出られない (三)


 一瞬止まった時の流れを、淳子の叫び声が再び揺り動かした。とっさに浩介は彼女を後ろにかばった。男をきっ、とにらみつける。一方の手はすぐにドアを閉められるよう、ノブから離さない。
 しかしスーツ姿の男は襲い掛かってくるどころか、叫び声を聞いて身を縮めてしまった。腰砕けになり、半歩後退する。獲物がぶるぶると震えていることに浩介は気がついた。それは長い竹の棒の先に鋏がついた、手作りの高枝切りバサミのような代物だった。その閉じた刃先はまだ浩介たちに向けられていたが、男の態度は人を襲おうとしているというより、自分の身を守ろうとしているように見える。鋏自体も厚みがあって先が丸く、殺傷能力は低そうだ。すぐに襲い掛かってくるつもりがなさそうだと分かると、浩介は少し安心した。新たな部屋の様子をざっと窺うだけの余裕ができる。
 部屋。そう、男の背後は黄色一色の部屋だった。つまり外への出口ではなく、第三の部屋ということだ。男の真後ろには黄色いドアがある。右手の壁にはアルファベットがたくさん並んでいる。部屋の左側はもう少し部屋に踏み入らないと見えないが、床にいろいろなものが散らばっている様子から、第一、第二の部屋よりも込み入った仕掛けがなされているだろうことは察しがついた。こんなこともあろうかと予想はしていたものの、まだゲームが終わらないことが明らかになってみると、疲労や不安が重く心にのしかかってきた。
 男に視線を戻す。彼はまだ同じ格好のままだ。その乱れたおかっぱ頭の下の目と目が合ったとき、ようやく相手の顔に見覚えがあることに気づいた。どうやら相手もほぼ同時に気づいたようで、口をあんぐりと開き、手にした武器をゆっくりと下ろした。
「きみはたしか……歓迎会に来ていた……」
「……サークルの人?」
 飲み会の様子が再び浩介の脳裏によみがえった。突然大きな声を上げた男。淳子にずっと熱い視線を送り続けていた男。二次会までついてきた新入生の一人。自分の家に脱出ゲームがあると奇妙な発言をした男。名前は……
「木下くん、か」
 思い出した。木下洋平。情報学科の新入生だ。しかしそれ以外のことは憶えていない。彼が居酒屋で何を語っていたのかまでは思い出せない。彼に対する興味がなかったからだ。本音を言えば、二次会にも行くと言ってきたときも「面倒くさいやつ」としか思わなかった。
 相手もどうやら浩介のことは「サークルの人」で済んでしまったようで、今ではしきりに浩介の背後を気にしている。いつの間にか、淳子が浩介の背にしがみついて身を隠そうとしていた。木下が首を伸ばしながら擦り寄ってくるのに合わせて、淳子が後ろで小さくなるのが分かった。
「あ、やっぱりそうだ。淳子さんだ」
 にかっと笑って近づいてくる。その手にはやや下向きになったとはいえ、いまだにこちらに向けられている刃物がある。
「おい、それ下ろせよ。危ないだろうが」
 あまりの無頓着ぶりについ浩介は声を荒げた。木下の目元に苛立ちが浮かんだが、すぐに凶器から手を離した。握っていた手を無造作にぱっと開いたため、カシャンと耳障りな音を立てて棒が床に落ちた。後ろで淳子がびくりとした。
「淳子さんもこのゲームに参加してたんだ」
 彼女の様子などお構いなしに馴れ馴れしく声をかける。言ってやりたいことがうわっと浩介の頭の中に渦巻いたが、彼が口を開く前に、淳子が観念したように浩介の横にまわってきた。
「……木下くんも、参加者なのね」
 確かめるように訊ねる。いや、実際に彼女が真っ先に疑ったことを確認したのだろう。
 ――ここにいる人間で参加者でない者は、犯人の側の人物でしかあり得ない。
 彼女の質問の重みをすぐに理解した浩介だったが、それに対する答えはあっけらかんとしたものだった。
「うん、そうだよ。目が覚めたらこの部屋にいてね。すぐ目の前に鍵が落ちてた」
「鍵? どんな鍵だ?」
 勢い込んで浩介が訊ねると、木下は面倒そうにちらりと目を向けてきた。
「どんな鍵かがそれほど問題ですか? どこの鍵か、が問題なんじゃないですか?」
「……じゃあどこの鍵だ」
「そこの」と木下はあごで浩介から見て左手を示した。「机の引き出しの鍵でしたよ。あー、一応言っときますけど、ドアの鍵ではなかったです。ドアは別の鍵」
 馬鹿にしたような口調に浩介は腹を立てたが、喧嘩したところで仕方がない、と理性で怒りを押し殺す。ときには、人をコケにするつもりなどまったくなくても、そういう話し方しかできない人間もいる。今まで接してきたそういう連中を頭の中で何人か数え上げ、こいつもあいつらの同類なんだろう、と自分をなだめる。
