ホーム > 小説 > その足の翼は > (八) |
早朝、学校に着いてすぐ表に出ると、校門前にジャージ姿の詩乃が立っていた。武史の姿を認めるとにっこり笑って、おはよう、と言った。
武史は答えない。じろりと一睨みすると詩乃の前を素通りし、屈伸運動を始めた。無視するつもりだったが走り出す直前、視界の隅に体を震わせている詩乃の姿が映り、やむなく立ち止まった。
「帰って布団でもかぶってろよ。風邪ひくぞ」
「こんなに寒いと思わなかった。頭痛い」
「知るかよ。バカみたいなことしてんじゃねえよ」
「それは……お互い様だと思うんだけど」
詩乃は細い腕を突きだした。その手にはストップウォッチが握られている。
「それどうしたんだよ。ジジイの家からくすねてきたのか」
「そんなわけないでしょ。百円ショップで買ってきたの。計測係がいたほうが、練習もやりやすいんじゃない?」
「誰がやりにくいって言ったよ。頼んでもいねえ」
「いいじゃないの。勝手に手伝おうとしてるんだから、勝手にやらせておいてよ」
本人は威勢よく言おうとしたのだろうが、言葉と声音がまったく合っていない。武史は思わず詩乃の顔をまじまじと見てしまった。彼女の笑顔はこわばっており、歯の根も合わないほど震えている。武史はいらいらと息を吐いた。
「ああそうかよ。勝手にしろ」
言い捨てて、四本隣の電柱までのももあげ走を始めた。折り返して戻ってくると、じっとストップウオッチを構えてこちらを見つめている詩乃の姿が嫌でも目についた。詩乃の前にたどり着くたびに、律儀にラップタイムが読み上げられる。久しぶりに練習をしていて気恥ずかしさを覚えたが、武史はどこまでも無視した。
下校してからの練習にも詩乃は姿を見せた。少し遅れて帰宅してきた彼女は制服姿のまま家から出てきた。着替える余裕がなかったのだろう。武史は嫌味を言った。
「部活が忙しいんじゃなかったのかよ」
「うちは文化部だもの。文化祭が終われば大きなコンテストもしばらくないし、時間に融通が利くの」
武史はそうかとも何とも言わず、声などかけなかったかのように練習を始めた。詩乃も余計なことは言わず、敏久の家のすぐ前に立って、淡々とタイムの読み上げだけをしていた。武史の練習メニューの起点はまさにその場所なので、そこで読み上げをしている限り、練習内容を邪魔することにはならない。
翌日も、その翌日も、日曜日も、詩乃は武史の練習に付き合った。最初のうちは彼女の読み上げを無視して自分の腕時計で時間を確認していた武史だったが、そのうちばかばかしくなって彼女の声を頼りにするようになった。詩乃も寒さに慣れたのか、それとも厚着をするようになったのか、声が震えなくなった。
一週間もすると、説明を受けなくても武史の練習メニューを詩乃は把握するようになった。雨の日でさえノートを片手に、一つ一つのメニューの記録や気づいたことを几帳面にまとめた。高校生男子の五千メートル走の記録も調べた詩乃は、ある朝本番コースを走り終えて戻ってきた武史にタイムを読み上げた後、思わず明るい声を上げた。
「十四分九! すごい、もう陸上部並みの記録じゃない」
その素直な驚きに、武史はつい顔をほころばせた。だがすぐに真顔に戻って、
「どうってことはねえ。まだ目標には遠く及ばねえよ」
と言った。十四分を切ること。それが武史の目標であることを、詩乃は初めて聞いた。
「それって、インターハイでもトップクラスの記録じゃない」
「仕方ねえだろ。相手がインハイ選手なんだからよ」
「……南方くん?」
「陸上部が学校の持久走大会に出てもいいってのは、ずりい話だよな」
他の体育関係の行事、例えば球技大会などでは、バスケ部の部員はバスケットボールのメンバーになれないし、テニス部はテニスを選択することができないルールだ。持久走大会だけが例外なのは、顧問の大原が校内で権力を握っているからだろう、というのは学生たちの間でもしばしば囁かれている。
しかし詩乃は違う意見を持っているようだった。
「球技と違って、長い距離を走る練習って他の運動部もやっているから、陸上部とあんまり差がないせいかもしれないね。去年も確か、男子の三位の子はサッカー部だったし」
