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浩介の予想どおり、その部屋の唯一のドアには鍵がかかっていた。
冷ややかな銀色のドアノブには鍵穴がついているが、部屋を見回しても鍵らしいものは見当たらない。木目調のドアを軽く叩いてみると、思いのほか低くて鈍い音が響いた。木の絵柄はただの装飾で、中身は重量のある金属製の扉らしい。
頭の芯がずきずきと痛むのを感じながら、浩介はぼんやりと見知らぬ部屋を振り返った。
目が覚めたときには、彼はこの部屋の中央、板張りの床に寝転がっていた。よその家に寝泊りしたときなど、寝起きに自分がどこにいるのか思い出せず混乱することがあるが、すでにはっきりと目を覚ましているにも関わらず、浩介にはここが誰の家なのかまったく分からなかった。山下、斉藤、坂上……と普段つるんでいるサークルの仲間を一人一人挙げてみるが、やはり誰の部屋とも違う。他の誰かの……と考えてみても、さっぱり見当がつかない。
それでも、これが誰かの悪ふざけであることははっきりしていた。彼が手に持っているメモ用紙がその証拠だ。そこには定規を使って書いたような、不自然な筆跡の鉛筆書きで次のように書かれていた。
<脱出ゲームにようこそ! この部屋の中にあるものをうまく使って、この部屋から脱出してください。時間はいくらかけてもいいけど、あまりのんびりしているとお腹が空くよ>
そのメモ用紙は目覚めたとき、浩介の目の前の床に落ちていた。いたずらの仕掛け人が置いていったに違いない。筆跡を隠そうとしているのは、仕掛け人の正体を隠しておきたいからだろう。つまり浩介のよく知っている人間の仕業、と考えるのが妥当だ。
この手の悪ふざけは山下あたりが考えそうだが、あいつにしては手が込みすぎてるな――と浩介は首をひねった。そのとたん、また二日酔いに似た頭痛がして思わず顔をしかめる。頭の芯が血流に合わせてずきん、ずきんと鈍く痛む。
二日酔い。そうだ、サークルの飲み会に参加していたんだった。今の状況に至る経緯を、浩介は痛む頭をなだめながら、どうにか思い出そうとした。新入生歓迎会という名の、四月恒例の飲み会。浩介が代表を務めるテニスサークルでは――大学内の他の多くのサークルも同じだが――この時期になると新入生にひたすら声をかけて飲み会に誘う。彼らの入学を歓迎する会、という名目だが、実際はサークル説明会兼勧誘会のようなもので、飲んで仲良くなってしまえばサークルへの加入もさせやすくなるという打算と、何でもいいから飲む口実が欲しいという欲求によって成り立っている飲み会である。浩介たちのサークルでは四月から五月の頭にかけて、計三回の歓迎会を企画しており、その第一回目が、新学期最初の金曜の夜に開催されたのだ。
初回は浩介が会の幹事だった。夜七時に渋谷駅ハチ公口前に集合。その付近は一般的な待ち合わせ場所として有名である上に、浩介たちの大学のサークルは伝統的にそこを集合場所として使うことが多く、入学シーズンのハチ公像前はいつにもまして人でごった返す。参加者が迷わないように、山下と坂上がサークル名を派手な色のマジックで大書したプラカードを頭の上に掲げ、浩介は手をメガホンの形にしてサークル名を連呼した。
その日の参加者は二、三年生を含めて十七人で、二次会まで行ったのはそのうちの七人。代表兼幹事の浩介としては当然、二次会の終わりまで面倒をみなければならないわけで、途中で酔い潰れたりしたら格好がつかない。そのため彼は酔うほどは飲まないように自重していたつもりなのだが、それでも二次会が終わる頃には強烈な眠気に襲われていた。そのせいか帰り道の記憶もほとんどぼやけてしまっている。夜道をふらふらと歩いていたことだけはかろうじて思い出せるが、それもとりとめのない映像の断片にすぎない。渋谷の繁華街を彩るけばけばしいネオンの明かり。電車の高架下の暗がり。細い脇道の両側に、点々とにじんで見える街灯の列……。
そして気がつけば彼はこの部屋にいた。部屋には小さな窓があり、その向こうには晴天が見える。さっきからカツン、カツンと大きく響いているのは、壁の掛け時計が時を刻む音だ。時計の針は、もうじき十一時半を指そうとしている。そうすると、今は土曜の昼ということか。
土曜日は午後からバイトの予定がある。誰のいたずらかは知らないが、付き合ってる暇はないんだけどな……と無意識のうちにジーンズのポケットに手をやった浩介は、そこではっとした。携帯電話がない。尻ポケットを探ると財布もなくなっている。気づけば腕時計もない。ジャケットのポケットも空っぽだ。胸のあたりがすうっと冷たくなった。盗まれたのか? それともどこかで落とした? いや、財布はともかく、腕時計を落とすことなんてまずあり得ない。
そのとき、何かを擦るような音が浩介の足元から忍び入ってきた。周囲を見回すと、ドアのすぐそばにメモ用紙が落ちているのが目に入った。用紙の上端がドアの下の隙間に挟まっている。最初に見つけたメモと同じ用紙に、同じ奇妙な筆跡で何か書かれている。
浩介は屈みこんでそのメモを拾い上げた。そこには次のように書かれていた。
<部屋にあるものだけを使って脱出するんだよ。不正防止のため、持ち物は預かってあるからね>
まるで浩介の様子を観察していたかのような言葉だった。このメモはたった今、ドアの下から差し入れられたに違いなかった。浩介は怒りを覚えて立ち上がると、二枚のメモ用紙をくしゃっと握り潰して床に放り捨て、こぶしでドアを叩きながら叫んだ。
「おい、誰だよ。そこにいるんだろ。ふざけるな。ここから出せ!」
しかし何度叩いても、何度呼びかけても、ドアの向こうからはまったく返事がない。
「午後からバイトがあるんだよ。ゲームならまた今度付き合ってやるから、今日は帰してくれよ!」
