出られない (二)


 身の安全の確保が先決だった。
 浩介がまずしたことは、青色の壁で囲まれた第二の部屋に、他に人間がいないかを確認することだった。しかし時間はかからなかった。そこも前の部屋と同様、家具はわずかしかなく、人が身を隠せるような場所はなかったのだ。浩介が苦心の末に開いたドアは、完全に壁の裏側まで押し開かれていて人が隠れる余地などなく、念のためドアを引き戻してみても、そこに誰かがへばりついているということはなかった。壁の床に近い位置に、衝撃吸収用のドアストップが作りつけられているだけだった。
 人はいない。倒れている女を除けば。
 それを確認して初めて、浩介は肩の力を抜き、ふうっと息をついた。緊張がほどけると同時にようやく悪臭に気づき、その発生源のことを思い出す。急いでゴミ箱を最初の部屋の奥の壁際まで持っていき、第二の部屋に戻ると、臭いが漂ってこないよう念のためドアを閉めた。それからようやく、倒れている女に近づいた。
 こちらの部屋の中央には六畳分ほどの大きさの絨毯が敷かれていた。クリーム色の地に、くすんだ色の花柄の刺繍がある。女はその上に横たわっていた。足を第一の部屋側に、頭をその反対の壁――そちらにも右寄りにドアが見える――に向けて、右腕を下にし、胎児のような格好で丸くなっている。緩く折り曲げられた腕、軽く握られた小さな手、細い指先に塗られた淡いマニキュア。髪は肩くらいの長さで切り揃えられている。靴は履いておらず、膝上まである黒い靴下に包まれた長い脚が、力なく折り重なっている。紺色のショートパンツに、上は白いブラウスと薄手のジャケット。ショートパンツの裾が少しめくれて太ももが露わになっており、服の色とのコントラストで際立って白く見えた。浩介はその色に目を奪われ、慌てて目をそらした。見とれている場合ではない。
 浩介の位置からだと、髪に隠れて女の顔がよく見えない。女の姿を目にした瞬間、それが誰であるか予想できていたが、回りこんで女のそばに屈みこみ、顔を覗き込んだ浩介は、それでも動揺して息を呑んだ。いくぶん青ざめ、瞳を閉じたままだが、それはやはり紛れもなく、歓迎会で一緒だった淳子だった。浩介が自ら勧誘した新入生。友達も連れずに一人で歓迎会に現れた女の子。そして何より、その席上で脱出ゲームの話題を持ち出した娘。
 ただの偶然とは思えない。
 そっと立ち上がり、前の部屋へと続くドアを調べてみると、ノブのこちら側にも鍵穴があった。おそらく犯人は意識のない浩介を白い部屋に運び込み、このドアにスペアキーで鍵をかけていったのだろう。つまり犯人はほぼ確実に、この青い部屋を行き来している。
 そしてもう一つ。ヒントや催促のメモ用紙は、この部屋からドアの下の隙間を通して、浩介がいた部屋に差し入れられていた。しかも浩介が考えあぐねている、目の前でだ。
 倒れている淳子を、浩介はいぶかしい思いで見下ろした。彼女が浩介を部屋に閉じ込めた犯人、またはその共犯者だと考えてもおかしくはない。むしろそう疑うだけの要素は充分にある。しかしそれならなぜ、こんな場所に倒れているのか。それに何より、彼女がこんなことをする動機が浩介には思い当たらない。イカれた人間であれば、まともな動機などなくともこんなふざけたことをしでかすかもしれないが、彼女は飲み会で話をした限りでは快活で、適度に礼儀正しく、好感の持てる娘だった。
 そしてもちろん、彼女が犯人ではない可能性もある。浩介と同様、ここに拉致されてきた被害者だという可能性も。
 彼女の肩がわずかながら上下していることに浩介は気づいた。息がある、といまさらながら思い至る。寝ているのか、気絶しているのか、それとも……狸寝入りか。
 細い肩に手をかけ、軽く揺すってみる。ほつれた髪が長いまつげにかかり、さらに揺られて力なく床にこぼれ落ちる。
 名前を呼びかけようとして、浩介は少し迷った。彼女のフルネームは憶えている。参加者名簿にはフルネームを書き入れたし、飲み会の自己紹介でも彼女は最初はフルネームを名乗っていた。だから苗字も憶えているのだが、彼女は下の名前で呼んでほしいと言っていた。出会って間がないとはいえ、飲み会の間もずっと下の名前で呼び続けていたし、いまさら苗字というのもかえって不自然だ。
「……淳子さん、淳子さん、しっかりしろ、起きてくれ」
 少し力を加えてさらに揺すると、うう、と声を上げ、彼女は眉根にしわを寄せた。うっすらと目を開き、不機嫌そうに浩介を見上げる。開いた口からいっそう不機嫌そうな声が、身内に対するような言葉とともに発せられる。
「う……ううん……何よもう……」
 浩介が手を離して見守る中、彼女はゆるゆると首を振り、二、三度まばたきをした。ようやく眠りの世界から現実に戻ってきたのか、目の焦点が合ってくる。伸びと同時にあくびをしかけ、そこで再び浩介と目が合った。彼女の動きが止まる。
 次の瞬間、猫のような俊敏さで彼女は身を引いた。右手のひじを床について上体をわずかに起こし、左腕で胸を抱くようにして、目をまん丸に見開いて浩介を見つめる。
「ひ――」
 悲鳴のかけらが彼女ののどから漏れた。
 狸寝入りかもしれない、などという推測は、浩介の頭から吹き飛んだ。
「ちょっと……落ち着いて。おれだよ、昨日の夜にサークルの飲み会で一緒だった、遠藤だよ」
 こういう状況下で、ほら昨日初めて話した人間だよ、などと自己紹介するのが正しい対処法かは分からなかったが、浩介にはそれしか言いようがなかった。正確には飲み会が昨日だったのか、それとも三日前なのかもいまや定かではないのだが、確かめようがないので便宜上昨日だと言っておくことにした。その方が彼自身、気が楽だった。
 淳子は倒れていたときよりも顔色が悪くなっていた。顔を浩介に向けたまま、落ち着きなく瞳を動かす。周囲の様子を観察しているようだ。そして一つ息を呑むと、かすれた声で訊ねた。
「ここ、どこですか」
 浩介は返事をためらった。じつはおれも分からないんだ、などと言ったら余計な混乱を招きかねない。
 言葉を探している浩介を前にして、淳子はさらに距離をとるようにして脚を引き、上半身を起こした。ちらっと足元を見て、ショートパンツの裾の乱れをさっと直し、さっきよりも敵意のこもった目で浩介をにらみつける。
 このシーンを山下が見たら大笑いするだろうな、と浩介はとりとめないことを考えた。
「ここがどこだか、おれにも分からない。ばかげて聞こえると思うけど、本当だ」
 もはや真実が持つ力を信じるほかなかった。両手を顔の高さに挙げ、何もしない、という意思表示をしながら、浩介は自分が目覚めてからのことを簡単に話して聞かせた。気づいたら知らない部屋にいたこと、脱出ゲームというものに参加させられているらしいこと、いくつか仕掛けを解いてようやくドアを開けたら、この部屋に通じていたこと。
 淳子が無言でいるのを、少なくとも話を聞いてくれているのだと前向きに解釈して、浩介は訊ねた。
「おれは財布と携帯、腕時計、靴を盗られてる。きみは? 何かなくしてないか?」
 淳子はのろのろと体をあらため、周囲の床に目を走らせた。
「私も時計と靴が。あとバッグ。携帯や財布も、その中に」
 おおよそ、浩介と同じものがなくなっているということだ。ただし彼女の耳には涙形のイヤリングが光っている。もし犯人が金目の物目当てで自分たちをさらってきたのなら、そのイヤリングもとっくに盗まれているはずだ。
 浩介は重ねて訊ねた。
「頭痛がしないか? 頭の芯がうずくような」
「……少し、します」
「おれも起きたばかりのときはそうだったんだ。昨日は潰れるほどは飲まなかったから、睡眠薬を盛られたんじゃないかと疑ってる」小便の色から推理した、ということは伏せて早口に言う。「たぶん、おれたち二人とも」
「誰が、何のためにそんなことを?」
「分からない。おれだってようやくあっちの部屋から出てきたばかりなんだから」浩介は親指で元いた部屋のドアを指した。「もし疑うならそっちの部屋を見に行ってみなよ。そうだ、脱出ゲームがどうのこうの、って書かれたメモもそっちの部屋に落ちてるから、気になるなら読んでみるといい。あ、でもその前に」
 浩介が立ち上がろうとすると、淳子はびくっと身を震わせた。浩介は中腰のまま苦い顔をした。
「あっちのドアが開くかどうか確認したいだけだよ。あそこから外に出られるんなら、前の部屋がどんなだったかなんて、どうでもいいことだからさ」
