところだ」
「誰に向かって怒ってんだよ」
敏久は灰皿に灰を落とすと、あぐらをかいて茶を湯呑みに注いでいる武史をすくうように睨んだ。
「で、なんだ武史。またなんぞやらかしたんだろう」
武史はぎくりとし、その拍子に急須を持つ手がぶれて熱い茶を手に引っかけてしまった。情けない叫び声を上げて慌てて急須を置き、手を振りながら息を吹きかける。
「なんだよ突然。びっくりするだろ。……んなことねえよ、別になんも」
「嘘をつけ。慣れない愛想を振りまいてりゃ嫌でも見当がつくわ。で、今度は何やらかした。またどこぞで飼えねえ捨て猫でも拾ったか。それともつまらねえ冷やかしを真に受けて、次のテストじゃおまえに圧勝してやる、とかなんとかクラス一の秀才に啖呵切っちまったか」
「いつの話だよ。そんなんじゃねえよ。いや、ちょっと似てるっちゃ似てるけどさ……」
武史は体育の授業の顛末と、持久走大会の選抜メンバーに選ばれてしまったことをかいつまんで話した。敏久は湯呑みを片手に、苦虫入りの茶でも飲んでいるような顔で聞いていたが、話が進むとゴマ塩頭を何度も横に振り、武史が話を終えると大きくため息をついた。
「……おまえはまるで成長せんな」
「事故だよ事故。おれのせいじゃねえって。公園の時計なんて、市役所の誰かが毎日見回って止まってないかチェックしてるもんじゃねえのかよ」
「そういうことじゃあない。おまえなあ、なんで代表なんかさっさと断らねえんだ。選抜ってどういう字を書くか知ってるか。選び抜かれるって書くんだ。成り行きだろうが事故だろうが、おまえみたいなやつが平気な顔して居座ってていい場所じゃあねえだろうが」
「うるせえな、断るつもりだったんだよ」
「じゃあ今すぐ断ってこい」
「そうもいかなくなっちまったから困ってるんじゃねえか」
「なんだ、それも成り行きのせいにするのか」
武史は口をとがらせてむっつり黙り込んだ。敏久は灰皿に引っかけておいた煙草を無意識に手に取り、口にくわえていた。
「おまえは胸を張るという言葉を知らん」
「馬鹿にすんなよ。それくらい知ってるよ」
胸を突きだすようにしてみせた武史にゆるく首を振る。
「それは威張っているだけだろうが。胸を張るってのはそういうことじゃない。それを知らないから、恥さらしな真似が平気でできるんだ」
「そこまで言わなくたっていいじゃねえか」つい肩を落としてつぶやいた武史だが、すぐにきっと顔を上げた。「走ればいいんだろ。まだ大会まで二か月近くあるんだ。めちゃくちゃ練習すれば他の連中といい勝負くらいはできるだろ。一番はさすがにきついだろうけどさ……いや、一番速いやつがどんだけ速いかなんて知らねえけどさ、速いったって同じ高校生じゃねえか。なあジジイ、たしか、大昔は陸上の選手だったって言ってたよな? 走り方を教えてほしいんだよ。おれちゃんとやるからさ」
武史は身を乗り出したが、敏久は、けっ、と言って煙草を灰皿に押し付けた。
「何を思いつきで言ってやがる。たかだか二か月で追いつけるもんかよ。その選抜ってのには陸上部も混じってるって言ってたじゃねえか。そいつらは今この瞬間だって走ってんだよ。おまえは何してる? 茶を飲んでぐだぐだ、くだらねえことくっちゃべってるだけじゃねえか」
「だから、やるよ。練習するって言ってんだろ。もともとちょっと休んだら走るつもりだったんだ」
「やめちまえ。おまえみたいな根性なしが続けられるかよ」
そう言われたとたん、武史は卓袱台に両手を叩きつけた。歯をむき出し、台に爪を立て、敏久に飛び掛りそうなほど体を乗り出す。
