ホーム > 小説 > 十二年目の帰郷 > (五) |
テーブルの向かい側に、あの男が座っている。そわそわと私を窺い、話を始めるきっかけを探している。彼が注文したアイスコーヒーは手つかずのまま汗をかいている。彼の額も同じように汗にぬれている。
菊池さんはいつの間にかいなくなっていた。たぶん私は、上の空で挨拶をして菊池さんと別れたのだろう。意識はずっと、芦屋という名の男に向けられていた。彼の視線が私に絡みつき、身動きも、思考までも縛りつけているような気がした。
「水原さんのお嬢さん、ですね」
彼はようやく口を開き、確かめるようにまた訊ねた。私はうなずく。
「三日前にもお会いしていますね?」そろり、と絡めとるように言葉を継ぐ。こらえきれなくなったように言葉に熱がこもる。「ぼくはずっと、あなたを探していたんです。いや、あなたのお母さんも。仕事で遠出するときでも、ひょっとしたらどこかであなた方とすれ違うんじゃないかと、いつも気を配っていたんです」
「私と母を?」
私の中の嫌悪感は危機感へと姿を変えていた。篠崎さんや菊池さんは私たちのことをずっと案じてくれていた。気にかけてくれていた。しかしこの男のは度合いが違う。心配というより、執着、に近い。
「あなたのお父さん、水原さんとは大学時代からの付き合いです。同じラグビー部に所属していた頃から、水原さんにはいろいろとお世話になっていました。卒業後に進路は分かれましたが、ぼくが転職した先の会社で、たまたま配属された先に水原さんが勤めていらしたんです。水原さんは再会を喜んでくれました」
とつとつと語る彼の口調は、老人の昔語りみたいだった。
「なぜ、私を……私と母を探してらしたんですか?」
相手の肩が強張るのが分かった。叱られるのをすでに分かっている子供のようなそぶり。
「水原さんはまだ、あなたがたの元に帰っておられないんですよね?」
「……はい」
「ぼくもずっと待っているんです。水原さんが戻られるのを。実は水原さんから預かっている荷物があるんです。本当は水原さんがご自分の手でご家族の元へ持ち帰られるのが一番だと思うのですが、もう十年以上過ぎてしまったし、こうして先にお会いできたのはあなただった。だから……ぼくがずっと預かってきた荷物を、あなたに受け取ってほしいんです」
「父があなたに、荷物を?」
「直接預かったわけではありません。ただ水原さんがいなくなってしまったために、ぼくが預かることにしたんです。いや、ぼくにはそうしなければならない恩義があると思ったんです」
彼は興奮にいっそう目を血走らせていたが、ふと周囲のざわめきに気づいて体を引いた。
「ここはちょっと、話をするには人の耳が多すぎますね。よかったら私の家に来てもらえませんか? 預かり物もうちに置いてあるんです。ここから歩いていける距離に――」
「できれば人目のある場所でお願いできませんか? お荷物もできれば持ってきて頂いたほうが。あまり大きいものでなければ、ですけど」
彼は慌てて両手を振った。「いや、これはぼくが軽率だった。警戒されてしまっても無理はありません。ただ荷物は、持ち歩くには大きすぎるんです。水原さんの身の回り品もまとめた段ボール箱が一箱なんですが……それにこれもうっかりしていましたが、あなたにとって馴染みのある場所なら気兼ねせずに話ができるだろう、とも思ってしまったんです。私の家、と言いましたが、元はあなたたちが住んでいたところなんです」
私が向けた不審の目を、彼は違った解釈で受け取ったのだろう。そうか、と腕組みをして言った。
「あなたはまだずっと小さかったから、憶えていないかもしれないですね。あなたたち一家はこの近くにある、パームハイツというマンションに住んでいたんですよ。水原さんが戻られたときに元の生活にすぐ戻れるようにと、ぼくはその部屋が空き部屋として売り出されたとき、すぐに移り住んだんです」
