赤ふんスイマーズ (二)


「次ぃ。百メートルフリー十本。後半五十はダッシュで。五十秒サークル。一本目……用意、ゴー」
 プールサイドに置かれたスポーツタイマーの赤い秒針が真上にくるのと同時に、孝和は手を叩き、すぐに先頭を切って泳ぎだした。三つ大きくドルフィンキックをしてから水面に上がり、フォームを確認しながら大きく腕をかく。やや濁った水を通して、すぐ隣のコースを泳ぐのっぺりした白い体が見えた。副部長の石田だ。そのまた向こうにちらりと見えたのは褐色に日焼けした大庭の姿だ。それぞれ平泳ぎ、バタフライの男子リーダーという肩書きがあるために、コースの先頭を泳いでいるのである。自由形が専門である孝和の泳ぎは、流し気味であっても二人より速い。少しずつ差が開いていく。彼らよりさらに奥、一コースに近い側では女子が泳いでいるはずだが、透明度の低い水を透かして見てもぼんやりとした影しか見えない。ただ、女子で一番速い清水でも、男子に比べればどうしてもペースは遅い。自分が今の部内でもっとも速い泳者である、ということが孝和にはまだしっくりきていなかった。大会から二週間も経ち、再来週には夏休みが終わろうという今になっても。
 余計なことを考えるのをやめ、フォームに意識を集中する。水上に上がった手はできるかぎり前方に入水し、より多くの水を捉え、腹の下を通るように後方へとかき出す。体の芯がぶれないように気を配る。バタ足はリズミカルに。部長に選ばれた以上、下級生の面倒をみるためにも勉強をしなければと思いいろいろ調べてはみたものの、図書館とインターネットで得られた知識は基礎的なことが多く、いままでなんとなく聞き知っていたことを補強したに過ぎなかった。速く泳げるようになるにはそれらの基本を明確に意識することと、あとはひたすら練習を積む以外になかった。
 幸い練習メニューは、これもまた伝統として引き継がれてきたものがある。新部長に指名されてから、孝和は過去数年分の日誌に目を通してみたが、練習内容に関してはどの年も似たり寄ったりだった。八月の中頃にはこれ、夏休みの終わり頃にはこれ、九月の新人戦が近くなったら量を控えめに。一日約四千五百メートルという練習量は、強豪校に比べたら少ないのかもしれないが、水泳初心者も混じっている、レベルにばらつきのある集団が揃ってこなすものとしては妥当なものに思えた。レベルごとにメニューとコースを分ける、という練習方法を考えつきはしても、まともな顧問かマネージャーでもいない限り実現は難しい。マネージャーはいないし、顧問はまともではない。石田や清水に一度だけ相談してみたものの、それぞれ一言で済ませてきた。
「去年と一緒で別にいいんじゃね?」
「わざわざ難しいこと考えなくたっていいって」
 夏休みの練習は午前中に行う、それもまた伝統のようだった。夏場の室外プールの水は決して冷たくない。強い日差しに照らされ続ける屋外プールの水温は日の出とともに上がっていき、午後にはすっかり生ぬるい温水になってしまう。そんな水の中で激しい運動を続けるのは、見た目よりずっときついものだ。目立たないだけで汗も大量にかくし、そのせいで水が濁りもする。練習後、シリコン製のスイムキャップを取ると、中に溜まって熱せられ続けた汗が流れ落ち、ぬるま湯をかぶったようになる。
 だから練習が午前中のみであることに、孝和は特別疑問を持たなかった。そういうものなのだろう、としか思わなかった。
 行く手にようやく壁が見えてきた。川里高校のプールは公立高校には珍しい長水路、つまり五十メートルプールである。公式大会も長水路の水泳場が多いため、本番に近い環境で練習ができることは本来有利であるはずだった。しかしここ数年、川里高校水泳部の成績は低い水準に留まっている。
 フリップターンをして折り返し、そこからピッチを上げて泳ぎだすと、五メートルラインを少し過ぎた辺りで同級生の風見とすれ違った。以降、五秒間隔でスタートしてくる連中と順に行き違う。自由形の選手は全部で六人。練習時は速い順に列を作っており、その最後にいるのは水泳初心者の仁科だ。五月からの三年生による猛特訓のおかげで、入部当時は二十五メートル泳ぐのがやっとだった彼も、今では二百メートルくらいなら途中で休むことなく泳げるようになっている。しかしフォームは汚いしまだまだ遅いし、にも関わらず一番生意気な後輩だった。孝和が次期部長に指名されたとき「まじかよ」と声を挙げたのが仁科であったことに孝和は気づいていたし、今でも引っかかりがある。