事情を訴えてみたが、やはり何の反応もない。浩介は舌打ちをして、最後に思いっきりドアにこぶしを打ちつけた。その音は鈍く威圧的で、ドアの厚みをひしひしと感じさせた。鍵が掛かっているせいか、ドアノブはまったく回らない。ノブを両手で握り、力を込めて押したり引いたりしてみたが、やはりびくともしない。ドアに耳を押しつけてみたが、向こう側の物音はまったく聞こえないし、人がいるような気配もない。
この様子では仮に何もせずに待ち続けたとしても、すぐには部屋から出してもらえそうにない。誰の仕業かは分からないが、どうしても浩介を「脱出ゲーム」とやらに参加させたいらしい。付き合わされるのは癪だが、自力で脱出できる方法があるなら、それを探して出した方が早く出られそうだ。こんなことでバイトを無断欠勤する羽目になって、クビになりでもしたらあまりにもばかばかしい。
浩介は気を落ち着けるために何度か深呼吸をした。頭に血が上ったせいか、頭痛がひどくなっていたが、深呼吸を繰り返すうちにいくぶん和らいできた。気分と頭痛が落ち着くのを待って振り返り、初めて冷たい関心を持って、部屋の様子をじっくりと眺めた。
どこか不自然な感じのする部屋だった。人が普段生活している場所、という感じがしない。二十畳ほどの広さで、壁も天井も染み一つなく真っ白だ。しかし生活感がないのは、そのリフォームしたてのようなきれいさのためだけではなく、部屋の作りや家具の配置が、どこかぎこちなく感じられるためだった。
浩介が背にしている壁にはドアがあるだけだ。まずはドアについて詳しく調べてみた。まず気がついたのは、蝶番が見当たらないということだった。つまりこちらから押して開くドアなのだろう。となると蝶番を破壊して強引に突破するという手は、仮にドライバーのような道具があったとしても不可能ということだ。
ドアの反対の壁には丸い壁掛け時計が掛かっている。身長百七十二センチの浩介が手を伸ばしてやっと届くくらいの高さにあり、相変わらず大きな音を立てて秒針が動いている。時計の右下、浩介の胸ぐらいの位置には三人のピエロが描かれた絵が、厚みのある額縁に入れて飾られている。ピエロは色違いの帽子をかぶっているが、みな揃って口をまん丸に開けていて、その口の形に沿って絵が奥に窪んでいる。絵というより何かの細工物のようだ。裏に何かあるのだろうかと浩介は額に手をかけてみたが、壁にしっかり留められていて外れそうにない。ふと思い立って時計にも触ってみたが、これも壁に完全に固定されていた。
時計の壁に向かって右手側の壁には窓が三つ、だいたい浩介の腰くらいの高さに等間隔に並んでいる。しかしこの窓が妙に小さい。分厚いガラスが少し奥まった位置に嵌め殺しになっているが、仮にガラスがはまっていなかったとしても、枠が小さすぎて浩介が顔を覗かせることはできない。これでは窓から抜け出すことはおろか、外に助けを求めることもできない。そもそもこのサイズとこの位置では、窓本来の役割である明かり取りの役にも立たないだろう。実際、窓からは日差しが入ってきておらず、部屋の明かりは天井と一体になった照明によってのみまかなわれていた。
窓から外を見ると、赤系の色の瓦屋根が眼下に連なっていて、それらはどれも二階建ての住宅のようだ。その見え方からすると、この部屋は地上五階くらいの高さだろうか。町並みを見てもここがどこなのか、都内なのかそうでないのかさえ浩介には判断がつかなかった。どことなく奇妙な景色のようにも思えるのだが、どこがどう奇妙なのかはうまく言い表せない。
窓の向かいの壁際には木製の机が置かれている。部屋自体が広く、そのうえ他にほとんど家具がないにも関わらず、その机は壁の中央に寄せて設置されていた。左右の空間の広さが、この部屋の不自然さを一段と強調している。机の上には何も載っていない。光沢のある天板は傷一つなく、ほこり一つ落ちていない。机の左上部に横長の引き出しがあり、右側には縦に三つの引き出しがあるが、なぜか一番下の引き出しには黄色、その上のには赤色の、ペンキ様の塗料が塗りたくられていた。幼児のいたずらじみた雑な塗り方だ。
机の横には百円ショップで売られているようなブラスチック製のゴミ箱がある。中身は空だ。そして机の手前には不恰好な椅子が一脚。どうやらダンボール製のようで、一応座れるくらいには丈夫だが、なぜ机に合わせた木製のものでないのか、これだけお手製のような粗末さなのかなど、不自然な点は多い。
部屋にあるものはそれがすべてだ。
いや、と浩介は自分の体を見下ろした。服がある。服は昨日着ていたものがほぼそのまま身についていた。上はクリーム色のTシャツに紺のジャケット、下は着古して少し色が薄くなったジーパン。靴下も履いていたが、靴とベルトだけがなくなっていた。部屋にあるものを使って脱出しろってことは、いざとなったらこの服を使ったって反則じゃないよな、と浩介は投げやりに考えた。そんな機会があると本気で考えたわけではない。
一通り状況を確認したところで、よし、と浩介は気合を入れた。このくだらないゲームを片付けて、さっさと外に出てやろう。
部屋中をざっと眺めても、ドアの鍵らしきものが都合よくそこらに転がっていたりはしない。床や机の上はもちろん、壁や天井にテープで留められている、ということもないようだ。となると、順当に考えればまず疑うべきは机の引き出しだろう。
浩介はまず、幅広の引き出しを引いてみた。抵抗もなくすっと開く。するとカラカラという音とともに、緑色のピンポン玉が奥から転がり出てきた。手にとってみても、ただの卓球の玉にしか見えない。割れ目もなく、振っても音はせず、重みもない。中に鍵が入っていて……ということはなさそうである。一つ首を傾げてから隣の引き出しを開けてみると、今度は青いピンポン玉が入っていた。大きさも重さもさっきの緑の玉と同じだ。続けて赤と黄色の引き出しに手をかけてみたが、それらは鍵が掛かっているらしく開かなかった。よく見ると、引き出しの取っ手近くにそれぞれ鍵穴がある。