人通りの多い道を通ってください。私はそう注文をつけて、芦屋の後ろを距離を置いてついていった。芦屋はときおり振り向いて、私がちゃんとついてきているか確認したが、私はうつむいて視線を合わせないようにしていた。やがて否応なく人通りのまばらな小道へと入っていったが、そこからなら案内なしでも目的地にたどり着ける。
ほぼ真上から照りつける日差しは私の足元に小さい影を作っていた。先日のように芦屋に影を踏まれる心配はないな、ととりとめのないことを考えた。
三回目の訪問となるパームハイツは、あいかわらず時代に取り残されたような風情で、人気もなく、空っぽの建物という感じしかしなかった。今日は管理人さんはいるのだろうか。
芦屋に続いてアーチをくぐり、昨日までは上がらなかった階段を三階まで上った。ところどころ赤錆の浮いた金属の手すりに触れないように、狭い通路を一番奥まで渡った。
芦屋はドアの前で立ち止まり、振り向いて「ここです」と言った。スーツのポケットからキーケースを取り出し、錠を開け、ドアを引き開ける。
「ドアを開けっ放しにしておいてください」
私がいうと、芦屋は一瞬嫌な顔をしたが、玄関から傘立てを引っ張り出してつっ替え棒の代わりにした。私は芦屋が先に入るのを待って、後から部屋に上がった。暗くてかび臭い、湿っぽい廊下の奥に、飾り気のない居間があった。そこには幼い頃を思い出させるものは何もなかった。家具は最低限のものしかなく、かなり古い型のテレビと、折り重ねて壁に寄せてある布団、小さなテーブルだけが目についた。
芦屋は収納を開き、中のラックにかかっているスーツをかきわけて、奥から一抱えほどの大きさのダンボール箱を引きずり出した。
私は部屋の出口に近いところに立って、その箱を注意深く眺めた。箱は古く、一部は湿気を吸って黒ずんでいる。ふたはガムテープで留められているが、テープの端が赤っぽく劣化していて、もう長いこと開けられていないことがわかる。
「これがあなたのお父さんの荷物です」芦屋はダンボール箱を指していった。「もともとこの部屋にあったものと、会社に置いたままになっていたものです。どちらも捨てられそうになっていたのを、ぼくが言って預かっておいたんです」
芦屋は部屋の反対側の、カーテンのない窓を開けて網戸にしてから、私に向き直った。
「あなたがたご家族が引っ越されてからも、水原さんはこちらに残って仕事の整理をしていました。それが済んだらご家族の元へ行かれるつもりだったのでしょう。ですが、水原さんはある日突然、どこかにいなくなってしまった」
ご家族が引っ越されてからも。再び危機感が募ってきた。フローリングの床から、湿った冷気が足を伝って上ってきた。
「父の行き先に心当たりはないですか?」
「ありません、まったく」
「父が姿を消した理由に心当たりは?」
「……はっきりしたことは」
「あなたはどうして、こうまでして父の帰りを待っているんですか?」返事を待たず続けた。「なぜあなただけが、父の仕事仲間の中であなただけが、父が先に私と母をよそに引っ越させたことを知っていたんですか?」
まただ。心の中の暗い場所に隠されていた秘密、重い過去に触れる感覚。菊池さんのときよりもそれはざらついており、生々しかった。ずっと血を流し続けてきた傷の手触り。
いったん窓に顔を背けた芦屋は、振り返ると苦渋を浮かべて言った。
「あなたは、どれくらい知っているんですか?」
「たぶん、私たちが父と別れる直前のことまでは、ほぼ全部。父が脅されていたことも、友達に……利用されたらしいことも」
「友達、か」芦屋はうつむいた。「あの人らしい。誰かに相談するとしても、友達、という言葉を使えば、それが後輩のことを指しているとは想像しにくい。同じ社内の人間のことだということも」