 集中、集中。仁科の横にぶれる腕にぶつからないよう外側に避けながら、孝和はスタート側の壁目がけて突き進んだ。ピッチを上げてもフォームが崩れないよう気を配る。まだ練習量の半分もこなしていないのに、前日からの熱を引きずった水はすでに熱いくらいで、粘土のように腕にまとわりついてくる。しかしその感触の割には推進力を得られない。もどかしい思いで泳ぎ切り顔を上げると、タイマーの針は三十五秒を指していた。前半スローすぎたかな、と考えつつ後ろを振り返ると、後半ダッシュ、という指示を守っていなさそうな連中がちらほら見えた。部員たちがかき上げる水滴が日にきらめき、無意味な演出を思わせる。
「二本目ぇ……用意、ゴー」
 再び壁を蹴って泳ぎだす。今日も晴れ渡った空からは夏の日差しが容赦なく降り注いでいて、行く手の水は乳白色に色づき、水面の上下に合わせて不健康な輝きを放っている。孝和はさっきよりペースを上げて前半を折り返すと、後半もより腕の回転を速め、バタ足も強めにした。タッチと同時にタイマーを確認する。三十五秒。さっきと変わっていない。後半フォームが崩れていたのだろうか。壁に背を預け、荒くなった息を静めようとする。後続の風見がのんびりと近づいてくる、その黒いスイムキャップの頭を目だけで追う。疲労感が濃くなる。
「三本目。用意、ゴー」
 今度は最初から少し飛ばし気味にしてみた。隣のコースの石田との差がぐんぐん開いていく。目で見て分かる変化に気をよくしたが、後半に勢いが続かず、腕が重くなった。孝和が顔を上げたとき、タイマーの針は三十六秒を平然と通り過ぎようとしていた。壁に寄りかかってあえぎながらプール全体を、そしてさらにその向こうを何気なく見やる。プール全体を覆う高さ二十メートルほどのネットの向こうには校庭があり、プール右手の遠方から練習中の野球部の掛け声が、蝉の声と水がはねる音にかき消されそうになりながら届いてくる。疲れているのか日々の慣れのせいか、「締まっていこうぜ」と言っているはずのその声は「おーえーい」という不明瞭なうめき声にしか聞こえず、そうでなくてもけだるいプールの雰囲気をいっそうみじめなものにしている。
 重いため息をついていると、不意に誰かに頭頂部を叩かれた。見上げると、スタート台越しに阿久津が身を乗り出し、人差し指を伸ばしていた。
「岩国、ちょっといいか」
 上がれ、という仕種に首を傾げたが、無視するわけにもいかない。気づくと四本目のスタート時間を過ぎていた。隣のコースで好奇心をあらわにしている石田に「あと、頼むわ」とだけ声をかけ、スタート台の横からプールサイドに上がった。「四本目ぇ」という石田の間延びした声がすぐ後を追ってきた。
 タイマーの傍に天幕のかかった一隅があり、阿久津はその下で一方の手で団扇を、もう一方でワイシャツの首元をぱたぱた扇ぎながら、それでも苦しそうに口を歪めてあえいでいた。額にぷつぷつと汗が浮き出ている。
「やっぱ暑いなここは。ちと職員室に来い。あっちで話をしよう」
 そう言われて孝和はカチンときた。そもそも練習中に顧問が一度も顔を出さないことからしておかしいのだ。
「練習中なんで。ここじゃダメすか?」
 ぶっきらぼうに言ってみたが、阿久津は「いい、いい」と曖昧な返事をして歩いていってしまう。孝和はやむなくセームで軽く体の水分を拭き取り、キャップとゴーグルを頭からむしり取って放り出し、プールサイド脇に寄せてあったビーチサンダルを突っかけて後を追った。途中さっと男子更衣室に寄ってジャージの上着だけ持ち出し、羽織る。
 男子更衣室の入り口正面に、プールエリア全体を囲むフェンスから外に出る扉がある。開け放たれたそのフェンス戸を一応閉めて石段を下り、草むらの間の道を少し行くと、校舎の廊下の端に当たるドアがある。上履きのまま来たらしい阿久津はそこから校舎内へとすたすた入っていってしまう。孝和は舌打ちしてサンダルを脱ぎ捨て、裸足で後を追った。
 職員室は一階にある。阿久津に続いて部屋に入ると、クーラーで冷え切った空気に身が縮んだ。思わず上着の前をかき合わせる。川の字に並んだ机と、五人ほどの教師の顔が目に入った。阿久津の席は窓際の中央付近にあった。まだ団扇を使いながら、しきりに暑い暑いと言って椅子にどっかと腰を下ろす。足元に彼のものらしい鞄が見えた。そこからのぞいている雑誌の表紙に馬の頭が見えた気がしたが、阿久津が向きを変えたせいで足の陰になり見えなくなった。
 阿久津は口を開いて何か言いかけたが、孝和の様子に眉をひそめた。
「その頭、どうにかならんのか」
 プールの水と汗とが混じったものが、前髪からぽたぽた垂れていた。セームを置いてきてしまったので、孝和はジャージの腕で乱暴にこすった。多少はましになったのを確認してようやく、阿久津は用件を切り出した。
「明日、な。OB会をやることになった」
「……は?」
「OB会だよ。例の」阿久津は授業でもときどき見せる、下からすくうような目つきをした。今の説明で十分分かっただろ?
