その足の翼は (三)


 高く設えられたフェンスの向こうには雲一つない青空が広がっていた。普段から立ち入り禁止になっている校舎の屋上には、今日も他に誰もいない。天気のよい日の昼休みはいつも、武史はここで一人で過ごしていた。
「十五分五十二、か……」
 あぐらをかき、学食で買ってきたやきそばパンをぼんやりかじりながら、昨夜から何度目かのため息をついた。体育の時間は他の生徒の記録などまったく気に留めていなかったので推測しかできないが、祖父の話から考えれば、選抜チームに選ばれるような生徒は全員十五分を切っていてもおかしくない。一キロあたり三分はかかると考えれば、今の武史が五キロを走ればタイムは単純計算で十九分弱。とりあえずの目標を十五分に設定したとしても、今より四分近くタイムを縮めなければならない。それでようやく、他の連中に並べるのだ。
 トップの座は、あまりにも遠かった。ありったけの努力をしたとしても、一位でゴールするどころか、選抜メンバーの中でダントツ最下位という結果になりかねない。
「ビリとか、いくらなんでも笑えねえよな」
 全力を出し切ってゴールしたのに、他の連中はとっくにゴールしてくつろいでいた……そんなシーンがたびたび頭に浮かび、そのたびに気が重くなる。
「ジジイにまで大見得切っちまったし」
 クラスメートに笑われるのはまだ我慢できても、祖父に軽蔑されたくはなかった。かといって、二か月間毎日練習したところでどうにかなるとも思えない。
「ったく、どう考えても無理じゃねえか……」
 背中を丸めて暗い想像に浸っていると、背後で遠慮がちに扉がきしむ音がした。教師の見回りだろうか。もう一年以上、誰も注意しに来たことなどないのに……と舌打ちしながら振り向いた武史だが、訪問者の顔を見ると驚いてパンを取り落しそうになった。
「武史ちゃん、その……お久しぶり」
 ときおり強く吹きつけてくる風に、片手でスカートを抑えながら近づいてきたのは、米田詩乃だった。どこか緊張した面持ちだったが、武史が慌てるのを見るとくすりと笑った。
「なんだ詩乃か。びっくりさせんなよ。なんでおれがここで食ってるって知ってんだ?」
「それは、あの、あちこちで噂になってるから。屋上に無断で出て、一人で気取ってお昼食べてる変わり者がいるって。武史ちゃんていつもお昼、教室にいないから、もしかしたらって」
 詩乃は風に乱される髪を懸命に手でなでつけていたが、なにげなく目線を上げると「うわあ、ここって景色いいんだね」と弾んだ声を上げた。雨の翌日など空気の澄んでいるときなら、武史の家がある二駅先の駅ビルさえ見えるのだが、詩乃の言葉に憤然とした武史は観光ガイドどころではない。
「別に気取ってるわけじゃねえや。つまんねえ連中のツラを見ながら飯なんて食いたくねえだけだ」
「ごめん、そんな風には思ってないよ。気取ってるって、私が言ったんじゃないから」詩乃は慌てて手を振った。「……でもこういうとこで息抜きしたいって気持ちは、分かる気がする。武史ちゃん、上条くんたちによくちょっかい出されてるもんね」
「上条か。そういやそんな名前のやついたな」武史はクラスの自称不良グループの連中の顔を思い浮かべ、うんざりして頭をかいた。「おれのことを目立ちたがり屋だの、自分たちに張り合ってるんだの言って、やたらと突っかかってきやがる。何が張り合うだよ。あいつらのやってることっつったら、陰でこそこそ教師の悪口言ってるだけじゃねえか。単位が足りなくなるのが怖くて授業もサボれないんだぜ。不良なのはあいつらの頭の中身なんじゃねえのか」
「そこまで言わなくてもいいと思うんだけど……でもうちのおじいちゃんも言ってた。最近は不良らしい不良の話を聞かなくなったって。武史ちゃんの方がまだ古きよき不良っぽさがあるって」
「あのさ、その不良ってのよせよ。別にそんなつもりねえし。聞いてて背中がムズムズするじゃねえか」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃなくて。それに不良っぽさがあるっていうのは――」
「おまえじゃなくてじいさんが言ってたっていうんだろ。分かったから、そんな簡単に謝るなっての」
 武史は尻ごとくるっと回転して、まっすぐ詩乃に向き直った。
「で、何の用だよ。ひさびさに幼馴染と世間話でもしたくなったのか?」
 武史と詩乃とは、生まれたときから家が隣同士だった。小さい頃はよく遊んだものだが、だんだんと両家の間の垣根越しに話をするだけになり、その習慣も中学に上がる頃にはなくなっていた。詩乃は小さい頃から気が弱く、少しからかわれただけで泣き出すことも多かった。その頃は詩乃は武史にとって、守ってやるべき存在だった。からかうやつがいれば腕力に訴えてでも黙らせた。もっとも、それほど喧嘩の強くない武史は、負けて泣かされることの方が多かったが。