「あなただったんですね?」
それは質問ではなく、確認に過ぎなかった。芦屋はあのすがりつくような目を向けてくる。
「言い訳にしか聞こえないと思うけど、あの頃ぼくは、おかしくなっていたんです」
「おかしくなっていたら、女の子のお小遣い稼ぎに付き合ってあげてもいいと?」
「そうは思っていない。決して。信じてもらえないでしょうが、ぼくはもともとそういう行為を嫌悪しているんです。でも」目が虚ろになった。心の声がそこからこぼれ出てきた。「でもあなたはまだ若い。あなたはまだ孤独の恐ろしさを知らないでしょう」
「私だって知っています。あなたとは耐え方が違っただけです」
彼から感じていた生理的な嫌悪感の、正体の一端が分かった気がした。この人と私とでは根元の部分から違う。
芦屋は寂しそうに笑った。「そうですね、簡単に比べられるものじゃない。それにぼくはすぐに、それ相応の罰を受けた。ぼくが知り合った女の子の後ろには、菅谷と名乗る男がいました。女の子と会った翌日になってようやく、ぼくは罠にかけられたことに気づきました」
それから続いた脅迫の電話。断りきれずに金を払い続けた芦屋。父が菊池さんに相談したのと大筋同じ話を、芦屋は言いづらそうに、しかし過去を洗い出そうとするように丹念に話した。
「菅谷は――たぶん偽名だとは思うけれど、あれは狡猾な男でした。いつも向こうから連絡を入れてきて、電話なら非通知。ぼくは彼の連絡先を知らされずにいました。金の受け渡しの方法も、いつも足のつかない、こちらが正体を突き止めようのないやり方を指定してきました。要求額は毎回数十万円単位で、まるでこちらの懐具合を推し量っているみたいな不気味さがありました。そうしてずるずると脅しに屈し続けているうちに、ぼくは少しずつ追い詰められていった。そういうふうに仕向けられていたんです」
それだけではないだろう。こうしてほんのわずかな時間言葉を交わしただけの私にだって分かる。芦屋という人間の気弱さ、押しの弱さを、菅谷はとっくに見透かしていたに違いない。どれほど手口が巧妙であろうと、通じるかどうかは相手次第のはずだ。
「それでも警察には通報せずに、父を……どうして父を巻き込んだんですか?」
芦屋は一度ぎゅっと目をつぶった。「ぼくはあのとき、すっかりおかしくなっていたんです」と再び言った。
「金銭的にも精神的にも、ぼくは追い詰められていました。毎日気分が優れず、仕事に身を入れられる状態ではありませんでした。それが私の顔色にも表れていたのでしょう、水原さんがある日、声をかけてくれました。心配事でもあるのか、話くらいいつでも聞くぞ、と。その瞬間、ぼくはとんでもないことを考えてしまいました」
――この人を身代わりにしてしまえば、ぼくは助かるかもしれない。
「学生時代から水原さんはとても面倒見のいい先輩でした。でもぼくはそのとき、水原さんのその性格を利用することを思いつき、それがひどくいいアイデアに思えてしまったんです。菅谷に計画を話すと、彼は気軽に応じてきました。試してみてやってもいい、うまくいったらあんたは解放してやるよ、と」
「……あなたを脅しているのは女の子だと、父に話したそうですね」
そこまで細かいことを知られているとは思わなかったのだろう、芦屋は私を見て怯えた。「そのほうが、水原さんをうまく誘い出せると思ったんです。娘さんを持つあの人のことだ、私だけでなく彼女のことも考慮に入れて動いてくれると思ったんです」
「そんなことで、父はあなたの思い通りに動いたんですか?」