 孝和には分からなかった。「OB会ってなんですか」
「いやだから例の」言いかけて阿久津は首をひねった。「ん、おまえ二年か。じゃあ知らんのか」
「はあ」
「去年はなあ、中止になったんだ。雨で」阿久津がへの字に結んだ口元は、今年も中止になればよいのに、とでも言いたげだった。団扇のぱたぱたをやめ、その縁を扇子のようにもう一方の手のひらに打ちつけ始める。「三年から話を聞いたこともないか、OB会について」
 孝和は首を横に振った。
「やめろ、水がはねる」机の上のプリントに落ちた水滴を不機嫌に指で拭いながら、阿久津はずるそうな目で孝和を見上げた。「まあ、あれだ……簡単に言うと、水泳部の歴代OBの方々がいらっしゃるんだ。会長は枝島さんといって、今年で七十になられるんだったかな。だいたい毎年この時期に何人かで遊びに来るんだ」
「それが今年は明日、なんですか? ずいぶん急ですね」
「今年は……日程調整に手間取ったとかで、昨日の電話で急遽決まったところでなあ」
「昨日?」
「いろいろあるんだろう。ほら、仕事の都合とか」
 投げやりな返事に、嘘だな、と孝和は直感した。おおかた今日まで忘れていたか、それとも中止になるような不測の事態を期待していたか、そんなところだろう。「で、そのOBの人たちが来て、何をするんですか?」
「おまえたちと泳ぐんだ」
「は?」
「大先輩にあたる方々だからな。模範演技を見せてくださるというわけだ」
 七十の老人が、だろうか。孝和には滑稽な図しか思い浮かばなかった。
「で、おれたち何か特別にすることが?」
「午後にいらっしゃるんでな、おまえたちは弁当持参で待機しててくれ。明日は午後練もあるっていう感じで、練習後にミーティングで伝えてもらえればいい」
「そんな。急すぎますよ。塾のあるやつだっているし」
「そうだなあ。だが部員が揃っていないというのも体裁が悪いだろ。塾はなるべくなら休んでもらえ」
 自分で言えよ、と言いたくなった。非難の声が上がるのは目に見えている。
「どれくらい時間がかかるんすか、そのOB会って」
「そうだな、二時間か、長くて三時間てところだろう」
「二時間もその……OBが、模範演技を?」
「懇親会も兼ねてるんだ。意見交換とか質問とか。いやたいしたものじゃない。雑談タイムだと思っていればいい。おまえたちも諸先輩方からいろいろ聞けることがあるだろうよ」
 どんな話題なら会話が弾むのか、ピンと来ない。「何人くらい来るんすか?」
「五人と言っていたかな。今年は少ないほうだな」
「何時に来るんすか?」
「時間は……言っていたかな。まあ昼過ぎには到着されるだろう」
 なんだか要領を得なかった。しかしとにかく明日午後OB会なるものがあること、そのために弁当持参で来なければならないこと、それを孝和の口から部員たちに説明しなければならないこと、だけは理解できた。
「ま、そういうことだから。連絡よろしく」
 用は済んだとばかりに机に向き直った阿久津に向かって、孝和は最後の抵抗を試みた。
「あの、そのことは先生から……」
「おれはちと急ぎの用があってな。それにこういうのは、部長から伝えたほうがいいだろ」
 孝和には目も向けずに手で払う仕種をする。返事の早さが、孝和の言葉を予期していたことを物語っていた。阿久津は机の上のプリントの束を一枚一枚めくり始めたが、それは仕事というより、忙しさを演出する演技にしか見えなかった。
 演出は失敗していたが、食い下がるだけ無駄だな、と孝和に思わせるには十分だった。

 ゴーグルの位置を調整し、孝和は八コースの端からどぶんとプールに飛び込んだ。とたんに外気より熱い水と黄ばんだ塩素臭に体全体を包まれ、息苦しくなってすぐに水上に顔を出した。
 メニューは種目別の練習に移っていた。自由形のコースは二百メートル五本のメニューの最中らしく、先頭で泳いできた風見は孝和のすぐ横の壁を蹴って、顔も上げずに泳ぎ去っていった。タイミングを計って混ざろうと待機していると、隣からひょいと石田が声をかけてきた。
「阿久津、何の用で来たんだ?」
「事務連絡」
「面白いことは?」
「競馬の雑誌があった。と思う」
「ああ。それならおれも見たことあるわ」
 最後の台詞とともに石田は水に沈み、深めに潜ってから壁を蹴った。彼らのメニュー、二百メートル平泳ぎの次のサークルに入ったのだろう。日焼けしない、肉のつき方が全体的に平べったい石田の白くて幅広い体は、波に揺られながらのんびりと水中を這っていった。そのままのびのびとした大きな動きで水中動作に繋げていく。
 同じ距離、同じ本数を泳ぐとしても、種目が違えばタイムサークルが違う。壁にタッチした風見が大きく息をついたのはその直後だった。目線が合う。
「次何本目?」
「四」
 孝和はうなずいてタイマーを見つめ、次のスタート時間をすばやく計算すると、風見に代わって列の先頭を泳ぎ始めた。一度クーラーの冷気にさらされた体に、生ぬるい水がいつにも増していやらしくまとわりついてきた。
 練習メニューをすべてこなした後には、疲労のためとも暑さのせいともつかないけだるさが全身を覆っていた。各自クールダウンのため最後に軽く一往復させてから、孝和は水から上がり、ゴーグルを額に上げて部員たちを招集した。声に応じた部員たちが自然と輪を形作る。
