十二年目の帰郷 (四)


 翌日は朝から学校の補習があるということで、カナちゃんが先に家を出た。私は自分から洗濯当番を申し出た。待ち合わせの時間まで余裕があるし、食事込みで泊めてもらってばかりではさすがに悪い。カナちゃんは慣れた感じで「んじゃ、お願いするわ」とあっさり許可してくれた。
「そろそろシーツ洗わなきゃって思ってたとこだったし。予報だと今日も一日中晴れてるみたいだから、洗ったらベランダに干しといて。あ、そのとき魔除けも一緒に吊るしといてもらえるとありがたいな」
「魔除け?」
「これでも女の子の一人暮らしだからね」と言ってカナちゃんがどこからか持って来たのは、男性用のトランクスだった。「心配しないで。父さんのお古とかじゃなくて、新品だから。これ一緒に洗って目立つところに干しといてよ。下着泥棒対策。こんなんでも結構効果あるらしいよ」
 効果のほどは分からないが、世の中いろんなアイデアがあるものだと思った。
 洗濯を終え、「魔除け」とともに洗い物をベランダに干してしまうまで、思いのほか時間がかかった。不慣れな家での家事は大変だ。しかしおかげで余った時間の使い道に困ることはなかった。余裕を持って家を出、難なく待ち合わせ場所にたどり着くことができた。
 喫茶店の看板のまん前で人待ち顔をしている人は都会でも珍しいようで――お店の入口が狭くてそうするほかなかったのだ――、その人は私を見つけると明るい顔で手を挙げながら、雑踏の中を泳ぐようにしてやってきた。スーツ姿で背が高く、仕事の疲れがにじんではいるものの、褐色に焼けた顔が若々しい男の人だった。あとで父より年上だと聞いて驚いた。
「水原青葉さん? はじめまして……では実はないんだけど、菊池です」
「お忙しいところすみません。水原です」
 通りに面したお店の壁はガラス張りで、往来がよく見渡せた。客はほとんどおらず、低い音量でかかっているBGMがよく聞こえた。私たちは窓際の席に案内された。
「次の仕事があるんで、昼飯を食べながら話させてもらうよ。きみも一緒にどう?」
 というわけで菊池さんはスパゲッティランチ、私はハニートーストを食べながらの会話になった。といっても菊池さんは自分の分をあっという間にたいらげてしまったが。
「水原くん……って呼び方もなんだかよそよそしいな。当時呼んでいたとおり呼び捨てにさせてもらうけど、水原とは前の会社で五年くらい一緒に働いていたんだ。彼とは馬が合ってね。一応おれのほうが先輩だったんだけど、家族ぐるみで親しくさせてもらっていたよ」
「だから私とも、はじめましてではない、と仰ったんですね」
「きみがまだ二、三歳の頃に会ってるんだよ。肩車をしてあげたこともある」
「すみません、私昔のことあんまり憶えてなくて」
「そりゃあ無理ないよ。おれなんて高校より前のことはほとんど忘れちまってる」
 菊池さんは声を上げて笑った。話しやすい人だ。
 父を探しに来た、という名目で、今回の上京について簡単に説明すると、すでに篠崎さんから話を聞いていたのだろう、菊池さんはうんうんと軽くうなずき、腕を組んで宙をにらんだ。
「あれは今の会社に移る四年ほど前のことだったな。あの営業所にはもともとそんなに社員がいなかったから、水原が突然いなくなって文字通り社内中が騒ぎになったよ。おれも親しくしてた関係でマンションまで見に行ったんだが、もう出払ったあとみたいに家具やらなんやらはほとんど残ってなかった。警察にも届け出たんだが、結局行方は分からずじまいだった」
「それっきり、父からの連絡もまったくなかったんですね?」
「まったくない。あいつのことだ、何かあったとしても落ち着いたら必ず連絡をくれると思うんだが」私と目が合い、可能性の一つを打ち消すように付け加えた。「まったく、何を手間取っているんだか」
「父が姿を消す前、何か変わったことはなかったですか?」
 菊池さんの表情が渋くなった。
「あいつは面倒見のいいやつでね、よく相談事を持ち込まれては、話を聞いてやっていた。中にはえらく重い話もあって、悩むこともあったようだが」
「父本人の悩みはなかったんでしょうか」
「それは、水原の個人的なこと、ってことかい?」
 篠崎さんのときは曖昧な聞き方をしてしまった。私は思い切って訊ねた。「父が当時、援助交際をしていたんじゃないかっていう噂を聞いたんです」
「どこでそれを」
 菊池さんの驚き方は、初耳、という感じではなかった。声にはっとしたものが混じっている。
 思わず口調が硬くなった。
「父はやっぱり、援助、をしていたんですね?」
 菊池さんは即座に「違う」と言った。「あいつじゃない。あいつの友達がしていた、というのなら聞いた」
 閃くものがあった。「父が悩みを打ち明けていたというのは、菊池さんだったんですね?」