「いくら水原さんだって、そこまでお人好しじゃあない」芦屋の語気が荒くなった。少し持ち上げた両手がかぎのように強張っている。「警察に行くようにと、何度も言われました。そのたびにぼくは、魔が差しただけなんです、二度とこんなことはしませんから、と言って拒否しました。実際、脅迫について訴え出るのは同時に、私自身が自首しに行くようなものです。その踏ん切りがつかないまま時間が過ぎて、そのたびにタイミングを逃してしまった気持ちが大きくなっていたんです。……それに、彼女と会ってほしいとお願いしても、水原さんは最初はうなずかなかった。席を立とうとさえしました」
追いすがるような目。そのときの再現のように。
「あのときのぼくにはきっと、悪魔が乗り移っていたんです。あの人をどうしたら呼び止められるか、どんな言葉でならあの人の心を動かせるか、あのときの私にははっきり見えていたんです」
「……なんと言ったんですか、父に」
芦屋は虚ろな目で笑った。「ぼくを見捨てるんですか、と」
そんな言葉で、と言いかけて、私は絶句した。菊池さんから聞いた話が、脳裏にその場面ごとよみがえる。見たはずのないその景色の中で、菊池さんは父に向かって言う。差し出した手には責任がかかるものだ、と。しかし父はとっくにそれを承知していたのではないか。だから菊池さんの話をただ黙って聞いていたのではないか。
そんな父が、大学時代からの後輩をあっさり見捨てられるだろうか。
「水原さんはそれでも行ってしまいました。立ち止まりはしたけれど、そのまま去ってしまった。でもぼくには確信がありました。彼は悩みぬいた末、必ずぼくのために戻ってきてくれると」
そして、その通りになった。
芦屋はとあるホテルの待合ロビーで、父と女の子を引き合わせた。父は女の子を諭し、女の子は菅谷の指示通り、「悪ぶってはいるけれど、根は善良な娘」を見事に演じてみせたという。しかし芦屋が思うほど父は愚かではなかったはずだ。背後に誰かがいることに気づいていたというのだから。
それでも隙はあった。
私は想像した。間接照明の薄明かりの中、ロビーのものとも部屋のものともつかない革張りのソファに座った父と、悔い改めたように装って父の手を取り、あるいはしがみついてみせた娘。注意深く二人から距離をおいて、ぎらぎらした目でその様子を眺める芦屋。そしてもっと注意深く、都合のよい写真を撮れるチャンスを窺って陰に潜んでいた菅谷という男。そうして撮られた、ビラの写真。
それは脅す側にとっても脅される側にとっても、決して致命的な写真ではなかっただろう。きっかけに過ぎなかっただろう。人には必ず弱みがある。それを探り出せさえすれば、手始めとなる手段は何でもよかったはずだ。最終的に父に決断を迫ったのは、芦屋の存在と――たぶん、幼い私の写真だ。
頭が熱くなった。芦屋が歪んで聞こえてくる。
「水原さんはいなくなる直前、ぼくに言ってきましたよ。警察に届け出ると」
菅谷からの脅迫の電話。うちの番号を菅谷に教えたのは、誰だ?
「家族に危険が迫っているからと言われました。家族を安全な場所に移してから、警察に行くと」
ばらまかれたビラ。うちの住所を教えたのは、誰だ?
「でもそれっきり、水原さんは行方知れずになってしまった。それと同時に、菅谷からの脅迫もぴたりと止んだんです。自分が窮地から脱したらしいと思ったとたん、自分のしたことが恐ろしくなりました。ぼくはなんてことをしてしまったのだろうと、激しく悔やみました」
私の目の前でこぶしを握り締め、顔を真っ赤にして懺悔しているこの身勝手な男は、誰だ?
篠崎さんは言っていた。仲間たちみんなで父を心配していたと。そこには菊池さんもいた。菊池さんは父の失踪に関係するかもしれないことを知っていたけれど、父の不名誉になることを心配して、詳細を仲間たちに明かすことはしなかった。
父を話題にしていたその場に芦屋はいたのだろうか? 同じ会社の小さなオフィスで、日々仲間たちと接しながら、この男はいったいどんな顔で過ごしてきたのだ?
