ホーム > 小説 > 赤ふんスイマーズ > (六) |
伊井が一人で五コースを泳いでいる。
リレーに出るメンバーはすでに水から上がり、各自セームで体の水を拭き取っていた。現役チームはともかく、OBチームまで全員セームを持っていることに孝和は少し驚いた。セームがいつ頃から使われ始めたかは分からないが、伊井や、ましてや枝島の現役時代から存在していたとは思えない。まさか今日のために買ってきたとも思えないから、やはり全員、現役引退後もいくらかは水泳を続けているのだろう。
伊井はさっきからノンストップで泳ぎ続けている。長距離が専門だと言っていたが、なるほど遠泳に向きそうな泳ぎ方だった。もう八往復はしているだろうが、まったくスピードが落ちる気配がない。淡々と向こう端まで泳ぎきり、そこでくるりとフリップターンをして、また淡々とこちらに戻ってくる。ついには枝島老人がスタート台のわきに屈み込んで呼び止めた。ちょうど大きな水しぶきを上げてターンをしたところだったが、五メートルラインを過ぎたあたりでふわりと頭が浮いてきた。
「いつまで泳いでいる。レースを始められないじゃないか」
伊井は叱られた子供のような顔をして水から上がってきた。考えてみれば二人も親子ほどに歳が違うのだ。三世代の人間たちがこうして揃って泳ごうとしていることに、孝和は不思議なものを感じた。
「すいません、長水路で泳げる機会がなかなかないもので、つい楽しくなってしまって」
公式の大会には長水路、つまり五十メートルプールが使われるのが普通だが、一般人が気軽に利用できる長水路の施設はなかなかない。私立の水泳強豪校なら大会向けに設備を整えているかもしれないが、公立の高校では珍しい。孝和はふと興味を持った。
「あの、ここのプールっていつ頃から長水路になったんですか?」
枝島に訊ねると、彼は孝和を見上げてあっけらかんと答えた。
「私の代からだよ」
「創部当時から? よく学校がOKしてくれましたね」
「少し策を練ってね。既成事実にしてしまおうと、学校と交渉する前に掘っておいたんだ」
「掘った? 何をですか?」
「何って、これをだよ」
枝島は平然とプールを指さした。
「……プールを? 手で、ですか?」
「まさか。シャベルを使ったよ」
孝和が反応に困って口をつぐんでしまったため、話はそれきりになった。おそらく冗談だとは思うものの、事実ではないとも言いきれない。枝島の現役時代といったら半世紀も前のことだ。孝和のあやふやなイメージの中では、戦闘機が轟音を立てて高い空を通過していく下で、赤ふん一丁の青年たちが汗水流して、五十メートル八コース分の土を掘っていてもおかしくなかった。プールサイドを覆う防滑シートの中途半端な新しさが、枝島の武勇伝の真偽のほどを曖昧にぼかしている。
現役チームは四コース、OBたちは五コースで泳ぐことが決まり、各メンバーはそれぞれのスタート台付近に集まった。スターターと計時担当が二人必要だった。孝和は顔ぶれをざっと見渡し、スターターに清水を、OBチームの計時担当に仁科を、現役チームの計時には樹里を指名した。その人選を耳にした大庭はにやりと笑った。
「部長、おまえもたまには面白いこと考えるじゃんよ」
「ん、何のこと?」
「仁科をあっちのチームの計時にしたの、狙ってやったんじゃねえの?」
「別に何も……」言われてようやく気がついた。最新の水着を着た仁科が、旧時代的な赤ふん軍団のためにストップウォッチを持って歩き回ることになるのだ。この意地の悪い組み合わせを意図したつもりはなかったが、今から別の人間を割り当てようという気にはならなかった。何より仁科本人がこの皮肉に気づいておらず、むしろ役目を与えられて得意になっている。
ストップウォッチを手にした仁科に、前屈運動をしていた清水母が「五十メートルずつのラップも取るのよね」と確認しているのを聞いて、孝和はスタート台のすぐ後ろでうつむいて集中し、出番を待っている大久保に声をかけた。
「大久保、あっちはやる気みたいだ。任せたぞ」
背中をこつんと叩く。大久保は振り向いてゴーグル越しにはにかむような笑みを見せた。
「はい。ベスト出すつもりでいきます」
