その足の翼は (七)


 朝。
 ほとんど一睡もしなかった武史は、窓の向こうの空がかすかに白んだ頃に布団から体を起こした。身を切るような寒さの中、何も考えずにジャージに着替え、外に出る。いつもどおりのストレッチを済ませ、腕時計をストップウォッチモードに切り替えると、武史は走り出した。
 人気のない町の中を、リズミカルに呼吸しながら駆け抜けていく。吸う、吸う、吐く、吐く。真っ白な息がそのたび口から洩れる。頬を切り裂きそうに冷え切った空気は、徐々に頭を締め付け、きりきりと頭痛がし始める。足が踏むアスファルトは氷のように硬い。
 そうやって周囲の感覚に思考を麻痺させていられたのは、最初の数分だけだった。
 呼吸の仕方、腕の振り方、足の運び方。すべて祖父に教え込まれたものだ。走ってさえいれば余計なことを考えずに済む、というのは大きな間違いだった。白い寒気に包み込まれた街並みはたびたび意識から逸れ、祖父のしかめ面が目の前をよぎり、威勢のいい啖呵が耳にはっきりと聞こえた。目の前に河原道が開けたときには、いつの間にここまで来たのだろうと驚いて時計を確かめたほどだった。
 集中しろ。集中しろ。吸う、吸う、吐く、吐く。
 しかし思考はすぐに乱れた。この道を、祖父は散歩のコースだと言っていたが、最後に歩いたのはいったいどれほど前のことだったのだろう。そのルートはあまりにも平坦だった。祖父はそれでも、歩ききることが困難になっていた。
 集中しろ、集中しろ。
 武史の足が止まった。練習中に立ち止まるのは、祖父との練習を開始して以来、初めてのことだった。ひざに手を当て、息をあえがせる。耳元で血の流れる音がひどく大きく響く。
 何してんだおれは、という思いが唐突に湧き上がった。ひどくばかばかしくなってきた。吐き気がこみあげ、えずきそうになるのをあわてて飲み込む。こんなクソ寒い日に、日の出る前から起き出して、なにこんなとこまでわざわざ走ってきてるんだおれは。
 正面から低い角度で朝日が照らしてきた。目を細め、首を振りながら日に背を向けた。急速に汗が冷える。こんなところにいても仕方がない。早く帰って暖まらないと、風邪でも引いたりしたらあほらしくて目も当てられない――
 ――ああ、とっととやめちまえ。おまえみたいな根性なしに続けられるものかよ。
 不意に祖父の声がはっきりと聞こえて、思わず「うるせえジジイ」と言い返した。はっとして見回しても誰もいない。しかし敏久の姿はなくとも、その言葉を向けられたときの感情は胸によみがえっていた。怒り。そして悔しさ。
 でもよ、と否定的な自分の声がする。もうジジイはいねえんだ。この先どうすればいいか、どうしたらもっと速くなれるか、そんなことはもう分からねえんだ。じゃあどうすればいい。南方を頼って、陸上部にでも入るか? 論外だ。南方と一緒の練習をしている限り、大会までの一か月足らずで、あいつより速くなれるはずがない。
 迷いにかぶせるように、やはり以前聞いた祖父の声が耳に蘇ってきた。
 ――いまどきのガキが朝から晩まで走って走って、走りまくるような根性なんざあるわけがねえ――
 何かがすとんと、腑に落ちた。
(そうか、根性、だな?)
 武史の目がぎらついた。こぶしを握り締め、地面をにらみつける。
(そうかよ、走りゃいいんだな? 走りまくればいい、そうなんだな?)