「水原さんは事件に巻き込まれたんです。菅谷もそれに関係しているはずです。今度こそ警察に行こうと思いました。でもぼくは自分が何も知らないことに気づいたんです。菅谷の正体はもちろん、連絡先も知らない。女の子にも連絡がつかなくなっていた。ぼくと彼らとを結ぶものは何も残っていなかった。ぼくが警察に話せるようなことは、何も残っていなかったんです。だから、だから――」
「だからこの部屋に引っ越してきたんですか? 父を待つために」
自分にもこんな冷たい声が出せるとは思わなかった。
「ぼくにはそれしか、償う術が分からなかったんです。それとあなたがたご家族を探し出すことくらいしか。本当にそれしか思いつかなかったんです」
訴えるような目。打ちひしがれたような猫背。彼が預かっていたのは父の身の回り品だけではない。彼は十年以上、良心の責めを背負って生きてきたのだろう。そして今、ようやく見つけ出した水原の娘を相手に、背負ってきた荷を少しでも軽くしようとしている。
「本当に水原さんには、あなたがたには、申し訳ないことをしました。本当に、申し訳なく……」
芦屋はひざをつき、手をつき、頭を下げた。そののどから嗚咽が漏れた。
私はそれを冷ややかに見下ろしていた。不思議なくらい落ち着いていた。この男は謝っているわけじゃない。自らの愚かな行いを、他人にかけた迷惑を、すべて吐き出して楽になろうとしているに過ぎない。自分もつらかったのだと訴えかけているに過ぎない。
これ以上、この男と同じ部屋の空気を吸っていたくなかった。
「父の荷物、見せてもらっていいですか?」
芦屋は顔を上げた。涙と鼻水で汚れた顔から、私はすぐに目をそむけた。断られるはずがないのだ。断る権利はこの男にはない。
私は箱を前にして屈み込み、しつこいガムテープを苦労してはがすと、ゆっくりとふたを開いた。古くなった紙の匂いがむっと鼻をついた。
中にはいくつかの書類と、みやげものか記念品のような置物、それにレターケースに入った手紙の束――母と父の間で交わされた昔の手紙のようだ――が雑然と放り込まれていた。そしてそれらに埋もれるようにして、ラッピングされ、ピンクのリボンが結ばれた小さな箱があった。誰かに宛てたプレゼントだろうか、それとも父が誰かに贈られたものか。
その箱をよく見ると、包装を一度はがしたような跡があった。私は無造作にその包みを開いてみた。出てきたのはボール紙の箱だった。ふたを開けるとピアノの形をした、木製のオルゴールが入っていた。ピアノのふたを開けてみたが、音楽は鳴らなかった。そのかわり、ふたの裏側に彫り込まれた文字を、私は見つけた。
手が震えた。
オルゴールを小箱に戻し、再び包装紙でくるんでスポーツバッグにしまった。レターケースも一緒にバッグに押し込んだ。それから、早口で芦屋に言った。
「これだけ持って帰ります。あとの荷物は、すみませんがこのまま預かっていてもらえませんか?」
「いや、しかし……」
「たぶんご存じないでしょうが、母は私が小さい頃に亡くなりました。今は養父母の下で生活しています。こんな大荷物は持って帰れないし、養父母の家宛てに郵送することもできません。父が帰ってきたら、取りに来ると思います」
私は急いで昔の家を出た。芦屋は追ってこなかった。私も振り返りはしなかった。あの男とは二度と顔を合わせたくなかった。
もしかしたら、あの男は根は善良なのかもしれない。過去の過ちを深く悔いているのかもしれない。でも一つ、大きな考え違いをしている。父がまだどこかで生きているなら、そして帰ってくる気があるなら、私たち家族の元へまっすぐ帰ってくるだろう。家族のいない昔の家になど寄り道するはずがない。
気がつくと暑さも忘れて走っていた。誰もいないところへ行きたかった。私の足は近所の公園へと向かった。あいかわらず、乾いた砂ばかりで人気はなかった。