彼はいつでも落ち着いている。見習わないとなあ、と孝和が感心していると、清水母がちょこちょこっと近づいてきて大久保に挨拶した。
「清水の母です。いつも娘がお世話になってます。あら、かわいい子ね。あなたもしかして一年生?」
「……はい」
「すごいわねえ、一年生でリレーの代表に選ばれるなんて。私じゃ役不足だと思うけど、今日はよろしくね」
うつむき加減の大久保を下から覗き込むようにしてにこりと笑うと、軽い足取りで五コースへと戻っていく。ふと見ると、さっきまで肩の力を抜いてふらふらと振っていた大久保の腕が止まっている。孝和は首を傾げた。
「大久保……?」
「……はい?」
「緊張してない?」
「いえ……大丈夫です」
そこへ枝島が、そろそろ始めましょうか、と孝和に声をかけてきた。孝和はうなずいて、プールの端でピストルを手に立っている清水に合図をした。清水母と大久保が足からプールに飛び込む。大きなしぶきが二つ上がり、水面に白い泡が広がる。
「大久保のやつ、大丈夫かなあ」
石田が泡の向こうを見透かすようにしてつぶやいた。孝和はちらりと振り返った。
「やっぱあいつ、ちょっと変だったよな?」
「ああ。由香のおばさんのが効いちゃったな」
「何が効いたの?」
「おまえ知らねえのか。あいつ、年上の女に弱いんだ」
水に沈んでいた二人が浮かんできた。スタート台の裏側の手すりにつかまり、足を壁につけて合図を待つ。両コースに起こった波は、コースロープに速やかに吸収されていく。しん、とあたりが静まり返った。観戦の部員たちはプールの一コース側にずらりと並んでいる。スターターの清水がその反対側、八コースのスタート台に上った。
「位置について……用意」
二人の選手が背中を丸め、スタート台に頭を寄せて力をためる。
パン、というピストルの合図とともに、二人は弓なりに体を逸らせてスタートした。セイ、という掛け声が部員たちと、OBたちの口からも発せられる。
清水母と大久保の体は完全に水中に潜り、そのままドルフィンキックでぐんぐん進んでいく。バサロ泳法だ。水中では波の抵抗を受けない、という利点を活かした泳法だが、呼吸せずに泳ぐことは体力の消耗にも繋がる。そして公式ルールでは、スタートまたはターンをしてから十五メートルまでしかバサロで泳ぐことは許されていない。ドルフィンキック何回でどれくらい進めるか、背泳ぎの選手は日々の練習を通じて体で覚えている。
先に浮上したのは大久保だった。
「あいつ、やっぱりアガってるんじゃないか?」
スタート台に手をついて身を乗り出していた石田が舌打ちした。その視線の先で大久保が腕をリズムよく回して水をかき始める。プールサイドから「セイ! セイ!」と声援が飛ぶ。計時担当の二人がラップタイムを取るために、選手の泳ぎを横目で追いながらプールの両サイドを足早に歩いていく。
「少し上がるの早かったかもな。でもあれなら大丈夫だろ」
孝和は波に乗っているような大久保の泳ぎを見つめたまま言った。緊張して硬くなっているようにも見えないし、午前の練習の疲れをひきずっている様子もない。安定した泳ぎだ。多少スタートに失敗したとしても、調整できる範囲だと思った。
が、さらに一拍置いて、牡丹の花が水上にふわりと浮かび上がるとその安心感が揺らいだ。ほとんど身長差のない大久保よりも、半身ほど先を行っている。清水母は十五メートルぎりぎりまでバサロで泳いだのだ。その勢いに乗るように腕を回転させ、トーントーンとめりはりのある動きで水をかいていく。
「おいおいおい、ちょっと待てよ」大庭も前に出てきた。ひざに手を当て、目を細めてきらめく波しぶきの向こうを見定めようとする。「大久保のやつ、負けてんじゃん。てか清水のおばさん、なんであんな速えの?」
「バサロでリードしただけだ。ほら、ちょっとずつ大久保が追い上げてる」
孝和は伸び上がりながら言った。その言葉どおり、二人の選手は三十メートル付近でほぼ横並びになり、そこから少しずつだが大久保がリードを広げていった。男女の力の差、年齢差、練習量の差、そういったものが如実に表れた格好だ。が、驚くべきことはまだあった。
「おばさん、ひょっとして清水より速いんじゃねえの?」