机の探索はこれで終わってしまった。
ばかばかしい気持ちがさらに強くなり、浩介は眉間にしわを寄せた。実のところ、早く部屋を出たいのにはもう一つ理由があった。起きたときからじわじわと尿意を催しているのだ。昨夜は酒量を抑えたとはいえそれでもだいぶ水分とアルコールを口にしたから、体が早く排出したがっているのだろう。こういう欲求は時間が経つと加速度的に膨れ上がる。気分が落ち着かなくなると思考もまとまらない。
浩介はダメ元で、再度ドアを叩いて叫んだ。
「おい、トイレに行かせてくれ。それくらいいいだろ?」
返事はなかった。
「出してくれないんならここでしちまうぞ。いいのか?」
無言。
そうかいそうかい、じゃあお望みどおりにしてやろうじゃないか。浩介は短い頭髪をくしゃくしゃっとかきながら、部屋をもう一度見渡した。まず壁に目をやり、そこに引っ掛けてやろうかと考えかけたが、いやいや、後で床を流れてきたりしたらきついぞ、と考え直して視線を移す。と、机の横のゴミ箱が目に留まった。緑色のプラスチック製、この部屋の中でもっとも安っぽく、「器」にぴったりの家具だ。当座の便所としてはぴったりかもしれない。そそくさとゴミ箱の前に立ち、ジーパンの前を開ける。
そこで初めて、ゴミ箱の内側に小さな銀色の鍵がテープで留められていることに気づいた。さっきも一度はゴミ箱の中も覗いたはずだが、手前側の面まできちんとチェックできていなかったらしい。浩介は慌てて鍵を引き剥がし、手のひらに置いてみた。大きさからしてドアの鍵ではなさそうだが、念のためドアの鍵穴に挿してみる。そして明らかにサイズが違うことが確認できると、とりあえず鍵を机の上に置いていったん忘れ、ゴミ箱に向かって用を足すことを優先した。だいぶ我慢していたこともあるのだろう、思いのほか長々と出続けた。しかしそれよりも、尿の色がいつもより濃いのが気になった。まるで風邪をひいたときのような……あるいは薬を飲んで寝て起きたあとのような、どこか病んだ感じのする濃い黄色。
薬……睡眠薬。そんな連想が浩介の脳裏にぼんやりと浮かんだ。もちろん昨夜はどんな種類のものであれ薬など飲んでいない。それどころか睡眠薬など、生まれてから一度も飲んだことがなかったが、睡眠薬の副作用で頭痛がすることがある、というのをテレビのサスペンスドラマか何かで見た覚えがあった。それこそドラマのようでばかげてはいるが、飲み会のときに誰かにこっそり飲まされたということはないだろうか。酔っても疲れてもいないのにあれほど激しい眠気に襲われたことも、さっきから執拗に芯に響いている頭痛も、それなら説明ができる。この奇妙な部屋に担ぎ込むためという「動機」さえ考えつく。しかしその仮説を確かめる術はない。
ズボンで軽く手を拭く。切羽詰った欲求が解放されたおかげで、今度こそ落ち着いて物事を考えられそうだった。頭がすっきりしたし、頭痛さえいくぶん引いた気がした。臭いを少しでも遠ざけるためにゴミ箱を部屋の隅に移動させ、それからさっき手に入れた鍵を改めて手に取って眺めた。さっきは気づかなかったが鍵には持ち手の部分に赤いラインが入っている。ひょっとして、と机の赤く塗られた引き出しの鍵穴に挿し込んでみた。鍵は奥まで入り、回してみるとカチリ、と小気味よい音がした。こんな状況でも、当たりを引くというのは気分がよかった。浩介は思わず口元をほころばせながら、引き出しの取っ手を引いた。
しかし中に入っていたのは出口の鍵ではなかった。またもやピンポン玉。今度は引き出しと同じ、赤色だ。
赤、青、緑。これで玉は三色になった。この色に何か意味があるのだろうか。いやそもそも、これらは脱出のための手がかりになるのだろうか。
机の引き出しで、まだ開けられずにいるのは黄色い塗装の引き出しだけだ。しかしこの引き出しには鍵がかかっていて、その鍵は他の引き出しには入っていなかった。念のため、赤い引き出しの鍵を使ってみたが、型が合わず奥まで挿し込むことができなかった。となると別の場所に鍵が隠されているのか。開いた引き出しの裏側や奥の方を手で探ってみた。机の側面や、椅子の裏も探してみた。机の後ろ側は、とも考えたが、机も時計や絵と同様に壁に固定されているらしく、裏側を覗き込むことはできない。結局ドアの鍵も、机の引き出しの鍵もどこにも見当たらなかった。
カツン、カツン、カツン。誰かの足音のような時計の音が気に障る。
時計をにらみつけ、目を逸らしかけて、違和感を感じて再び時計に目をやる。時刻は十一時半になろうとしているところだった。おかしい。さっき確認したときも同じ時刻だったはずだ。
――壊れてるのか、この時計。
秒針が動いているのはたしかだが、それが一周するまで待っても、長針はぴくりとも動かなかった。やはり壊れているようだ。沈鬱な気分がいっそう重くなった。これでは今の時刻を確認する方法がまったくないことになる。今指している時刻もまったく当てにならない。ただただ耳障りな音を響かせるだけが、今のこの時計の仕事らしい。
本来の役目を果たさないばかりか、頭を働かせる妨げになっているのが腹立たしかった。取り外すこともできないなら、いっそ叩き壊してやろうか。そう考えたとき、浩介ははっとした。椅子がダンボール製である理由が唐突に理解できたのだ。部屋の中で自由に動かすことができるのは、椅子とゴミ箱だけだ。それらはやわすぎて、力いっぱい振り下ろしても時計や窓ガラス、ドアノブを破壊することはできそうにない。実際、ゴミ箱は薄いプラスチック製で蹴りつけただけでも壊れてしまいそうだし、椅子はぎりぎり踏み台に使える程度の強度しかない。乱暴に腰を下ろしただけでもぺしゃりと潰れてしまいそうだ。いわば不正行為を防ぐために、丈夫でない素材のものが選ばれたのではないか。