 たまたま高校が一緒になり、たまたまクラスまで一緒になったものの、教室内で詩乃と口を利いたことは今までなかった。授業態度の悪い「不良」の武史と仲がよいなどと噂が立てば、詩乃にどういう難が及ぶか分からない。一方で詩乃も、久しぶりに間近に見る幼馴染にあえて話しかけようとはしなかった。話すことがなかった、というのが正直なところだろう。二人とも、はっきり意図してかどうかの違いはあるものの、家が隣近所であることさえ周囲には話さずにきたのだった。
 武史にまっすぐ向き直られた詩乃は、びくりと肩をすぼめた。言おうか言うまいか、ここまで来てまだ迷っているようだったが、やがて深呼吸を一つすると言葉を選びながら話し始めた。
「あのね、余計なことかもしれないけど、どうしても気になったから……武史ちゃん昨日、教室でみんなにすごいこと宣言しちゃったでしょう」
 不安と後悔の種をピンポイントで突かれて武史は思わずむっとしたが、後ろに両手を突き、リラックスしたふりをして笑ってみせた。
「おいおいずいぶんだな。大口叩くな、とか説教しに来たのかよ? どうせやるんならてっぺん狙うのが男だろ」
「選抜メンバーに選ばれたのだって、実力じゃないでしょ?」
 武史の笑みが消えたのを見て詩乃は目を泳がせたが、武史から視線を逸らしながらも続けた。
「あのね、クラスのみんなは、ちょっとした冗談のつもりだったんだろうとか、行きがかりでなんとなく選抜メンバーになってしまっただけだろうとかいろいろ言ってるけど、私はそんなのどうでもいいと思うの。どんな経緯であれクラスの代表に選ばれたんだから、後は武史ちゃんががんばればそれでいいと思う。でもね、誰にも胸を張れないような成り行きで代表に選ばれたのに、真面目に選ばれたがってた人を茶化すのはよくないと思うんだ」
「真面目に……って、出島のことか? なんだよ、あいつほんとに選抜メンバーなんかになりたかったのか?」
「様子を見てれば分かるじゃない。それにあの子、陸上部だよ? 長距離走が専門じゃないみたいだけど、陸上部どころか文化部に所属してる、真面目に走ってたようには見えない人に記録で負けたことにされて、おまけに他の人がいる前であんなふうに言われちゃったら、立つ瀬がないんじゃないかな」
 非難の色の強い言葉だったが、彼女らしい気遣いと、どこか寂しそうな口調のためか、武史は感情的になることなく最後まで聞けた。気まずくなり、頭をかきながらぼそぼそと言った。
「そんなつもりはなかったんだけどな。そんなふうに聞こえてたんなら、おれも悪かったっていうか……」
「武史ちゃんに悪気がないのは分かってる。でも私は小さい頃から一緒だったから分かるっていうだけで、他の子たちには分かりにくいと思うの。武史ちゃんてわざとああいう物の言い方をすることがよくあるでしょ。それって誤解されやすいと思う。たまにならいいけど、あんまり誤解されすぎると、そのうち誰も分かってくれなくなるんじゃないかなって思って、だから」
 一息に言って、詩乃はつと言葉を切った。
「ごめん。なんか、お説教みたいになっちゃった」
「……」
「私、もう、戻るね」
 くるりと背を向け、足早に立ち去ろうとする。
「おい……」
 呼びかけたものの、それきり言葉が出てこなかった。
 詩乃は怯えている。自分がその怯えの対象であることを、武史は今までもうっすら感じていたし、今でははっきり認識していた。そうでなくても、詩乃は滅多に人を責めるようなことを言わない。二人の間にいつの間にか開いてしまっていた距離を、詩乃は今日、勇気を振り絞って渡ってきたのだろう。それが説教のためでないことくらい、言われなくても分かる。
 去りゆく幼馴染にどういう言葉をかければいいのか、思いつかなかった。呼び止めようと伸ばした腕も、持っていき場がなくなり下ろしてしまった。
 それでも、何か言わずにはいられなかった。
「なんだよ、待てよ。いや、待たなくてもいいんだけどさ」
 扉を引き開けたところで、詩乃が振り返った。武史はどうにか言葉を継いだ。
「その、さ。そういう話なら学校でなくたって、家に帰ってからでもよかったじゃねえか。いや、ほら、こんなとこで話してるとこを他のやつに見られたら、いろいろ面倒なことになるだろうが」
「うん……でも私、最近部活で遅いから。土日も練習あるし」
 詩乃も言葉を探す様子だったが、やがて諦めたように小さく首を振ると、校舎の中へと戻っていってしまった。重苦しい音を立てて扉が閉まる。
 武史はしばらく、閉じ切った扉を見つめていた。
「部活で忙しい、か」
 ゆっくりと、焦りに似た感情が湧き上がってきた。背中で守ってきたはずの幼馴染が、知らないうちに自分を追い越して、ずっと前を歩いている、そんな気がした。
「実力じゃない、かよ」
 言いたい放題言いやがって、と力なくつぶやいて、パンの残りを口に放り込んだ。すっかり乾いてしまったそれは、もさもさするばかりでまったく味がしなかった。