木陰のベンチに座り、バッグから小箱を取り出した。今度は丁寧に包装紙をはがして畳み、箱からそっとオルゴールを取り出した。
オルゴールのふたの裏には、「あおばへ」という文字が不器用に彫り込まれていた。
それは私への誕生日プレゼントだった。東京での最後の夜、私はあと幾日かで、五才になるところだったのだ。
私は木彫りの文字をそっとさすった。それから、裏返してネジを巻こうとしたが、ネジ穴があるだけで肝心のネジが見当たらなかった。箱の中にも入っていない。
はっとした。バッグから父がくれた鍵を取り出し、オルゴールの底に差し込んでみた。それはカチリという小気味よい音とともに、ぴったり納まった。そのまま鍵をネジとして巻くと、優しい音がぽろぽろとこぼれ出した。
記憶の扉が、わずかに開いた。
それは私が幼い頃、父がよく歌ってくれた子守唄だった。私が大好きだった歌。今までずっと忘れていた歌。
そうだ、私はあの頃すねていたのだ。父はいつからか歌ってくれることも、枕元でお話をしてくれることもなくなった。どこかよそよそしくなったような感じがあった。鍵をもらったあの夜も、だから父の顔をまともに見ようとしなかった。私のその感情は父と別れた後、父に後ろめたいことがあるのだと信じるのにも、父のことを忘れようとするのにも、都合よく作用したかもしれない。
おそらくその頃、父には余裕がなかったのだ。私と母を守るために。自分が手を出したことの始末をつけるために。
「……ばかじゃないの」
私は声に出してつぶやいた。奥歯をかみ締めた。オルゴールを持つ手が震えて止まらなくなった。
これほど私を、家族を想ってくれていたなら、なぜ家族との生活を最優先してくれなかったのか。後輩に助けを求められた? あんな身勝手な人間にまんまと言いくるめられた? 援交を続けているよその子を説得しようとした? お人好しにもほどがある。差し出した手に執拗に絡みつかれて、なぜ振り払わなかったのだろう? それが正しいことだとでも思っていたのだろうか? 神経をすり減らすようにして亡くなった母に、父は何と言って詫びるつもりだろう。
父は弱かった。本当に正しいことが何なのかも分からない人だったのだ。父はやっぱり罪を犯していた。私たち家族に対して。私は決して、父のようにはならない。父のようにはなりたくない。決して。
オルゴールを閉じた。私には、小さい頃から育ててきた自制心があった。
私は立ち上がった。
カナちゃんはまだ帰っていなかった。私は疲れきっていた。この街には人が多すぎる。故郷へ、水原青葉を知らない街へ、私は早く帰りたかった。
制服のブラウスは、カナちゃんが畳んでおいてくれていた。体が重く、制服に着替えただけで床に座り込んでしまった。カナちゃんが帰ってくるまでは待とうかとも考えたが、正直、誰とも話したい気分ではなかった。私の探索の旅は終わったのだ。それにそのことをカナちゃんに上手く話せる自信がなかった。少なくとも今は。
メモ用紙を借りて、勝手に帰ってしまうことを詫びるメッセージを書いた。そして借りていたスペアキーと並べて居間のテーブルに置いた。いずれ落ち着いたら必ず電話をするから。心の中でカナちゃんにお礼を言って、私は家を出た。
街は夕焼けに染まっていた。どこから来てどこへ向かうのか分からない、知らない顔の群れが、血の色に体を染めて靴音とともに流れていく。バッグがひどく重く感じられた。人いきれが熱気とともにまとわりついて離れなかった。
人の波に流されるようにして改札に近づいたとき、私の名を呼ぶ声がした。
「アオバちゃん、見つけた」