この部屋をセッティングした人間の底意地の悪さが垣間見えた気がした。
いずれにしても、時計を止める手立てはなさそうである。浩介はやれやれと首を振り、少しでも考えに集中できるようにと時計に背を向けて、椅子に慎重に腰を下ろした。そうして、机の上に転がしておいた三つのピンポン玉を順に眺める。さてこれからどうするか、と指で玉をもてあそんでいるうちに、不意に「脱出ゲーム」という単語が脳裏にくっきりと浮かび上がってきた。その名前をつい最近、どこかで耳にしたことがある。出すものを出して考えに集中できるようになったせいか、少しずつ記憶の靄が薄れていっているようだ。
――そうだ、歓迎会のときに聞いたのだ。
「最近ハマってることですか? ええと、脱出ゲーム、でしょうか」
一次会で行った安い居酒屋チェーン店の奥の座敷。長テーブル越しに浩介の正面に座っていた、新入生の女の子。あの子がその単語を口にしたのだ。ショートカットの似合う、目鼻立ちのはっきりした可愛いらしい子で、浩介自身が飲み会に勧誘した子でもあった。入学式当日にビラ配りの浩介が手渡した、デザインセンスがよいとはとても言えない勧誘ビラをすんなり受け取ってしげしげと見つめ、軽く笑って「歓迎会ですか。参加、してみようかな」と答えた軽やかな声。一人歩きの女の子がサークル勧誘に即座に乗ってきたのが珍しくて、浩介の記憶にはっきり残った子だ。名前は……そう、淳子と言っていた。他の新入生の名前はすぐに思い出せないのに、彼女の名前だけはっきりと憶えているのは、彼女が飲み会での自己紹介で、自分を呼ぶときは下の名で呼んでほしいと言ったためだ。苗字で呼ばれるのが好きじゃないので、と彼女は言っていた。そんな子もまた珍しい。
浩介たちのサークルはテニスサークルと銘打っているが、内実からすればむしろイベントサークルと呼ぶのがふさわしい。要は人数を集めて遊んだり飲んだりしようという、遊び目的のサークルだ。テニス、という単語を導入したのは、スポーティなイメージによって爽やかさを演出しようという、サークル創設メンバーの知恵によるものらしい。その方が女子メンバーが集まるんじゃないかという、小賢しい知恵。
サークルの規模は決して大きくない。二、三年生合わせて二十人強、そのうち登録のみでほとんど顔を出さない、いわゆる幽霊メンバーが五人ほど。四年生はみな就職活動やら卒業論文やらで忙しくなるらしく、年明けには姿を見せなくなるのが通例だ。だから新入生の勧誘は、実質最上級生である浩介たち三年生も全員参加で積極的に行った。サークルの「新入生狩り」といえば四月の最初の一週間が勝負と相場が決まっている。特に入学式のある初日は式後に会場の講堂から出てくる新入生を狙って、サークル間ですさまじい客引き合戦が繰り広げられる。勧誘者の人数が多いほど「狩れる」確率も単純に高くなるから、浩介たちもほぼ全メンバーで勧誘をかけたわけだが、それでも小規模サークルの悲しさ、大人数を擁するサークルを相手にしてはなかなか勝ち目がない。
初回の飲み会に参加してくれた新入生は、男子四人、女子三人。これでも近年の成績としては優秀な方だ。飲み会の場では浩介と、同学年の山下、坂上がそれぞれ話の輪を作った。居酒屋の奥の座敷の長テーブルに最初に座った位置の関係で、自然と浩介の話の輪にいたのが淳子だった。そして自己紹介の流れから、淳子が脱出ゲームの話を始めたのだ。
浩介の頭に、そのときの会話がよみがえってくる。
「脱出ゲーム、って……ああ、みなさん知らない、ですよね」
周りがぽかんとした顔をしているのを見回して、しまったというように、淳子は少し顔を赤らめてうつむいた。浩介もその名は聞いたことがなかった。どういう種類のゲームなの、と訊ねると、インターネットで遊べるゲームの一種だという。
「へえ、ネットのゲームにそういうのがあるんだ。おれもネットゲームなら前に少しやってたよ」
浩介はにっこり笑って軽くフォローを入れた。さらに、みんなはネットのゲームってやるの? と輪の中のメンバーに軽く話を振ると、おれもやりますよ、といった反応が挙がり、やや硬くなっていた場の空気がほろっと和んだ。こういうときの雰囲気づくりの腕はなかなかのものではないかと、浩介は自分の能力を高く評価している。それに、仲間どうしわいわいと気軽に盛り上がれるような雰囲気が、彼は好きだった。
淳子はほっとした面持ちで顔を上げた。しかしすぐには話を続けず、何かに耳を澄ますようにして話の間を計っていた。この子も場の空気を読むのが上手いな、と浩介はそのとき感じた。
「脱出ゲームって、部屋の中に閉じ込められた主人公、っていう設定で、部屋の中にある道具をうまく使って部屋から脱出するゲームなんです。ストーリーみたいなものはなくて、使えるものは何か、それをどういうふうに使うか、っていうのを探っていく短いゲームがほとんどですね」
もし唐突にこういう説明を始めていたらみんな引いてしまったかもしれないが、今ではゲームの詳しい話を続けてもいい雰囲気になっていた。実際、みんな彼女の話に気楽に耳を傾けていた。それでも淳子がさりげなく言葉を選んでいることに、浩介は気づいていた。ゲーム用語、を感じさせる単語を避けている。浩介も調子を合わせた。
「じゃあ脱出ゲームって、ちょっとした息抜きでやるパズルみたいなものなのかな。部屋から出るっていうのは、窓ガラスを銃で撃って壊すとか、そういう出方をするの?」
「そういう乱暴なのはないですね」淳子は少しくつろいだ表情を見せた。「ネットで検索するとたくさんあるので、探したらそういうのもあるかもしれないですけど。だいたいは、ドアや箪笥に鍵がかかっていて、その鍵を探していく、っていうのが基本的な進め方です。部屋の隅に鍵が落ちていて、それを使うと箪笥の引き出しが開く。その中にある道具を使って、壁の仕掛けを解除する。そうすると、天井から別の仕掛けが降りてくる、みたいな流れで一つずつ――」