 武史はきびすを返し、太陽に顔を向けた。そして、再び全力で走り出した。

 朝晩の練習量を三倍に増やした。
 放課後はわき目も振らずに帰り、祖父の設定したコースを五周した。朝は始発に乗って学校に行き、人通りもまばらな大会本番のコースを三周した。大会まですでに一か月を切っている。体にコースの全行程を覚え込ませ、目をつぶっても走れるくらいに慣れておきたかった。
 選抜練習会に参加しない以上、本番コースを走っているところを誰かに見とがめられたくなかった。陸上部の南方や大原がこのことを知れば、再び勧誘にやってくるだろう。しかし彼らは敵なのだ。どうしても、最後まで敵というポジションにいてもらわなければならない。
 今度目標を見失ったら、二度と奮起できない。それを恐れた。
 雨の日も、霜の下りるひどく寒い朝も、武史はひたすらに走った。走って走って走った。朝の授業が始まる頃にはすっかり疲れ切っており、周囲の目も気にせず机に突っ伏して眠った。教師たちは眉をひそめたが、何度注意しても効果がないと分かると肩をすくめ、授業を進めることを優先した。クラスメートたちは休み時間になっても眠り続ける武史をからかっていたが、まったく反応がないのですぐに飽きてしまい、ときどき様子を伺ってはひそひそと揶揄する程度になった。彼らにとって武史は、急におおっぴらに授業をボイコットするようになった、あまり関わり合いになりたくない生徒でしかなくなった。
 しかし一人だけ、武史が何をしているのか気づいている生徒がいた。
「武史ちゃん」
 詩乃が再び屋上を訪ねたとき、武史はいつもの日の当たる場所に横になっていた。詩乃が声をかけてもぴくりとも動かない。
「武史ちゃん? 具合が悪いの?」
 詩乃がこわごわ近づいて聞くと、武史は詩乃に顔も向けずに物憂げに言った。
「何の用だよ。もうここには来るな。話があるなら家でしろって言ったはずだぞ」
「うん、だから本当は、家にいるときに話したかったんだけど。でも朝も夜も、武史ちゃんずっと家にいないみたいだから」
「そんなわけ……」ねえだろ、と言いかけて武史は口をつぐんだ。早朝に家を出て、夜すっかり暗くなるまで帰らなければ、家にいるうちに話をしろというのも無理がある。「まあいいや。なんだよ」
「最近、授業中ずっと寝ちゃってるでしょ」
「眠けりゃ寝るだろ」
「でも先生たちがすごく――」
「いいじゃねえかそんなことは」
 面倒そうに言われて詩乃はためらったが、意を決して言った。「武史ちゃん、持久走大会のために練習してるんでしょ?」
 武史は目を閉じた。眉根にしわを寄せて返事をしなかったが、詩乃は構わず続けた。
「最初はうちのおじいちゃんに聞いたの。武史ちゃんが走る練習をしてるって。少し前にね。そのときはでも……そんなに気にならなかったの。でもおとといの夜、遅い時間に商店街まで買い物に行ったとき、走ってる武史ちゃんを初めて見て」詩乃の声が震えた。「ねえ、武史ちゃん、無理しすぎてるんじゃない? あんな……あんな走り方してたら、体がおかしくなっちゃうよ」
「あんなとはなんだよ。別に無理なんてしてねえよ」
「無理してるよ。おじいちゃんだってそう言ってた」詩乃は語気を強め、なかば叱るように言った。「ねえ、どうしてそこまでするの? 武史ちゃん、こないだの選抜練習会でずるなんてしなかったんでしょう? それでもすごく速かったんでしょう? それはずっと、おじいさんと練習してきたからでしょう? もう十分だよ。これ以上無理することないよ。一位になるってみんなの前で言ったことを気にしてるの? ほんとにやろうとすることないよ。無理してまでやることじゃないよ」
「別にそんなこと、気にしちゃいねえよ」疲れたように笑った。「今まで忘れてたくらいだ」
「じゃあなんで……」詩乃はうつむき、うかがうようにそっと訊いた。「おじいさんのため?」
 武史は笑うのをやめた。寝入ってしまったようにしばらく身じろぎもしなかったが、やがてぼそりと言った。「なんでだろうな」
「え?」
「なあ詩乃。おれは口だけの人間か?」
 唐突に訊かれて、詩乃は絶句した。
「そんな……そんなことはないよ」
「いや、悪い。訊いたおれが悪かった」自嘲気味な笑い。体を丸め、小さなため息をつく。「いいよ。自分が一番よく分かってる。でかい口ほどのことは何一つしたことねえんだ」
「誰かに、そう言われたの?」
「変に気を回すんじゃねえよ。もし言われたんだとしても、それを気に病んだり落ち込んだりするほどやわじゃねえよ」乾いた声で笑い、独り言のようにつぶやいた。「でも一度くらい、見直させたかったんだ。たぶんな」