大庭が舌を巻いた。孝和も同じことを考えていた。じりじりと差が広がっているとはいえ、県下でも上位に入る男子の大久保を相手に、互角に近い勝負を展開しているのだ。少なくとも部内には、大久保にここまで食らいつける選手はいない。
「でも分からないぜ。オーバーペースかもしれない。後半バテてくるかも」
石田がそう言ってからちらりと自分の対戦相手に目をやったのに、孝和は気づいた。OBチームの次の泳者である木内は腕を組んで仁王立ちになり、黙って清水母の泳ぎを見守っている。こわもてのその顔つきは真剣そのものだ。まるで公式大会に臨んでいるかのように神経を集中させている。ともするとそのぴりぴりとした空気に呑まれそうだ。
前半残り五メートルのフラッグを過ぎ、数回水をかいてから、大久保はくるりと身をひねって体をうつぶせにし、最後の一かきの勢いでフリップターンをした。その動きに「そーれい!」という応援の声が重なる。続いて数拍遅れて清水母もターンする。二人の体は再び水中に潜ったが、大久保は今度はだいぶ早く浮いてきた。清水母が潜伏したままでいるため、広いプールに大久保一人だけが泳いでいるように見える。孝和は不吉なものを感じた。
「大久保くん、焦っちゃってるわね」
いつの間にかそばに寄ってきていた清水がつぶやく。
「てかおまえのおばさん速すぎだろ。副業で水泳のコーチか何かやってんじゃねえの?」
大庭が呆れたような顔で聞くと、清水は腰に手を当てて大久保の泳ぎを見つめたまま、「知らないわよ」と言った。
「あたしだって母さんのことをいつも見張ってるわけじゃないもん。私が塾に行ってる間とか、店の定休日とか、何してるのかなんて知らないわよ」
「洗濯物と一緒にあのド派手な水着が干してあったりしなかったか?」
「見た覚えない」
清水母がようやく浮上した。今度も十五メートルぎりぎりだ。しかもさっきまでのリードを覆し、頭二つ分ほど大久保に先行している。
母親の泳ぎを見ながら清水は強く唇を噛んでいた。自分でそのことに気づいていないようだった。清水の目はスイマーとしての母親を見つめている。その一つ一つの動作やリズムに目を、心を奪われている。
大久保のラップを計ってきた樹里が、サンダルをパタパタいわせて駆け足で戻ってきた。「プールサイドを走るな!」という阿久津の叱責が飛んできたために小走りになったが、そのまま孝和たちの元へまっすぐやってくる。
「大久保くん、どれくらい?」
清水がちらっと目を向けて訊ねた。樹里は両手でストップウォッチを支え、確かめるような声で数字を読み上げた。
「三十三秒三二、です」
「ベストじゃないよね?」
これは孝和に向けた質問だった。
「百のラップにしても、もうちょい速かったと思う」
「それにしたって……」
言葉が途切れる。清水の目は母親の泳ぎに吸い寄せられたままだ。二度のバサロがさすがにこたえたのか、清水母のペースは前半より落ちているように見える。それでもひょっとしたら、百メートルのタイムは清水より速いかもしれない。
しかし大久保の泳ぎも精彩を欠いている。背泳ぎは仰向けになってあごを引いた姿勢になるので、視界は進行方向ではなく後方に広がる格好になる。そこに当然見えるはずの相手の姿がないことに動揺しているのだろうか。それともそういう発想は、あの物静かな大久保にはないだろうか。単純に疲れのせいだろうか。
「清水さんは、バサロがだいぶ効いてしまったようだね」
四、五コースの間に立って観戦していた枝島老人が言った。孝和が振り向くと、そのすぐそばに伊井も立っていた。
「長水路だとどうしても短水路とは感覚が違ってきます。清水さんもそれでペース配分が崩れたのでしょう」
「あるいは好敵手を見つけてのぼせてしまったのかもしれない。バックの選手は少ないからね」と枝島老人は薄く笑った。
「あの、うちの母と普段どこかで泳いでるんですか?」清水が母親の泳ぎに注意を向けたまま訊いた。
「いや」と伊井が答えた。「おれたちはみんな、仕事の合間に適当に泳いではいるけどね、きみのお母さんと一緒ではないよ。でもときどき、大会で一緒になる。OB会で何度か顔を合わせているからね、大会で会えば話もするし、互いに応援したりもする」
「大会、があるんですか?」
「県が主催しているマスターズの大会だよ。お母さんから話、聞いてないかい?」