 浩介はゆっくり体を起こし、なるべく淳子を怖がらせないよう慎重に歩を進め、浩介がいた部屋とは反対にあるドアに向かった。淳子は浩介の動きを首を巡らせて追ってくる。浩介はその視線に背を向けて、冷たいドアノブを握って回そうとしてみた。悪い予想が当たった。前の部屋のそれのように、ノブはまったく回らない。つっかえたような感触があるだけだ。ここも押して開くドアのようなので、念のためノブとドアとに手のひらを当てて押してみる。やはり開かない。浩介はため息をついたが、そんなものだろうと察してはいたのでさほど落胆しなかった。お姫様を助けておしまい、というゲームではないということだ。
 ドアの開く音に振り返ると、いつの間にか淳子が立ち上がって向こうの部屋を覗いていた。こんな状況では疑われても仕方がないとは思うものの、実際に疑われていることが明らかになると、気分がいいとは言えなかった。
 淳子はドアを半開きにしたまま向こうの部屋に入っていき、しばらくして戻ってきた。その手には浩介が床に捨て置いたままだったメモ用紙があった。くしゃくしゃだったものが丁寧に広げてある。彼女はそれを眺めながら後ろ手でドアを閉めた。そういえば、向こうの部屋で用を足したことは伝えてなかったな、と浩介はちらっと思ったが、いまさらどうなるものでもなかった。
 ドアのそばに突っ立ったままメモの内容を三枚とも確かめ、淳子は当惑を露わにした。
「まるっきり、ふざけているとしか……脱出ゲームの実物を作ったっていうことですか?」
「おれはきみほどそのゲームに詳しくないけど、たぶんそうなんだろうな」
「これ、ヒントですよね」淳子は一枚を読み上げた。四つの数字と時計の時刻との関係を暗示した、あの紙だ。「時計が止まってました。あの時刻、あちらの部屋に置いてあった、数字を合わせて開ける箱のキーですよね。ひょっとして解くのに時間がかかって、犯人にヒントを兼ねて催促されたんじゃありませんか?」
 犯人。彼女はすでに、この状況を作り上げた人間を犯罪者のように呼んでいる。浩介にはもちろん、訂正するつもりなどない。このふざけた状況を作り出した「犯人」が存在するのは確実だ。
「さすが、慣れてるね。すぐ分かるものなの?」
「そうですね、ありがちな仕掛けですから」
「おれにはヒントなしじゃ難しすぎたよ。頭を抱えてたら、犯人がヒントをくれたんだ。そのドアの下の隙間から、そのメモが差し込まれてね」
 顔を向けてドアを示す。淳子はちらりとそちらに目をやり、そしてわずかに目を細めた。
「この部屋から、ですか」
 それに対しては何も言わず、浩介は四枚目のメモをひらひらさせた。
「このメモが、きみが倒れていたところのすぐそばに落ちてた。今後、ヒントは出さないそうだ」
 淳子がこちらに向かってきた。足取りの重さが、まだ浩介への疑いを捨て切れていないことを物語っている。浩介が差し出した手からメモを受け取り、さっと目を通す。そこにはこう書かれていた。
<第一の部屋、突破おめでとう! ここから先はノーヒントで挑戦してもらいます。知恵と勇気で乗り切ってください。無事出られることを祈っているよ>
「……嫌な感じですね」
 淳子が口元を歪めた。
「どのへんが? 上から目線なとこがかい?」
「それより、ここから先は、っていう書き方が」淳子はメモを裏返して浩介に読めるようにした。「『第一の部屋、突破おめでとう』つまりここが第二の部屋ってことですよね。ここでおしまいなら、『ここから先はノーヒントで』、なんて表現しないんじゃないでしょうか。たぶん、そこのドアの次も……」
 浩介の背後のドアにいぶかしむような目を向ける。浩介も同じことを考えていた。こんな部屋があといくつ続くのかなど見当もつかないが、このドアが最後の扉、外へ通じるものだとは思えなかった。しかし彼女とのこの短い会話は、わずかではあるが確かな希望も与えてくれた。彼女の頭の回転の速さ、そして脱出ゲームに慣れているという強み。
「たしかに、こんなふざけた部屋がどれだけ続くのかは分からない。だけど黙って待ってても、たぶん犯人はここからすんなり出してはくれない」浩介は部屋の窓に目を向けた。この部屋の窓も前の部屋のものとまったく一緒だった。景色は写真だ。外は見えない。「おまけに、今が何時かも、あの飲み会から何日経ってるかも分からない。腹具合からして、何日も経ってるとは思わないけど、それこそそのメモに書いてあるように、待っていても腹が減るだけだ。悔しいけど、犯人の遊びに付き合ってやるしかないと思う」
「そう、ですね」淳子はうつむいてメモを順に読み返していたが、やがてふっと息をつき、肩の力を抜いた。そして不意に明るい表情で顔を上げた。「二人で協力すればその分早く出られるでしょう。とっとと片付けちゃいましょうよ。いっそ開き直って、ほんとのゲームだと思って楽しんじゃってもいいし」
 楽しもう、というほど楽しそうな口調ではなかったが、前向きに考えようとしてくれるのはありがたかった。この状況であっさり信用してもらえるとは浩介も思っていないが、信頼関係を築くために一歩踏み出してくれたのは間違いない。浩介も笑顔を作って調子を合わせた。「じゃあさっそく、第二の部屋の攻略を始めるとしますか」
 二人はまず、部屋全体の様子を把握することから始めた。
 部屋の面積は第一の部屋とほぼ同じだ。しかし少し狭く感じるのは、家具の数が前の部屋より多いためだろう。人が生活する部屋としてはやはり不自然な配置だが、家具の種類だけに着目すれば居間と捉えることもできる。
 第一の部屋に向かって右側の壁には三つの小さな窓がある。さっき浩介が確認したとおり、第一の部屋とまったく同じ作りだ。住居にしては不便で実用性のないサイズの、しかも奥に写真が貼りつけられた窓。その絵の向こうは外気なのか、壁なのか、それとも土の中なのか。
 その真ん中の窓の真下に、革張りのソファが置かれている。人が二人並んで座っても余裕がありそうな広さで、両脇には肘置きがついている。移動できるか試してみようと浩介が横から押し、次いで持ち上げようと下部を抱えてみたが、背もたれが壁に固定されているらしく動かすことはできなかった。ただ、顔を近づけたときに革の匂いが強く感じられたことから、購入して間がないものではないかと思われた。浩介はその意見を口にしてみたが、淳子はそれを聞いても軽く肩をすくめただけだった。問題を解くのに役立つ情報ではないと考えたのだろう。
 ソファに向かって左手、部屋の隅には植木鉢があった。鉢の真ん中から緑色の茎が何本も伸びて上で広がり、それぞれの先端に独特な切れ込みのある巨大な葉をつけている。鉢も含めた高さは淳子の背丈ほどあるし、もっとも大きな葉は浩介の頭をすっぽり覆うことができそうだ。モンステラですね、と淳子が言ったが、知識のない浩介には否定も肯定もできない。無言でいると、観葉植物の一種です、と淳子が補足してくれた。なるほど、その明るい緑は、この異様な状況下でも見る者の心を癒す効果があった。
 窓のある壁の向かい側には、台と棚、それに壁にはめ込まれた一枚のプレートが見えた。向かって右手にある台は飾り気のないテレビ台のようなもので、高さは浩介のひざくらい。引き出し等はなく、色は艶消しの黒。しかし注目すべきはむしろその上に置かれた観覧車の模型だった。薄い金属で作られた支柱に自転車の車輪のような輪が取りつけられており、その輪に観覧車のかごに相当する鈴のような形をした容器が六つ、等間隔にぶら下がっている。それらには引き戸がついており、そこに1から6までの数字がそれぞれプリントされている。ただの飾りにしては細工が細かい。かごの中を確認してみたが、すべて空だった。
 続いて壁の中央、ちょうどソファと向かい合う位置に三段の飾り棚がある。木製で、右手の台と同様に黒い塗装がされている。一番下の段の右端と、一番上の段の左端に、これみよがしに白いチップが置かれていた。オセロの石のような少し厚みのある円形で、手に取ってみると意外と重みがあった。淳子に見せると、「たぶん、何かに使うんでしょう」とさらりと言った。その反応を受けて、浩介はチップを二つとも取っておいた。
 そして壁の左端、この部屋の出口にあたるドアの近くに一枚のプレートがはめ込まれている。プラスチックのような滑らかな手触りで、外すことはできない。縦長のそのプレートには、上端に9、下端に0という数字があり、そのすぐ横に上端から下端に向かう矢印が太く描かれている。降順、という意味なのか、何かが減るという暗示なのか。
「分かりません」意見を聞くと、淳子はかぶりを振った。「でもまったく意味がないとは思えません。そのうち分かると思います」
 あとは床に敷かれている絨毯。浩介が最初に見たときは、まるで淳子のために敷かれているように感じられたが、改めて見ると床のかなりの面積をカバーしており、居間、らしい雰囲気を出すための小道具のようにも思える。だがいまいち居間らしく感じられない一番の要因は、床や壁が水色に統一されていることだろう。その明るい青はさっきの部屋の純白よりも、いっそう作為的なものを感じさせた。