「脱出ゲームならうちにもある!」
突然、調子っ外れな声がして、隣の山下たちまでびくっとこっちを振り返った。奇声を発したのは、淳子の隣でずっと体を揺すっていた、新入生の男子だった。自己紹介で彼の名前も聞いたはずなのだが、浩介はそのときすでに忘れてしまっていた。少し言葉を交わしただけで、彼への興味が薄れてしまったからだ。クラスに一人はいるような、会話のやりとりのおかしい変わり者。場の空気をまったく読めず、発言するたびに場を乱す人間。
全員が気まずく沈黙してしまった中、彼はおかっぱ頭のような髪を揺するように何度かうなずき、駄目押しのように言った。
「うちにも脱出ゲームがあります!」
「そっか、へえ、きみのとこにもあるんだ」
浩介はさらりと流そうとした。淳子の説明では、脱出ゲームというのはネットゲームの一種だ。つまりはインターネットに繋がっているパソコンがありさえすれば、どこででも遊べるもののはずだ。ラジコンや車じゃあるまいし、うちにもある、と言われても反応に困る。それにたしかこいつ、情報学科の学生じゃなかったか? 入学したばかりでもそれくらいの知識は持っていそうなものだ。見た目も……それっぽいのに。
彼はしかも、なんとかフォローを入れてやった浩介には目もくれずに、さっきからしきりと淳子に熱い視線を送っている。気を引こうとしているのは中学生が見たって分かるだろう。淳子も当然気づいているが、こちらは大人な対応というのか、さりげなく目線を合わさないようにしている。対照的な二人。共通点があるとすれば、二人とも新入生だということと、服装に金がかかっているということくらいか。淳子は白いブラウスに薄手の黒いジャケット、紺のショートパンツという格好だが、どれも品がよくスマートで、控えめな高級感があった。一方の彼は、やはり高そうな背広にスラックスといういでたちだが、どこか借りてきた衣服のようで、一言で言えば似合っていない。小太りで、腹の肉がベルトからはみ出ており、そこだけやけに中年じみている。
私立の有名校である浩介たちの大学では、身なりだけで家庭の裕福さを感じさせる子も少なくない。だが、淳子と彼はその中でも特に上流の家の出ではないかと、浩介は初対面のときから薄々感じ取っていた。奨学金を受けてぎりぎり入学できた浩介には服装のよしあしはあまり分からなかったが、それでも丸二年もお坊ちゃま、お嬢様に囲まれていれば自ずと見る目が備わってくる。
半ば淳子をかばうような気持ちで、浩介はもう一度だけおかっぱ頭の彼に声をかけた。
「……えーと、きみんちにある脱出ゲームは面白いのかい?」
すると彼は急に浩介を振り返った。大きくうなずいてみせ、お腹の肉がテーブルに乗るほど身を乗り出し、小さな充血した目をできる限り大きく開いて、それから、それから……。
浩介がはっきり思い出せたのはそこまでだった。あとはたしか彼が自分の趣味について一方的に熱弁を振るい、他の誰も彼の話についていけず、結局浩介が適当にあしらって話題を替えたのだったと思う。そういえば、淳子も彼も、二次会まで一緒だった。淳子はそのルックスを目当てに山下たちがしきりに誘い、断りきれずについてきたようだったが、おかっぱの彼も十中八九、淳子目当てだったのだろう。淳子が二次会に行くと分かると、誰も声をかけないのにくっついてきた。そして道中も二次会の店でも、ずっと淳子を、そしてときどきなぜか、浩介を見つめていた気がする――。
カツン、カツン、カツン。急き立てるような時計の音が、浩介を物思いから呼び覚ました。と同時にバイト先の清掃会社の、上役に当たる先輩の顔が浩介の頭をよぎる。チーフと呼ばれるその人は気さくな人だが、遅刻や無断欠勤には厳しい。のんびり考え事をしている暇はない。しかし脱出方法を考えようにも、もう打つ手が……。
――道具を使って、壁の仕掛けを解除する――
頭の中で記憶の言葉がこだまし、ばらばらで意味をなさなかった思考が不意にぴたりと合わさって鮮明なイメージとなった。昨日の出来事を思い出したことは、もしかしたらまったくの無駄ではないかもしれない。淳子の説明にあった、一般的な脱出ゲームの遊び方。今の場合、彼女の言葉そのままに、壁の仕掛け、に着目すればよいのではないか。この部屋でそれらしいものは一つしかない。
浩介は立ち上がり、ピエロの絵のある壁を振り返った。ピンポン玉を手に絵のところまで行き、ピエロの開いた口に、試しにピンポン玉の一つをあてがってみた。思わずにやりとしてしまった。ピエロの口の穴と、ピンポン玉のサイズがぴったり一致していたのだ。と、すべすべの玉の表面で指が滑り、慌てた弾みにそのまま玉を穴の奥まで押し込んでしまった。しまった、と思ったのと、ブブーッ、というブザー音が大きく鳴り響いたのがほぼ同時だった。次の瞬間、空気の抜けるような音とともに、押し込んだ玉と一緒に得体の知れない霧のようなものが、浩介の顔面に向かって勢いよく吹きつけられた。
玉はちょうど浩介の鼻先に当たって弾かれ、そのまま床に落ちて跳ねる音がしたが、浩介はそれを目で追うことができなかった。まぶたを開けていられない。玉とともに絵から噴霧されたものが浩介の目を直撃し、同時に焼けつくような痛みが両目を襲ったのだ。目尻からぽろぽろと涙がこぼれる。手がかぎ型に強張る。しかし手で目をこすったら痛みが余計にひどくなる気がして、うかつに触れることができない。ひざ立ちになり、そのままじっと痛みに耐えた。一方で、鼻の奥も少し遅れてつんと痛み始め、じんわりと鼻腔の奥から水が染み出してきた。頭が混乱する中、どこかで経験したような痛みと匂いだと気づく。
――玉ねぎの汁?