「……あんまりそういう話、しないんで」
その会話の横で、石田がゴーグルをかけ、一つ息をついた。その息が震えている気がして、孝和は彼のそばに寄った。黒いゴーグルは石田の目線を隠しているが、近づいてくる大久保の動きを追っているのはわかった。
「カズ」
石田が低い声で呼んだ。近くにいる大庭や清水に聞こえないようにしている。
「ん」
「ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない」
そう言い残し、スタート台に上がる。両足の指を台の端にかけ、前屈気味の姿勢で腕を前方に突き出す。隣の台にも木内がひらりと身を躍らせた。彼は片足を後ろに引いた格好だ。赤ふんの激しい色が引き締まった印象を与えている。
石田の手の先が大久保の動きに合わせて下がっていく。残り五メートル。大久保の手の先を追って、石田の手が徐々にスタート台に近づいていく。大久保が壁にタッチするのと同時に、石田は台を手で押して反動をつけ、足のばねも使って前方へと飛んだ。「そーれい!」という応援が彼を後押しする。体が空中で一度弓のようにしなり、そのまま少し深めに入水する。大きく水しぶきが上がった。そのまま水中動作に移行する。
一度沈んだ大久保の頭が、隣のコースを気にしながら上がってきた。その頭に向かって樹里がタイムを読み上げようとしたとき、清水母が最後のひとかきを終えて壁にタッチした。
タンッ。
木内の体が大きく宙に舞った。細身の体がきれいな弧を描き、落下と同時にまっすぐに伸びる。そのまま水面の一点に向かって指先から滑り込む。やはり深めの入水だが、水しぶきは石田のそれよりずっと小さい。吸い込まれるように全身が水中へと消えた。
「うわ、きれい……」
清水の口から感嘆の声が漏れる。孝和も樹里も見とれてしまった。応援の部員たちも声を失った。県大会でもトップクラスの選手にしかできないような、見事な飛び込みだった。
平泳ぎの水中動作は、スタートまたはターン後に水中でひとかき、ひと蹴り、そして一回のドルフィンキックまでが認められている。水面下に潜り込んだ二人は当然のようにそれを実行し、飛び込みで得た勢いをできる限り活かそうとする。バサロのときと同様、一瞬の静けさがプールを覆う。
ぷかりと石田の頭が上がった。腕で前方の水をかきこみ、大きく足を広げてキックし、体を伸ばす。少し速いピッチで手と足を交互に動かして進んでいく。その後ろに波が扇状に広がっていく。
木内はまだ上がってこない。
「大久保くん、一分十0秒四九、ラップ三十三秒三二」
樹里が早口にストップウォッチの数字を読み上げ、すぐにプールの向こう側へと歩きだした。五コース担当の仁科も遅れまいとタイムを読み上げる。
「OBチームバック、一分十五秒一五、ラップ三十五秒九一です」
清水のほほが強張った。孝和の記憶では、清水のベストタイムは母親が出したタイムより速い。だがその差は二秒くらいだ。年齢差を思えば素直に受け入れられる差ではない。
しかし清水はそのまま固まってはいなかった。ぐっと視線を母親から、遠ざかっていく石田へと向ける。そのまなざしが石田の力になると信じているかのように、一心に見つめる。
ゆらり、と五コースの水面が盛り上がった。木内の体がうねり、腕のひとかきとともに前方へと大きく伸びる。キックの足幅は石田より狭く、ピッチはやや遅いくらいだが、前に進む力が明らかに強い。
「速え……」
大庭があんぐりと口を開けた。孝和も目を見張った。専門外の孝和にもはっきり分かるほど、木内の泳ぎは石田のそれとは明らかにレベルが違った。水の上に浮いているかのような軽やかな泳ぎ。それはどんな種目であっても「速い人」に共通するものだった。石田や孝和からすれば、次元の違う世界の泳ぎだ。
大久保と清水母がほぼ同時にプールから上がってきた。「やっぱり長水路だと感覚をつかみづらいわねえ」と清水母が息を弾ませながらも、笑顔で伊井たちに感想を漏らした。
それとは対照的に、大久保は孝和のそばで「すいません、十秒も切れなくて」と頭を下げてきた。その様子には記録に対する以上の悔しさがにじんでいた。普段自分としか競っていないような彼でも、競う相手がいれば思うところがあるのだろう。孝和は「気にすんな。練習の後なんだから」と荒く上下している肩を軽く叩いた。
