ホーム > 小説 > 赤ふんスイマーズ > (五) |
「どうするんだ」
開口一番、石田が声をひそめて尋ねてきた。
孝和たちは天幕の下、隅のほうに集まり、輪になって作戦を練ることにした。メンバーは孝和を含めて五人。背泳ぎが専門である清水と、同じく背泳ぎ専門の一年生の大久保、平泳ぎの石田、バタフライの大庭、そして自由形の孝和だ。他の部員たちは一年生の数人がストップウォッチやスタートピストルの準備をしているが、他はレースを観戦すべく、適当に散って待機している。祐天寺と小田はシャワー場に近いプールの一コース側の隅でフェンスにもたれかかり、あいかわらずスナック菓子を食べながらぼそぼそと何か話している。ときおり小田の品のない笑い声が聞こえてくるが、祐天寺は仏頂面のままだ。阿久津は天幕の反対の隅でパイプ椅子にもたれかかり、しきりに団扇を振っている。OBたちは着替えのために部室に行っている。
「おれたちで最強チームを作ろうとしたら、男四人で組むわけだけどさ」孝和はみんなを見渡しながら言った。「清水のおばさんまで着替えに行っちゃったし、バックが専門なのはおばさんだけなんだよな。OBは五人だから一人余るはずだけど、普通に考えれば枝島さんが外れるだろうから、バックはたぶんおばさんがやるんだろ。バックが女なら、それに合わせて女子の清水に出てもらうのがいいんじゃないかと思うんだ」
「あたし嫌よ、親と並んで泳ぐなんて」清水がふくれっつらをして長テーブルを叩いた。「だいたい、最強で来いって言ってきてるのは向こうでしょう? そんな難しいこと考えないで、素直に男子でチームを組めばいいじゃない」
「でも大久保とおまえとじゃタイムが十秒以上違うじゃないか。向こうが男女混合で来るのにこっちが男四人でチームを組んで勝負なんて、言い方がおかしいけど大人気ないだろ。それに大久保だって、女相手じゃやりにくいだろうし。どう?」
話を振ると、大久保は「自分は、どちらでも」とはにかんだ。小柄だが引き締まった体に、坊主頭のベビーフェイス。無口で練習も淡々とこなすおとなしい彼だが、背泳ぎの専門選手としてはすでに期待のホープで通っている。先日の県大会では入賞こそ逃したものの、順位としては百メートルで十四位、二百メートルでも十七位。来月の新人戦では間違いなく十位以内に入賞できるだろうというのが、部内の一致した見解だ。
「おれが聞いたのはそういう意味じゃなくてだな」石田が頭を乱暴にかいた。「あの連中相手にどんだけ手を抜くかって聞いてるんだ」
「手を抜く?」
「言い方が悪けりゃペース配分でもなんでもいいさ。まさかあんなおっさんたち相手に、全力でやろうと思ってるんじゃないだろうな。それこそ大人げないぜ」
一年生がバケツを使って、プールの水をスタート台近くにまいた。熱した床を冷ますためだ。塩素臭が湿った空気に混じって流れてくる。
「それはおれも考えた。考えたけど……どうだろうな。あの中で一番見た目的に速そうなのは伊井さんだけど、長距離が専門だって言ってたし。あとは歳からいって清水のおばさんくらいか」
「母さんはそんなに速くないよ。たぶん。大学時代は競泳やめてシンクロやってたって聞いたことあるし」
「実はちょくちょく泳ぎに行ってたりとかしない?」
「それはないと思う。お店があるしね。お客さんの少ない昼間にこっそりスイミングスクールにでも通ってれば別だけど」
「おれが言いたいのはさ、年に一回とはいえわざわざこんな会を開いて、現役チームを相手にレースをやろうって人たちが、現役を引退してからまったく泳いでません、てことはないだろうってことだよ。それなりに自信があるんじゃないかな」
