赤ふんスイマーズ (一)


 青ざめた水と不透明な飛沫の向こうに、足の裏が見えた。
 その足は孝和の左のコースを、力強いバタ足を繰り返してみるみる遠ざかっていく。孝和がどれほど必死に水をかこうと、我慢強く水を蹴ろうと、左のコースをゆく選手との差を埋めることはできなかった。それだけではない。澄んだ水の中を、腕をかく合間にいくら見渡しても、左手の選手以外の姿が見えない。上から射す夏の陽が水中に白色の綾を織りなし、自らの泳ぎが作る無数の泡によっても見通しが悪くなっているとはいえ、それは信じがたいことだった。しかしそれが何を意味するのかは明白だった。孝和は言い知れない焦りに駆られた。
 同じ組で泳いでいる九人の選手のうち七人は、見通せないほど前を泳いでいるのだ。もしかしたらとっくにゴールしているかもしれない。
 ――たった百メートルの間に、こんなに差をつけられるなんて。
 前に進む努力は諦めずに続けた。手を緩めたりはしなかった。しかし孝和の意識はともすると体を離れ、プールの外へと向けられた。観客席から声を張り上げて応援してくれているであろう、水泳部の仲間たちの目に、そしてそれよりずっと冷ややかなはずの他校の学生たちの目に、自分がどう映っているかをまざまざと想像してしまった。
 センターコースを泳いでいる、なのにもっとも遅い選手。
 もしかしたら観客の何人かは、ビリ争いをしているセンターコースと三コースの選手とが、別々の高校の、しかしどちらも同じ二年生であることを、大会のメニュー表で機械的にチェックしているかもしれない。そして冷笑し、あるいは何の感慨も持たずに、さっさと次のレースの選手名簿に注意を向けているかもしれない。
 水は生ぬるく、重かった。眼下に見えているプールの底が見た目よりずっと遠く、水深がずっと深く、そのぶん水の抵抗が大きいように思われた。手の指を軽く開いたほうがより多く水をかける……そんなうろ覚えの知識にすがりついてみても、水は指の間をぬらぬらと抜けていってしまう。後半に向けてピッチを上げたつもりが、むしろ腕が空回りしている気がしてならない。焦るあまり息継ぎに失敗して水を飲んでしまい、塩素臭が鼻の奥をつんと刺激した。
 永遠に近い長さを泳ぎきってようやくパネル板にタッチすると、すぐに顔を上げて頭上の電光掲示板を見上げた。記録のよい順に上から並んだ選手名。その一番下に点灯している、ローマ字表記の自分の名前。そして文字通り他と桁の違う、自分の記録。
 一分0二秒五二。ほんのわずか自分のベスト記録を更新していることよりも、一人だけ「分」の桁に数字があることの意味がずっと大きかった。荒く息をあえがせながら、しかしそのことを意識しないまま、孝和は五桁の数字が並んでいるレース結果を少しの間見上げていた。そしてすぐに、早くプールから上がらなければと思い当たった。まだ水中でぐずぐずしているのは彼一人だった。
 スタート台の横に手をかけ、プールサイドに体を持ち上げる。陽に焼けた床に盛大に水滴が跳ね落ちる。すぐ傍で次のレースのために準備運動をしていた選手がうっとおしそうな視線を投げてくる。籠に入れてあった自分のセーム――競泳選手がよく使う、吸水性の高い小さなタオル――を引っつかむと、孝和はうつむいたまま小走りに、アリーナへと続く階段へと向かった。
「おつかれ」
「おつかれさまっす」
 学生たちでひしめいているアリーナの一角に、こじんまりとスペースをとっている川里高校の水泳部員たちは、競技を終えて戻ってきた孝和にお決まりの声をかけてきた。すぐ隣に陣取っている県下有数の強豪校と比べ、見るからに覇気のないその集団に向かって、孝和も「うす」と簡単に返事をする。セームを頭髪に当てて水気を吸い取らせながら、熱心に記録を取っている一年生の女子部員、石田樹里の手元をのぞきこむ。彼女はひざに載せた大会のメニュー表――登録選手とその出場順が載っている冊子に直接、自校他校の選手を問わず、細かい字で記録を写し取っていた。次のレースの棄権者の記録欄に×印を入れたところで、彼女は手元を覆った影に気づいて小さな顔を上げ、揃えた前髪を揺らせてにこりと笑った。