大学入学以来の一人暮らしで、自炊もそこそこ慣れていたこともあって、浩介はすぐにその匂いの正体に思い当たった。そうだ、この匂いは玉ねぎの汁だ。間違いない……危険な薬物ではないかという不安が弱まり、ほっと胸をなでおろす。不思議なもので、危険がないと思い込むと痛みまでがいくぶん和らいだ。目を何度かしばたかせ、少しずつまぶたを開く。見上げると、ピエロが馬鹿にしたように浩介を見て笑っていた。
トラップだ。とっさに理解した。いい加減なやり方で仕掛けを解こうとすると、罰ゲームが待っているというわけだ。
この部屋に自分を閉じ込めたやつは絶対イカれてるな、と浩介は心の中で毒づいた。しかしこの仕掛けに関しては、もう正しい解き方が予測できていた。手を滑らせさえしなければ、一度で正解を引き当てることができたはずだった。
ピンポン玉は三つ、ピエロの口も三つ。
ピンポン玉は三色、そしてピエロの帽子の色も三色。
さっきは玉のサイズを確認するために、緑帽子のピエロの口に赤い玉をあてがっていたのだ。もう少し慎重に事を進めていれば……と苦々しく思いながら、浩介は床に転がっていた赤い玉を拾い上げた。今度はピエロの帽子の色に合わせ、赤い帽子のピエロの口に赤いピンポン玉をはめた。押し込むときについ腰が引けてしまったが、今度は何も起こらなかったのですっかり気が楽になり、残りの二つはさっさとそれぞれ対応する口に放り込んでいった。すべての玉が口の奥まで入り込むと同時に、絵の額縁の下部から小さいものが落ち、床に跳ねて澄んだ音を立てた。最初に見つけたのとほぼ同じ大きさの鍵。黄色いラインが入っている。考えるまでもない。机の最後の引き出しの鍵に違いなかった。
鍵を拾い上げようと腰を屈めたとき、視界の隅にふと違和感を感じた。鍵を拾いながら、浩介は右手に顔を向けた。そちらの壁には例の小さすぎる窓があるだけだ。その位置からでも外の景色が見える。よく晴れた空と、赤い屋根の群れ。
……赤い屋根?
浩介は窓に駆け寄った。見える景色を確認しながら、腰を少しずつ屈めていく。最初に窓の外を見たとき感じた違和感の正体が、今ははっきりと分かった。念のため残り二つの窓も調べてみる。結果は同じだった。
どの角度から窓の外を見ても、景色が変わらないのだ。きちんと立った状態で窓を見れば、浩介の身長だとやや窓を見下ろす形になる。家々の赤い屋根は眼下に見え、そのためにこの部屋が地上五階くらいの高さだろうと判断したのだ。しかし浩介が腰を低く屈め、窓を見上げるような姿勢になっても、やはり赤い屋根が見えた。普通に考えれば、そんなことはあり得ない。その姿勢からなら、空しか見えないはずだ。
注意深く調べればすぐに分かることだった。窓の景色はただの写真だったのだ。厚みのあるガラスの向こう側に貼られているために、見た目がわずかばかり歪んでおり、そのせいもあって本物の景色と錯覚したのかもしれない。さっきは尿意が邪魔して注意力が散漫になっていたのも、気づけなかった要因の一つだろう。
偽物の景色。壊れている時計。
つまり浩介には時刻どころか、今が昼か夜かも判断できないのだ。それどころか場所もまったく見当がつかない。ここは高層ビルの屋上に近い一室かもしれないし、地下室だとしてもおかしくない。ニュースで一時期よく耳にした、拉致、という言葉が頭をよぎる。そうだ、ここが国内だという保証すらないじゃないか。
浩介は知らずに顔を歪めていた。苦いものを口にしてしまったときのように。自分が置かれている状況。盗まれた財布や携帯電話。脱出ゲーム。仕掛けられたトラップ。偽物の窓の景色――。
犯人は――これを仕組んだ人間は明らかにおかしい。常軌を逸している。
浩介の胸を絶望の影がよぎった。本当にこの部屋から無事に出られるのだろうか。本当は出る方法などなく、このまま監禁され放置されるのではないか。もしかしたら犯人は、存在しない出口を求めてさまよう浩介の姿を、どこかであざ笑いながら観察しているのかもしれない――
不安を払うように頭を振る。悪い方に考えていてもきりがない。今はできることをするしかない。浩介の手のひらには、ついさっき手に入れたばかりの鍵が冷たく光っている。彼はそれを、最後の引き出し、黄色い塗装が施された引き出しの鍵穴へと挿した。それは素直に収まり、彼の手の動きに合わせて回転し、カチリ、と音を立てた。
胸の鼓動が速くなるのを感じながら、浩介は引き出しを引いた。そこにドアの鍵が……という期待はしかし、外れた。引き出しの中には浩介の手に載るほどの大きさの、鉄製の四角い箱が入っているだけだった。上面には0から9までの数字のついたダイヤルが四つ横に並んでおり、それらの下に一つだけ丸いボタンがある。その面が箱のふたの役割をしているのだろう、箱の裏側に蝶番がついていた。ためしに力を込めて引っ張ってみたが、ふたは開かなかった。
ある決まった四つの数字の組み合わせで箱が開く。おそらくそういう仕組みの箱だ。数字を正しい組み合わせにして丸いボタンを押せば、錠が外れる。そう考えるのが自然だ。しかし浩介には、鍵となる数字などまるで見当がつかなかった。