 詩乃が言葉を詰まらせるのが分かった。武史は話しすぎたと思い、またぶっきらぼうになった。
「もう行けよ。誰かに見つかると面倒だぞ」
 その言葉に、詩乃は静かに答えた。「武史ちゃんこそ、変に気を回さなくていいよ。昔みたいに守ってもらわなくたって、私は大丈夫。だから、つらかったら頼ってよ。武史ちゃんが口ばっかりなんかじゃないって、私は知ってるから――」
「いいから行けよ」
 立ち去る足音はしなかったが、しばらくして扉がきしむ音がして、詩乃が去ったことを伝えてきた。武史はそちらを振り返ることもせず、フェンスの向こうに広がる青空を、ただじっと眺め続けていた。

 もう一人、武史に声をかけてきた者がいた。
「本郷、ちょっといいか」
 放課後の廊下は賑やかだったが、静かなその声は騒音を縫ってはっきりと耳に届いた。武史が振り返ると、担任の柏葉が立っていた。とっさに答えた。
「練習会なら出るつもりないっすよ」
「そうじゃない。訊きたいことがあるんだ」
 柏葉は場所を移動しようというそぶりを見せて体の向きを変えかけたが、武史がまったくついてこようとしないのでけげんそうな顔をした。
「何か用事でもあるのか」
「ええ、ちょっと」
「すぐ済む。ここは話をするにはうるさいからな」
 やむなく武史がついていくと、柏葉は生徒たちの波に逆らって廊下を戻っていき、職員室の手前の部屋へと武史を導いた。進路相談室、の札のかかったその部屋は狭いが外の音があまり入ってこず、古ぼけてはいるが来客用のソファとテーブルがあった。柏葉は奥の席に座り、向かいのソファに座るよう手でうながした。武史がしぶしぶ腰を下ろすのを待って、柏葉は少し身を乗り出して話を始めた。
「忙しいようだから前置き抜きに訊くぞ。おまえ、近頃授業中に居眠りしていることが多いそうだが、どこか具合でも悪いのか?」
 別に、と武史は答えたが、つい柏葉の視線を避けてテーブルの隅のあたりに目をやっていた。
「そうか。……何人かの先生方から心配の声を頂いている。おまえの授業態度は以前からよいとは言い難いが、おおっぴらに居眠りするようなことはなかったようだし、どの科目の成績も悪くはない。それがここ最近は起きていることのほうが少ないそうだな。話を聞く限りでは、ほとんど熟睡しているようだ」
「……」
「それにしては、体育の授業は真面目に受けている。真面目すぎるくらいだ」柏葉は腕を組み、背もたれに体を預けた。「おまえが四キロコースの途中で、別の道に折れて行くのを見たという者がいる。ゴール近くで別の道から現れたという話もある。それが本当だとして、普通に考えれば、楽をするために近道をしたと考えるのが自然だ。だが学校まで戻ってきたおまえはそれにしては疲れすぎているし、息の上がり方や汗のかき方を見ても演技とはとても思えない」
 目を合わせようとしない武史に、柏葉はまっすぐ訊いた。
「おまえ、五キロコースを走っているんじゃないか? 選抜用のコースを」
 武史は答えなかったが、それが答えになっていた。柏葉はうなるような溜息をついた。
「おれはな本郷、おまえが何か一つ、心から打ち込めるものを見つけられればいいと思っていたんだ。今のおまえにはそういうものが必要だ。もしおまえが走ることに興味を持ったのなら、それはいいことだ……だが物事には限度というものがある。体を壊すほどに入れ込んでしまっては、かえっておまえのためにならない」
「おれは体なんて壊してないっすよ」
「体育の時間ばかりじゃないだろう。もしそうなら、体育の授業のある日だけ居眠りしているはずだが、実際はそうじゃない。家でも遅くまで走り込みをしているんじゃないか?」
 初めて武史は目を吊り上げて柏葉をにらみつけた。だからなんだ、余計なお世話だ――そう言いたいのをかろうじてこらえた。そんなことしてないっすよ、と答えたものの、いかにもとってつけたように響いた。
 柏葉の表情に悲痛なものが混じった。
「ただでさえ、身内に不幸があったばかりだろう。そういうことは、自分で思っている以上にこたえるものなんだ」
 武史はいらいらと視線をさまよわせたが、何を言っても哀れっぽく聞こえてしまいそうで、返す言葉を思いつかなかった。やり場のない苛立ちを抱えたまま、武史は席を立った。そのまま無言で部屋を出ていこうとした。乱暴に扉を開ける。
「本郷!」柏葉の声が背を叩いた。「少し体を休めろ。休めてやれ」
 一瞬、武史は足を止めた。しかし、留まって話すことは何もない。後ろ手に扉を静かに閉めて、武史はその場を去った。