「岩国先輩、ベスト更新ですね」
 孝和はついそっけない返事をした。「コンマ0三秒だけどな」
 百メートル自由形のレースはあと五組残っている。後の組ほど出場登録時の申請記録が速い選手たちだから、単純に考えて孝和より速い選手があと三十六人エントリーしていることになる。しかもこの大会は県大会にすぎず、インターハイの予選会でしかないのだ。この先の組の連中はほぼ間違いなく、一分の壁などやすやすと超えてくる。
 樹里の笑顔が不自然に固まってしまったことに気づき、しかしどうフォローすればいいのか思いつかず、孝和は突っ立ったまま、遠く青空を背景にそびえる電光掲示板に視線を逸らせた。ちょうど次のレースが終了したばかりで、ほぼ横並びのタイムがずらっと並んでいた。全員五十七秒台。ふと目を落とすと、樹里はすでに自分に与えられた記録係としての仕事に戻っていた。電光掲示板の記録はすぐに消えてしまう。それを手早くメモするための工夫なのだろう、彼女は秒以下の数字だけを先に記入し、それから各記録に「五十七」という同じ秒数を、英単語の練習でもするように書き加えていった。孝和の胸に苦い感情が沸き起こった。
「岩国、そろそろ祐天寺の出番だ。早くコーン持て」
 大柄な部長の低い声が最後列から飛んできた。孝和はまた「うす」と返事をすると、同級生の男子が固まっている場所に潜り込んだ。応援用の安っぽいメガホンを手に取り、そこに空いたスペースに腰を下ろす。すぐ隣には樹里の兄である石田大樹が、生白いのっぺりした体を、椅子に敷かれた毛布の上にだらけさせていた。妹とまったく似ていない、分厚い唇とぎょろりとした目は陸揚げされたウツボか何かを思わせる。彼のひじの傍には漫画雑誌が放ってある。
「おつかれ」
「ああ」
「他の学校のやつら、きたねえよな。ぜってー大会登録んときの申告タイム、遅めに出してるぜ」
「分からないよ。ほんとに登録したときより速くなってるのかもしれない」
「みんながみんな、そんな短期間で速くなるかよ。……おまえ、これで出番終わり?」
「うん」
「いいよなあフリーは。一ブレってなんでいつもラストなんだろ。ずるくねえ? こっちは炎天下でずーっと待たされてさあ」
「石田は焼けないからいいじゃないか」
「日焼けしないからって暑さを感じないわけじゃないっての。むしろ暑さに対抗するために余分な体力を使わなきゃならない体質なんだな。だからおれは大会じゃどうしたって、真の力を発揮できない。特に今日みたいな屋外のやつは」
「屋内でも屋外でも、たいして記録変わらないじゃんか」
 石田兄妹は地元の、孝和は一駅離れた中学校の出身だが、中学以来の水泳部という点は共通していた。孝和の専門は自由形、石田兄はブレストこと平泳ぎ、石田妹は背泳ぎ。三人とも競泳選手としては速いほうではないが、進学校である川里高校に入学すると、三人ともまた水泳部に入部したのだった。水泳経験者どうしという気安さもあり、孝和と石田は入部してすぐに親しく口をきくようになった。石田の入部理由は単純素朴で、中学の延長でなんとなく水泳を続けようと思った、というものだったが、孝和は自分がなぜまた同じ部活を選んだのか、自分でもよく分かっていなかった。漠然と運動部がよいと思ってはいたものの、特別泳ぎが速いわけでもなし、水泳が特別好き、というわけでもない。他の部を選んでもよさそうなものだった。運動部の活躍で知られる川里高校で、水泳部はその中でも弱小の部類に入っていることが、他の部より敷居を低く感じさせただけかもしれない。