「にしたって、四十越えたおっさんたちだぜ? しかもみんな普通に勤め人だし。鍛えてるとしたって限度があるだろ」
「あるよな。おれたちより速いとは思ってないよ」石田にうなずきながら、孝和は心の中で付け加えた。いくらおれたちが二流三流の選手だって、と。「手を抜いたって勝てると思う。でもさ、相手は競泳経験者だし、こないだの大会の記録にまで目を通してきてる。手抜きしたらタイムでバレるだろ。そしたらおれたちの圧勝で終わるより、ずっと気まずいことになると思う」
「花を持たせる、って言葉もあるぜ?」
「引導を渡す、って言葉もある」
「その言葉はまずいだろ。一人シャレにならないのがいる」
「とにかくさ、間違っても負けたくはないし、もし途中でお話にならないくらいあっちが遅いと分かっても、基本全力で泳ぎ通すのがいいと思うんだよ」
孝和はもう一度全員の顔を眺めた。この中で手抜きをしそうなのはまず大庭、次いで石田だ。ほんの少し、ほんの少しの可能性だが、孝和は最悪のケースを思い描いていた。OBたちの遅さに油断して、大庭と石田が手加減をする。その結果、ほぼ横並びで最終泳者の孝和の番がまわってくる。相手はおそらく伊井だ。ほとんど差がないままスタートして、もし伊井に負けてしまったら……そんな事態だけは絶対に避けたかった。絶対に。それが考えすぎだとしても、大差で勝つくらいでなければ後輩たちに示しがつかない。
石田はそんな孝和の不安に気づいたそぶりもない。ぼさぼさの頭に手をやったまま、目をつぶってうーんとうなっていたが、「ま、部長がその気ならしょうがねえか。付き合ってやるよ」と言うとその場で肩のストレッチを始めた。
残る懸念材料である大庭は、さっきから珍しく一言も茶々を入れず、腕組みしてしきりに考え事をしている。彼が長々と考え込んでいるときは、たいていろくでもないことを企んでいる。孝和はそっと声をかけてみた。
「おいどした、寝てんのか?」
「ん? まさか。実はな、一年を代わりに泳がせようかって迷ってたとこなんだ」
「は? なんでだよ」
「うむ」大庭は眉間にしわを寄せ、深刻な口調で言った。「おれの相手、あの今野とかいうおっさんだろう」
「そうだろうな、たぶん。専門バッタだって言ってたし」
「あいつの泳ぎを見逃しちまう」
「……は?」
「あのおっさんの泳ぎだよ。見ただろ、あのボンレスハムの端っこみたいな腹を。いったい何食ってたらあんなになるのか知らないけどさ、飛び込みからして楽しませてくれるに違いないぜ? なのにおれは並んで泳がなきゃならないときてる。おれが泳いでるうちに、ショーのおいしいとこはほとんど終わっちまう。それが残念でさあ」
孝和はがくりと肩を落とした。「おまえなあ。そんなら死ぬ気で百メートル泳いでこいよ。そしたらその分、長く見物できるだろ」
「うーん、そりゃそうだろうけど」
「レース展開によっちゃあ飛び込みも見逃さずに済むかもしれないぞ。バックとブレで大差がつけばさ」
「なるほど、それがベストだな……石田たちが百メートル差をつけてくれりゃあな。そしたら速攻で行って帰って……」
大庭はぶつぶつとつぶやき続けている。孝和は頭を振ってため息をついた。しかし動機がどれほどくだらなくても、真面目に泳いでくれるならいいかと思い直す。
「で、あたしは出なくていいのよね? 大久保くん出たがってるし」
今度は清水が食いついてきた。
「出たがってるわけじゃだろ。そんなに泳ぐの嫌か?」
「イヤ」
「由香、おまえひょっとして負けるかもって思ってんの?」
清水は横目で石田をにらんだ。「そうじゃなくて。むしろ勝った後が問題なんだって。予想つくでしょ?」