組み合わせは0000から9999までの一万種類。0000、0001、0002……と順に試していく手はある。時間はかかるが、余裕があればそうしていたかもしれない。しかしその余裕が、浩介にはなかった。バイトのことはもう頭になかった。さっきのピエロのようにトラップが仕掛けられていたら? そして今度のトラップが、玉ねぎ臭のあるちょっとした目潰しよりもはるかに危険なものだったら? 冷やりとした鉄の箱の感触が、そこに潜む鋭利な危険を予感させた。危機感が汗となって浩介の背筋を滴っていく。手の甲で額の汗をぬぐい、シャツをずらして背中の汗をシャツに吸い込ませる。何度か深呼吸をし、荒くなりがちな呼吸を鎮める。
犯人はイカれている。しかしこのゲームを楽しんでもいるはずだ。解答のないクイズを用意して、人がトラップにかかり続けるのを楽しく見守るような人物ではない……はずだ。浩介は必死にその考えにしがみついた。そうでない可能性も充分にあり得るのだが、そんな暗い可能性を残らず考えていたら頭がおかしくなってしまう。最悪の可能性を突き詰めたら、永久にここから出られないことさえあり得るのだ。
頭を振る。嫌な考えを追い払おうとする。頭痛の名残が頭の芯でうずいたが、もうほとんど気にならない。そして確実に言えることだけを自分の中で確認した。手当たり次第に番号を試すのは、やはり愚かな考えだ。
今までに見落としているものがあるに違いない。浩介はジャケットを脱いで椅子にかけると、床を這いずり回るところから始めた。真っ白な塗装に紛れて四つの数字が書き込まれていないか。隅から隅まで、四つんばいになって、あるかないかも分からないものを必死に探し続ける。手のひらとジーパンの膝を通して、冷えた床へと体温が逃げていくのが分かる。ときどき立ち止まって手で膝をさする。窮屈な姿勢を続けることで重くなっていく腰も、ときどき回してなだめてやらなければならない。床の面積が無意味に広く感じられる。精神的苦痛は和らげる術がない。
数字は床のどこにも書かれていなかった。
どっと尻餅をついた浩介の視界を、真っ白な壁と天井が襲う。空間が恐ろしく広く感じられる。視線をさまよわせても、四桁の数字など見つかる気がしない。一面、壁紙を新調したばかりのように純白なのだ。しかしもしも、修正液のような白いインクで数字が書き込まれていたら? あるいは壁紙をはがすと下地に数字が書かれているという可能性は? 浩介は天を仰いでぎゅっと目をつぶった。単純に考えても、壁と天井を合わせたら床よりずっと総面積が広いのだ。床と同じ要領でつぶさに調べつくすなどとても神経がもたない。丹念に調べつくしたはずの床にさえ、見落としがあるような気がしてならないのだから。
もっと分かりやすいところにないだろうか、と机の側面をなめるように調べていく。ない。引き出しの裏は。ない。椅子はどうか。ない。ゴミ箱は。中で異臭を放っている液体がこぼれないように持ち上げて底面まで確認したが、これもまっさらだった。
ずっと目を凝らしていたせいか、さっきとは違う種類の頭痛が浩介の頭をじわりと締めつけてきた。休憩のつもりで椅子に腰掛け、こめかみを指で押す。背もたれに体重をかけようとすると、やわな椅子のどこかがみしりと音を立てた。慌てて体を起こす。ゲームというのは気晴らしにやるものだと彼は思っていた。こんな苦痛を強いるゲームなど、ゲームと呼べるのだろうか。
徒労感が精神を苛んでいく。四つの番号が分かれば部屋から出られるという保証はないのだ。また新たな仕掛けが現れるだけで、延々と鍵探しをさせられることだって考えられる。さらにもし部屋から脱出できたとしても、そこに何が待っているのかは分からない。閉じたまぶたの裏に暗鬱な想念が形を成す。きしみながら開く重い扉、その向こうで後ろ手を組み、笑顔で立っている人影。たしかに笑っている。なのに顔の造形も、性別さえも分からない。その人影はナイフを手にしている。その鋭い切っ先を浩介に向けている。浩介を生きて帰すつもりなどないのだ。仕掛けをすべて解いてしまった浩介にはもう用がないのだ。人影は迫ってくる。ナイフをまっすぐ浩介に向けてゆらり、ゆらりと向かってくる。徐々に迫ってくるその顔は、その顔は――
すっ、と聞いたことのある音がした。浩介は暗い想像から覚めてはっと顔を上げた。カツン、カツン、という時計の音が思い出したように耳に響く。まるで追っ手の足音のように……今まで聞こえていなかったのが不思議なくらいに。
ドアの方を振り返った彼の目に、床に置かれた新たなメモ用紙が映った。そっと立ち上がり、足音を忍ばせるようにして近づき、恐る恐る紙を取り上げる。見慣れた用紙に、見慣れた筆跡。
<簡単な問題なのに、だいぶ苦戦しているじゃないか。いったいあと何時間かかるんだい?>
直線だけで構成された文字そのものからは、相手の感情は読み取れない。からかっているのか、憐れんでいるのか、それとも苛ついているのか。どこかから浩介の様子を覗いているのは間違いないが、どこから見られていようと浩介に興味はなかった。仮にどこかにカメラがあったとして、それをふさいで、あるいは壊して、一体それで何になる?