 そして最後に二人が確認したのは、この部屋でもっとも浮いて見えるもの、出口のドアのある壁の左側に取りつけられている、奇妙な金属製の装置だった。形状は簡素な自動販売機か、両替機のようである。上部に三つ、丸いボタンが縦並びになっており、その右側にはそれぞれ8、1、8という数字がデジタル表示されている。そして中段には四角い大きめのボタンがあり、その下に両替機でいう取り出し口のようなスペースがある。この部屋の他の家具が居住空間を意識したものに統一されているのに対し、この装置だけはアルミ色の光沢を浮かべていて、明らかに他とは異質な存在感がある。不気味、といってもよかった。一応、浩介は取り出し口の中を下から覗きこんでみたが、上側に黒い穴が空いていることしか分からなかった。それ以上うかつに手を出すのはためらわれた。
「さて」立ち上がると浩介は淳子に訊ねた。「これで一通り見て回ったわけだけど、ここからどうするのがセオリーなんだい?」
 淳子は左手をほほに添え、視線を斜め下にさまよわせた。
「予想、ですけど、さっき白いチップが二つありましたよね。たぶん、同じ物があと四つあります」
「四つも? 理由は?」
「あの観覧車の格好をした置き物に」と淳子は右手で指し示し、「六つの容器が下がっていますよね。たぶん、チップはあの中に一つずつ入れるんです。全部入れたら何かが起こるはずです」
「……そういう仕掛けって、よくあるの?」
「よくあります。それにチップの使い道が、この部屋にはあれくらいしか見当たりません」
 経験者の言葉には重みがあった。が、浩介も一応、第一の部屋を突破した「経験者」だ。
「たしかに、あの容器の大きさからしたらこのチップは入るだろう。けど、二つくらい入りそうじゃないか? サイズがぴったりなら納得できるんだけど」
「あくまでセオリー、ありがちな仕組みっていう意味での予想ですから。もしかしたら二つずつ入れるのかもしれません」淳子は肩をすくめた。「作者じゃなきゃ正確な答えなんて、すんなり当てられないですよ」
 それはそうだ。浩介がうなると、淳子は片方の眉を上げた。
「気になるなら、まずあそこに二つ入るか試してみましょうよ」
「下手に試すのはどうかな。トラップが発動するかもしれないぞ」
「トラップ?」
 ここで浩介は初めて、ピエロの仕掛けで失敗した話をした。淳子が目を覚ましたばかりのときに前の部屋での出来事は簡単に伝えていたが、ピエロで失敗したことは省いてあったのだ。あのときはあまり怖がらせるようなことを言うのは得策でないと判断したのだが、今となってはむしろ、危険があることをきちんと話しておいた方がいい。
 しかし、淳子は話を聞き終えても、驚きも怖がりもしなかった。慎重に言葉を選んでいるのか、ゆっくりと考えを口にする。
「えっと、そのピエロの絵、さっきちらっと見ましたけど、あの帽子の色と、ピンポン玉の色が対になってたんですね?」
「ああ」
「それって、分かりやすい仕掛けですから、こういうのに引っかかってはいけないよ、っていう意味で、間違えたときの罰が用意されてたんじゃありません?」
 見ると淳子の唇がぴくぴくと震えている。笑いをこらえているようだが、目元はすでに笑ってしまっている。浩介自身、色を間違えたら玉ねぎの汁みたいなものを吹きかけられました、という顛末を説明しながら、どうにもばかばかしい気分になっていた。あのときははっきりと危機感を覚えたはずだが、今になって振り返るとトラップそのものにではなく、周囲を取り巻く異様な状況すべてに対して、漠然と恐怖を感じていただけのような気がしてきた。落ち着いて考えればトラップと呼ぶほどのものではない。ささいな罰ゲームという程度だ。自分でそう思ってしまった以上、他人に危険を警戒するよう促すのは難しいし、その必要もないような気がしてくる。
 淳子は微笑んで意見を続けた。
「あの観覧車の場合、サイズがぴったりでないとしたら、いろいろなやり方が考えられるっていうことです。つまり試行錯誤しないと正解にたどりつけないんですよ。そういうタイプの仕掛けに、少しでも間違ったことをしたら反応しちゃうトラップをつけるなんて、意地悪です」
 意地悪。その単語に、この子はやっぱりお嬢様なんだなあ、と浩介はため息をつきたくなった。二人が拉致されてきたらしいという時点で、意地悪どころの騒ぎではない。ただ一方で、純粋にゲームとして考えたなら、そんなあくどいトラップばかりでは成り立たないだろうな、とも思う。もし浩介たちをさらってきた犯人がサディスティックな人間だったら、ピエロのトラップもあんなに生易しいものではなかっただろうし、白い部屋を出るまでに何度も流血沙汰になっていただろう。
 おれは慣れない状況に怖気づいてしまっているのかもしれない、と浩介が考え込んでいるうちに、「ものはためし、やってみましょうよ」と淳子が浩介の手からチップを一つ取り去り、まっすぐ観覧車の方に向かっていってしまった。慌てて後を追ったが止める暇もなく、1と書かれた容器を開けてチップを放り込んでしまう。と同時に、1番の容器が明るい白色に点灯した。ブザーも鳴らないし、何かしらのトラップが発動する気配もない。観覧車はチップの重みに従ってゆっくりと回転し、やがて1番の容器が輪の下側に来て停止した。
「ほら、たぶんこれでいいんですよ」淳子が振り向いてにっこり笑う。「明かりまで点けてくれるなんて、親切な作りです」
 親切といえば親切だ。浩介ももう一つのチップを、あえて5番の容器に入れてみた。番号順に入れる方が安全そうだが、わざとリスクの高いやり方をすることで、自分自身に染みついてしまった不要な恐怖心を拭いたかったのだ。
 試みは成功した。5番の容器が光り、観覧車はまた少し回転した。重さの関係だろう、今度は6番の容器が下になった。
 浩介はほっと胸をなでおろした。そうだ、これはゲームなのだ。参加を強制されたことは許せないが、ゲームとしてはフェアな作りなのかもしれない。
 淳子が「ね?」というように浩介の顔を下から覗き込んできた。その無邪気な表情にふと、トラップなどないと最初から知っていたのでは、という考えがちらっと頭をかすめたが、その疑いはひとまず脇に置いた。さっきも彼女が犯人である可能性は検討したが、彼女がもしこれらの仕掛けを作った張本人だとして、一体何のために自分と一緒にゲームに参加しているのか。筋の通った理由が見当たらない。それに平等に見れば、疑いの余地があるのはお互い様だ。
 体をひねって浩介を見上げている彼女の笑みは、危険などないという安心感からだけではなく、浩介の臆病を軽く冷やかしているようでもある。それ以上の深い悪意など見えない。それに、と浩介の心は平常時に近い位置に戻って淳子の存在を改めて認識した。彼女の方が背も低いし、体つきも華奢だし、年下だ。そして何より、彼女は女の子だ。
 何やってんだ、と自分を叱咤する。こういう異常な状況下でこそ男がしっかりしないで、どうするんだ。
「そういうことなら」浩介は自分に対する分も含めて、ことさら快活に言った。「あと四つ、手分けして探そうか」
 部屋は広いが、家具はそう多くない。それにそのほとんどは動かすことができない。となると、探す場所といっても限られてくる。
 浩介は家具の隙間を探すことにした。棚もソファも壁と床に密着していて隙がない。しかし観覧車の模型が置かれた台の横にだけ、二センチほどの細い隙間があった。壁にほほを押しつけて片目で覗き見ると、その隙間の手前の方に白いチップが縦向きに落ちていた。中指を隙間に突っ込み、そろりそろりと手繰り寄せ、うまくかき出すことができた。
 その直後に淳子が後ろから声をかけてきた。植木鉢の植物の茎と茎の間に隠すように、チップが挟まっていたという。続けて「あれ?」と不審そうな声が上がった。何かあったのかと訊ねると、植木鉢と壁との間に、画鋲が落ちていたという。
「これもこの部屋を出るのに必要なんでしょうか」
 彼女の細い指につままれた金色の画鋲を、浩介は懐かしい思いで眺めた。平たい円盤から針が突き出ている、最近ではあまり見かけない形状だ。
「こんな形の画鋲を見るのは小学校以来だな。最近は細い持ち手のついたタイプが主流だろう? 床に落としても針が上を向くことがないってやつ。古い型だっていうのも意味があるのかな」
「さあ。そもそもこれ自体意味なんてなくて、犯人が工作中にたまたま落としていっただけかもしれないですよ。だってこれ」円形の部分を指で挟み、針を壁に向ける。「凶器になるじゃないですか」
「……誰の、誰に対する?」
 淳子は口を、画鋲を持っていない左手で押さえた。「言い方が悪かったですね。仕掛けを無理やり突破するのに使えちゃうんじゃないかって思ったんです」