「……おばさん、大喜びで祝福してくれるだろうな」
「それが嫌なんだってば。生々しく想像できるから」額を押さえてうなだれる。「あたしの立場に立って考えてみれば、気持ち分かるでしょ。あの親よ? さっきのだって見たでしょ? 根っからの目立ちたがり屋なのよ。おかげで小学校の頃から、運動会とか合唱コンクールとか、ほんっと迷惑してきたんだから」
「……リアルに見てきた身としてはフォローのしようがねえな」
「まあまあ、二人ともそんな暗くなるなよ」孝和は二人を交互に見やってなだめた。「とりあえずさ、OBたちが来たら聞いてみるよ。その上で……」
孝和はこのとき、部室の戸が開くあの錆びついた音を聞き逃していた。しかし部員たちが何やらざわめき始めたことには気づいた。「まじかよ」「嘘だろ」といったささやき声がほうぼうから聞こえてくる。見回すと、プールサイドに散って雑談していた部員たちが、みなプールの入り口の方を見てぽかんとしている。彼らの視線を追った孝和は、そこに現れた人影を見て思わず「げ」と妙な声を上げてしまった。石田と清水も揃って顔を振り向け、そのまま硬直する。
そこには古い腰洗い槽があるため、プールサイドまでは数段の石段を上がってこなければならない。そのため彼らの登場は、その姿とあいまって舞台に上がってくる役者のように見えた。
じりじりと照りつける夏の太陽。
八方からやかましく聞こえてくる蝉の声。
ゆらめくかげろうの向こうから、ゆっくり上がってくるOBたち。
順に入ってきた四人の男たちは、赤ふん一丁だった。
「なんだよあれ」と石田がかすれた声を出し、ごくんとつばを飲み込んだ。
「意味が分からねえ」と大庭も呆然としている。
大久保はコメントしなかったが、目をまん丸にして奇妙な行列を見守っている。
先頭は枝島老人だ。その後ろに伊井、木内、今野と続く。背丈や体格はまちまちだが、みな大真面目な顔をしている。冗談で赤ふんに統一しているわけでもなさそうだ。手にはそれぞれゴーグルやスイムキャップ、セームを持っているが、それらの用具とふんどしとの間に、孝和は奇妙なほど時代の落差を感じた。
「ああもうだめ。信じられない」
清水がうめいた。赤ふんに気をとられていた孝和は、清水の声で彼女の母親のことを思い出した。まさか赤ふんってことはないよな、と列の最後に目をやって絶句した。清水母は化粧こそ落としていたが、やたらと派手なコスチュームを着ていた。左肩のあたりに牡丹の花が刺繍され、散りばめられたスパンコールがきらきらと輝いている。清水にとっては赤ふんよりはるかに、こちらのほうがずっと気の滅入る格好だろう。
枝島老人が素足でひたひたと近づいてきた。頭に競泳選手が使う、つまり孝和たちが使っているのと同じシリコン製の黒いスイムキャップをかぶり、やはり黒のゴーグルを額にかける。体はほっそりしているが、骨格は見事な逆三角形になっているし、肩や胸、腹の筋肉も老人とは思えないほど締まっている。
「人数が中途半端なのでね」と枝島は服を着ていたときと同じ穏やかな口調で言った。「今日は伊井くんに外れてもらうことにした。私がフリーをやる」
孝和は唖然としたが、ほんとに大丈夫なんですか、とはさすがに聞けない。
「伊井さんが抜けるっていうことは、バックは清水のおばさんが泳ぐんですか?」
「ああ。男女混合チームになってしまうが、人が足りないのでは仕方がない」
「それならこちらも合わせて、バックは女子にしましょうか」
「いや、いいいい、そんなことは気にしなくていいから、大会の練習と思ってチームを組んでください」