「おれだけかどうかは知らないが、相談はされたよ」菊池さんは重い息をついた。「だが援助の話はね……『友達のことで』と相談されたと話しても、疑いを招きやすい内容だ。だから他の連中には話してない。失踪の原因に繋がるかもしれないと思って、警察には話したよ。だがどれくらい重きをおいてくれたものか」
「どんな、内容だったんでしょうか」
 その問いを発すると同時に、私は初めて、他人の重い過去に触れる手触りを知った。快活だった菊池さんの顔がみるみる暗くなり、口元が歪んだ。これは父だけの問題ではないのではないか、と瞬時に悟った。菊池さんは父の失踪に関して、何らかの苦しみを背負っているのだ。
「今日きみに話すべきかどうか、直前まで迷っていたんだ」菊池さんの声はかすれていた。グラスの水を一気に飲み干し、真剣な目で私を見つめる。「きみがそんなふうに率直に聞いてくれなかったら、おれは話さなかったかもしれない。きみのお父さんが今どうしているか、に繋がる話でもないんだ。それにこれはおれの懺悔のようなものだ。長年引っかかっていて、昨日ようやくその正体を知った後悔の」
 聞く準備はできている。私はうなずいてみせた。
「あいつは面倒見のいいやつだった」菊池さんは繰り返した。「いなくなる一ヶ月ほど前だったか、仕事帰りに誘われて、飲み屋であることを相談された。あいつの友達について、という話だった。これはあいつらしいところだが、友達の名前やどういった関係かは言わなかった。何かの拍子に友達の素性がバレてしまわないように気をつけていたんだな」
 ウェイターがお冷を注ぎに来た。話がいったん中断された。
「話の発端は、あいつの友達がいわゆる援助交際に手を出した、ということだった。携帯の出会い系サイトか何か、まあそんなところで知り合ったんだろう。だが実際は援助交際というより、美人局だった。若い女と――」私の歳に思い至ったように言い直す。「まあ女とは会ったし、話くらいはしたのかもしれないが、そのあと突然知らない男から脅迫の電話がきて、多額の金銭を要求された」
 父が相談を持ちかけられた頃には、「友達」は脅されるままにすでに何度かお金を渡していたという。
「常識的に考えれば警察に訴えるのが筋だ。水原でなくてもそう答えるだろう。立派な脅迫罪だからね。当然、あいつも何度もそう諭した。しかし友達は通報したがらなかったらしい」
「どうして、でしょうか」
「自分も買春容疑を受けることになるからさ」菊池さんは吐き捨てるように言った。「それに最初は、自分を脅しているのはお相手の女子高生だと水原に説明していたらしい。その脅迫に大人は絡んでいない、子供しか関わっていないのだと。水原は、警察の介在なしに事態を収められるかもしれないと考えた――あるいは、そう丸め込まれた」
 そして父は、友達に連れられて「援助相手」と会った。
「そこでどういう話がされたのか、何があったのか、細かいことは知らない。あいつのことだ、こんな馬鹿なことは止めるようにと説得しようとしたのかもしれない。実際、その女の子は利用されているだけだ、と感じたそうだ。話をしているうちに、裏に誰かがいると気づいたと。しかし気づいたときには――」
 父は標的になっていた。父が援助をしていることにされていた。
 写真のビラ。あれはでっちあげられた証拠だったのだ。
「最初は電話だった。家にしつこく電話が来るようになったそうだ。昼間は水原は仕事で出ているから、電話には奥さんが出ることになる。最初の電話を取ったのも奥さんだったし、脅しがあったと水原が知ったのも奥さんからだった。水原は電話の相手に対して、きっちり金銭要求を断った。警察に訴えるとも伝えた。しかしその結果――」菊池さんはふと私から視線を逸らした。「ある日郵便受けに、きみの写真が入っていたそうだ。幼稚園に通っているきみを写したものが」
 鳥肌が立った。背筋を冷たいものが通り抜けた。
「あいつがおれのところに相談に来たのは、そういうタイミングでだった。おれに答えられることなんてたかが知れている。今からでも警察に被害届けを出せ、それだけだ。それがまっとうな対応だ。だがあいつはうなずかなかった。煮え切らない態度に、おれは怒りを感じた。うかつにもそのときおれは、あいつがまだ友達のことを気にしているのだと思い込んでいた。おれはそれ以前から、あいつの面倒見のよさ、悪く言えばお人好しなところを、いつか誰かに利用されるんじゃないかと気を揉んでいたから、今こそそれをはっきり言ってやるべきだと思った。だからおれは、こう言ったんだ」
 ――人に救いの手を差し出すのはいい。だが、その手にかかる責任は知っていなければならない。
「昔どこかで聞いた言葉さ。我ながら偉そうなことを言ったもんだ」菊池さんはテーブルに視線を落として力なく言った。「もちろんおれは、手を引くようにというつもりで言ったんだ。これ以上、自業自得で勝手に溺れかかっている友達とやらに手を差し伸べてやる必要なんかない、他人よりも自分や家族をまず守るべきだ、と。だがあいつは、そんなことはとっくに分かっていたのかもしれない。あいつにはおれの言葉が、逆の意味に聞こえてしまったのかもしれないんだ」