 石田のさらに隣には、これも高校入学直後からの友人である大庭が、腕を組み、背もたれに頭をもたせかけて、完全に眠りこけている。目尻が垂れ気味である上に目と目の間が広く、薄べったい口をわずかに開いた彼の寝顔は、昼寝中に太陽熱にあぶられてとろけてしまったみたいだった。彼の専門はバタフライで、出場順でいえば自由形の前であり、予選突破など夢のまた夢、というタイムということで彼もすでに「出番なし」の状態だ。しかし上級生がいる目の前で、しかも上級生の出番がすぐ迫っているこの状況で寝息すら立てている彼の度胸に、孝和はつい感心してしまった。
「祐天寺出るぞ。応援気合入れろ」
 部長の低い、しかしよく通る声が背後から降ってくる。部員たちが一斉にメガホンを手に取り、「祐天寺っ!」とレース前の選手に声援を送る。大庭はそれでもぴくりとも動かない。孝和は起こしてやろうかと肩を叩きかけたがそれより早く、女子側の席から同学年の清水由香がやってきてメガホンで大庭の頭をバコンと叩いた。大庭は飛び上がるようにして目覚め、自分が今どこにいるのか分からないという顔であたりを見回し始めた。清水は自身の長い髪をいらいらとかきわけ、彼の耳元にメガホンを当てて「お、う、え、ん!」と怒鳴ると指揮棒よろしくメガホンをプールのほうへ向ける。そしてひらりと階段を下り、今度は一年生の女子たちにはっぱをかけ始める。
 石田がぼそりと評した。「由香に叩かれるほうが、あとで三年に締められるよりはましだよな、たぶん」
 孝和も小声で言った。「どうかな。大庭は締められてもへらへらしてそうな気がする」
「それはあるな。あいつがうなだれてるとこなんて想像つかねえ」
「でも清水ってさ、ああいうとき全力でぶっ叩くよな」
「手加減てもんを知らないんだよあいつは。昔から」
 予選最終組の選手たちがめいめい競技の準備を始める。ジャージの上着を脱ぐ者、ストレッチを始める者、じっとうつむいて集中力を高める者。最終組の半数はブーメラン型ではなく、スパッツ型の水着を着用している。一種のステータスだ。場内アナウンスの女性の声が、一コースから順に選手の名前と所属を読み上げ、それに合わせて各校から歓声が上がる。第八コース、スタート台を前に、ゴーグルをかけながら足をぶらつかせている細身の上級生の姿に、孝和は注目した。応援の声に応える気などないのか、祐天寺はなんともかったるそうな、投げやりな様子で準備運動をしていた。首を乱暴に振り、両腕をぐるぐると振り回してから何か早口で叫んだが、それはどうやら「めんどくせえっ!」という言葉らしかった。前の席で一年生たちがざわつき始める。孝和は隣の石田に目をやる。石田は視線を返したが、無言で軽く肩をすくめただけだった。
 九人の選手がスターターの合図でゆっくりとスタート台に上がる。まだちらほらと選手の名を呼ぶ声がしていたが、やがて会場を支配する緊張感に制され、アリーナを埋め尽くした学生たちはしんと静まり返る。用意、の掛け声とともに選手たちがすばやく台の縁に手をかける。ぴたりと静止した姿に力が凝縮される。スタートの電子音が響くと同時に彼らの体は解き放たれ、宙に美しい弧を描き、小さな水しぶきを上げて水中に沈む。水上からでも見て取れる、ドルフィンキックによる水中での進行。浮かび上がってから大きく腕を回して水をかいていく、水面を滑るような泳ぎ方。最終組の選手たちの泳ぎは、その他大勢とは質が違う。「セイ! セイ! セイ!」という水泳部共通の声援が会場中からどっと湧き起こる。