「うるせえよ。続けるって言ったら続けるんだよ。おれがやるって言ったらやるんだよ。なんだ、どいつもこいつも鼻で笑いやがって。おれはばかばかしいことに力を出す気がねえだけだ。それを口だけだの、できっこねえだの、やる前から勝手に決めてんじゃねえよ」
興奮して荒く息をついている孫を前にして、敏久はまったく動じることもなく、目を細くして睨み返した。しばらくそうして二人、互いにぎらぎらした目を向け合ったまま身動きしなかったが、やがてふんと鼻を鳴らして敏久が立ち上がった。
「そういう大口はな、てめえを知ってから言うもんだ」
すっかり色あせた古風な小物箪笥の引き出しを開け、中を漁っていくつかのものを取り出すと卓袱台の上に置いた。その淡々とした動きに毒気を抜かれた武史が見守っていると、敏久はしわだらけになった町内の地図を広げ、赤鉛筆を手にした。鉛筆の先をなめて少し考えていたが、「大会のコースは五キロと言ったな」と確認すると、自宅の場所を表す四角に鉛筆を立て、そこからぐるりと一周するように道路をなぞった。指で地図をとんと叩いて、
「そこまで言うなら、今からこの道を全力で走ってみろ。ここにストップウォッチがある。オレがタイムを計ってやるから、ぴったりオレが引いた線どおりの道を走ってこい」
「引いたとおりって……ここは煙草屋の角だろ。クリーニング屋のとこを曲がって、ここは……川沿いを走れってことかよ。土手の上の遊歩道の間違いだろ?」
武史は隣町との境目に向かって流れる川を指して聞いた。
「線引いたとおり、と言っただろうが。そこは川原を走るんだ。といっても石ころだらけの川っぺりじゃねえぞ。よくガキどもがボール蹴りをしてる、土が見えてるあたりだ」
「なんだよそりゃ。たった今思いつきで作ったコースだろ? なんでそんなに細けえんだよ」
「全部が全部思いつきってわけじゃねえ。オレがよく散歩してた道だよ。おまえこそぐだぐだ細けえこと気にしてねえで、さっさと準備しろや」
あごをしゃくって指図してくる。武史はむっとしたが、ここでむきになったところでいいことはない、と自分をなだめた。敏久を訪ねる前から、自分で走る練習をしようかと漠然と考えていたのは本当だが、ただ単に走ればいいだろう、くらいしか考えていなかった。案外、走るコースを設定するというのも難しいことかもしれない。まずは祖父が言うまま走ってみて、気に食わなかったらどうとでも文句をつけて後で修正すればいい。
いったん家に戻ると、自分の部屋の押し入れを引っ掻き回して奥からナフタリンの臭いのするジャージの上下を取り出した。着替えて外に出ると、すでに草履をつっかけた敏久が道路まで出ていて、すっかり傾いた陽の光にストップウォッチをかざして動作確認をしていた。土埃でだいぶ汚れて傷も目立つ、いかにも古そうな代物だが、どうやら問題なく動くらしい。
「おい、準備運動くらいしたらどうだ」
指摘されて、慌てて屈伸や伸脚を始める。すぐ横を買い物帰りらしいおばさんが無遠慮にじろじろ見ながら通り過ぎていき、塾に向かう子供たちが興味ありげに眺めていく。体育の時間の短パン半袖もみっともないが、ジャージ姿というのも一人きりだとひどく気恥ずかしい。
「アキレス腱もしっかり伸ばしておけ」
「うるせえよジジイ。分かってるっての」
体操が済むと、敏久は近くの電柱の真ん前に立った。
「いいか、ここがスタートだ。コースを一周してこの電柱を通り過ぎたところでゴール。気ぃ抜かずに最後まで走り抜けること。途中で音を上げても進むのを止めるな。這ってでも戻ってこい」
「誰がそんな無様なことすっかよ。たかが五キロだろ? いいから見てろっての」