「そっちのドアには鍵がかかっているのね?」
 淳子が木下の背後を指して訊ねると、彼はくるりと淳子に顔を向けた。血色のよいほっぺたが、汗でてらてら光っている。
「うん。ドアは二つとも鍵がかかってて開かなかった。あー二つっていうのはこっちのドアと、あっちのドアね」
「目が覚めたとき、誰か他に人はいなかった? 誰かの声を聞いたり、どこかから物音がしたりしなかった?」
「ぼく一人だったよ。誰もいなかったし、すごい静かだった。あ、そっちの部屋からさっきブブーって音がした気がするけど」不審そうに浩介に一瞥をくれる。「そっちでクイズでもして遊んでたの?」
「クイズなんかじゃないわ」
 淳子が力なくつぶやいた。木下が聞いたのはおそらく、淳子が仕掛けの解除に失敗したときのブザー音だろう。それはその後の一連の出来事とともに、淳子の心に恐怖の記憶として刻み込まれているに違いなかった。
 淳子が黙ってしまったので、浩介が後を引き取った。
「この状況を、木下くんはどう思ってるんだ? 何か心当たりはないか?」
 木下はふんと鼻を鳴らした。
「質問が曖昧で答えられません」
「……じゃあ質問を変えよう。この場所を知っているか? 前にここに来たことは?」
「ないです」
「ここで目を覚ます前の記憶は?」
「歓迎会の帰り道で、知らない道を、えーと……んー、よく憶えてないな。気づいたらここにいました。間島に連絡しようとしたんだけど携帯がなくなってて」
「マジマ? マジマって……」
「うちの使用人ですよ。携帯さえあれば、ここがどこだろうとGPSで探して迎えに来てもらえるのに」
 使用人。浩介は軽いめまいを覚えた。木下の背後に豪邸の幻が見えた気がした。自分とは別世界で生まれ育った人間が、また一人。
「メモは。目を覚ましたとき、メモみたいなものを見なかったか?」
「メモ?」記憶をたぐるように眉を寄せたが、すぐに返事をしてきた。「記号や数字が書かれた紙ならあったけど。あれはメモとは言わないな。だからとにかくそういうのはまだ見つけてない」
「きみはさっき、ゲームと言ったな。なぜ知らない部屋に閉じ込められているこの状況を、ゲームだなんて思ったんだ?」
 問い質したつもりだったが、返ってきたのは薄ら笑いだった。
「ちょっと慣れてる人間なら誰だって分かるよ。これは脱出ゲームのリアル版に決まってる。変な道具とか鍵とか天井のパネルとか、いかにもそれっぽい。よくできてるし。ここから脱出できるくらい頭がいいか、テストされてるんだよ」
「テスト? 誰がテストしてるんだ?」
「そんなの分かるわけないじゃないですか」
「じゃあなぜテストだと思うんだ?」
「じゃあ他にどんな理由があるっていうんですか?」
 浩介は重いため息をついた。一つ一つの受け答えに苛立ちと疲労を感じる。理屈っぽいかと思えば、飛躍した考えに固執して譲らない。重要な、あるいははっきりしている事柄に的を絞って話をした方がよさそうだ。
「おれたちもここから出ようとしている」おれたち、が誰を指すかをはっきり示すために淳子に軽く顔を向けてから、浩介は言った。「ただ、こっちは行き止まりだ。だから出口を探すには、きみの後ろにあるドアを開けてみなきゃならない」元いた青い部屋と、木下の背後を順に指し示す。「おれたちも、ここは脱出ゲームを実現した場所だと思ってる。ここまでの二部屋も仕掛けだらけだったし、これが脱出ゲームだって書かれたメモもあった。第一の部屋……おれが目を覚ました白い部屋にあったんだ」
「ふーん。それがメモか。てことはメモって製作者のヒントだ。分からない人のための」
「たぶんな」
「そういうメモならこの部屋にはなかったです。なくても分かるし」
「……そうか」
 そのときふと、浩介は木下がそわそわしていることに気づいた。淳子がいるから、とかそういう類のものではなく、もっと切羽詰ったものを感じる。そういえば、ドアを開けて鉢合わせしたときには棒を構えていたから気づかなかったが、さっきからずっと内股だ。それでピンときた。
「おまえ、トイレに行きたいんじゃないか?」
「そっちにトイレがあるんですか?」
 図星だった。これまでとげとげしていた目つきが、急に期待を込めたものに変わる。
「トイレそのものじゃあないけど。一番奥の白い部屋にゴミ箱がある。急場しのぎにはなるからそれを使いなよ」