 浩介が前の部屋で思いついたのと同じ発想だ。
「画鋲じゃ小さいし、そのタイプじゃ持ちにくいから、そういう心配はしなかったんじゃないかな。あ、そうか、そのために古いタイプにしたのかもしれない」
「ああ、そうですね。そうかも」
 淳子は生返事をして視線を巡らせた。会話で生じたぎこちなさをうやむやにするように。
 ともあれ、これでチップは四つになった。そして五つ目も、淳子が難なく見つけ出した。彼女は迷うことなく、絨毯の四隅を次々にめくり始めたのだ。三つ目の隅を持ち上げると、青い床の上にチップが転がっていた。
「こういうところも、隠し場所としてはよくあるんですよ」
 探すべき場所の見当がつくというのは、楽なものだ。
 しかしその淳子の知識と経験をもってしても、残る一つがどうしても見つからなかった。どの家具の上にも、側面にも、裏にもない。いくら探しても見当たらない。天井や壁に、壁紙と同じ色のテープで留められていないかと疑ってもみたが、隅々まで見回しても壁に凹凸はなく、不自然な切れ目や、上から塗料を塗り重ねたような形跡もない。念のため浩介が絨毯を丸ごとひっくり返してみたが、淳子が見つけたチップ以外には何も隠されていなかった。植木鉢を逆さにしてみようか、と浩介は提案してみたが、あの植物は生きてるんですよ、と淳子にたしなめられた。しかし彼女も気になったのだろう、鉢に入っている茶色の固形物の山――ハイドロカルチャーという、土の代わりに使うものだと淳子が説明してくれた――をしばらく探っていたが、やがて失望のため息とともに立ち上がり、浩介に首を振ってみせた。
 やむなくすでに入手してあるチップをすべて観覧車の模型に当てはめてみたが、6番のかご以外がすべて点灯し、唯一軽い6番が観覧車の真上に来ただけで、それ以外には何も起こらなかった。1番に入れたチップを6番に入れ替えたりもしてみたが、観覧車が回っただけで他には何も起きなかった。
 浩介は腕組みをしてうなった。
「部屋の壁紙を全部引き剥がしたら、どこかに埋め込まれてる、みたいなことはないかな?」
「うーん、それはないと思います。それだと部屋中を解体してまわることになっちゃいますし、壁紙を剥がすにも道具が……」
「そのための画鋲、って考え方は?」
「なくはないですけど……たいてい脱出ゲームに行き詰ったときって、そういう無茶な解き方しかないんじゃないかって考えがちですけど、普通のゲームはそういう無理はさせません。壁紙を全部剥がすって、パソコン用のゲームでいえば画面中を隈なくクリックしていくような作業に当たりますけど、そんなことを強要するゲームはプレイヤーに好かれませんから。それにあの観覧車の動きといい、先輩が解いてきた仕掛けといい、アイデアは基本に忠実ですし、どれも考えて作り込んであるように見えます。そういうものを作る人なら、ひらめきと観察力さえあれば解ける類の仕掛けだけを用意してくるんじゃないかって、私は思います」
 淳子は考えをまとめるときの癖なのか、またほほ手を当てて言葉を選びながら、しかしはっきりと意見を口にした。浩介はその様子にはっとさせられた。考えてみれば、彼女はほんの一ヶ月前まで高校生だったのだ。だが考え方も言葉の選択も説明の進め方も、並みの大学生よりずっとスマートに感じられる。そのうえ美人だ。彼女の大学生活は華やかなものになるんだろうな、と浩介は自分と引き比べてうらやましく思った。彼女のような女の子はどういう男に興味を持つのだろう。少なくとも自分はその範疇にはいないだろうな、と我が身の平凡さを思い、つい苦笑した。
「となると、もう一度怪しいところを探してみるしかないか。見落としもあるかもしれないし」
「それとも、いったんチップのことは忘れて、別の仕掛けに挑戦するか、ですね」
 淳子が見つめる先には、あの金属製の装置が部屋の照明を受けて鈍く輝いている。トラップを仕組んであるとすればここだろうな、と感じさせる異質な物体。小道具以外では初めて「装置」という呼び方をしたくなる代物だ。当然、先に進むためになんらかの役割を果たすものだろう。ただの飾り、と考える方が不自然だ。
 そちらに向かって、淳子はすたすたと歩いていった。間近で見上げる。デジタルの数字とその横の丸いボタン群は、彼女の頭より少し高いところにあるのだ。彼女は少しの間盤面に目を走らせていたが、まったくためらうことなく、一番上の丸ボタンを押してしまった。浩介はどきりとしたが、幸いおかしなことは起こらなかった。彼女はうなずきながらさらに二回同じボタンを押し、それからその下のボタンも何度か押した。
 ゲーム慣れしすぎだな、と浩介は苦笑する。ゲームの世界を冒険中に謎のボタンを発見したら、たいていの人は迷わず押すだろう。それらは多くの場合、先へと進んだり、宝物庫の扉を開けたりするためのスイッチであるからだ。稀にトラップであることもあるが、それで傷つくのはゲーム内のキャラクターたちだけだ。プレイヤーはせいぜい「しまった」と軽く悔やむ程度だろう。プレイヤー自身が怪我をする心配はないし、もちろん命の危険もない。だから軽い気持ちで押せるのだ。
 しかし、今いるのは現実の世界だ。危険はそのまま自分たちの身に降りかかってくる。
「おいおい、もう少し用心しなよ。そんな怪しいもん、気安く触らない方がいいって」
 浩介が近寄りながら注意したが、振り返った淳子に反省する様子はない。むしろはしゃいでいるようだ。
「この丸いボタンは、横の数字に連動してるみたいです」浩介が側に寄るのを待って、淳子はまた一番上のボタンを何度か押した。彼女の言うとおり、ボタンが押されるたびにその右のデジタル数字が一つずつ大きくなっていき、9の次は0に戻った。「ほらね。デジタルですから、対応するボタンを押すことで、表示される数字が変わるんじゃないかって思ったんです。つまりこれも、先輩が前の部屋で解いたのと同じで、ある数字の組み合わせで解けるタイプの仕掛けなんですよ。ただ、その組み合わせが分かるまでは、この決定ボタンみたいなのは怖くて押せません」浩介を横目で見てくすりと笑う。「それくらいの危機管理能力は私にだってあります」
 浩介はまた苦笑いしてしまった。経験量の違いを見せつけられた格好だ。チップの使い道にせよ隠し場所にせよ、浩介一人だったらもっとずっと時間をかけないと分からなかっただろう。
「これじゃ、おれがきみを先輩って呼ばなきゃいけないな」
 しかし、怪しげな装置を先に片付けるという方針も、これで行き止まりになってしまった。淳子の言うとおり、「決定ボタン」を適当に押していつか当たりが出るのを期待する、というやり方にはさすがに抵抗がある。それにこの部屋で三つ以上の数字といったら、今も部屋の片隅で明るく発色している、例の観覧車に書かれた六つの番号だけだ。順当に考えるなら、観覧車の仕掛けを突破することで、装置のキーとなる数字が明らかになるのだろう。
 それにはあと一つ、白いチップが必要だった。しかし部屋の中はあらかた探し尽くしてしまって、それこそ壁紙を破いてまわるくらいしか、浩介には思いつかない。
「この部屋にはないのかもしれません」と淳子。「第一の部屋で、これと同じようなものは見ませんでした? まだよく調べていない場所に心当たりは?」
「あの部屋だって隅々まで調べたよ」浩介はついむっとしてしまった。箱を開けるための数字が隠されていないか、それこそ部屋中をほじくり返すようにして、這いつくばって探したのだ。白い部屋に白いチップ、は隠し場所としては都合がよいだろうが、そんな怪しいものがあれば見逃したりはしなかっただろう。
「ごめんなさい、別に責めるつもりじゃ」
 淳子は浩介の反応に驚いて伏目になった。胸に小さなこぶしを当て、うなだれてしまう。
「いや、別にきみに対して怒ったわけじゃないよ」浩介は慌てて取り繕う。「あっちの部屋では苦労したから。その……ほら、おれ初心者だからさ」
 彼女はまだおろおろと足元に目をさまよわせている。
「……なんなら、おれもう一度探してこようか?」
 彼女ははっと顔を上げた。「いえ、探すなら二人で探した方が」
「おれ一人でいいって」
「でも二人の方が効率が」
「たぶんおれ一人の方がいいと思う」
「その……」彼女は珍しく言いよどんだ。「あの……ゴミ箱のことなら、気にしなくていいですから」
 顔が引きつるのが自分でも分かった。トイレ代わりに使ったゴミ箱を気にしているのだと、すっかり見破られている。そうか、さっき向こうの部屋に様子を見に行ったとき、彼女はとっくに気づいていたのか。ひょっとすると、臭いのせいで。酒を飲んだあとのはいつものより臭い。ような気がする。
 じゃあ遠慮なく、と気軽にお願いする気にはなれなかったが、このまま押し問答をしていても時間を無駄にするだけだ。仕方がない。浩介は一つ咳払いをすると、しかつめらしく言った。