石田の泳ぎを見つめ続ける清水は、そうしたやりとりを気にも留めていない。
「あのバカ、思いっきり緊張してるわね」
清水がいらいらと唇を噛んだ。
「そう、見える?」
「分かんない? ガッチガチじゃない。ただでさえたいして速くないのに、あんなにピッチ上げちゃって、ぜんぜん伸びてないじゃない」
そう言われて、孝和はもう一度石田の泳ぎに目を凝らした。練習のときよりピッチが速いのは見れば分かる。しかしその泳ぎ方は大会や部内の記録会でのものとあまり変わらないように思える。
平泳ぎは見た目とは裏腹に、四泳法のうちでもっとも高い技術を要求される泳ぎ方だ。クロールなら、多少フォームが悪くても腕の回転数とバタ足のピッチを上げればそれなりに速度が出る。県大会レベルであれば上位の者の中にも、力ずくで泳いでいるような選手がときおりいる。しかし平泳ぎはそうはいかない。上体を上げる動作が波の影響を大きく受けるため、キックのあとで体をまっすぐにし、キックで得た推進力を殺さないよう「伸び」ることが必要になる。手のかき始めが早すぎると、せっかくキックで得た力をかえって削いでしまうのだ。
「でも大会のときって、あいついつもああいう泳ぎ方してない?」
孝和が訊くと、清水は辛抱強くうなずいた。
「そうよ、いつもそう。あんなふうに張り切ってるけどスピードは出てないの。だから記録が伸びないし、距離が長くなるほど後半バテちゃうのよ。注意したって聞きやしない。体で覚えることだから言われても分かんないのよ」
プールサイドの声援に動揺が混じった。がむしゃらに手足を動かす石田の横を、悠然とした泳ぎで木内がどんどん追い上げていく。背泳ぎで大久保が稼いだ差がみるみる縮まっていく。
「あいつ余裕ぶってるときに限ってほんとは余裕ないのよ。ほんっと、本番に弱いんだから」
片道五十メートルを終えたところで、ちょうど石田と木内が横一線に並んだ。壁へのタッチと同時に体の向きを変え、それに合わせて腕が宙に弧を描く。水中動作でも石田の分が悪いことは、スタートのときに証明済みだ。浮き上がりは石田がワンテンポ速かったが、距離では木内が半身近くリードしていた。
「木内くんはあいかわらず水中動作で稼ぐわねえ」
ゴーグルとスイムキャップをとり、団子状にまとめた髪をセームで拭きながら、清水母がほれぼれとした声をあげた。今野が自分が褒められたようににんまりする。
「あいつは現役時代から、あれが得意でしたから。もし十五メートルくらいの超短水路なんてプールがあったら、あいつ一年のうちにエースになってましたよ」
伊井が苦笑した。「それじゃ自慢にならんだろ。第一、肝心の泳ぎは全然だったじゃないか」
「いや、そうっすけど、それを言ったらおれたちみんな全然だったじゃないすか」
「おれを含めるな。おれはそこそこだったぞ」
「でもそこそこでしょ」
「おまえ、今日はいい度胸してるじゃないか」
「してないです。先輩本気で睨まないでくださいよ。あの頃を思い出しちゃうじゃないですか」
「思い出して、黙ってろ」
孝和はつい、石田の泳ぎを見守るよりもOBたちの話に気を取られていた。興味深いやりとりだ。そこへラップタイムを取り終えた樹里がダッシュで戻ってきた。今度は阿久津は何も言わない。阿久津は暑さにすっかりやられてしまったらしく、椅子にぐったり寄りかかってうつむき、団扇を無気力に動かし続けているだけだった。
「岩国先輩、五コースの人ですけど、ウィップキックを使ってませんか?」
樹里が秘密を見つけたように声を抑えて言う。
「ウィップキック?」
「足を開く角度が、狭いです。足の裏で水を蹴っている感じです。兄のはウェッジキックですよね」
「おまえ、専門でもないのにずいぶん詳しいなあ。自分でちゃんと勉強してんじゃんか」
感心している大庭をよそに、孝和は記憶を探っていた。ウィップキックに、ウェッジキック。はたと思い出す。インターネットでか雑誌でだったか、何かでそれらの単語を見かけたことがある。専門違いでもあり、突っ込んで調べようとはしなかったのだが、それが平泳ぎの歴史の中では最新に近い泳ぎ方であり、技術力を要するものであると書かれていたことは思い出せる。そういえば平泳ぎの水中動作にドルフィンキックが加えられたのも、孝和が中学のときのことだ。顧問が平泳ぎ部隊に注意を促していた様子が頭に浮かぶ。