改札のすぐそばにセリナが立っていた。笑顔で私に手を振っている。丈の短すぎるタータンチェックのスカートに、真っ白なブラウス。胸元には大きな緋色のリボンをつけている。学校の制服だろうか。薄茶色のカラーコンタクトの向こうから、親しみを装った瞳が私を見据えていた。
「やっぱりここで時間潰しててよかったあ。ひょっとしたらアオバちゃんと会えるかもしれないと思ってたんだ。元気してた?」
元気に見えるように笑ってみせた。
「これからどっか行くの?」
「そろそろ、家に帰ろうと思って」
「やっぱり? そろそろだと思ってたんだよね」セリナはすぐ隣にいる女子高生を親指で指した。小柄な、セリナとは別の学校のものらしい制服を着たかわいらしい子で、落ち着かない目で私を窺っている。「この子も家出中でね、お金も泊まるとこもないって困ってたの。それで、あたしのトモダチを紹介してあげようと思って。アオバちゃんも一緒に来なよ。せっかく東京に来たのに、そんなすぐ帰っちゃうなんてもったいないって」セリナは私の腕をつかんで引っ張った。「おいでよ、あたしたちと一緒に。あんたなら結構モテると思うよ」
セリナのつけた香水の香り。前に会ったときのとは違う香りがつんと鼻をついた。そのとたん、私の中で抑えつけられてもやもやしていた感情が、一瞬のうちに鋭い刃の形となって心を突き破り、セリナに向かってほとばしった。
「……あんたみたいな子がいるから――!」
セリナの手を強く振り払った。息が荒くなり、歯を食いしばった。取り乱したくない。こんな大勢の知らない人の前で、取り乱したくはない。
セリナの顔は驚きから、怒りへと変わった。化粧の濃い顔が醜く歪む。
「なによ、人がせっかく誘ってやってんのに」
鼻で笑う。強調された瞳がじろじろと私の全身をなめまわす。
「お金ないんでしょ、あんた。正直にそう言いなよ。そんなダサい制服着てたって、マニアにしか受けないわよ」
私は自分を抑えた。必死に抑えた。そうしないとセリナに掴みかかってしまいそうだった。そんなことをしても意味がない。そんなことをするだけの価値はない。呼吸を整え、奥歯をぎゅっと食いしばり、手のひらに爪を食い込ませた。
私たちはしばらくにらみ合っていた。大勢の他人の足音が低く高く、私たちのわきを何事もないかのように通り過ぎていった。
先に視線を逸らしたのはセリナだった。鼻を鳴らし、隣の子に呼びかけた。
「行こう、こんなやつほっといて、さっさと行こう」
手首をつかみ、駅から離れていこうとする。そのとき私は見てしまった。女の子の足が一瞬、セリナについていくことをためらい、ローファーの先がアスファルトを削ったのだ。一瞬振り向いた彼女の目は、まるで見捨てられた子供のようだった。一緒に来てくれないの? 私ほんとに、こんなことしていいのかな。
私は無意識に手を伸ばした。行っちゃいけない、そう言おうとした。
しかし声を出そうとしたとき、体をそれ以上動かそうとしたとき、私は気づいてしまった。私は今、父と同じことをしようとしている。
――父みたいにはなりたくない。
そう決めたばかりじゃないか。その思いが私を縛った。もう一つの感情とせめぎあった。
相手は他人だ。見知らぬ他人だ。お節介を焼く必要なんてない。あの子が自分で決めたことだ。それに私はあの子の事情も、名前すらも知らないのだ。
セリナのような人間に目をつけられるようなことを、わざわざする必要はない。みんな自分の都合で行動しているのだ。他人が口を挟むことではないのだ。
それでも。
――人に救いの手を差し出すのはいい。だが。
私の手は空しく宙をつかんだ。のどからかすれた声が出た。
「だめ、だよ」
夕日に燃えるたくさんの人々の顔。私の知らない、私に注意も向けないたくさんの顔。
どうしてこんなにたくさんの人間が、こんなふうに互いを意識せずに暮らしていけるのだろう。どうして私はこんなところにいるのだろう。何が正しくて、何が間違っているのだろう。