背後で清水がほっとため息をもらすのが聞こえた。たしかに、相手がそう望むのなら迷うことはない。孝和は振り返り、大久保に目顔で合図した。大久保はきゅっと口元を引き締め、こくりとうなずき返してきた。
「それじゃあ、軽く二、三百ほどアップさせてもらうよ」と言って、枝島は腕をぐるぐる回しながらプールに向かった。ゴーグルをかけ、泳ぐ準備を整える。五コースのスタート台の横、少し高くなったプールの縁に屈み、プールの水を手ですくってはばしゃばしゃと胸にかけた。そうやって体を水に慣れさせ、スタート台にひょいと上がると、ぽん、と何気なく宙に飛んだ。小石でも落ちたような音を立てて水に沈む。しばらくして浮き上がってきた老人の両腕は、鳥の羽を思わせる優雅さで水上に弧を描いた。テンポのよいドルフィンキックが後に続く。腰の動きに合わせ、目の覚めるようなふんどしの赤が波間に見え隠れする。
部員たちは一斉に息を呑んだ。紛れもなくバタフライだ。速さはそれほどでもないが、速い遅いの問題ではない。
「嘘だろ……いきなりバッタかよ」石田が呆然とつぶやく。
「七十歳の動きじゃないよな、あれ」孝和も老人の泳ぎから目を離せない。
「六十九だよ、岩国くん」はっとして振り向くと、孝和のすぐ隣に伊井が立っていた。「気をつけたほうがいい。枝島さん、七十と言われると怒るんだよ。まだ大台には乗ってない、と言って」
「は、はあ」
「しかし元気だなあの人は。おれも見習わないとな」
話しながらスイムキャップをかぶる。孝和の視線はつい下のほうに移った。日焼けしていない肌の色とのコントラストで、赤ふんは恐ろしく存在感があった。ふんどしを実際に目にするのは初めてだった。ふんどしというとなんとなく想像してしまうような、前にだらりと布が垂れているタイプではなく、見た目はブーメラン型の水着に似ている。しかしその締まった布とは対照的に、腹の周りには浮き輪のような中年太りの肉がだぶついており、ふんどしがやや食い込み気味になっている。
「これ、気になるかい」伊井がちらりと笑みを見せた。孝和は慌てたが、相手はふんどしだけに注目していると勘違いしてくれたらしい。「昔はうちの水泳部は男ばかりでね、水着といったらこれだったんだよ。どうも女子部員が増え始めた頃から今風の水着に変わっていったらしい。今でも水泳の授業でふんどしを使う学校はあるらしいが、数でいったら少ないんだろうな。時代には逆らえんなあ」
最後は独り言のようになった。その頃には枝島老人が向こうの壁で折り返して、こちらに戻りつつあった。帰りの五十メートルはクロールである。細い腕で淡々と水をかいてくる。速くはないがスムーズな泳ぎで泳ぎ切り、しっかり壁にタッチしてから顔を上げた。
「あれ、枝島さん、バッタで往復しなかったんですね」
伊井がよく通る声で呼びかけると、水面から少しすねたような声が返ってきた。
「だって疲れるんだよ、バッタは」
「無理しないでくださいよ。アップなんですから」
笑いを含んだ伊井の言葉に「ひさびさにやってみたくなっただけだよ」と言い訳めいた返事をして、老人はまたクロールで泳ぎ始めた。伊井は苦笑したが、「おれもせっかくだから泳がせてもらうよ」と言い置いてプールに向かった。その後ろ姿に孝和はまた目を見張った。尻が完全に出ている。尻に食い込んだ布地をたるんだ白い肉がほとんど覆い隠してしまっており、真後ろから見るとすっ裸に、赤い腰帯を締めているだけかと見誤ってしまう。その姿が我がことのように恥ずかしくなってきた。思わず女子の視線を気にして周囲を窺ったが、むしろ女子の方が平然と彼らの後ろ姿を指して笑っているのを見て、そのことにも少しばかりショックを受けた。