間違いない。孝和は息を呑んだ。さっきの清水母のバサロにしても、木内のウィップキックや水中動作にしても、OBたちは現役を引退した今でも、水泳の練習を熱心に続けている。より速くなろうとしている。
木内の泳ぎが、一段と大きく見えた。
と、清水がプールの縁に片足をかけて身を乗り出し、手をメガホンの形にして叫んだ。
「ダイキっ! 力抜けーっ! 下手なくせに飛ばすなーっ!」
その声に応援部隊がひるんだ。枝島老人が微笑んだ。大庭が呆れてあごを落とした。そして……。
孝和は驚いた。石田の泳ぎのピッチが明らかに遅くなったのだ。清水の声がはっきり届いたかのように。
そのせいなのか、どうか。ひとかきごとにぐんぐん引き離されていた木内との差が、あまり変わらなくなった。追いつきはしないまでも、食らいつくくらいの勢いを見せている。スピードの変化とは裏腹に、石田の泳ぎは頭があまり上がらない、水面を這うような形に近づいていた。一見、手抜きをしているようにさえ見える。
「格好つけなくなったねえ」
枝島老人が満足そうにすっと目を細めた。
「彼は、あのほうがいい」
ほぼ体一つ分開いていた二人の差が、変わらなくなった。今では孝和にもはっきりと分かる。石田の泳ぎに伸びがあるのだ。木内のスピードも後半になって落ちているかもしれない。
次の泳者である今野と大庭がスタート台に上がった。今野はスタートのための前屈を始めたが、腹のあたりが苦しそうだ。大庭は「早く来い、早く来い」と石田に呼びかけるようにつぶやいている。競争相手の滑稽な体格になどもはや注意を向けていない。
先に木内が壁にタッチし、同時に今野が飛んだ。その体が中空に丸いきれいなカーブを描く。飛び込みの頂点で腹の肉がぶるぶると震えたが、飛び込みそのものが見事なために誰も笑う者はいない。ずぼり、という音とともにしぶきが上がり、今野の姿が水中に消えた。
「まじかよーっ!」
大庭は今野の飛び込みを目にして上ずった声をあげ、その声を引くようにして飛び込んだ。しかし観戦している現役部員一同はその直後、さらに大きな衝撃を受けることとなった。飛び込みから猛然と水中を進み、ぐわっと浮上してからの今野の泳ぎ。ももの横から上がった両腕が翼のように広げられ、前方の水面に切り込む。上体が潜り、尻が上がる。腰が柔らかくしなってドルフィンキックを打つ。水をかいた腕が再び後方から水上に上がり、上体がぐんと前に出る。
赤ふんがほとんど肉に埋もれ、まるで裸で泳いでいるようだったが、みなそれよりも泳ぎそのものに目を奪われていた。今野の体型からはまったく想像できない、驚くほどしなやかで美しい泳ぎ。
木内に少し遅れて石田がプールサイドに上がってきた。ゴーグルとキャップを剥ぎ取り、息を切らしながら「わりい」と孝和の耳元で小さく言った。しかしその声は清水にも届いていた。
「あんたねえ、謝るくらいなら、最初っから伸びを意識して泳ぎなさいよ」
「ん? 何のことだよ」
「まだ分かってないの?」
「落ち着け、清水」孝和は遮り、横目で今野と大庭の泳ぎを追いながら石田に訊ねた。「おまえ、後半泳ぎ変えただろ。あれ、どうしてだ? 清水の声、そんなにはっきり聞こえたのか?」
「由香が何か叫んだのは分かったけど、下手くそ、としか聞こえなかった」
「あたしは下手くそなんて言ってないわよ。下手なくせに飛ばすなって言ったの」
「あんまり変わらねえだろ。……そうじゃなくてさ、そのあと応援の声が沈んだろ。隣が速えのも見えてたし、ああ、応援の連中にまで見切りつけられたのかって思ったら気が抜けちゃってさ」
結果オーライということか。孝和はちらりと枝島老人に目をやった。今のやりとりが聞こえたのかどうか、穏やかな横顔からは窺い知ることができない。そこでふと気づいた。もともと無口そうな木内はともかく、伊井にしても、清水母にしても、このOBたちは現役チームの泳ぎに対してほとんどコメントしない。悪くも言わないがよくも言わない。ただ静かな存在感だけがそこにある。