私は。私はどうすれば。
――その手にかかる責任は知っていなければならない。
「行っちゃ、だめだよ」
これほど多くの人に囲まれているのでなければ、これほどの喧騒に包まれてさえいなければ、私の声は届いたかもしれない。しかし私の声は悲しいくらい小さかった。喧騒に飲み込まれ、あっという間に吸い取られてしまった。
声は届かなかった。女の子の背中は、すぐに人ごみに紛れてしまった。
思いが乱れた。何が正しいのか分からなかった。自信を持てる答えが見当たらないまま、頭の中でたくさんの思いが反響した。そのうちの一つがはっきりとした言葉となって、私の胸に突き刺さった。
――私は、父ほどにも強くなれなかった。
地元の駅に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。駅前には嘘のように人がおらず、夏の終わりの虫の声が広い夜空を満たしていた。
すすきの原を前にした電話ボックスから、家に電話をかけた。養父が出た。
「あ、おじいちゃん? 私」
「青葉か。今どこだ? 今夜はうちに帰るのか?」
「うん、今日は帰る。ごめんね、連絡遅くなっちゃって」
「かあさんが、料理が冷めると愚痴ってるぞ。あんまり機嫌が悪くなると面倒だから、早く帰っておいで」
「うん」
短い沈黙。
「青葉、バレーの大会、再来週だったな」
「……うん」
「観に行ってやるから、バシッと決めるとこを見せてくれよ」
「どうしたのよ、急に。人が多いところは苦手なんじゃなかったの?」
「行きたくなったんだからいいだろう。それとも親に観られるのは恥ずかしいか?」
「そんなことないけど。それに私、攻撃はあんまり得意じゃないよ。……でも来てくれるんなら、ちゃんと活躍してるとこ見せてあげる」
不意に養父の姿が目に浮かんだ。私と電話で話をしているその姿を、私が見ることはない。しかしなぜだか見える気がした。受話器を耳に懸命に押し当てて、私の声を聞き逃さないようにしている姿を。
たぶん、だから私の声だけ聞こえるのだ。ずっと聞こうとしてくれていたのだ。
感情が、揺れた。私は電話を切った。東京と違って、電話ボックスから外を見回しても駅前通りの街灯が点々と続いているばかりで、人影はまったく見えなかった。すぐに家に向かってもよかったのに、気づけば再びテレホンカードを入れ、京子の携帯の番号を押していた。ただ声が聞きたかっただけかもしれない。
「もしもし、京子? いま駅に着いたとこ。帰ってきたの」
「おかえり。用事は済んだの?」
「うん、済んだ。なんか慣れないことして疲れちゃった。今日は早く帰って寝るわ。明日は部活に出るから」
「わかった。じゃ、明日の朝はいつもんとこで待ち合わせね」
「おっけ。じゃ、また明日」
受話器を置きかけたとき、青葉? と私を呼ぶ声がした。
「ん、なに?」
「今夜、うちに泊まりに来ない? 夕飯食べた後でもいいから」
「……なんで?」
「いいじゃん。予定が少し早まったってだけで」
「……」
「青葉、なんかあったんでしょ。声が変だよ?」
――だめだ、感情がこぼれる。
「らしくないよ。いつもだったらさ、つらいこととかあっても強気に押し切っちゃうのに。話ぐらいいつでも聞くからさ、あんまりためこまない方がいいよ?」
「何をよ」
「心配してんのよ」
「何をよ、何がよ。あんたに何がわかるのよ。人のこと何でもわかるみたいなこというのやめてよ。私は、私は……」
悲しさと悔しさが込み上げてきて、自分が何を言っているのかも分からなくなった。脈絡も考えず、あふれてくる言葉をただただ口にするだけの私の話を、テレホンカードの残量が切れるまで、京子はずっと聞いてくれていた。
了