伊井に続いたのは木内だ。ブルドックのような顔つきにそぐわず体の線が細い。皮膚の下に詰まっているのは薄い筋肉なのか脂肪なのか、胸と腹がなだらかな曲線を描いている。バーコード頭はスイムキャップに隠れてまったく見えなくなっている。「よろしく」と孝和に一声かけただけで、プールに足から飛び込んだ。
さらに大汗をかいた白い塊、今野が続く。中年太りというより肥満体と呼びたくなる体格で、プールに入ったら沈むんじゃないかと孝和は思った。おおいに水を跳ね散らかしながら飛び込んだ彼の体は、やがてぷかりと浮いた。そのままクロールで泳いでいく。思いのほか滑らかな泳ぎだ。
「今野さんてば、また一回りお腹が大きくなっちゃった感じねえ。幸せ太りかしら」
背後からの声に振り向くと、鮮やかな牡丹の花がまず目に留まった。孝和は思わず素直に聞いてしまった。
「それひょっとして、シンクロ用の水着じゃないですか?」
「あらよく分かったわね」清水の母親は嬉しそうな顔をした。「大学でシンクロやってたのよ。これは大会のときの衣装。ほんとはちゃんと競泳用の水着を持ってくるつもりだったんだけど、お尻のあたりがちょっと薄くなっちゃってるのに昨日気づいて、しょうがないからこれを奥から引っ張り出してきたのよ。ちょっと目立つかなあとも思ったんだけど、どうかしら。派手すぎない?」
左手を腰に当て、右手を天に突き上げてあごを逸らしてみせる。おそらくシンクロの決めポーズだろう。目立つ気まんまんだ。スタイルはいいが、よく見ると水着の裾からは余分な肉がうっすらはみ出ているし、化粧を落とした目元や口元には細かなしわが刻まれている。なにがなし見てはいけないものを見てしまった気がして、孝和は目を泳がせた。
「……お似合い、ですよ」
「お上手ねえ」ポーズを解いた清水母はぐっと顔を寄せてきた。「部長の岩国くんよね。うちの娘がいつもお世話になってます。ご迷惑をかけてないかしらあの子」
「はあ、いえ、まあ」
「あなたのこと、由香からよく話を聞いてるわ」どんな話かは言わず、面白そうに孝和の目を覗き込む。「今度石田くんと一緒に遊びにいらっしゃいよ。あと大庭くんと。三人揃うと面白いっていつも由香言ってるから、興味あるの。夏休み中はお店も暇だから、サービスするわよ」
よく分からない言葉を残し、くるりと背を向けてプールに入ってしまう。三人揃うと、という言葉に引っかかりを感じて考え込んでいると、今度は娘のほうが駆け足でやってきた。まるで母親が視界から消えるのを待っていたかのようだ。
「ブチョー、日誌の古いやつって、男子の部室にあるのよね。ちょっと行って漁ってきていい? あの人たちが学生のときどれくらい速かったのか、興味ない?」
好奇心に輝く目は母親にそっくりだ。しかし男子部室への立ち入りは断りたかった。部室には女子に見られたくないものがいろいろと転がっている。
「んー、そういうのは、レースの後で見るのでもよくない?」
「なんでよ」
「そりゃ、あれだよ、これからおれたちが相手するのは、現役時代のあの人たちじゃなくて、今のあの人たちだからだよ。もし昔は速かったとしても、今がぐだぐだだったら、なんか気の毒じゃないか」
適当なことを言ってごまかす。泳いでいる面々にちらっと目をやると、彼らはクロールで――なぜか今野は途中から平泳ぎで――悠々と泳ぎ続けている。本気で泳いだらどうなるかは分からないが、いまのところ「ぐだぐだ」なレースにはなりそうにない。
清水はつまらなそうに口を尖らせていたが、「そんなもったいぶることでもないじゃない」と言っただけで、無理にでも更衣室に突入しようというそぶりは見せなかった。そのまま天幕の方へとすたすた行ってしまう。そこには女子が集まっていて、ときどきプールの方を見ては遠慮のない笑い声を上げている。水着を笑っているのか、それとも体つきがおかしいのか。