「じゃあ、ここは緊急事態ということで、ひとつよろしく」
 淳子は吹き出した。「とっくに緊急事態ですよ」
 しかしわざわざ心理的な封印を解いて足を踏み入れたにも関わらず、はかばかしい成果は得られなかった。
 淳子が机の引き出しを一つ一つ開けて調べ始めたので、もともとどこに何が入っていたか、浩介は一つずつ説明してやった。空っぽの、つまり意味ありげな引き出しはなかったと言いたかったのだが、淳子はそれをきちんと理解してこくこくとうなずいてくれた。ゴミ箱をチップの上に置いてしまっていないか、は浩介がすすんで調べた。ピエロの絵ももう一度よく調べたが、小物を隠しておく隠れた引き出しなどはなさそうだった。怪しいとすればピエロの口の中だが、そこはうかつに触れるとまた目潰しを食らいそうだ。
 時計の上は? と淳子に指摘され、思いっきりジャンプして時計の上を払ってみたが、時計本体の滑らかな感触しかなかった。埃一つない。ダンボール製の椅子が怪しいと思い振ってみたが、中に何かあるような音はしない。いっそ分解してみようかと提案したが、むやみに物を壊すのはかえってよくない、と淳子に言われてやめた。もしかしたら後々、椅子の形のままで使い道があるかもしれないから、という淳子の意見には、充分説得力があった。
 最後に二人は部屋の真ん中に立ち、ぐるりと全体を見回した。
「床も壁も天井も、全部チェックしたって仰ってましたよね」
「チップより小さいものを探すつもりで調べてたから、たぶん見落としはない。と思う」
 淳子は小さくため息をついた。「戻りましょうか」
 青い部屋に戻り、ドアを閉める。同じく密閉された環境だが、こちらの方が空気がいいように感じたのは気のせいではないだろう。
 淳子はしばらくとんとんと指でほほを叩いていたが、やがて諦めたように首を振った。「ダメですね。行き詰まりです」
 浩介も疲労を感じていた。「脱出ゲームって、こんなに難しいものなの?」
「ひらめきさえあれば、三十分くらいでクリアできるのがほとんどですよ。でもどんなに簡単なゲームでも、ごくごく簡単な解き方に気づけなくて何時間も先に進めないことはあります」
「パソコン版ならともかく、現実版で何時間も足止めされるのはきついな」と浩介は口にしてみたが、すぐに自分でも意味の分からないことを言っていると気づいた。ゲームをしているときだろうと別のことをしていようと、一時間は一時間だ。足止めされることにイライラや疲労を感じるのも、ゲームだろうと現実だろうと変わりはない。ずっと頭をフル回転させていたせいで、思考が鈍くなっているのだろうか。
 その思いを見透かしたのか、それとも彼女自身が疲れたのか、「少し休みません?」と淳子は窓際のソファを手で示した。返事も待たずにそちらに向かい、ソファの右端の肘置きにもたれるようにして座り込む。どうやら見た目以上に疲れているようだ。あの華奢な体で、神経を使いながら長時間も歩き回っていれば、へたり込むほど疲れてしまっても無理はない。
 浩介もソファの左側に腰を下ろした。体が軽く沈む。革の匂いがふわりと漂う。さらに背もたれに体を預けた。張り詰めていた気持ちが緩み、そのまま眠ってしまいたくなるほど心地よかった。浩介も自分で思っている以上に疲れていたらしい。
 しばらくの間、二人は無言でぼんやりと過ごした。前の部屋と違い、ここには雑音を発するものがない。防音性が高いのか、隣の部屋の時計の音もまったく聞こえてこない。静かなのはありがたいが、あまりに静かすぎるとかえって落ち着かない気分になる。耳の中でキーンと甲高い音がしたが、自分だけに聞こえる音だということはなんとなく分かった。静寂の音。無音の音だ。
 隣で淳子がたまに身じろぎすると、革がこすれる音がする。彼女の衣服がたてる衣擦れの音もさやさやと快く聞こえる。たったそれだけの音が不思議と、心を落ち着かせてくれた。
「私のこと、まだ疑ってますよね」
 不意に、つぶやくように淳子が言った。肘置きに上体を預けるようにしているので、彼女の表情は浩介からは見えない。
「疑うって、何を?」分かっていたが、聞く。
「犯人かもしれない、って」
 体を起こし、浩介と同じように背中をソファに預けて、顔を浩介に向けた。微笑んでいる。つややかな黒髪に、淡い天使の輪が浮かんでいる。
「少しだけ」浩介は正直に答えた。
 淳子はわずかに笑みを抑えた。「それはそうですよね。先輩がいた部屋に出口は一つしかなくて、その出口はこの部屋に通じていて、ドアの隙間を通してヒントまで差し入れられて、そしてこの部屋には私だけがいて……犯人がいまどこにいるのかは分かりませんが、メモを送るときはたぶんこの部屋にいたでしょう。私は意識がなかったですけど、いつ起き出すか分からない私をそばに置いたままこの部屋に出入りしたり、ドアのそばに屈んで作業したりするなんて、どう考えても不自然です。私が犯人か、それともその仲間だと考える方がずっと自然です」
「イカれた人間に自然も不自然もないさ。それに」浩介はさりげなく付け足した。「きみだって、おれをまだ疑ってるだろ?」
「……少しだけ」淳子は声を落とした。「でも」とまた声を励ます。「動機がありません。お金目当てならこんな凝ったことはしないでしょうし、もし……もしヘンなことをするのが目的だったら、とっくに実行してるはずです。ここには二人きりしかいないんだから。それに」早口で言い切り、自分に言い聞かせるようにゆっくりと続ける。「先輩は、まともな人に見えます。昨日少しお話しただけですけど、でも、信用できる人だって気がします」
「それは嬉しいね」なんとなく予防線を張られたようにも思えたが、別段気にはならなかった。「同じく、きみにも動機が見当たらない。条件だけ並べたら犯人になれる要素はあるけど、動機がまったく思いつかないし、いまこうして一緒に謎解きをしている理由も見当がつかない。かといって、きみがイカれた人間だとも思えない。おれもやっぱり昨日話をしただけだけど、きみはきちんとした子だと思う」
 それを聞くと、淳子の顔がぱあっと明るくなった。この子のチャームポイントは笑顔だな、とひそかに思わずにはいられなかった。こんなささいな褒め言葉でこれほど喜んでくれると、こちらまで嬉しくなってしまう。
「じゃあお互いもう、疑いっこなしにしましょう。疑うって結構、疲れますし」
「そうだね。まったく、きみの言うとおりだ」
「じゃあついでに、その『きみ』って呼び方もやめてもらえません? なんか、よそよそしいですし」
「え、そうか? じゃあ……淳子、さん?」
「下の名前で呼んでほしいって、憶えててくれたんですね」にこにこと笑う。「呼び捨てでいいですよ。ジュンコって。それとも、彼女でもない女の子を呼び捨てにしたくない主義ですか?」
「いや、別にそんな主義じゃないけど」
「彼女に遠慮があるとか?」
「ない。というか彼女がいない」
「じゃあ決まりで」両腕をソファにつっぱり、足をぶらぶらし始めた。上機嫌な顔を少し仰向け、歌でも歌い出しそうだ。その仕種はひどく幼かった。
 無防備。そんな言葉が浩介の頭をよぎった。奇妙な違和感がある。わざと無邪気に振る舞っている、そんな気がする。なぜだろう。どんな感情を隠そうとしているのだろう。
「どうして、そんなに呼び方にこだわるの?」
 そっと、聞いてみた。飲み会の席では聞けなかった。理由は聞かないで。そういう空気を彼女が発していたからだ。今なら二人きりだし、今では彼女は自分を信頼してくれている、いや、信頼しようとしてくれている。その絆の糸がどれくらい丈夫なのか、浩介は測ってみたかった。
 淳子は笑顔を崩さない。足も子供のように振り続けている。しかし親しげな雰囲気に、すうっと冷たい影が差したのを、浩介ははっきりと肌で感じた。
「……まだ、気づかれていなかったんですね」ぽつりと言う。不意に伏目がちになった。口をきゅっと結び、思案顔になる。足の動きが小さくなり、やがてすっかり止まった。
 しばらくしてふうっと息を吐き、床に視線を落としたまま、努めて明るい声で訊ねてきた。「私の苗字、憶えてます?」
「ええと、相馬さん、だよね」
「聞き覚え、ないですか?」
「……ない。知り合いにもいない」
 淳子はくすりと笑った。「そういう反応、なんか嬉しいです」しかし、やっと浩介に向けられた目には明らかに怯えがあった。
「エレメンタルランド、って、ご存知ないですか? 移動式テーマパークの」