 男子はほぼ全員ブーメラン型の水着だが、一人だけスパッツタイプが紛れ込んでいた。仁科だ。部の規則では、どの水着を使うかは規定されていなかったが、孝和はいつも仁科の水着を見ると複雑な気分になった。泳ぎの速い人間だけが、わずかでもよい記録を出すためにより新しい水着の着用を許される、そんな暗黙の了解が中学時代からあったためだ。口に出してとがめだてることではないが、一方で羨望に似た気持ちもあった。
 そよとも風が吹かない中、強い日差しにあぶられ、皮膚についた水滴がみるみる干上がっていく錯覚がある。じりじりという蝉の声が大気を焦がす。そんな中、疲れに打ち沈んだ部員一同の表情は、孝和が口にしたOB会に関する連絡事項によってますますうんざりしたものに変わった。
「無理すよ。明日おれ塾あるし」
 真っ先に文句を言ったのは、一年生の仁科だった。それまでただざわついていただけの連中も、その言葉を機にはっきりと不平をつぶやき始める。
「OB会長が昨日決めたんだそうだ」孝和は体育会系らしい上下関係の厳しさでもって反論を抑え込もうとしたが、肝心の自分への敬意が仁科から感じられないことにすぐに思い当たった。「先生からついさっき連絡があったんだ」と責任の所在を変えてみたが、我ながら声に力がなかった。
「んじゃ先生に文句言ってくださいよ。おれら進学校に来てるんすから、部活優先とか無理っすよ」
 仁科が口を尖らせ、仲間たちからの賛同の声を受けて鼻を膨らませる。目立ちたがりやめ、と孝和は心の中で憤慨した。どうしたら言い負かせるかを考えてみたが、ほてった頭は回転が鈍く、感情が先行するばかりだった。
「そのOB会長っての、どんなやつなんだ?」
 大庭が軽い調子で横槍を入れてきた。このユーモラスな顔立ちの男は部内のムードメーカーでもあり、ときに悪ふざけが過ぎるところもあるが、劣勢にあった孝和にとってはちょうどいい助け舟だった。
「枝島、って人らしい。何をしている人かは分かんないけど、今年で七十になるとか」
「七十? 何代前のOBだよ」
「計算してくれよ。その人たちが模範演技を見せてくれたり、懇親会で話を聞かせたりしてくれるらしい」
「模範演技? おいおいそりゃヤバいだろ。そんなジジイをプールに入れちゃどうなるか分かりゃしねえ。浮いてこなかったりしたらシャレになんねえぞ。人命救助の練習とか、しとかないで平気か?」
 言葉とは裏腹に声がはしゃいでいる。大庭も塾通いだが、塾を理由にOB会を欠席するつもりは欠片もなさそうだ。
「さすがにそれは……いや分かんないけどさ、ひょっとしたらすごい人かもしれないぜ」
「そうだな、そっちもありえるな。わざわざ出てきて泳いでみせるってくらいだから、実は世界記録保持者だったりしてな。でも七十歳の世界記録ってどんくらいだ? 見当もつかねえ。専門は何だろうな。バッタだったりしたらそれだけでウケるんだけど」
「大庭、ふざけすぎ」きりっとした声が女子のいるあたりの中心から飛んできて、また空気を一変させた。副部長の清水だった。彼女は腕を組み、少し首を傾けて、切れ長の目で大庭をにらみつけていた。「暑いんだからさ、ぱっぱとやろうよ。ブチョー、要するに明日は午後も部活、てことでいいんでしょ?」
「ん、ああ」
「用事がある人は部活を休む。それ以外は部活に出る。それだけでしょ?」
「んー、うん」
「じゃ、それでいいじゃない。塾行きたい人は行けばいいし、休める人は休めばいいし」
 清水は仁科と大庭に順に目をやり、返す刀という感じで孝和にまっすぐ視線を向けてきた。仁科を中心とした一年生男子たちはこそこそとひじで小突きあう程度ですっかりおとなしくなり、大庭は軽口を引っ込めはしたものの、何を思い浮かべているのかにやにや笑っている。女子は清水の発する威圧感に痺れたようになって、黙って様子を窺っている。小柄な樹里などは怯えているようにさえ見える。
「んまあ、あれだ……」孝和の横にいた石田が首のあたりをかきながらのっそりと口を挟んだ。「つまり、明日は午後練あり、ってことだあな」
「ダイキ、それあたしが言ったのと同じ」
「分かってるよ。分かってねえやつがいるかもしれないから補足しただけだよ」
「同じこと繰り返してるだけじゃん」
「ちょっと違うんだって」
「どこがよ」
「どこでもいいよ」
「なによそれ」
「おまえらさあ、パッパとやるんじゃなかったのかよ。続きやりたかったら家に帰ってからやってくれ。でないとおれが干からびる」
 大庭が茶化すと、どっと笑いが起こった。石田と清水が地元出身で、家も近い幼馴染であることは部員たちに知れ渡っている。二人が付き合っている、という噂がささやかれたのも一度や二度ではない。
 孝和も笑いの輪に加わりながら、なんで自分が部長に選ばれたんだろう、とここ二週間で何度目かの疑問を抱いた。石田や清水、ひょっとしたら大庭でさえも、自分よりずっと部長に向いている気がしてならない。しかし物思いにかまけて、よい頃合を見逃すことはしなかった。二度手を叩いて皆の注意を集め、声を張り上げる。
「つーわけで、明日は弁当持参。用事でどうしても休めないやつはあとでおれに連絡くれ。明日の朝でもいい。以上、解散! 一年、プール掃除しとけな」
 お疲れ様でしたあ、という気の抜けた挨拶とともに一同はめいめい動き出した。一年生はプール清掃のため更衣室脇の用具入れへ、二年生はシャワーへ。孝和はキャップを取って、例の汗混じりの熱水が体を伝うのを感じ、冷たいシャワーでそれを一気に流した。これで今日の仕事は終わった、という安堵に肩の力が抜ける。
