赤ふんスイマーズ (三)


 翌朝の練習前、ほぼ全部員が集まったプールサイドでまず孝和が目を留めたのは、仁科の姿だった。彼の水着は前日までのものとは違っていた。
「おまえ、水着替えたの?」
 仁科は黒一色のスパッツタイプの水着を履いた腰を、試着室の中ででもするように左右にひねってみせた。
「ネットで注文しといたのが昨日届いたんすよ」
 新型水着だろうとは孝和も一見して見当をつけていたが、仁科の得意そうな表情からほぼ確信した。今日は彼にとってお披露目の日なのだ。おそらくOB会にも欠席したりせず、より多くの人間に見てもらおうとするだろう。新型水着のお披露目の場としては、塾は明らかに向いていない。
「かっこいいねー」石田が平板な声で言った。
「んなことないっすよ。早くタイム計ってみたいっすね」仁科は嫌味に気づかず浮かれている。
「今日は記録会はやんないよ。メニューの中で自分でタイム見てみな」孝和はそっけなく言った。プールサイドにある大きなタイマーでは、秒以下の細かいタイムは計れない。そして水着の違いで記録が伸びるとしても、自由形の短距離では秒以下の差にしかならない。いずれ自分で気づくだろう、と孝和は放っておくことにした。人にいくら口すっぱく言われたって、分からないものは分からないものだ。
 前日に続く猛暑の中、水泳部員たちは前日と同じ練習メニューをこなした。困ったのは練習が終わってからだった。どういう形でOB会が始まるのか分からない孝和は、部員たちに早めに昼食をとるように言い、行きがけにコンビニで買ってきた弁当に手をつけたが、あっという間に食べ終えてしまった。時間を持て余してしまい、二年生は待機、一年生にはプール掃除の指示を出したものの、少しずつだれた空気になってしまうのはどうしようもなかった。
 孝和は来客用にと、天幕の下に長テーブルとパイプ椅子を五つ用意し、プールを見渡す向きに椅子に掛けてぼんやり頬杖をついていた。一年生監督のポジション、という名目だったが、他に居場所がないというのが正直なところだった。
 この日はなぜか朝から祐天寺と小田の三年生コンビが部室に入り浸っていて、「特等席」に寝転がりながら、ピリピリと不穏な空気を漂わせていたのだ。孝和は不思議に思った。OB会があると分かっているこの日に、会を快く思っていないらしい祐天寺がなぜ来ているのだろう。しかし面と向かって理由を訊ねるのはためらわれた。余計な問題を起こさないでくれればいい、と祈るほかなかった。
 そんなわけで孝和は部室を避け、石田、大庭とともに並んで椅子に腰掛けていた。二人ともすでに暑さに対抗する気力もなく、机に突っ伏して半分寝かかっていた。孝和も睡魔に襲われていたが、どうにか気力で持ちこたえていた。天幕によって直射日光こそ遮られているもの、湿気が運んでくる熱気は防ぎようがない。
 天幕の外に目を移すと、強すぎる日差しに照らされて世界は色彩を奪われ、ほこりっぽく、どこか安っぽく見えた。ほとんど波の立っていないプールの滑らかな水面は、強烈な陽光をきらきらと反射している。プールサイドに敷き詰められた防滑シートは日に焼けたのかもともとなのか色褪せたような赤色で、熱はあまり防いでくれないそのシートの上を、一年生たちがサンダル履きで歩き回っている。先に網のついた棒を持ってプールサイドを巡り、水面に浮いたゴミや落ち葉、アメンボなどをすくってはプールサイドを囲むフェンスの向こうへ投げ飛ばしているのだ。同じ用具を手に水に潜り、底のゴミを取っている者もいる。ときおり私語を挟みながらも、彼らはきちんと掃除をこなしているようだ。
 女子部員たちの明るい笑い声が弾けた。それを聞きつけたのか、大庭がむくりと顔を上げた。
「石田よう、一つ聞いていいか?」
「一つだけな」
「おまえって結局、清水と付き合ってんの?」
「やっぱおまえ、最近暑さでだいぶイカれてんだろ。なんで今そんなこと聞くんだよ」
「暇だから」
 この手の質問が出るたび石田がはぐらかしてきたのを、孝和は知っている。幼馴染の腐れ縁、といういつもの答えが出てくるだろうと思っていると、石田は妙なことを言い出した。
「おまえら、セームって臭いもんだと思ってるだろ」
 孝和が目を向けると、石田は顔をプールに向けたまま、口元に奇妙な笑みを浮かべている。
 話を逸らされようと、面白そうな話になら大庭はいつでも食いつく。
「なんだよ、セームがどうかしたのかよ」
「おまえのもどうせ、雑巾くせえだろ」
「くせえ。雑巾てより足の裏みてえな臭いだな。それがどうしたよ」
 石田はどこか得意そうに間をおいた。「由香のはな、甘い香りがするんだぜ」
 大庭は何かをリアルに想像しているようだった。