「ああ、あの、最近流行ってるやつ?」唐突に話題を変えられ、少し驚く。「知ってるよ、まだ行ってないけど。テレビにもよく出てくるしね。そういえば、春休みには連日すごい人の入りだったって、ニュースでやってたっけ」坂上たちとの話題に上ったことも思い出した。サークルの集まりを春休みに企画したのだが、男だけしか集まらず、野郎だけで遊園地に行ってもなあ、という坂上の一言で、行き先の候補地から外されたのだ。
「そうですか。そうですね。テレビでもいろいろ紹介されてますからね」彼女はまだ不安そうに浩介を見つめている。「あのエレメンタルランドを企画運営している会社、ソーマエンターテイメントっていうんですけど」
「ああ、それも知ってるよ」つい最近観たテレビのワンシーンが頭に浮かぶ。新ビジネスの発案者、ソーマエンターテイメントの社長が、手振りを交えながら新規ビジネスの開拓について熱く語っていた。「こないだの日曜の討論番組に社長が出てたね。難しいこと言ってたんで、すぐチャンネル替えちゃったけど」
「……それ、うちの父です」彼女は消え入りそうな声で言った。「ソーマエンターテイメントは、父が経営している会社の一つなんです」
 浩介は内心の驚きを顔に出すまいと苦労した。ソーマ。相馬。あの相馬達治か。浩介でさえ名前を知っている、今をときめく著名人。淳子はその娘なのか。
 幸い、動揺を悟られることはなかったようだ。淳子の目に浮かぶ不安の影は小さくはならなかったが、大きくもならなかった。彼女はつと目を逸らしてしばらく迷っていたが、やがて自分の父について、そして今までの経験について、ぽつりぽつりと話し始めた。
 彼女の父は建設業から転身してホテル・マンション経営で財を成した人物で、十年ほど前から娯楽業界での活動も始めた。組み立て式の遊具を用いることで場所を選ばず開園できるという彼発案のテーマパークは、始めの頃こそ誰からも省みられなかったが、今では各方面から高い評価を得ている。今や相馬達治といえば、資産家、起業家、やり手の経営者として、海外でも名が知られているという。そして彼の成功には、経営コンサルタントとして仕事を手伝ってきた妻、百合の手腕も大きく貢献している。
「そんな二人の、遅くに出来た一人娘なんです、私」
 普段多忙な両親に代わって彼女の世話をしてきたのは、乳母に当たるお抱えの家政婦と、世話役の女性スタッフたちだった。彼女たちのおかげで、両親と会えない日々の寂しさはだいぶ和らいだし、小さい頃から欲しいものは何でも買ってもらえた。それなりに幸福だった時代が終わりを告げ、彼女が相馬の名の重みを感じ始めたのは、小学三年生の頃からだった。彼女は資産家の子女が多く通うことで知られている私立の小学校に、自家の女性スタッフによる車の送迎で通っていた。
「周りはほとんどみんな、どこかの会社の社長の息子さんとか、名の知れた政治家の娘さんとか、そんな子ばっかりでした。でも、だからこそ、変に鼻が利くというか、他人の家庭の事情を探り出すのが上手というか……もちろん本人のせいじゃなくて、家で両親に余計なことを聞かされた子も多いんでしょうけど」
 余計なこと。その言葉を口にしたとき、淳子の声音に苦さが混じった。彼女にとっての余計なこと、それは彼女が「あの」相馬の娘だ、というレッテルだった。
「最初私、自分が人気者なんだと思ってました。無条件にもてはやされる、アイドルみたいな子なんだって。だってみんながちやほやしてくれるんですよ。クラスメートも、先生も」
 しかし小学校も中学年くらいになると、彼女は同級生の口ぶりに違和感を感じるようになる。やっぱり相馬さんってすごいよね。さすが相馬さんは違うよね。
「あの頃はまだ、みんな悪気なんて全然なかったんだと思います。むしろ率直な言葉だったんでしょう。でも褒められても羨ましがられても、私自身に向けられた言葉っていう気がしなくなったんです。私じゃなくて、相馬の家がすごいんだって、そう言われてるように感じてたんです」
 それがはっきりしたのは、彼女が中学に上がってからだった。ある日彼女は女子トイレの前を通りかかり、そこではっきり自分を名指しした悪口を耳にしてしまう。相馬の家の子だからって、あの子絶対調子に乗ってるわよね。
「仲のいい子の陰口も平気で言うのが女子ですけど」と淳子は寂しそうに笑った。「ああ、私は私という人間として見られてないんだなって、相馬の人間だと見られてるんだって、結構ショックを受けました。でも、直接悪口を言われたり、悪意をぶつけられたりしたことはなかったんです。今思えばそれも、相馬の名が守ってくれていたのかもしれませんが」
 しかしその一件以来、彼女の世界観は変わってしまった。友人と呼べる人間はクラスに一人もいなかった。近づいてくる者はみな、相馬の名前が目当てだった。相馬家と少しでもお近づきになりたい、少しでも気を引いておきたい、そのために淳子に擦り寄ってきているのだと、彼女は気づいてしまった。
 しかし直接的な悪意にさらされなったためか、それとも淳子が持ち前の賢明さでうまく周囲との距離を取ったためか、彼女は心に特別深い傷を負うことなく日々を過ごせた。おかげで自分と周囲との関係や、今後の行く末について、冷静に考える余裕があった。やがて彼女は両親にかけあい、中高一貫校であったその学校を中学卒業とともに出て、他県の私立高校を受験してそこに入学した。
「ご両親をどうやって説得したの?」
「うちの両親は揃って、面白そうだと思ったことは迷わずやれ、っていう教育方針なもので」淳子は恥じるようにうなじのあたりに手をやった。「こっちの学校の方がこれこれこういう理由で面白そうだ、ってパンフレットを見せながら説明したら、即OKが出ました。学校の選択にはうちのスタッフにも協力してもらいましたから、そちらからも問題のない学校だっていうことは両親に伝わっていたと思います」
 根回しか。淳子も充分、人を動かす術に長けているようだ。浩介はそう思い、ああなるほど、こういうのが「相馬の人間」って言葉と結びつけられるわけか、と納得した。自分自身の能力であっても、その背景にあるものの力だとみなされてしまう状況。あまりに自分とかけ離れた世界なので想像はしにくいが、そんな状況に置かれたら気分がよいとは思えない。
「でも高校でも結局、どこからか情報が伝わったんでしょうね。あの子が相馬の、なんて陰でひそひそ噂されるようになるまで、そんなに時間はかかりませんでした。なるべく他の子と同じように生活してきたつもりなんですけどね。車で送り迎えなんてしてもらわずに、学校から少し離れたところにマンションを借りて、そこから電車で通学したりとか。お昼のお弁当もなるべく普通に作って、って麗子にも頼んだし。あ、麗子ってその頃からうちで働いてくれてる、五つ年上のスタッフなんですけど。今では家内スタッフのとりまとめをやってくれてます」
 それでその、と先を続けかけて、淳子はふと口をつぐんだ。口の端が戸惑ったように歪む。
「……つまりそういうわけで、高校でもあんまり、いい思い出が作れなくて」
 その曖昧な表現に、中学までよりもずっと深い苦難があったことがにじんでいた。高校生ともなれば、もう年頃の娘だ。いろいろなことがあっただろう。浩介は手を振って話を止めようとした。
「いいよ、分かった。きみが……淳子が苗字で呼ばれたくない理由はよく分かった。だからこれ以上、無理に話すことなんてないって」
「優しいですね」そっと言い置くようにつぶやいた。「でも、どう思います? 私のこと。私が……私の出自を知って、私に対する見方って変わりましたか?」
「いや、それが……」浩介は弱って頭をかいたが、正直に打ち明けた。「実のところ、あんまり住む世界が違いすぎて……うちの親は平凡なつまんない親だし、友達にもどこかの社長の息子とかいなかったから、そのへんはあんまり分かってあげられないっていうか、よく分からないっていうか……あ、でもそのおかげかもしれないけど、淳子についての見方が変わったりはしないよ。淳子は今までどおりの淳子だ。うちのサークルの新人、淳子のままだよ」
「まだサークルに入るなんて言ってませんよ?」そう言いながらも、淳子は再び笑顔を取り戻していた。
「うむ、この手は通じないか」と浩介はまた頭をかき、それから改まって言った。「でもさ、淳子はすごいと思うよ。小さい頃から周りが見えてて、自分の進路も自分でしっかり決めてきたんだろ? 大学だって、学科はたしか機械工だったよね」
「面白いと思ったことをやれ、ですから。テーマパークの新企画の実験に協力したことが何度かあって、そこの技術者たちの仕事を見ているうちに興味が出てきたんです。ああいうのを作れるってどういう気分なんだろうな、って」
「それにしたって、女の子で理系っていうのは……別に差別するわけじゃないけどさ、数でいったら女の子は圧倒的に少ないわけだし。度胸あるなって思うよ。おまけに理系って数学必須だろ?」
「数学、苦手なんですか? 経済学部なのに?」