 孝和も声出しをしながら、その目は自分と同じ専門種目の、トップクラスに当たる選手たちの動作を食い入るように見つめていた。自分の泳ぎを自分で見たことはない。しかし彼らとのレベルの違いは肌で感じる。普段練習をさぼってばかりいる祐天寺の泳ぎも例外ではない。彼の泳ぎは洗練されてはいなかったが、孝和よりも確実に多くの水をその手でかきよせ、爆発的な推進力を得ている。孝和ががむしゃらに腕を振り回しただけでは、あの真似はできない。それに離れて見ているにも関わらずひりひりと感じる、あの野生じみた迫力。右側だけで息継ぎしているが、そのたび隣の選手をにらみつけているようにも見える。おそらく相手の速さがほぼ拮抗していることに気づき、敵意に似た闘志をかきたてられたのだろう。
 セイ、セイ、セイ――各校から湧き上がる独特な掛け声は、しかしごく短い間だけのものだった。今大会最短最速のこの種目においては、上位者のレースは約五十秒で決着する。あとに続くのは拍手と、今度はねぎらうために叫ばれる選手たちの名前。仲間たちが「祐天寺!」と次々声を張り上げる中、孝和はその名を口にしなかった。ただメガホンを手に打ちつけて拍手の代わりにした。ボコンボコンという間の抜けた響きは、会場のあちこちで同様に打ち鳴らされている同じ音に紛れた。
 掲示板には大会新記録を示すマークが表示され、その旨が女性の声でスピーカーで流されたが、それは祐天寺の名前ではなく、強豪校の選手の名だった。祐天寺は八位。それでも、あとで行われる決勝レースに進出できる記録だ。
 大会二日目はこれでようやく中盤まで終わったところだった。逆三角形の体型を誇示するかのような自由形最速の選手たちと入れ替わりに、女子百メートル背泳ぎのもっとも遅い組の選手たちが登場した。会場の盛り上がりが後を引きつつ静まっていき、やがてはっきり分かるほど控えめになった。
 孝和がなにげなく左前方に目をやると、出番のない樹里がジャージ姿のまま、一心に膝元の記録に筆を走らせていた。その横の階段をセームとゴーグル、スイムキャップを手にした清水が、水着にジャージの上着だけ着て上っていく。彼女の空いた手が、樹里の肩をぽんと叩いた。樹里はすぐ顔を上げたが、清水はさっさとプールへ向かう通路を上がっていってしまった。
 孝和の隣では石田が大きなあくびをしている。大庭は漫画雑誌を気乗り薄にめくっている。孝和はそれらを一通り見て取ると、ひざを抱え、虚ろに響いてくる次レースの選手名の読み上げに耳を傾けようとした。ややあって客席に戻ってきた祐天寺の足音と、それを迎える部員たちの声が耳に入ってきた。

「八位入賞、祐天寺昭。おめでとう」
 夏の日もようやく傾き始め、強烈な西日となって孝和たちを真横から照らしていた。会場出口付近には彼ら川里高校だけでなく、各校が輪になってミーティングを行っている。その間を縫って帰路につく学生たちは、丸一日炎天下で応援に励んだ疲れを顔ににじませながらも、若々しく明るい声でさざめき過ぎていく。
 部長はそんな周囲の雰囲気を締め出そうとするように、図太い声をいつもより張り上げ、大会実行委員からもらってあった賞状を、部員たちの前で改めて祐天寺に差し出した。形式的な拍手の中、祐天寺は凄みのある鋭い顔立ちにはっきり苛立ちを浮かべながら、片手でそれを受け取った。
 儀式だ、と孝和は思った。伝統という名で受け継がれてきた儀式。昨年、先代の部長もやはり大会後のミーティングで「授賞式」をやっていたことを思い出す。そのときの入賞者も祐天寺だけだった。結果も八位で、順位まで昨年と変わりがない。今年の大会では入賞者の中でもトップ3に当たる選手たちが他を圧倒する記録を叩き出し、次の大会へと駒を進めたが、孝和にとっては祐天寺も含めた「上位組み」はみな自分とは別種の人間、別次元の存在だった。上位の人間は多少練習をさぼってもそこから転落することはなく、下位の人間は機械的にタイムを記録されるだけで誰からも顧みられない。