「まじかよ……なんだよそれ。くっそーいいなあ」
「由香だけじゃないかもしれないけどな。女子はそういうの気にするだろ」
「そうだなあ。何人か嗅がせてもらわないと分かんねえよな」
 と、そこへ噂の主である清水が、水着姿に麦藁帽子をかぶって横手のプール入り口から入ってきた。紺色をベースにしたハイレッグタイプの競泳水着は、肩のあたりに赤と黄のグラデーションライン、胸元にメーカーのロゴが入っているだけのシンプルなデザインだが、彼女のスタイルのよさと麦藁帽子との組み合わせが彼女を可憐に見せていた。肩より少し長い髪は無造作に結わえられてうなじのあたりで揺れている。サンダル代わりにつっかけている上履きからは、細くすんなりした足首がのぞいている。
「よう清水」
 大庭が声をかけると、清水は立ち止まって横目で大庭を見下ろした。
「何よ」
「おまえのセームの匂い、かがしてくんねえ?」
「あんた、変態でしょ」
「否定するつもりはねえよ」
 清水が頭を振って立ち去りかけたところへ、今度は石田が声をかけた。
「由香、その帽子どうしたんだ? 最近買ったのか?」
 清水は再び立ち止まったが、今度は体ごと石田の方を向いた。
「これ? さっき用具入れの片付けをしてたら奥から出てきたのよ。ほら、結構かわいいっしょ」
 両手でつばをちょっと持ち上げてみせる。帽子を透かした光が、彼女の顔と水着の上に小さな水玉模様を描いた。孝和の目はちらちら動く光の動きにつられて少しずつ下に下りていった。胸のあたりにゆるやかな模様の境界が作られ、その下は影となっていて、ふくらみの存在を主張している。そのまま谷間のあたりに視線をさまよわせていた孝和は、清水の声にびくりとした。
「ブチョー、一ついいこと教えてあげよっか」
 清水と目が合った。彼女は真顔だった。
「……何?」
「女ってね、男が胸を見てるとすぐ分かるんだよ」
「え、いや……」
「もっと見るべきもんがあるでしょ、他に」
 小声で言い置くと、くるりと身を返して女子の一群のほうへと歩いていってしまう。挨拶に続く華やいだ話し声が、孝和には当てつけのように聞こえた。
「んなこと言われたって、見るよなあ」大庭が孝和の肩をぽんと叩いた。「なんつーの、重要文化財とか人間国宝とか、なんかそういうのと一緒だろ?」
「大庭わりい、今そういう変なフォロー要らない」
 また人影がプールに入ってきた。樹里だった。水着の上にジャージの上着を羽織っている。孝和を見つけるとまっすぐやってきた。
「先輩、日誌、つけ終わりました」
「ん、そう。お疲れ」
「あいかわらず仕事遅いなおまえ」石田が横から口を出した。
「さっきまで清水先輩と用具入れの片付けしてたんだよ」むっとして兄に口答えしてから、改まって孝和に向き直る。「あの、先輩」
「ん?」
「私の背泳ぎのフォーム、見て頂けないでしょうか。お時間のあるときでいいんですけど」
「なんでおれが? バックなら清水に見てもらえばいいじゃん」
 樹里の目がかすかに泳いだ。「さっき頼んだんですけど、岩国先輩のほうがちゃんと勉強してるから、先輩に見てもらったほうが参考になるよ、って」
「勉強ってほどのもんはしてないんだけど」孝和は首を傾げた。雑誌やインターネットで、専門以外の種目の泳ぎ方をざっと調べたことがあるにはある。だが水泳未経験者に教えるような基礎的なことならともかく、経験者である樹里のためになりそうな上達法までは抑えていない。そういう話を清水にした覚えもなかった。しかし上達したいという後輩の力になってやりたい気持ちはある。
「由香は面倒見のいいほうだと思ってたけどなあ」石田が不審そうにつぶやく。
「まあいいじゃん教えてやれば」と大庭。「バック専門の二年女子って清水しかいないんだし。その清水が育児放棄してんだから……あ、部長が断るならおれが教えてもいいぜ」
「大庭先輩、バック苦手じゃないですか」
「実はな、おれはこの夏究極の進化を……」
 孝和はさっさと遮った。「分かった。いいよ、でも見るだけしかできないと思うけど。おれより大久保のほうがちゃんとしたアドバイスができそうだけど、同じ学年てのも聞きにくいんだろうし」
「はい、大久保くんは自分の練習で忙しそうだし……いえ先輩が忙しくなさそうとか、そういうことじゃなくて」
「うんうん、いいから」
「ありがとうございます。助かります」
 樹里はぺこりと頭を下げたが、顔を上げてからも所在なさげに孝和の様子を窺っていた。
「ああ……次の仕事か」孝和は気づいて少し考えた。「外の机のとこで、来客がないか見張っててくれない? ひょっとしたらOBたち、職員室じゃなくて、直接こっちに来るかもしれない」