敏久の合図で、武史は夕日に向かって一気に駆け出した。敏久はその背中が角を曲がるのを見届けると、やれやれ、と重い息をついて冷たいコンクリート塀に肩を預けた。
小さい頃から住み続けている街である。敏久が地図上に引いたコースを、武史は難なく頭の中に収めることができていた。
煙草屋の角を左へ。雑貨屋の角を右へ。クリーニング屋を横目に商店街を大きく迂回して、あとは道なりに河原へ。隣町にかかる橋を渡り、小学校の通学路を通って戻ってくる。平坦で、車や人の通りの少ないコースだった。
(たしかに、ジジイでも歩きやすそうな散歩コースだな)
体は軽かった。最初は足が空回りするような感覚があったが、徐々に体が慣れて楽に動かせるようになってきた。もっと速く走れそうだ。浮き立つような気分に逆おうとも思わず、武史はどんどんスピードを上げていった。人気のない道を、風を切って駆け抜けていく。
細い路地を抜けると、目の前に一気に夕焼けが広がった。レールの上を走る金属音とともに、冷たい風が真正面から切りつけてきた。遠くに架かる鉄橋を、黒い影の塊になった電車がゆっくりと横切っていく。
風の抵抗を感じながら河原に下りた。足元の感触がコンクリートから、湿り気のある土に変わった。ここからしばらくは川の上流に向かって走っていかなければならない。他にもジョガーの姿が見えたが、みな土手の上の遊歩道を走っていた。暗くなり始めているからか、川原で遊ぶ子供たちの姿はほとんど見当たらない。
風除けになるものが何もなくなり、風向きの変化を体中で感じた。ジャージの裾がはためく。素肌むきだしの顔が冷えて強張る。目からはしきりと涙があふれてきた。風が染みるのだ。時折強く風に押されて、さっきまでのように快調に飛ばせない。
ペースが落ちると、それを待っていたかのように疲れがじわりと寄せてきた。足にはいつの間にかおもりがぶら下がっている。呼吸をするたび肺が痛んだ。調子に乗って飛ばし過ぎたかもしれない、とようやく気づいたが、いまさらどうにもならない。這って戻るなんて冗談じゃねえ。武史はがむしゃらに腕を振った。
最後の角を曲がった道の先に残照を背にした敏久の姿を認めて、武史は歯を食いしばった。残る力を振り絞ってラストスパートをかけるが、ろくにひざに力が入らず、速さはほとんど変わらなかった。
荒い呼吸とともに目の前を通り過ぎるのと同時に、敏久がストップウォッチのタイマーを止めた。あえぎながらひざに手を突っ張り、そのまま倒れ込みそうになった武史に「すぐ止まるな、歩け」と声をかける、が、顔は上げず、ストップウォッチに表示された数字を長いこと見つめていた。
「おまえ、近道などせずに走ってきたんだろうな?」
ひざに手をついたまま不恰好に歩いていた武史に、ようやく声をかける。武史は汗まみれの顔を上げて恨めしそうに言った。
「当たり、前だろ。ちっとは、孫を、信用しろって」
「高校生男子の五千メートル走の記録を知ってるか」疑問形だったが、答えが返ってくることをまったく期待せず、すぐに続けた。「十三分四十から十四分。いわゆるインターハイの上位選手の記録はだいたいそんなもんだ。おまえが相手にする連中に陸上部が混じってるんなら、一番速いやつってのはひょっとしたら十四分を切ってくるかもしれんな」
「で、今のタイムは、どんくらいだったんだよ」
「十五分五十二」
敏久は放り捨てるように言った。酸欠気味の頭で武史は考えた。十五分五十二? 最初に飛ばしすぎて後半バテた。河原ではずっと向かい風を受けていた。それにしちゃまあまあじゃないか? ちょっと練習すれば二分くらい、余裕で縮められるんじゃないか?