 しかし彼に緊張を強いる出来事がもう一つ残っていた。石田や大庭と軽口を叩きながら更衣室の扉を開け、目隠し用のカーテンをくぐった孝和はそこにいる人影を目にして一瞬足を止めた。雑多に物が――それこそ水泳とはまったく関係のない漫画雑誌や風俗のチラシ、どこからか誰かが持ってきてそのままになっている跳び箱の枠などが散乱している更衣室兼部室の奥に、デッキチェアーが二脚置いてあり、そこに祐天寺と、やはり三年生の小田が、それぞれ長々と身を横たえて漫画を読みふけっていた。「特等席」の二人は孝和たちに気づいてちらりと顔を上げたが、祐天寺が「よう」と声をかけただけで、またすぐ漫画に戻っていった。小田はギャグ漫画を読んでいるらしく、小太りな体を丸めてキシキシと耳障りな笑い声を立てている。
 二年生たちは練習を終えた開放感に水を差された格好で、ちわーす、と低い声で挨拶したきり、部屋の隅っこで黙々と着替えを始めた。おまえら引退したんじゃないのかよ、という無言の声が、彼らの周囲の空気を重くした。元部長も含め、三年生は先日の大会以来姿を見せなくなっていたが、祐天寺と小田の二人だけは週に二回くらいふらりと部室に遊びに来ては、後輩の指導をするでもなく、もちろん練習をするでもなく、ただ無遠慮にくつろいでいる。おかげで二年生たちには、上級生がいなくなったという気楽さがまだない。弱小部ではあってもそこは運動部で、他の部に比べれば緩めかもしれないが上下関係の厳しさはある。加えて相手が押しの強い祐天寺となれば、「あんたら邪魔」と面と向かって苦情をぶつけてやろうとは誰も思わない。今日も暑かったな、などという差し障りのない会話が、ささいな抵抗のようにぽつぽつと囁かれた。
 孝和も黙ってパンツを履き替えたところで、やりきれなくなって何でもいいからしゃべりたくなった。天気の話よりましな話題はないかと頭を巡らせ、隣の石田に話しかける。
「なあ、OB会ってさ」
「ああ」
「会長は七十歳らしいけど、他も年寄りばっかってこともないよな」
「まあ、だな」
「どれくらいの歳の人が来るんだろ。OBって言ってもさ……」
 ふと孝和は口をつぐんだ。選んだ話題がさっそく危険な方向に向かってしまっていることに気づいたのだ。彼らの背後には直近の「OB」がいる。
 すぐに低い刺すような声が飛んできて、孝和はびくりとした。
「なんだ、今年OB会やんのか?」
 祐天寺だった。その不機嫌そうな声に、二年生たちの会話がぴたりと止んだ。孝和はのろのろと振り返った。祐天寺がぎらついた目で上目遣いにこちらをにらんでいた。
「はい、明日の午後やるみたいです」
「会長って、まだあの枝島がやってんのか?」
「そう、らしいですけど」
「あのジジイ、まだ生きてやがんのか」
 そうか、と孝和は思い当たった。昨年はなかったということは一昨年前、祐天寺が一年生のときにはOB会が開かれたということだ。祐天寺は枝島のことや、会の内容を知っているのだろう。好奇心から聞いてみた。
「OB会って、何やるんすか? 模範演技とか懇親会とか、って阿久津から聞いたんですけど」
「模範演技?」祐天寺は鼻で笑った。「阿久津がアホだってことくらい知ってんだろ。あいつに見分けがつくのは馬の品種くらいなんじゃねえの」
「でもあいつの馬券はハズレばっかだぜ、ぜってー」隣から小田が混ぜ返す。
「模範演技……じゃないんですか?」
「んなもんじゃねえよ」祐天寺の眉間にしわが寄った。苛々と視線を逸らす。「もっと面倒くせえ」低い声で付け加えると、それきりまた漫画に向き直ってしまった。難しい本でも読んでいるかのように、なかなかページを繰らない。
 その様子から孝和はよりそれらしい予想を思いついた。OBたちがやるのは模範演技というより、技術指導ではないだろうか。あるいは根性論の説教とか。いかにも老人が好きそうなことだ。七十の老人が現役高校生の模範になるような泳ぎを披露している場面よりも、部員たちの泳ぎをプールサイドからステッキで叩いて止め、あるいは自らプールの中で軽く実演しながら、「腕をもっとこう」などと指導しているさまのほうがずっとたやすく想像できる。そしてもしそんなことをされたのなら祐天寺は苛ついただろうし、いまだに恨みを抱いていても不思議はない。
「そういえばさあ」気詰まりな沈黙をなんでもなさそうに破って、石田が孝和に声をかけてきた。「由香んとこのおばさんて、ここのOB……いやOGっていうの? とにかく水泳部出身じゃなかったっけ」
「そうだっけ?」
「たぶんな。そう聞いた覚えがある」
「ひょっとしたら明日、おばさんが来たりして」
「それはないだろ。もしそうなら清水、ミーティングのときもっと騒いだと思うぜ? やってらんないっての、とか、あたし明日は来るつもりないから、とか。んま、本人に聞くのが確実だけどな」
 二人ともその頃には学生服に着替え終えていた。夏服の薄いズボンに、上は半袖のワイシャツ。汗と湿気でシャツはすぐに胸と背中にへばりつき、気持ちが悪かったが、部室の重い雰囲気の中にいつまでもいる気はしなかった。二人は水着をバッグに突っ込み、揃って外へ出た。入れ違いに掃除を終えた仁科が「おつかれーす」と二人に流し気味の挨拶をしながら、埃っぽい空気とともに部室にするりと入っていった。すぐに緊張度の増した声で「おつかれさまっす」と聞こえてきた。孝和は黙って部屋の扉を閉めた。