「分かりました」
 樹里は軽く一礼して去っていった。大庭がその後姿を見送りながら言った。
「石田妹って、真面目だよなあ。かわいいし。顔も性格も兄貴に似てない」
「余計なお世話だ。それにあいつ普段はもっととろとろしてるぜ。部活が好きなだけじゃねえの」
「部活じゃなくて、部長に惚れてたりしてな」
「それはないだろ」と孝和と石田が揃って口にし、思わず顔を見合わせたところへまた樹里がやってきた。
「どした? 今度は告白しに来たか?」
 大庭の軽口に樹里はさっと顔を赤らめたが、それがどういう類の動揺なのか孝和には分からなかった。しかし孝和に向けられた声はしっかりしていた。「先輩、OBの方たちがいらっしゃいました」
「え、ほんとに来たの?」孝和はフェンス越しに部室棟の壁にかかっている時計を見た。一時五分だった。石田を振り返る。「どうすりゃいいんだ。茶くらい出すべきかな」
「だなあ。おれと由香で学食見てくるわ。麦茶くらいあるだろ」
「あとは阿久津も呼ばなきゃだよな……石田妹、職員室まで呼びに行ってくれる?」
「分かりました」樹里はすぐに飛び出していった。
 孝和は一年生に掃除をやめて集合するよう指示を出し、石田は清水に声をかけた。孝和と石田、清水の三人に、好奇心からか大庭がついてきて客を迎えに出た。大昔に使われなくなった腰洗い槽をひょいとまたぎ越し、石段を下りて部室棟へと向かう。部室でくつろいでいるであろう二年生たちに声をかけていくつもりだったが、それより先に客の姿が見えた。
 さっきまで樹里がそこで日誌を書いていたであろうあの机のまわりに、五人の私服の人影があった。日誌を手に取って表紙を眺めているのは、七十歳くらいの小柄な老人である。頭がすっかり禿げ上がり、眉と、耳の上にわずかに生えた毛は雪のように真っ白だ。他には四十台くらいの男が三人と、それよりいくぶん若い女性が一人。なにやら打ち解けて楽しそうに話をしている。みなリュックや大きめのバッグを持っており、男たちは釣りで使うようなクーラーボックスを肩から提げている。
 男性陣に関しては見覚えのない顔ばかりだが、派手に化粧した女性の横顔だけは孝和には見覚えがあった。が、それについて考える暇もなく、孝和のすぐ後ろについてきていた清水がすっとんきょうな声を上げた。
「母さん! ちょっと、なんでこんなとこにいるのよ」
 大人たちが揃って孝和たちに目を向けた。みな温和そうな、人のよさそうな顔立ちである。その中でもっとも若作りをしている女性が――実際に彼らの中ではもっとも若いのだろうが――にかっと笑って清水に手を振った。
「あら由香。その帽子、似合ってるじゃない。どこにあったの?」
「用具入れにあったの。……ってそうじゃなくて。どうして母さんがここにいるのかって聞いてるのよ」
「だって今日はOB会でしょう? 私もここの卒業生だって、言ったことなかった?」
「そりゃ知ってるけど……今日来るなんて一言も言ってなかったじゃない」
「サプライズよお。そのほうが楽しいでしょう?」
「驚いたけど楽しくない。娘がいるって分かってんのになんでわざわざ来るわけ? 信じらんない」
「娘がいるから来るんじゃないの。それになんにもない日にふらっと来て、娘の泳ぎをこっそり見るほうが恥ずかしいわ」
「いつだろうと見に来なくたっていいっての」
「そんなこと言わないの。私の帽子だってちゃっかり使ってるくせに」
「これ母さんのだったの? ああもう最悪」
 清水母子の応酬などどこ吹く風、という落ち着きぶりで、老人が孝和にのっそり近づいてきた。外見とは裏腹に足取りがしっかりしている。背中には小さなリュックを背負っている。
「きみが、部長さんかい?」
 やや甲高い、はっきりした声だった。孝和の胸くらいの背丈しかないため、自然と見上げる格好になっている。孝和はうなずいてすぐに返事をしたが、あまり年配の人と話し慣れていないために、変な具合に声が上ずってしまった。
「部長の、岩国孝和です」
「そうか、そうか。やっぱりきみが第五十五代目の部長さんか」そうか、そうかと老人は自分の言葉の余韻に引きずられるように何度かうなずいた。「すまんね、私が電車の乗り継ぎに間に合わなかったせいで、約束の時間に五分ほど遅れてしまった」
「約束の時間? 今日は一時に来る予定だったんですか?」
「阿久津先生から聞いていなかったのかい? 一週間ほど前に連絡しておいたはずだが」老人は小首を傾げたが、すぐにそんな些細なことなど忘れてしまったという顔をした。それから柔和な目を細め、にこやかに言った。
「きみとははじめまして、だね。私は川里高校水泳部、初代部長、枝島忠二です。今日は一つ、よろしく」