「いや、うちの経済学部の受験科目には数学がないんだ。いや、あるにはあるけど、高一で習う1Aだけ。ここに入ったのはだからっていうか、勢いっていうか……」
 言葉が続かない。出てこない。淳子の生い立ちに、というより彼女の生き方に、引け目を感じている自分がいた。平凡に公立の小中学校を卒業し、なんとなく近所の高校を受験し、周囲に流されるように大学を受験した。奨学金をもらってまでハイレベルな大学に入学したのに、これといって目的があったわけでもなく、ここまでの二年間で今後の目的を見つけられたわけでもない。経済学部を選んだのは、たまたま苦手な科目が受験科目になかったからで、ここを出ればどういう仕事に就ける、ということも大して考えたことはない。あと一年もしないうちに就職活動が始まるというのに、特に進路を検討するでもなく、相変わらず遊び中心のサークルに収まってだらだらと日々を過ごしている。
 そんな自分の対極に淳子がいる。まだ中学生の頃から早くも自分の人生の舵を取り、自分と周囲との距離を見定め、はっきりと意味のある大学生活を送ろうと準備をしてきている。相馬、という苗字のことなど関係なかった。たとえその名前に思うところがあったとしても、彼女が今までどう生きてきたかを聞けば、やはり同じように自分を小さく感じただろう。彼女や相馬の名が大きいのではない。単に自分が小さいのだ。
 かっこわるいな、と思う。おまけに、正直に今の気持ちを口にしたところで、どうなるものでもない。
 具合の悪い間を感じたのだろう、淳子がさらりと話の流れを変えた。
「あの、たぶん先輩なら大丈夫だと思いますけど、私のことは他の人には――」
「言わないよ。誰にもきみの素性は話さない。もちろん、サークルの連中にも言わない」
「だから、まだ入るって決めたわけじゃ」と言いながら、淳子はえいっと勢いをつけて立ち上がった。「サークルに入るか入らないかは、ここから無事出られたら検討しますよ」
「出られたら、か」浩介は彼女の言葉で今の状況を思い出した。出られない、という可能性だってあるのだ。しかしその不安を顔に出さないように、にっと笑った。「入会、前向きに検討してくれよな?」
 淳子も笑みを返してきた。その笑顔にふと心が痛んだ。おれはここから出て、大学を出て、そして……そして、何をするんだろう。
 迷いを振り払う。悩むのはここを出てからだ。ここから出られない限り、未来の選択肢はすべて消えてしまう。
 淳子を真似て、勢いをつけて立ち上がろうとする。そのときソファにつっかけた手が、革とは違う感触を捉えた。不思議に思い、その部分をなでてみる。そこから左手を離さずにおき、ソファから体を起こして、くるりと体をひねって腰をかがめる。指で硬い部分をなぞってみると、一瞬そこにきれいな円形が浮かび上がり、再び革の質感に埋もれていった。しかしよく見れば、緩やかな円の縁が革の表面に浮かび上がったままだ。この形は……。
「淳子、画鋲を!」
 急に声をかけられてびくりとした淳子だが、すぐに観覧車の模型の方に駆けていった。どうやら持ち歩くのは危険なのでそこに置いておいたらしい。戻ってくると、手のひらに載せた金色の画鋲をそっと差し出してきた。
 浩介はそれを受け取り、針をソファに当てて力を入れた。ぶつん、という感覚を確かめてから、画鋲を横に引く。革が一文字に裂かれ、中の白いクッション素材が露わになった。そこに人差し指を突っ込んで手前に引くと、白い円形の物体が出てきて床に転がり落ちた。それをつまみ上げて立ち上がる。
 淳子が両手をぱちんと合わせた。顔が紅潮している。
 探し求めていた最後のチップだ。
「こんなところにあるとはね」なんとなく、騙されたような気分がした。「こういうのって、ありなの? 壁紙をはがして歩くのとあんまり変わらないんじゃない?」
「私に言われても」と淳子は口を尖らせた。「よーく見たら分かったのかもしれませんよ。私たちの観察力が足りなかっただけです」
「第一、こんなもんが埋まったソファなんて売ってないだろ? わざわざ自作したのか? 犯人はソファ職人か?」
「最近は組み立て式のソファを売ってるお店だってありますよ。あ、でもクッション部分の縫込みまでやらないか……もう、いいじゃないですか見つかったんだから」
 たしかに、犯人の制作過程などどうでもいいことだった。二人は急いで部屋の隅へと向かった。そこでは六つのかごのうち、五つまで光を灯した観覧車の模型が待っている。
 浩介はチップを持った手を伸ばしかけ、一瞬手を止めて淳子と目を見合わせた。淳子が目でうなずき返してきた。空いている1番のかごにチップを入れる。コロンという音がして、明かりが点いた。
 二人とも申し合わせたように腰を屈めて様子を見守る。隣で淳子が息を呑むのが聞こえた。
 すべてのかごが点灯した観覧車は、ギリギリと小さな音を立てながらゆっくりと回り始めた。輪の回転に合わせてかごが振り子のように揺れ、それにつれて光も揺れて、クリスマスの飾りを思わせるかわいらしい軌跡を描いた。そしてちょうど一回転し、1番のかごが頂上に達したところで回転は止まった。と同時に、六つのかごのうち三つの明かりが消えた。まだ点灯しているのは1、3、4の番号のついたかごだけだ。
 まだ反動で揺れているかごを見ながら、うん、うんと淳子が大きくうなずいた。
「三つの数字です。これ、間違いなくキーですね」
 淳子はすっと腰を伸ばした。浩介もそれに合わせる。淳子はすぐに、両替機のような装置の方に歩き出した。浩介はその背に声をかける。
「でも、入力する順番は? 何通りか考えられるんじゃないか?」
「ちゃんと見てなかったんですか?」淳子は歩きながら肩越しに振り向いた。「観覧車の数字は右回りに順番に振られてます。で、全部光ったときの回転も右回り。最後にてっぺんに来たのは1番です。だから1から数えて右回り、つまり1、3、4の順が正解です」
 ずいぶん細かいところを見ている。少々細かすぎるにも思えたが、明らかに間違っていると言い切るだけの材料もない。正解を示す、決定的な何かが欠けている気がする。浩介は首をひねりつつ後を追った。
 足取りの軽い淳子はもう装置の前にたどり着いてしまった。それこそ見慣れた自動販売機でも操作するように、次々と丸いボタンを押していく。上から順に1、3、4。デジタルの数字が彼女の考える「正解」に合わせて揃えられる。そしてまったくためらうことなく、彼女は細い指をまっすぐ四角いボタンに押し当てた。
 とたんに鳴り響くブザーの音。続いて、ガコン、という不吉な音が装置の奥から聞こえてきた。淳子はとっさに身を引き、肩をすくめて固まった。しかしブザーを聞くと同時に、浩介は反射的に飛び出していた。えっ、と顔を向けてきた淳子に横から体当たりし、二人は重なり合って壁に激突した。しかしその衝撃の寸前、背後の空気を何かが鋭く切り裂いていったのを、浩介ははっきりと感じ取っていた。
 浩介の腕の中で、淳子がおろおろと視線をさまよわせている。浩介は装置からもう何も出てこないのを確認してから、そっと彼女から身を離した。そしてさっき感じた、背後をかすめていったものの正体を突き止めるべく、装置からまっすぐ反対側にあたる壁に目をやり……そして絶句した。全身が総毛立つ。どくん、と心臓が大きく跳ねる。
 浩介が棒立ちになっているのを不審に思ったのだろう、淳子は彼の視線を追い、彼と同じ物を見た。
「……なんなんですか、あれ」
 わざと冗談めかしたのか、それとも気が動転しているだけなのか。明るい声で始めたそのごく短い問いは、すぐにひび割れて小さくなった。
「ねえ、なんなんですか、あれ」
 淳子が浩介を見上げて再び訊く。微笑もうとして失敗している。声音に不安と恐怖が混じっている。すでに彼女は、自分の発した問いの答えを知っている。
 ゲーム。順子と出会ってからの浩介は、この状況を楽しめるようになっていた。それは焦りや不安を忘れるために自ら作り上げた幻想だったのかもしれないが、少なくとも一人きりで白い部屋で格闘していたときは、そんな幻想を抱く余裕はなかった。彼女が今のこの状況に対してほとんど危機感や不安を見せなかったから、本物のゲームに参加しているだけのように明るく振る舞ってくれたから、浩介も前向きに考えられるようになったのだ。仕掛けを解く方法を考え、キーとなる道具を探し、見事正解する、そのステップを楽しいと感じることができたのだ。
 しかしその弾んだ空気はあっという間にしぼみ、消失した。部屋の色はもはや南国の青ではなかった。二人はいまや、青一色の不自然な空間で溺れかけていた。