 部室の建物は平屋建てで、プールに近い順に機関室、男子更衣室、物置、女子更衣室、と並んでいる。男子更衣室と物置の間、ひさしの下には教室にあるような机と椅子のセットがあり、真昼の太陽が作るわずかな影の下、樹里がせっせと日誌に記録をつけている。
「おまえ、まだやってんの? たいして書くことなんてないだろうがよ」
 石田が呆れると、妹は顔を上げてほほを膨らませた。
「先に着替えたんだよ。それにゆっくりでいいの。清水先輩待ってるから」
 たしかに樹里はすでに制服姿で、足元にはスポーツバッグが置かれていた。孝和は樹里の手元をひょいと覗いた。今日の日付と練習メニュー、出席者の名前、水温、気温……とまめな字で丁寧に書き込まれている。あらかた仕事も終えているようだ。
「清水、まだしばらく出てこないよな?」
 孝和が訊くと、樹里は声を改めた。
「もう少しかかると思います。先輩、髪長いですから」
「あいつも樹里みたいに短くしちゃえば楽だろうに」
「でもきれいな髪ですし」そこで樹里はぱちぱちと目を瞬いた。「先輩に何かご用ですか? よかったら私、呼んできましょうか」
「いやそこまでしてもらわなくても」孝和は頭をかいた。話題からして、清水のカリカリした反応が今から目に浮かぶようだ。
 樹里はその様子を誤解したのか、ふっと目元を和ませた。「気にしないでください。すぐ呼んできます」
「いや、あの……」孝和が呼び止める暇もなく、樹里は軽やかに奥の女子更衣室へと飛んでいった。ややあって樹里に連れられた清水が、制服姿でバッグを肩から提げ、バスタオルを髪に当てながらやってきた。
「で?」清水の問いは短い。
「あのさ、おまえんとこのおばさんって……」石田に聞いたことを確認しつつ、自分の聞きたいことを訊ねてみる。「……だからOB会って結局のところ何をするのか、知ってるかなと思ってさ。阿久津の話だけじゃなんだかよく分かんなくて。こっちにだって準備ってものがあるだろ?」
「あいかわらず細かいこと考えるのが好きねえ」清水は大げさにため息をついてみせた。「そうだよ。うちの親はここのOG」とげを含んだ視線を一瞬石田に向ける。石田は半歩あとずさった。「でも明日来るって話は聞いてない。OB会がどうのこうのって話を聞いたこともない。だから何にも知らない」
「明日来るんだけど内緒にしてて、娘をびっくりさせようとしてたりして」
「あの親が? 本気で言ってる? 知ってるでしょううちの親の性格」髪を拭く手が乱暴になった。「あの人はそんな隠し事はできないって。もし何か隠してても一週間前からそぶりで分かるわね。そんなことするより、おおっぴらに宣伝して回るほうが好きな人よ」
「てことは、そんなそぶりはなかったわけだ」
「ないよ。……ちょっと最近テンション高い気もするけど、単に夏休みで客が少ないせいじゃないの。んでエネルギーが余ってるだけでしょ」
 清水の家は駅前の商店街で文具店を営んでいて、川里高校の学生は少なからず世話になっている。清水の母親はそこで売り子をして関係で、学内での知名度はそこそこ高い。とりわけ同じ部活で、さらには清水と幼馴染である石田との付き合いもある関係で、孝和は何度か店頭で清水の母親と話をしたことがある。明るく気さくだが話が長く、放っておいたら丸一日でもしゃべっていそうなところがあるのは孝和も知っている。清水がそれを「おしゃべりで軽々しい」と評していることも。
「まあいいじゃない、明日何するかなんてさ。最悪でも、おじいさんたちが若かりし頃の感動的で長ったらしい自慢話を聞かせてくれる程度だと思うよ。自分たちは日の当たらないところに座って、あたしたちはプールサイドでじりじり焼かれてさ」
「おまえ、明日出ないつもり?」
「出るよ。今のはあくまで最悪の予想ね。なんか面白い話が聞けるかもしれないじゃん。OBってどんな人たちなのかも興味あるし。毎日毎日塾に行ってたって飽きるだけだしさ」と、髪を拭く手を止めた。「そうだ塾。明日休むんなら今日は行っとかなきゃって思ってたんだ。そろそろ行こっか、樹里」
「はい、先輩」
「んじゃ、また明日。おつかれ」
 清水はさっと身を翻すと、ひらひらと手を振りながらプールエリアから出て行った。お先に失礼します、と孝和に頭を下げてから、樹里がついていく。間延びした蝉の合唱に囲まれて、孝和と石田はぽつんと取り残された。
「……帰るか、タカ」
「……ああ」
 まだ部室に居残って漫画を読みふけっていた大庭に声をかけ、三人は帰路についた。

 サウナよりよっぽどあちぃ、と大庭は表現したが、暑さはこの日のピークに達していた。アスファルトにくっきりと彼らの影が落ちている。車が横を通り過ぎるたびに熱風が襲ってくる。加えて練習の疲れと、泳いだあとに決まってやってくる強烈な眠気。三人の会話は途切れがちで、引きずるような足取りに靴の底がたびたび地面とこすれて音を立てた。
「明日はこんな中で丸一日耐えろっつーことかい」
 大庭がだらしなく舌を出した。
「合宿のときだって、午後練あったじゃんか」
 孝和は額の汗をぬぐいつつ言ってみた。
「あの頃はこんなに暑くなかったぜ。七月の終わり頃だろ? 今年は冷夏じゃないかって、おれ期待してたもん」
「あとは三年がいたってプレッシャーもあるよなあ」石田が言う。「今のおれらって重しがないんだよな。気楽は気楽だけど、無理してきつい練習しなくても、って思っちまう」石田は遠くを見る目をした。「三年の連中って、なんであんな張り切ってたんだろ。うちみたいな弱小部でさ。速いやつもいなかったのに……祐天寺はいろんな意味で論外としても」