あと何時間かかるか。そんなことは彼には知りようがなかった。脱出ゲームとやらに慣れている人間にとっては、ひょっとしたらあっさり解ける類の問題なのかもしれないが、彼はまったくの初心者なのだ。しかも時計は止まっていて、時間を計ろうにも計れないときている。
時計。
動かない時計。
……常に同じ時刻を指し続ける時計?
やられた、と浩介は思った。あまりに情けなくて笑いだしそうになる。床の模様を隅々まで追っていくなんて、ばかげているにもほどがある。気づいてみれば何のことはない。アナログではなくデジタルで考えればより分かりやすい。時刻は四つの数字で表現できるものではないか。
振り返って時計を見上げる。それは彼が目覚めたときからある時刻を――四つの数字を示し続けていた。もうすぐ十一時半になるところ。近寄って長針の位置をきちんと確認する。正確な時刻は、十一時二十八分。
机の上に置いておいた灰色の箱に駆け寄り、さっそく数字を合わせる。しかし丸いボタンを押す直前、彼は手を止めた。学校のテスト時間の終了間際のように、彼の頭の中でささやくものがある。本当にこれでいいのか? 答え合わせをしなくていいのか?
時刻は四つの数字で表される。しかし表し方には二通りある。数字の前に午前、午後、という言葉をつけるなら、数字は変わらない。しかし数字だけで時刻を表そうとするならどうか。午後十一時は二十三時だ。午前、午後というボタンが存在しない以上、時計の時刻を表す数字は二通りあると考えた方がいい。
浩介は手のひらに浮いた汗をジーパンでぬぐった。今の本当の時刻を知る方法がないのと同様、昼か夜かを知る術もない。なぜなら、窓の景色も偽物なのだから。
いや、違う。それを言うなら時刻だって偽物だ。それなら偽物どうし、外の景色に合わせればいいのだ。
念のため、浩介は窓に目をやって空の色を確かめた。最初に見たときと同じ、雲ひとつない青空。夕暮れや夜空に変わっているということもない。つまりこの部屋全体の時間は、昼の時間帯で止まっているのだ。
胸の鼓動が時計の音より大きく響く。それを意識しながら、浩介は箱の数字を1128に合わせた。そして箱を机の上に置き、自分は身を屈めて机に身を隠すようにして、腕だけ伸ばして箱の上のボタンを指で探った。万が一間違っていたとき、箱から何が飛び出してきても大きな被害を受けないよう、体をかばう体勢を取ったのだ。かすかに震える指をボタンに乗せ、一呼吸おいて、ぐっと押し込んだ。
小さな金属音とともに、箱が指を押し戻すような感触があった。そろそろと腰を上げて様子を窺うと、箱のふたの手前側が開いていた。奥側がばね仕掛けになっていて、持ち上がったふたが指に引っかかっていたのだ。指をそっとどけると、ふたは勢いを得て目一杯大きく開いた。勢いあまって机にぶつかり、カスンと乾いた音を立てる。浩介は息を吐こうとし、それから慌てて空気を吸った。屈みこんでからずっと息を止めていたことに、彼はこのとき初めて気づいた。
箱の中にはスポンジが埋め込まれ、そこにはめこむようにして鍵が入っていた。家の鍵よりやや小ぶりだが、机の引き出しの鍵よりずっと大きい。先端の形状も、部屋のドアの鍵穴の形に似ている。ごく普通のシリンダー錠だ。
浩介は鍵を取り出し、手のひらにおいて眺めた。汗で湿った手に、銀色の冷たさが心地いい。こんな小さな道具を手に入れるために、どれだけ苛つき、どれだけ怖い思いをしたことか。それを考えると、笑えばいいのか怒ればいいのか、彼には分からなかった。自分がいま実際にどんな顔をしているのかも、鏡を見ずに言い当てる自信がなかった。
鍵を見つめ、少しの間考えてから、とにかくドアに差し込んでみることにした。鍵穴に鍵の先端を触れさせた瞬間、もしこの鍵が偽物だったら、という思いが彼の頭をよぎったが、そんなはずはないと自分に言い聞かせ、鍵を一気に奥まで押し込んだ。それが根元まですっきり収まることを確認してすぐに鍵を抜き、部屋の反対側からトイレに使ったゴミ箱を急いで持ってきて、再び鍵を鍵穴に入れる。もし犯人がドアの向こうで待っていたら、ゴミ箱の中身をぶちまけてやるつもりだった。ただし浩介が何を企んで行動しているかは、犯人に筒抜けだと思った方がいい。そこで相手に対策を練る時間を与えないよう、鍵が合うことだけ確認してからゴミ箱を持ってきたのだ。
そこからの行動はためらいがなかった。右手で鍵をひねる。ガチャリ、と牢獄の錠が開くような重々しい音が鳴る。すかさずノブを握り、左手でゴミ箱のふちを握り締めたまま、力を込めてドアを勢いよく押す。想像と違い、金属のドアはきしみ音ひとつ上げることなく、重さも感じさせない滑らかさで開かれた。
たたらを踏んだ浩介の眼の前に、もといた部屋と同じくらいの広さの部屋が現れた。ただし、壁紙は南国の海を思わせる明るい青。今度は青一色の部屋だ。
浩介はあっけにとられ、立ち尽くした。左手のゴミ箱がちゃぷんと音を立て、不快な臭いを漂わせたが、彼はそれをぼんやりとしか意識しなかった。その部屋に犯人がいるかもしれないという危機感さえ、一瞬忘れた。
部屋の中央近くに、何度か目にしたあのメモ用紙が置かれていた。浩介の位置からは遠くて判読できなかった。しかし浩介を呆然とさせ、目を釘付けにさせたのはその紙ではなかった。その紙の横に、身動き一つせず横たわっている丸みを帯びた影――。
そこには女が倒れていた。