ただし、と敏久は続けた。
「今のコース、四キロしかねえがな」
「……は?」
「おまえ、もう長いこと真面目に長距離走ったことなんてねえだろうが。おまけに煙草なんぞ吸ってりゃ、肺活量だって落ちる。五キロなんざとても走りきれねえだろうと思って、短めのコースを設定しておいてやったんだ」
「おい、ふざけるなよ。誰がそんなこと――」
ふらつきながら食ってかかろうとした武史を、敏久は歯をむいて一喝した。
「バカ野郎。慣れねえうちから足腰に負担かけたって故障するのがオチだろうがよ。ほんとに毎日練習する気があるんなら、徐々に体を慣れさせて強くしていくのが筋ってもんだ。頭に血ぃのぼらせて突っ走りゃいいってもんじゃねえんだよ」
武史はぐっと詰まった。鼓動が落ち着いてくるのと同時に、耳にした数字が冷酷な重さを伴ってきた。四キロで十五分五十二秒。あと一キロも多く走らなければならないのに、まだ五キロの記録にさえ大きく及ばない……。
体の中で何か熱いものがくろぐろと渦を巻いていたが、それが怒りなのか疲れなのか、それとも落胆なのかは分からなかった。放心して宙を見つめている孫に、敏久はいくぶん声を和らげて言った。
「しっかり整備体操をしろ。それから早く着替えて、今日はもう休め。明日になってもまだやる気があるようなら、またジャージを着てオレんとこに来い」
武史はわずかに敏久に目を向けたが、何も言わずに背を向けると、力ない足取りで家に帰っていった。敏久はそれを見送ってから、こちらも足を引きずるようにして離れへと戻った。
日が沈みかけ、暗くなった離れの縁側には二人の――正確には一人の客と一匹の猫が敏久を待っていた。敏久が今まで気づかなかったのは、どちらも玄関から入ってきたのではなく、隣家との境にある垣根を抜けてきたためだろう。
そのうちの一人、隣家に住む囲碁仲間の老人、米田修造は、敏久の姿を見ると温和な干し柿のような顔に朗らかな笑みを浮かべたが、すぐにけげんそうな表情になった。縁側に腰掛けたまま、手にした杖に力を込めて身を乗り出す。
「どうしたんだトシさん。えらく真剣な顔をしてるじゃあないか」
声をかけられてようやく修造に気づいた敏久は、はっと顔を上げるとにやりと笑ってみせた。
「なんだ、ヨネさんか。驚かすんじゃねえよ。なに、ちょっと考え事をしていただけだ」
「考え事って……頭を使うのはいいが、おまえさんまたそんな薄着で外をうろついてたのかね。まったくしょうがない人だな」
そのとき縁側の端にうずくまっていた太り気味の三毛猫が、野太い声でにゃあと鳴いた。ほら、と修造は腰を丸めて猫の頭をなでながら、
「ダイノも腹を空かせておるよ。早くミルクをやって、ついでにあんたも茶でも飲んで温まりなさいな。ほらほらトシさん、手が震えてるじゃないか」
「べつに寒くなんてねえよ。寒いわけじゃねえ」
敏久は気もそぞろに返事をすると、立ち止まって、もう一度ストップウォッチの盤面をじっと見つめた。たしかに彼の手は震えていた――しかしそれは寒さではなく、興奮のためだった。
「ちっとも練習なんかしてねえやつが、いきなり走らされて、こんなタイムを出せるもんなのかよ」
武史を前にしていたときは抑えていた笑みが、こらえきれず浮かんできた。荒々しくさえ見える笑みだった。
「ふざけやがって……あいつの足には、翼が生えてやがる」
そのつぶやきは修造の耳には届かなかった。友人の壮絶な表情の原因を勘違いした修造は、杖を支えに立ち上がり、敏久に近づいて顔を覗き込んだ。
「トシさん、具合が悪いんなら無理しちゃいかんよ」
「具合なんて悪かねえよ。それどころか、上機嫌といってもいいくれえだ」
「またそんな威勢のいいことを……今日はタケシちゃんにあのこと、伝えられたのかい?」
「あん? ……いや、まだだ。なあに、そう急ぐことはねえよ。そんなことより……」敏久は生き生きと目を輝かせて言った。「ヨネさん、ちょいと頼まれちゃくれねえか。オレ一人じゃあちと、きついんでな」
腹を空かせたダイノが、しきりと甘えた声を出しながら敏久の足もとに寄ってきた。しかし敏久は頓着せずに、修造に次々と頼みごとをした。修造はすぐには状況を飲み込めずに口を開けたまま聞いていたが、友人の頼みを快く引き受けた。
修造が垣根の戸をくぐって帰っていき、しびれを切らしたようにダイノが大きな声で鳴いたとき、敏久はようやく、空にとっくに明るい月が上がっていることに気づいた。
「なんだダイノ、こんなときに腹なんか空かせてやがるのか。おれだって飯なんざ食ってねえんだぞ」
玄関に向かう敏久に、ダイノはおとなしくついてきた。敏久はくっくっと笑った。
「愛想もねえのに、飯のときだけは従順なやつだな。犬と違って芸も覚えねえし。たまにはご主人様のお役に立ってみせたらどうだ」
猫はいかにも不服とばかり、低くのどを鳴らしてみせた。