「別に張り切ってもいなかったんじゃね? 何しに来てるんだか分かんないヤツもいたし。小田とかさ」
「お? ひょっとして大庭はこれからさぼり組に編入の構えか?」
「いんや。バッタのリーダーがさぼっちゃかっこ悪いっしょ。示しがつかないっつーかさ」
「示し、かあ。肩書きだけってのもなあ」
 しばらく沈黙が流れた。それから石田がぼそりと孝和に訊いた。
「なあタカ、新人戦のエントリー、まだ出してないよな?」
「出してないよ」
「おれ、二ブレ出なくていいか」
「は? なんで」
「二百あんまり得意じゃないからさ……そんな怖い顔するなよ。百はもちろん出るから」
「だっておまえ、ブレストのエースじゃんかよ、百でも二百でも」
「エースってもなあ」
「あとのやつおまえよりずっと遅いし。おまえ以外に誰が出るんだよ」
「一年を出してやってもいいんじゃねえかな。経験のためっていうかさ」
「そんな適当に出すわけいかないって」
 それきり押し黙ってしまったので、孝和は石田の横顔に目を向けた。そこには苦渋の色があった。日焼けしにくい体質の石田の肌だが、うっすらと赤く焼けている。孝和は自分の手の甲を見下ろした。焦げたような色をしていた。
 何週間もの練習の成果は肌の色にしか表れていなかった。孝和は県大会のとき隣を泳いでいた選手の足の裏を思い出した。あの足の裏の持ち主も、彼の学校の二年生の中では三番手でしかないことを、孝和は後で記録で確認している。石田の気持ちは理解できないものではなかった。
「ようよう、石田が出ねえんなら、おれが出てもいいぜ」
 調子よく身を乗り出してきた大庭に、石田がけげんそうな目を向けた。
「暑さにやられちまったか? おまえブレめっちゃ遅いじゃねえか。おまえを出すくらいなら一人も出さないほうがましだわ」
「分かってねえな。おれはこの夏休みの特訓で究極の進化を遂げたんだぜ。なにしろ元が優秀だからよ、どんな種目でもいけるのよ」
「当てにできるかよ。だいいちブレの練習なんてしてないだろうが」
「個人メドレーが練習メニューに入ってるのを忘れてないかい。あれおれ苦手なんだけどさあ、ブレ泳いでるときだけは、なんかほっとするんだよな。ひょっとしたらブレの才能のほうが先に開花するかもしれない」
「はん、そういうことか。ブレの方が楽そうだと思って転向しようって腹だな?」
「そんなこと言ってねえだろ。ダブルで活躍しようって言ってんのよ。疑りぶかい人間は嫌だねえ。なあ部長、やる気のないブレのリーダーはほっといてさ、おれにブレデビューさせるってのはどうよ?」
 気の利いた返事をしたかったが考えつかなかった。「おまえ、一バタと二バタには出るんだよな?」
「当然」
「んじゃそれと、四百メートルメドレーリレーで。もちバッタ役ね。以上、予定どおり変更なし。バッタで思いっきり活躍してくれ」
「話についてきてる? もっと活躍の場をもらってやってもいいって言ってんのよ」
「新人戦で十位以内に入ったら考えてやるよ。だいたいおまえ、体力ないじゃん。今日の練習も最後バテバテだったの、おれ見てたぞ」
「大会だけなら問題ねえって。大会で四千も泳がねえじゃねえか」
 石田が鼻で笑った。「県大会のとき、二バタでリタイアしかけたやつがよく言うぜ」
「あれは、あれだよ、足がつったんだよ。ていうかつりかけたんだよ」
「んじゃあ先に足鍛えろよ。ブレのキックなんてもっとつりやすいぜ。なんなら練習付き合ってやるよ。毎日ダッシュで買い出し行ってもらうとかさ」
「おまえすぐそういう発想すんのな。人間が小せえんだよ。もっとでかいこと考えろよ」
「例えばどんなんだよ」
「例えばあれだよ、その、なんだ、まあおれみたいな大物が考えることじゃねえよ」
「意味が分かんねえよ」
 二人のやりあいはそのまま無駄話にもつれ込んだ。石田の顔からはさっきの影は消えてしまい、大庭と笑いながら肩をはたき合っている。二百に出場しない、というのはちょっとした弱気が言わせたもので、この場限りでうやむやになるかもしれない。しかしそうでなかった場合、部長は何らかの行動を起こさなければならない。石田を説得するか、代役を認めるか、それとも……。孝和は石田たちの軽口を聞き流しながら、ひそかにため息をついた。ますます部長の器ではない気がしていた。
 石田とは商店街の途中で、大庭とは駅のホームでそれぞれ別れた。大庭が下り方面の電車に乗るのを見送ってから、孝和は逆方面行きの電車に乗った。昼間の電車はがらがらだった。

 家には父親がいた。三日間しかない会社の夏休みの、今日が三日目なのだ。父親が貿易関係の会社に勤めていることは知っていたが、具体的にどういう仕事をしているのか、孝和は知らなかった。ただ仕事は忙しいようで、平日はたいてい帰りが遅く、土日も出張で家を空けていることが多い。一方の孝和は部活の疲れでへとへとで、夜は早めに眠ってしまうため、父親と顔を合わせない日のほうが多かった。滅多に見かけない人間が、昼間から家でごろごろしている。もう三日も続いているにもかかわらず、その状況は孝和を落ち着かない気分にさせた。
「おかえり」
 廊下の奥の、締め切られた居間のほうから声がした。
「ただいま」