「ふん、上位がほとんど陸上部ってのは変わらねえだろ」
「そうだけど。でもうちの陸上部って強くて人気があるから、自分の好きな種目を選べなくて他の部に行った人も結構いるみたい。陸上部の中でも人気種目は取り合いらしいよ。持久走大会でいい成績を出せれば大原先生に目を留めてもらえるかも、って考えてる子も少なくないんだって」
それを聞いて武史の頭に浮かんだのは、出島の顔だった。選抜に選ばれなかったことが原因で武史に敵意を持つようになったのは間違いないだろう。出島も陸上部だが、ぱっとした話は聞こえてこない。持久走大会に、ただの学校行事として以上に期するものがあったのだろうか。
「ふん、何が楽しくてそんなもんに必死こいてんだか」
武史はそう口にしてみたが、武史自身もそういう彼らと大差ないかもしれなかった。笑みが自嘲に変わる。と同時に詩乃と親しく口をきいていたことに気付いて、息を整えていた体を無理やり起こした。
「まだ走るつもりなの?」
詩乃が心配そうに尋ねてきたが、武史にやめるつもりはない。人に出くわさないよう、校門から少し離れたところにずらしてあるスタート地点まで、黙って歩いていった。
その足を引きずるような歩き方に、詩乃が気づかないはずはなかった。
「ねえ、武史ちゃん、その足……」
最後まで聞かず、武史は一つ大きく深呼吸しただけで走り出した。
兆候は以前からあったが、大会まであと二週間と迫った頃、ずっと身を潜めていたものが一気に噴き出した。
朝、目を覚まして起き上がろうとした拍子に、右足のすねのあたりに金属で叩いたような痛みが走った。顔をしかめ、痛みが引くのを待つ。鋭い痛みは去っても、すね全体に重い違和感が残ったままだった。
右足ほどではないが、左足も似たような状態だった。今では寝ているときも起きているときも、常に燃えるように痛む。普段は鈍い痛みだが、足を地面に下ろすとそのたびに刺すような痛みが突き上がってきた。その状態で走ると一足ごとに血流がすねの中程に溜まったようになり、それから音を立てて逆流する。その気味の悪い感覚が、鋭い痛みと時間差を伴って襲ってくるのだった。
違和感、という言葉ではとても片付けられなくなり、さすがに不安を覚えた武史は、一度医者に診てもらうことにした。詩乃に気付かれないよう日曜の昼間を選んで、近所で見かけた整形外科の看板を頼りに、初めての医院を訪れた。
狭苦しい待合室で一時間以上待たされ、足の具合の悪さもあってすっかり不機嫌になった武史を迎えたのは、太い黒フレームの眼鏡をかけた中年の医師だった。武史の説明を聞きつつカルテにメモを走らせ、ときおり質問を挟んできた。話だけでおおよそ見当がついたようだったが、念のためにと足のレントゲンを撮った。そして写真に赤鉛筆で印をつけながら、医師は軽い口調で説明した。
「過労性骨膜炎ですね。急に運動量を増やすと起こりやすい症状です。ほら、このあたりとこのあたり……」医師は写真の、すねの骨に沿って縦に長い円を描きながら、「だいぶ広範囲に炎症が広がってしまっています。ランニングを始めたばかりということなので、足に負担がかかってしまったんでしょう。特にアスファルトの道路は足への衝撃が大きいので、こういった症状が出やすいんです」
原因などどうでもよかった。走ることが足の負担になっていることなど分かりきっている。だからといって練習をやめるつもりなどないし、本番のコースは全行程がアスファルトなのだ。避けては通れない。
「さくっと治す方法はないんですか。このままじゃ走りにくいんですが」
医師は眼鏡の奥の目を細めた。「いや、しばらく走るのはよした方がいいでしょう。今足を酷使してしまうと症状がひどくなる一方です。痛みをかばいながら走ればさらに余計な負荷がかかって、他の場所まで具合が悪くなることもあります」
「休んでなんていらんないんですよ。あと二週間でいいんです。注射でもなんでもして痛みだけでも止められないんですか」
「それは勧められませんね。冷湿布をお出しするのでそれを足に貼って、激しい運動はしばらく控えてください。そうですね、一か月以上は安静に。それからできるだけ毎日、来れる日にここに来て電熱療法を……」
武史は椅子を蹴立てて立ち上がった。背後で看護婦がひっと声を上げた。