 アルミ色の機械は部屋の隅から少し距離を置いて設置されている。その向かいでは観葉植物が特徴的な形の葉を茂らせている。その「もの」は、葉の一枚の端を貫いて壁に刺し留めていた。形だけ見れば、ダーツの矢だと誰しも答えるだろう。しかし大きさは本物のダーツの矢の三倍ほどある。そしてカラフルな尾羽のついたその先端は錐のように長く、鋭い。金属の禍々しい光沢が浩介の位置からも見て取れる。遊びの道具では決してない、それは凶器だった。
「なんであんな……なんで……」
 淳子は震える指でそれを指し示そうとし、しかしその行為にさえ危険を感じたように慌てて腕を引っ込めた。黒い靴下に包まれた足がはっきり分かるほど震えている。いまにも崩折れそうだ。
 ソファにでも座らせた方がいい、そう思って浩介が近づこうとしたとたん、淳子の肩がびくりと反応した。彼女自身、その動きに戸惑ったようだった。浩介を見つめる顔には血が上っていた。青ざめるほどの恐怖を通り越すと、人の顔は紅潮してしまうのだろうか。
「ソファに」彼女を驚かせないよう、声だけで勧める。浩介の声も震えかけた。「座って、休みなよ。いったん落ち着こう。な?」
 しかし彼女はかぶりを振った。気丈にも足の震えを止めようと力を込めている。その努力がいっそう、震えを際立たせる。
「大丈夫です。私は、大丈夫」
 少しも大丈夫そうではないが、本人の好きにさせるほかない。浩介は淳子から目を離し、再び壁に突き刺さった矢に目をやった。
 ピエロのときの目潰しとはわけが違う。あの矢は不正解を出した人間を間違いなく傷つけ、血を流させる。もし浩介が装置の正面に立っていたら、矢は彼の胸の真ん中を射ていただろう。淳子がもしのんびり構えていたら、彼女ののどに突き刺さっていただろう。あれはどれくらいの破壊力を持つのか。淳子の細い首など貫通していたのではないか。
 吐き気がした。あのときとっさに彼女に体当たりしていなかったら、惨劇は免れなかっただろう。運動神経があるとはいえない浩介だが、前の部屋でブザーの音とともに刷り込まれた恐怖が、自分を無意識のうちにとっさの行動に突き動かしたのだろうか。しかしその動きさえ、煎じ詰めれば犯人による教育、「体罰」の成果なのだ。そう思うと不快感しか湧き上がってこない。
「私……ごめんなさい、間違えちゃって……」
 淳子のつぶやきがあまりにも痛々しい。浩介の心を、白い部屋で得た感情が再び揺さぶった。理不尽。犯人にとってはゲームかもしれないが、そこに強制的に参加させられたことへの激しい憤りが胸を焼いた。
「きみの、せいじゃないから」
 自分の声までひび割れていた。もっと慎重にやるべきだった、とは言えなかった。わざわざ口にしなくとも、彼女自身すでにそのことを理解しているはずだ。
 淳子の大きな瞳と目が合った。そこに共通の認識を見たような気がした。
 ――犯人は狂っている。
 浩介は矢の方を見ないようにした。あまりそちらを気にすると落ち着かなくなるし、淳子の動揺も誘いかねない。目をぎゅっとつぶり、頭を振る。自分たちの相手は……犯人は、ギブアップを受け入れてくれる人間ではたぶん、ない。浩介たちは嫌でも前に進まなければならない。そのためには気を落ち着かせ、頭がしっかり働くようにする必要がある。
 状況を整理する。観覧車の仕掛けは動いた。その結果、点灯し続けていたのがあの三つの数字だ。消灯した方の数字を使う、という可能性もなくはないが、そんな人の裏をかくような引っ掛けはフェアではない。いやしかし、犯人のイカれた嗜好を考えたらフェアかどうかなんてまったく――
 また頭を振る。違う、今までの仕掛けはフェアだった。そこには犯人の、異常者なりのルールがあり美意識がある。見て分かること。触れて分かること。ヒントはすべて与えられてきた。三つの数字。その配列。見落としているものがあるのだ。今の淳子は知恵を貸してくれる状態ではない。自分で考えろ。
 早くここから出たいという気持ちが出口のドアに目を向けさせる。その視界に白くきらめくものが映った。ドアのすぐ近くの壁に埋め込まれているもの。浩介は目を細めた。なんだ? 見覚えがある。最初に部屋を一周したとき、すでに確認している。
 目の前の霧が晴れたような気がした。そうだ、あれがヒントだ。9から1に向かう矢印。今までで唯一使われていない情報。この部屋に残されている最後の、そして忘れられていた謎。
 なぜ二人揃って忘れていたのだろう。舌打ちしたくなったが、見落としとはそういうものだろう。分かってみると、今まで分からずにいたことが信じられなくなる。
「淳子、ちょっとそっちに行っててくれないかな」
 部屋の中央、淳子が倒れていた絨毯の真ん中当たりを指し示す。仮に彼の考えが間違っていたとしても、それだけ離れていれば彼女に害が及ぶことはない、そう踏んでの指示だ。
 淳子は目を何度か瞬いただけで、素直に言うことに従った。何のためにと訊ねることもしない。まだ放心しているのだろうか。それでも彼女は絨毯の上に座り込んだりせず、小さな両手を握り合わせ、子供のように純粋な目で浩介を見つめていた。その視線を背に感じながら、浩介は鈍色の機械の前に立った。
 9から1。つまり降順だ。三つの数字を上から降順に並べればいい。淳子が指定したのと逆順だ。
 4、3、1。初めて浩介自身がデジタルの数字を設定した。あとは四角いボタンを押すだけだ。念のため、体を脇にずらして取り出し口――というより矢の射出口から身を避ける。間違ったときにさっきと違うトラップが作動する、ということもあり得るが、悪いことを考え始めたらきりがないのはここまで何度も経験している。疑念を振り切って息を止め、伸ばした指ですばやくボタンを叩いた。
 カラン。さっきとは明らかに違う、どこか間の抜けた音がした。ブザーも鳴らないし、矢がセットされる重たい音もしない。
 横からそっと、首だけ伸ばして取り出し口を覗いてみた。そこは確かに「取り出し口」だった。さっきまではなかった、銀色の鍵がそこにあった。細く伸びた先端の片側がギザギザの、前の部屋を脱出するときに使ったのとよく似た鍵だ。
 余計なものが出てこないうちにと、さっと手を伸ばして鍵を取り出す。浩介の手の中で、それは確かな重みを持っていた。思わず天を仰ぎ、大きく息を吐く。達成感よりも脱力感が先に立った。
 振り返ると、淳子はまださっきと同じ姿勢で突っ立っていた。目を大きく開いている。浩介は手に入れた鍵をつまんで振ってみせた。
「たぶん、あのドアの鍵だ」鍵で出口のドアを指し示す。「第二の部屋クリア、ってとこだな」
「すごいですね」彼女は力なく笑った。それから大きく息をつき、ほほを指でかいた。「私も今正解に気づきました。ひどい見落とししちゃいましたね、私」ぶるっと一度身震いし、笑顔を作り直す。「私より早く正しい答えに気づくなんて、すごいじゃないですか。先輩のこと見直しましたよ」
 冗談めかした言葉は明らかに無理に口にしたものだったが、笑顔はいくぶん自然になった。浩介も軽く笑顔で応じた。
「ソファに隠れてたチップだって、おれが見つけたんだぜ?」
「そうでしたね。忘れてました」
「頼れる先輩のいるサークルに、そろそろ入りたくなってきただろ?」
「その答えはもう少し後っていうことで」
 二人の間に親密な空気が流れた。二人の間だけで通じるジョーク。それは彼女にプラスの影響を与えた。表情から硬さが取れ、瞳に意思の光が戻る。
 そのとき、浩介のお腹がぐうっと鳴った。と同時に空腹感が腹の奥からせり上ってきて、浩介は思わず腹に手を置いた。ここに連れて来られてからどれくらい時間が経ったかは定かでないが、少なく見積もっても一食分抜くぐらいの時間は経過しているだろう。
 淳子がくすりと笑った。「私もお腹が空いてきました」
「犯人も気が利かないよな。一部屋ずつ軽食を用意しておいてくれてもいいのに」
「あと、トイレもね」
 二人は声を合わせて笑った。短い笑いだったが、この部屋で二人が出会ってから初めての、心からの笑いだった。
 淳子が名残惜しそうに笑みを浮かべたままうつむき、それから決然とドアに顔を向けた。
「先に、進みましょうか」
「これがゴールだとありがたいんだけどな」
 浩介は閉ざされたドアの鍵穴に新たな鍵を差し込んだ。鍵は滑らかに穴に収まり、回すと鈍い音が響いた。横で見守っていた淳子に目をやると、彼女は強くうなずき返してきた。このドアの向こうに何が待ち受けているかは分からない。しかしこのドアを開く以外に道はない。
 浩介はゆっくりノブを回した。回ることを確認してから、一気に押し開けた。明るい色彩が視界に広がっていく。そして正面で待ち受けているものを目にしたとき――
 総身の血が凍った。体が硬直する。空腹感などは消し飛んだ。
 ドアの向こうではスーツ姿の小太りの男が、棒状の武器をこちらに向けて構えていた。棒の先の刃物が、光を鋭く反射していた。