 孝和は答えたが居間をのぞくことはせず、洗面所で水着を洗うと、そのまま台所へと直行した。冷凍チャーハン二人前で空腹を満たし、階段を上がって自分の部屋に閉じこもる。クーラーを点け、木の床に大の字になり、しばらく昼寝をした。夕焼け頃に起き出すと体が軽くなっている。軽くストレッチをしてから、部屋の中で筋トレを始める。腕立て、腹筋、背筋、スクワット。それから無地のTシャツにジャージのズボンを着て階段を下りる。
 玄関で一度だけ、居間のほうを見た。扉はあいかわらず閉まっているが、隙間から漏れてくるクーラーの冷気のおかげで、板張りの床がすっかり冷えている。テレビドラマの声が細々と聞こえていたが、父親はドラマが好きではない。おそらくテレビを点けたまま横になり、そのままうつらつうらしているのだろう。孝和が小学生の頃までは、父親は休みになるとときどき家族旅行に連れていってくれたものだが、中学に上がった頃には残業が増えたためか休みを家で過ごすことが多くなり、高校になってからは家で寝転んでいる姿しか見なくなった。もっともその年頃では、旅行に誘われてもうっとおしく思っただけかもしれないが。
 孝和は黙って家を出、日の暮れかけた街中をランニングした。湿った空気はねっとりと熱を含んでいるが、それでも日中に比べればだいぶ過ごしやすい。このランニングと筋トレは高校に、というより高校でまた水泳部に入部したときから続けている、自分なりのトレーニングだった。努力を続けなければ、そして形のある何かを手にしなければ……そんな漠然とした不安に突き動かされて始めた自主練習だが、ほんの気休めにしかなっていなかった。一年以上続けているというのに、結果に繋がっている気がしないのだ。水泳の記録は高校入学当時からごくごく緩やかにしか伸びていないし、水泳に限らずとも、体力向上に役立っているという実感もない。それでも、体を動かしていなければ落ち着かなかった。街灯の並ぶ道の暗がりから暗がりへと、彼は一心に走った。
 汗みどろで家に戻ってくると、パートから帰ってきた母親と鉢合わせした。両手に買い物袋をぶら下げている。玄関の明かりの下で、母親の目元のしわがくっきり浮いてみえた。
「おかえり。早くシャワー浴びてきなさい。夕飯作っておくから」
 母親はそう言い置いて、せわしなく台所へと向かった。母さんにはたった三日の夏休みもないんだな、と孝和はぼんやり考えた。孝和の家は裕福とは言えなくとも、貧しくは決してなかった。それでも両親がこれだけ忙しくしているのは、大人がそういうものだからなのだろうと、孝和は思った。なんとなく阿久津の顔を思い出して頭を振る。あれは間違いなくダメな大人の例だ。
 夕食の席ではあまり会話がなかった。冷凍のハンバーグはこのところ岩国家の定番メニューとなっているが、孝和は特に不満はないし、母親の疲れきった様子を見れば文句の言いようもなかった。米さえ三、四杯おかわりできればそれで十分だった。
 父親も不満を口にしなかったが、単にその気力がないだけかもしれない。チーズをつまみに、缶から注いだ発泡酒をちびちびと飲んでいたが、やがて思い出したように息子に訊いた。
「部活はどうだ。楽しいか」
「……うん」
「楽しいなら何よりだ」グラスの残りを一気にあおると、吐く息に続けて付け加えた。「学生のうちだ。今のうちに遊んでおけ」
 今のうちに遊んでおけ。この言葉自体は父親の口癖で、孝和が思い出せる限りでは、小学校四年生の頃から言い聞かされている。孝和が塾に通っていない理由の一つも、父親のそんな主張からだ。「夏休み」の間にもその言葉は毎晩口にされたが、それには今まで耳にしたものよりどんよりと重く、苦いものが混じっていた。食卓の明かりの下、黄ばんで血走った父親の目は、孝和に敵意さえ感じさせた。
 母親は夫のほうへ不満そうな顔を向け、力のない声でたしなめた。
「あなた、孝和は遊んでるわけじゃないわ。毎日部活に行って、自分でトレーニングだってしてるじゃないの」
「部活でも、趣味でもスポーツでもいい。どう呼んだっていいが、仕事じゃあない。それならどう呼んだってたいして違わんさ」
「でもがんばってるんだから」
「そういうことじゃない」父親は渋い顔をし、孝和に言った。「父さんが高校のとき登山部だったことは前に話したか」
「聞いた気がする」
「まあいい。話したとしてもだいぶ前だろうしな」缶からビールを注ぎながら、父親は話を続けた。「高校の夏休み、仲間たちと槍ヶ岳に登った。その日のために、十キロのリュックを背負って学校の階段を一階から三階まで、毎日何十往復もしたもんさ。あの山はそれくらい鍛えなきゃ登れないんだ。頂上からの景色ってのはすごくてな、写真なんかとは比べ物にならなかった。言葉にできないっていうのはああいうのをいうんだ。いい思い出だ……」父親の目はテーブルの一点から、再び孝和に向けられた。その目はどこか憐れむようだったが、孝和がそう感じただけかもしれなかった。「遊んでおけっていうのはつまりそういうことだ。友達と浮かれ騒ぐだけが遊びじゃないし、だがそれも遊びだ」
「いいよ、分かってる」
 孝和はやりきれずに目を逸らし、自分のぼんやりした影が皿の上を覆っているのを見下ろした。食べかけのハンバーグをほおばったが、ひどく味気なかった。
 きっと今しか手に入らないものがあるんだ――大人になってからでは手にできない何かが。そんな確信に近い思いは、父親にいまさら諭されるまでもなく、高校生活を送るうちに日に日に強くなっている。しかしそれが何なのか、そのために何をすればいいのか、彼にはまるで分からなかった。