「あの、先輩」
樹里がまだスタート側に残っていた。不意に声をかけられ、樹里がそこにいることに驚いた孝和は、反射的に仁科を探した。目立つスパッツ姿は応援団の後ろを抜け、今野の泳ぎに見入りながらも早歩きに歩いている。
「言おうかどうか、迷ってたんですけど」樹里は孝和だけに聞こえるささやき声で早口に言った。「OBの方たち、OB会の記録を自分たちで残してるみたいなんです。さっきたまたま、テーブルの上のノートを見ちゃって」
さっと目を走らせると、阿久津がだらけているテーブルの反対の端に、一冊のノートが開いたまま置かれているのが見えた。
「気をつけてください。一昨年、祐天寺先輩は枝島さんに負けてます」
樹里は祈るような目を孝和に向けると、すぐに自分の仕事に戻るため駆け足で去っていった。総身の血がざわりと騒ぐのを孝和は感じた。一年生のときから、祐天寺は速かっただろうか? 分からない。どんな状況で競ったのか、タイム差はどれくらいだったのか、そういった細部まで樹里は話してくれなかった。しかしあの祐天寺を上回ったという事実だけで十分だった。あの老人には油断できない、そう思わせるには十分だ。
レースは白熱していた。大庭は普段おちゃらけてばかりいるが、バタフライのフォームはしっかりしている。むしろバタフライはフォームが崩れていたら長い距離を泳げない泳法だ。しなやかに体をうねらせてテンポよく前進していく。
しかしフォームのよさは今野も引けを取らない。やわらかい腰の動きが足に伝わり、まさにイルカさながらのしなやかなキックで水を蹴っている。二人の差は開きもしなければ縮まりもしない。速さは互角ということだ。
「化け物かよ」
振り返った石田が思わずうめいた。たしかに今野の体型と年齢からは、その速さはまったく想像できない。
「トドね」
清水が大真面目に言う。その例えは案外的を射たものだった。トドだって、あのずんぐりした体で水中を素早く泳げるのだ。泳ぎ方のコツさえつかめば、体型は速さにあまり関係ないのかもしれない。
バタフライのレース展開は早い。応援の「セイ! セイ!」という掛け声も石田のときよりアップテンポになっている。その声援に励まされるように、二人の選手はぐんぐん進んでいく。
「大庭のやつ、ちょっと飛ばしすぎてないか?」
石田が渋い顔をする。さっきまで自分も似たようなことを言われていたとは思ってもいない口ぶりだ。
「いや、大丈夫だろ。あいつがあの速さで自滅するのは二百のときだ。百ならたぶん……」
言いかけて、孝和は口をつぐんだ。午前の練習のことを忘れていた。昼休みを挟めば百メートルを全力で泳ぐくらいの体力は回復しそうなものだが、大庭についてはそう言いきれる自信がない。うかつなことを口にしたら現実になってしまう気がして、孝和は不吉な予想を飲み込んだ。
今野が折り返しに入った。ターンのときタイミングを誤ったのか、壁に詰まり気味になったように見えた。一方の大庭は最後のひとかきでぴったり壁にタッチし、くるっと体の向きを変えてコンパクトにターンした。小さな差だが、それにより二人の距離がわずかに縮む。長水路で泳ぎ慣れている大庭に地の利があった。
「セイ! セイ! セイ!」
応援団と声を合わせて、清水と大久保が声を出す。石田は心配を振り切るように「最後まで飛ばせ!」と叫んだ。孝和は出番を前に、集中すべく深呼吸をした。ゴーグルをかける。肩を上下させて力を抜く。
とそのとき、レースに変化が表れた。大庭が失速したのだ。腕のかき二回につき一回だった息継ぎが、ひとかきに一回に変わっている。
「あちゃあ、やっぱバテやがった」
石田が頭を抱えた。今野との差がみるみる開いていく。ペースの落ちる気配のない今野の泳ぎは脅威だった。「大庭!」「大庭先輩!」という悲痛な呼び声が応援団から飛ぶ。大庭の頭が横向きに傾いだ。どうにか力を振り絞ろうとあがいているのだ。
孝和はみるみる開いていく差に絶望した。枝島の悠然とした様子が今では不気味に感じられる。さっきの樹里の言葉がよみがえった。同時にスタートしても勝てる相手ではないかもしれない。その枝島を相手に、体一つ分以上ある差を埋め、さらに前に出なければチームの勝ちはない。しかし追いつくことさえできるかどうか。七十近い老人相手に引き離されていく自分を想像してしまい、背筋がぞくりとした。