「うるせえんだよ藪医者! 休んでる暇なんてねえって言ってんだろ。何が一か月だよ。再来週に間に合わなかったら、なんも意味がなくなっちまうんだよ!」
医師は心を動かされたふうもなく、武史を見上げて穏やかに言った。
「私が藪医者なら、走ってもいいと言うよ。今のきみの状態で、注射で痛みを紛らわせて二週間も無理を重ねるようなことを、医師として勧めるわけにはいかない」
十四分二。あえいだ息で視界が真っ白に染まった。かすれた声で詩乃にもう一度確認する。
「十四分二。久々のベスト記録だね」
間違いではないと分かったところで、安堵はない。このところタイムが遅くなる一方だったため成果としては喜べるものだが、目標の十四分に達していないことに変わりはない。それよりも、まだまだ走り続けられるという実感を得られたことの方が大きかった。藪医者め、おれを見損なうんじゃねえ。
医者には二度と行かなかったが、もらってきた湿布薬は毎晩足に貼って寝た。冬場に使うと声を上げそうになるほど冷たい湿布だが、それで翌朝には痛みがわずかでも引いているかというと、あまりそういう気はしない。気休めにもならないが、熱を持った足を冷やすのは悪いことではないだろうと思って続けていた。
しかし、練習後の足の痛みは確実にひどくなっていった。歩くだけでも骨が悲鳴を上げ、ぞろりと血液が移動する音が聞こえそうなくらい、血の巡りが悪くなっている。両足とも同じくらい痛み出したため、びっこを引くというより歩き方が重くなった。
ついに詩乃がたまりかねて言った。
「ねえ、もう止めよう。すごく痛むんでしょう? これ以上練習したら足がおかしくなっちゃうよ。大会なら来年だってあるじゃない。今無理をして何になるの」
「止めても何にもならねえよ。おまえさ、邪魔すんならほっといてくれよ。だいたい、なんでわざわざおれに付き合ってんだよ」
「なんでって」
「またじいさんに言われたからか」
詩乃の目元がさっと赤くなった。彼女が怒るところを武史は初めて見た。
「おじいちゃんは関係ないでしょ。自分で決めたの。自分がしたくてやってるの。じゃあ、じゃあなんで武史ちゃんは昔私を助けてくれたの。なんでほっとかなかったの」
武史は詰まった。
「そりゃ……その、おまえよく泣かされてたし、かわいそうだと思って……」
「私が頼んだわけじゃないでしょう? 助けてって言ったからじゃないでしょう? 頼めないよ。武史ちゃん喧嘩弱いんだもの」しゃくりあげそうになるのを呑み込んだ。「なんで練習に付き合ってるかって、私があの頃つらかったからよ。武史ちゃんが今つらそうだからよ。昔は私に余裕がなくて、今は武史ちゃんに余裕がないからよ。他にどんな理由が要るの。どんな理由が必要なのか教えてよ」
詩乃の勢いに、武史は思わず一歩後ずさった。上気した小さな顔には幼馴染の面影はあるが、まるで別人のように武史の目に映った。まっすぐな言葉は胸に刺さり、そのために激しく動揺した。
「いや、ない。理由はいらない」
そう。自分だって、やりたいと思ったことをやっているだけだ。行動するのにいちいち理由など要らない。
しかしだからこそ、ばかげていても譲れないこともある。
「でも、おれは大会に出る。足がイカれても走る。おまえが止めるっていうなら、おまえの助けはいらない」
詩乃は口を堅く結び、怒った目で武史をまっすぐ見上げていた。長いことそうしていたが、やがて口を引き結んだまま小さくこくりとうなずいた。
「いい。分かった。もう止めない。だから、最後まで勝手に付き合わせてもらうから」
武史は小さくうなずき返した。息を一つ吸って、コースの彼方に目を向けた。詩乃はそれに合わせるようにストップウォッチを構えた。「ゴー」の合図とともに、武史はだっと走り出した。
すぐに激しい痛みが襲ってきた。しかし詩乃と話している間は痛みを忘れていられたことに、武史は気づいた。集中すれば、乗り切れる。そう思った。
大会まで残り五日。目標まで、あと二秒。
南方はしかし、まだその先にいる。
――練習と本番じゃあ力の出方にも違いが出る――
祖父の声が耳に蘇る。
「やってみなきゃ分かんないってことだろ、ジジイ」
武史は口に出して応えた。