 ――手はすでに差し出してしまっている。
「あいつの奥さん、つまりきみのお母さんは、細かい気配りのできる人だった。繊細な人だったんだ。旦那に対する中傷を奥さんはまったく信じなかったようだが、だからって脅迫なんてものに平然としていられる人じゃなかった。だからきみのことはもちろん、奥さんも脅迫電話から守ってやらなきゃならない。あいつにはとっくに分かりきっていたことを、おれはくどくどと言い聞かせた。あいつは黙って聞いていたよ。だが」菊池さんは声を詰まらせ、顔を上げた。切ない目を、まるで許しを請うように私にまっすぐ向けてきた。「昨夜、篠崎さんから事情を――きみとお母さんだけがよその土地に移っていたことを聞いたとき、おれはあの、相談を受けた夜のことをまざまざと思い出したよ。そしてやっと、あの場面にもう一つの見方があることに気づいた。あいつはおれの言葉でかえって追い込まれてしまったんじゃないか、差し出した手の責任を取ろうとしてしまったんじゃないか、と。あいつが一人になってから何があったのかは、まったく分からない。だがあいつがきみたち母子を先に危険の及ばない土地へ移したのは、たぶんおれのせいなんだ。おれがあいつに、そういう決心をさせてしまったんだ」
 済まない。つぶやくように言って、菊池さんは私に頭を下げた。
 私はまだ感情の整理がつかないでいた。クーラーが効きすぎているんじゃないかと思いながら、震えていた。曖昧だった父の像が、顔立ちは分からないけれど輪郭だけが、私の中で形になろうとしていた。それは焦点の定まりきらないカメラのようにまだぼやけていて、輪郭をなぞろうとする私はもどかしく感じていた。しかし今、口にすべきことは分かっていた。自分の感情の整理は後でもできる。
「菊池さんのせいじゃありません。菊池さんは何も悪くありません」
 私の声は乾いて、機械的に聞こえたかもしれない。でもそれは本心からの言葉だった。私は続けた。
「私たち母子はたしかに、それ以来父とは会えていません。でも父とともに東京に残っていたとしても、今とどれくらい違いがあったかは分かりません。やっぱり父はいなくなったかもしれないし、もっとひどいことになっていたかもしれません」
 送りつけられた、幼い私の写真。やはり脅しに使われたのだろう、あのビラ。
「だが、親子三人で東京を離れていれば、今頃……」
「全部父の判断です。私と母を遠ざけたことも、それ以前に友達の相談に応じたことも。だから菊池さんが悪く思うことなんてありません。理由をさかのぼり始めたらきりがないです」
 菊池さんは顔を上げた。そしてかすかにやわらかい目をした。「きみはお父さんと似ているな。昔同じことを言われたことがあるよ。理由をさかのぼり始めたらきりがない、と」
 私はうつむいた。「私は父のこと、ほとんど憶えていません」
「だがきみは――」言いかけた言葉を切る。続ける意味がないと思ったのだろう。しばらくの沈黙の後、菊池さんはスーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。「おれから話せることはこれで全部だ。その後のお父さんの行方については参考になる話ができなくて、申し訳ない。でももしまた聞きたいことが出てきたら、遠慮なく連絡してくれていいよ」
 私は名刺を受け取ってお礼を言った。いつの間にかお店は満席になっていて、BGMもかすかにしか聞こえなくなっていた。菊池さんは思い出したように腕時計を見た。
「本当に済まない。おれはこのあと用事があって、もうじき移動しないといけないんだが……」
「あ、私のことは気にしないでください」
「いや、実は仕事の都合がついたら合流できるかもしれない、って言ってたやつがいてね。当時水原の後輩だったやつだ。あいつもたいした情報源にはならないと思うが、水原に懐いていたから、もしかしたら何か知っているかもしれない」
 上着のポケットから携帯を取り出す。「お、着信があった」失礼、と言って電話をかける。話しながら窓の外に目をやる。人の流れに目を走らせていたが、やがて中腰になって手を振った。
 私の背後でドアベルが鳴る。そちらに向かって菊池さんが手を振る。私は振り向いた。
 そして凍りついた。
「おう、久しぶり。遅かったな。……紹介しよう。きみのお父さんの後輩だった、芦屋だ。今でも前の会社に残っている数少ない人間の一人だよ」
 菊池さんの声がする。それに合わせて、目の前に立った男が頭を下げる。しかし起こした頭は猫背のためにあまり高く上がらない。血走った目がまっすぐ私を見据えていた。
 男は濁った声でこう訊ねてきた。
「水原さんのお嬢さん、ですね?」