そのとき、すっと横に長身の男が立った。祐天寺だった。ジャージを脱ぎ、スイムキャップをかぶっている。
「どけ」
恐ろしく低い声に威圧感があった。その目は怒りに燃え、まっすぐに今野の泳ぎをにらみつけている。しかし言葉は明らかに孝和に向けられていた。
「お前じゃ無理だ。おれが出る」
付近に冷たいものが張り詰めた。大久保がびくりとする。石田と清水は応援をやめてゆっくり振り返った。OBたちはそ知らぬ顔でレースを見守っている。ラップを記録し終えて駆け戻ってきた樹里が、異変を察して立ち止まる。
祐天寺は孝和の肩をつかんで後ろに押しやり、前に出た。闘争本能をかきたてられた彼の体は、殺気にも似た空気を放っていた。石田も、清水もとっさのことに動けず、その場に凍りついた。祐天寺は誰にも邪魔されずにスタート台に片足をかけ、ゴーグルを額にかけた。
「どいてください」
自分でも気づかないうちに、孝和はそう口にしていた。気づいたとたんに両足が震えた。
祐天寺の動きが止まった。腰をひねって振り返り、ゴーグルに手をかけたまま「あ?」と聞き返した。
「おれが出ます」孝和はゆっくりと言った。震えそうになるのを、奥歯を噛んでこらえる。ぐっと顔を上げ、祐天寺の目を見つめる。「挑戦されているのは現役チームです。だから、おれが出ます」
日差しはあいかわらず強く降り注いでいる。気温も湿度も高い。しかし孝和はぞくぞくしていた。背中を流れる汗も冷たく感じられた。ここで退くわけにはいかない。ここを譲るわけにはいかない。そんなことをしたら永久に部員たちの信頼を失ってしまう。石田たちとの友情さえ失いかねない。
それに――焦りや不安の奥にあるものを孝和は少しずつ認識し始めた。震える体の奥底から、熱いものがこみ上げてきていた。それは彼自身、初めて体験する感覚だった。自分はこのレースを楽しんでいるんだ、と孝和はようやく理解した。そして同時に思った。これは言い訳のきかない戦いなのだ。相手は強豪校の選手ではない。知識と経験の豊富なコーチによって、学生時代に才能を見出された人たちでもたぶん、ない。自分たちの体はまだ未成熟かもしれないが、彼らの肉体は最盛期をとうに過ぎている。他人や環境のせいにはできないのだ。違いは自らに課してきた修練、努力の内容にしかない。彼らは仕事の合間のごく限られた時間に密度の濃い練習をしてきたのかもしれないが、自分たちはどうか。もっと負荷の高いメニューを作れたかもしれない。工夫の余地はあったかもしれない。しかし決して手を抜いて練習してきたわけではない。毎日毎日、積み重ねてきたものがある。
中年の、あるいは老年の、体のあちこちに老いを感じさせるOBたちの、それでも現役高校生に匹敵する泳ぎ。それを目の当たりにして奮い立つものが芽生えていた。自分は負けるかもしれない。彼らが過ごしてきたであろう濃密な時間の前では、自分たちがやってきた練習などちっぽけなものなのかもしれない。それでも、観戦するだけでなく、隣で泳いでみたかった。そのチャンスを他人に渡したくなかった。
無言の間を縫ってレースは進んでいる。今野は見事にペースを保っている。大庭は水を飲んでしまい、むせ返りながらも懸命に追い上げている。今野の足と大庭の頭が並んでいる。もつれあうような勢いで残り五メートルのラインを突破する。
枝島はすでにスタート位置についていた。台に足をかけ、だらりと下げた両腕をぶらぶらさせながら今野のタッチを待っている。片足をスタート台に乗せたままの祐天寺のわきを孝和は急いで抜け、高い台の上に立った。すでに大庭はあと二かきというところまで迫ってきている。
隣で枝島が台を蹴った。スタート体勢に入った孝和からはその姿は見えなかったが、大庭が壁にタッチするより早く、枝島が着水する音が聞こえた。孝和は下ろした腕をぴんと伸ばす。その延長に大庭の手の先がある。もどかしい数瞬。大庭のタッチと同時に、孝和の指が台の縁に触れる。勢いよく前方へ飛び出す。大庭の泳ぎで立った白い泡を眼下に見ながら、孝和は思い切って水の中へと飛び込んだ。