 しかし祐天寺が厳しい表情でいる理由なら孝和には予想がついた。「儀式」が照れくさいわけではない。悔しいのだ。予選のときにも、そして予選の記録順にコースが決められる決勝のレースでも、祐天寺の右隣は同じ選手だった。そして二回ともタッチの差で負けた。祐天寺の決勝の記録は予選のときより速かったが、それでも勝てなかった。負けず嫌いの彼の頭にはおそらく「隣のやつ」の顔が焼きついて離れず、煮えくり返る思いを持て余しているのだろう。
 部長は部長で、四角い顔を無表情に保ったまま「儀式」を済ますと、隣に立っている顧問の阿久津に総評を依頼した。阿久津は一歩前に出るとネズミに似た小さな目をしばたかせ、一つ咳払いをして長々と中身のない話をした。今年も入賞者は一人のみで、インターハイ出場者が出なかった、云々。練習を強化して部全体のレベルの底上げを、云々。部員の誰もまともに聞いていなかった。三年生の中にはひそひそとくだらないやりとりをして、忍び笑いをしている者までいる。これも伝統の一つなのかな、と孝和はぼんやり考えた。阿久津が水泳部の顧問になって何年経つかは知らなかったが、彼がまるっきり水泳について無知であること、よって顧問らしい助言も、監督的な仕事もまったくできないことは、入部して一ヶ月もすれば誰でも気づくことだった。阿久津は国語の教師だが授業もまた不人気で、彼の興味は競馬にしかない、という噂が生徒たちの間にこれといった根拠もないまま浸透していた。
 西日が顔の片側にばかり当たるのを孝和が気にしているうちに、顧問は長い話を尻つぼみに終えた。あとは部長の号令で解散だな、と孝和がほっとしたとき、部長とばったり目が合った。背泳ぎが専門である部長とは、今まで直接話をしたことがほとんどない。角ばったあごが特徴的な部長は、視線を意味ありげに孝和の顔に留まらせ、それからざっと一同を見渡して言った。
「まあ、今日はこういう結果だ。おれら三年は一人もインハイに行けなかったし、九月の新人戦に出ようというやつもいない。だから三年は今日で実質引退となる。今後は二年が中心となって、部を引っ張っていってくれ」
 再び視線が孝和を捉えた。昨年も同じような展開があったことを孝和はようやく思い出し、同時に嫌な予感に襲われた。部長の次の台詞が、実際に耳にするより早く、頭の中で再生された。そういう予感はよく当たるものだ。
「そこで、三役の引継ぎをここで発表する。次期部長は……岩国。副部長は、石田兄と清水。おまえら、来年は上を目指せよ」
 他人事のような激励の文句と同時に、全員の目が一斉に孝和に向けられた。孝和はあっけにとられ、口を中途半端に開いたまま声も出せなかった。後輩の一人が「まじかよ」とつぶやくのが聞こえ、混乱はいっそう激しくなった。一週間ほど前の練習後、二年生以下の間で、次の部長が誰になるかという話題で盛り上がったことがあったが、石田か清水が選ばれるだろうという予想が大勢を占めていたし、孝和の名前が三年生の間で挙がっているという噂も聞かなかった。三年生にはお調子者が多い。彼らが考えた性質の悪い冗談なんじゃないのか、「はーいドッキリでした」みたいなことを誰かがそのうち言い出すんじゃないか……そんなはかない期待ばかりが頭の中で渦を巻いた。
「つーわけで新部長、なんか挨拶しろ」
 部長に大真面目に命じられ、冗談説は吹き飛んだ。顔が紅潮するのが自分でも分かったが、日焼けと西日でバレないかもしれない、などと呑気なことも考えた。しかしどんなことを話せばいいのか、その点については頭は空回りする一方だった。立ち位置もよくなかった。彼の正面には三年生がずらりと並んでいて、彼が今後指揮を執るべき連中は首を左右に振らなければ見渡せなかった。おかげで彼は、誰に対してのものだか分からない意味不明な演説をしてしまった。口から単語が飛び出すたびに、ああ、あとで「ああ言えばよかった」と家で一人身もだえすることになるんだろうな、という暗い予感がぼんやりと、しかし繰り返し襲ってきた。
 その予感も、後に見事に的中した。