「ジジイ。ジジイ、始めっぞ」
 武史の声を聞いて奥から現れた敏久は、孫の様子を目にしたとたん、はたと立ち止まった。武史はとっくにジャージに着替え、準備運動も済ませて、かすかに息を弾ませながら縁側に立っていたのだ。
「なんだ、てっきり三日坊主にもならずに放っぽりだすものと思ってたんだが」
「やるって言ったじゃねえか。人にあれこれ言われんのも、もううんざりだしな」詩乃の顔が頭に浮かんだが、隣家の方は見なかった。「いい加減、孫を信用しろってんだよ。いい歳したジジイのくせにかわいげがねえな」
「かわいげがねえのはどっちだ、バカタレが」
 言葉とは裏腹に、敏久はにやりと笑った。早く始めようぜと急かす武史を部屋に招き入れると、のろのろとした動作で箪笥の横の小さな本棚から数冊の本を抜き出し、一冊一冊卓袱台に置いた。そのあまりに緩慢な動作に、武史は眉をひそめた。
「おいジジイ、具合でも悪いのか? そんなもん、言ってくれればおれが取ってやるってのに」
「ふん、ちっとばかし関節がきしむだけだ。今日はだいぶ冷えるからな」
「ったく、寒いんなら家ん中にいろよ。ストップウォッチだけ貸してくれれば、あとはおれ一人でも計れるんだしさ」
「年寄り扱いするな。こんくらいでヘコたれてたら歳なんざ取れねえよ」
 妙な理屈を言われて詰まった武史が見守っていると、敏久はゆっくりと、まるでバランスのとりづらい高所にいるような慎重さで畳に腰を下ろした。そして本を一冊ずつ広げて見せた。
「オレが選手だった頃にゃ、走るのに理論も科学もありゃしなかった。気合と根性で量をこなすってえのが、練習の基本でありすべてだった。一に練習、二に練習。やれトレーニング強度だの、栄養管理だの、そんな言葉もなかったさ。……だが、時代は変わるもんだ。昔のやり方がいつまでも正しいわけでもねえし、第一いまどきのガキどもに朝から晩まで走って走って、走りまくるような根性なんざあるわけがねえ」
「おれはいくらだって走ってやる――」
「黙ってろ。昨日言っただろうが。普段からろくに運動もしてねえやつが、突然馬鹿みたいに走り回ったって故障するのがオチだ。本当ならじっくり基礎体力からつけさせるところだが、そうのんびりもしてられねえから、まずは形から入ろうってわけだ」
 本は図書館からの借り物で、どれも走り方について書かれたものだった。準備運動の説明から始まり、走るときのフォームやさまざまな練習方法、練習時の服装、食事に関する注意までこまごまと書かれている。敏久はざっくりそれらを示してから、夜にでも一通り読んでおけ、と言って武史のほうに本を押して寄越した。
「さあ、暗くなる前にまずは練習だ。今日は最初にフォームのチェックをしてやる。それからペース走をやって、暗くなりきる前に昨日と同じコースを走ってタイムを計測。それと――」ぎろり、と武史を睨んで、「煙草はやめろ。肺活量が落ちる。いまさらだがな」
「最近はそんなに吸ってねえよ。せいぜい一日に一本か二本しか」
「やめろ、と言ったんだ。一切吸うな。これも練習の一環だと思え」
「前々から思ってたけど、ジジイってさ、未成年だから吸うな、って言わねえよな」
「そんな、どうせ聞きゃしねえ説教をして欲しいのか?」
「要らねえ要らねえ。間に合ってるよ」
 フォームのチェックくらい家の中でもできる、と武史は言ったが、敏久はこんな狭いところで満足なフォームなんぞ取れるか、と頑固に突っぱねて外に出た。門を出たとたんに北風が勢いよく吹きつけてきて武史は思わず身を縮めたが、シャツの上にあちこち擦り切れたセーターを着ただけの敏久は眉一つ動かさず、わずかばかりの震えさえ見せなかった。武史は呆れると同時に感心して祖父を見つめた。こんなタフなジジイなら、どうやら心配することはなさそうだ。
「よし、この電柱からあっちの垣根の角まで走ってみろ。折り返してすぐ戻る。ほれ急げ、駆け足!」
 武史はぶつぶつ文句を言いながらも、言われるままに何度も敏久の目の前を往復した。肩の力を抜け、歩幅を広くしろ、ひざをもっと上げろ――と遠慮のない大声で指示が飛ぶ。そのたび通行人が何事かと振り返り、武史は気恥ずかしさをごまかそうと最初のうちはしかめっ面をしていたが、祖父の注文を受けてフォームを意識しているうちに少しずつ周囲のことが気にならなくなっていった。
 この日の四キロのタイムは前日より十四秒も速かった。フォーム改善の結果じゃねえ、練習し始めはそんなもんだ、と敏久に言われたが、どんな理由であれ上達が目に見えれば悪い気はしない。昨日からの鬱屈はどこへやら、武史は心が浮き立つのを感じていた。
 夜は祖父から渡された本を読もうと、ベッドに横になり本を開いてはみたものの、すぐにまぶたが重くなった。けだるいが、どこか心地よい疲労を全身に感じながら、健やかな眠りに落ちていった。