「おい、おれたちも軽く流しておかないか」
石田が声をかけてきた。汗の浮いた顔には表情がない。それはOBたちの泳ぎを見て危機感を覚えたからとも、単に暑さのためとも見えた。少なくとも声には緊張の色はなかった。
「ああ、そうだな」
孝和は言葉少なに応じた。どのみち午前中の練習から時間が経っているし、間に昼食も挟んでいる。レース前に体を動かしておくのはよいことだと思った。大庭と大久保にも声をかけ、プール際に屈み込んだとき、背後から低い声がかかった。
「おい、岩国」
祐天寺だった。汗染みのできた上着を脱ぎもせず、腕組みして孝和を見下ろしている。その鋭い顔立ちには険しさが浮かび、目は冷ややかに燃えている。首だけ振り向けた孝和は、自分でも分かるほどに硬くなっていた。
「勝てよな」
それは激励ではなく、命令だった。孝和の胸を、氷の塊が通り過ぎた。
「景気よく返事しろや、おい」
隣に立った小田が口元にいじわるな笑みをたたえて言った。孝和はかろうじて、うす、と返事をした。震えはしなかったが、自分でも嫌になるほど気弱な声だった。
祐天寺は少しの間、孝和を見下ろしていたが、不意に興味を失くしたようにまたプールの端に戻っていった。
「あんなおっさんどもに負けたら一年に示しつかねえぞ」
小田がプレッシャーをかけて祐天寺に続く。他の部員たちが今の幕間劇を見て見ぬ振りをしているのが、見回さなくとも孝和には肌で分かった。眉間から汗が鼻筋を通って流れ落ちた。知らぬ間にこぶしに力を込めていた。
「カズ? 何してんだ?」
すでにプールに入っていた石田がけげんそうな目を向けていた。今のやりとりに気づかなかったのだろう。孝和は自然に見えるよう祈りつつ笑顔を作って「いや、別に」と返事をした。石田はしばらく孝和の顔を見つめていたが、結局何も言わずに泳ぎ始めた。
「ま、気楽にやろうや。なあ」
大庭が孝和の肩をぽんと叩いて、勢いよくプールに飛び込んだ。続く大久保は自分自身の内側を見つめているかのように、孝和の横を無言で通り過ぎた。孝和もゴーグルをかけ、プールに足から入った。生ぬるい水に頭まで沈み込み、そのまま壁を蹴って泳ぎだす。
水をひとかきしただけで、午前中の練習の疲労と、それよりも重い何かが全身にのしかかってきた。水をかく腕がだるい。バタ足をする足も空回りしている気がする。嫌な感覚を振り切ろうと、片道五十メートルをダッシュで泳いだ。体がぶれる。息継ぎのために上げた顔のすぐ前をコースロープの青と黄色が横切っていき、慌てて方向を修正する。汚れて透明度の下がった水は先を見通せず、行く手の壁が見えないことに苛立ちを感じる。がむしゃらに水をかいた。ようやく反対側までたどりつくと、少し手前でぐるっと前転しフリップターンをする。しかし手前すぎて足がほとんど壁に届かず、蹴り出しが弱くなってしまった。仕方なく後半の五十メートルは流すことにする。
隣のコースを行き違いに牡丹の水着が通り過ぎていく。それに続く赤ふん姿のスイマーたち。その脂肪分の多そうなだぶついた肉は、濁った水の中で見ると妙に薄汚く、不浄なものにさえ感じられた。すぐ横を通っていく、二の腕、腹、尻。白く膨れた肉の塊。
孝和は目をそむけた。フォームを確認するように大きく、大きく腕を回す。太く青い横のラインを通過した。残り五メートルのラインかと思ったが、すぐに半分を示すラインだと気づく。残りの距離が無性に長く感じられた。
泳ぎに集中しようとすればするほど、もやもやしたものが孝和の心を乱した。