 彼はそれを聞くと、体つきに似合わないすばやさで浩介たちの脇を通り抜け、奥の部屋まで一目散に駆けていった。ややあってジョロジョロという生々しい音が聞こえてきた。
「……ったく、ドアくらい閉めろよな」
 浩介は淳子を黄色い部屋に招き入れると、そのドアをいったん閉めた。とたんに音が聞こえなくなった。木下の存在そのものが消えてしまったような気さえした。
「あの」長いこと黙っていた淳子が、他に誰もいない部屋なのに小声で訊ねてきた。「彼のこと、どう思います?」
「木下のこと? うーん、変なやつってこと以外で?」
「彼が犯人、ってことは考えられないでしょうか」
「さあ。そうは感じないけど」
「ええ、そうは感じられません。ですけど」淳子はつと目を逸らした。「簡単に信じることはできません」
 浩介は当惑した。今までの木下とのやりとりからは、彼が犯人かもしれないと疑うほどのことは何もない。そもそも犯人、あるいはその共犯者が自ら仕掛けだらけの部屋に閉じこもり、トイレに困っているというのもおかしな話だ。
 あえて疑ってかかるなら、木下がこの奇妙な現状をあまりにも楽観的に受け入れてしまっているのが少し不自然だが、それはむしろ彼の性格によるもののように思われた。また彼は犯人からのメッセージなしにここが脱出ゲームを模したものだと見抜いたが、それは彼が言うとおり、ゲームに慣れている人間ならたどり着いてもおかしくない結論だろう。もし淳子が、浩介が白い部屋を脱出するより早く目を覚ましていたら、彼女も自力で同じ結論を導き出したかもしれない。あの青い部屋にだって脱出ゲームであることを示すメモは置かれていなかったし……。
 そこまで考えて浩介ははたと気づいた。あのメモ。最初の部屋にあったものといい、途中で差し入れられたものといい、それに何より、淳子の側に落ちていたものといい。
 すべて浩介に宛てられた内容だった。
 ここが脱出ゲームの場であることを示すメモは、浩介の部屋にしかなかった。ドアの隙間から差し入れられたメモには、明らかに浩介に対する言葉がつづられていた。そして青い部屋にあった最後のメモには、「第一の部屋、突破おめでとう」とあった。明らかに浩介に向けられた言葉だ。淳子のためのものではないし、メッセージから考えれば木下への言葉でもない。
 それに、白い部屋は第一の部屋であり、スタート地点であり、言い換えれば行き止まりだ。あの部屋の唯一のドアは他の部屋に繋がっているものだけである。この迷宮のような空間のどん詰まりに、浩介は放り込まれていたのだ。その事実とメモの内容とを繋ぎ合せると、犯人はこのゲームを浩介に解かせたがっている、としか考えられない。
 なぜだ? 自分がプレイヤーに選ばれたことに何か意味があるのか? それとも誰でもよかったのか? 自分が選ばれたのはただの偶然だろうか。
「……先輩?」
 声をかけられてはっと我に返った。淳子が心配そうに見上げていた。
「すいません、混乱させるようなことを言ってしまって」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて」浩介は迷った。たったいま考えついた仮説を、淳子に聞かせるべきだろうか? 余計な不安をあおるだけだろうか?
「私、あの人が怖いんです」小さな声で恥じるように淳子は言った。木下がまだ戻ってこないことを確認するように、閉じられたドアにちらりと目をやり、少し早口になる。「先輩のことは、初めて大学で見かけたときから信頼できそうな人だって感じてました。そういうのって、ありません? 一目でその人から何かを感じるっていうこと」
「相性、みたいなものかな。こいつとは気が合うなとか、逆に合いそうにないなとか」
「そうですね、それに似ていますけど、もっと内面的なものです。その人が持っているもっと深いもの。木下くんは何か……どこか歪んでます。私、人を見る目はあるつもりです」
 女の直感というやつだろうか、と浩介は思ったが、口にはしなかった。それに木下に関して言えば、たいていの人間が第一印象で「こいつとはあまり関わらない方がいい」と感じるだろう。淳子の場合はさらに、飲み会のあいだじゅうじろじろ見られていたという不快感もあるはずだ。神経質になっているだけではないのか。
「怖いっていうのは分かるよ。おれもああいうのは苦手だし。ただ、ちょっと変だってだけで犯人と結びつけるのはどうかと思う」
「あ、はい。犯人かどうかっていうことと、怖いっていうことは直接結びつけて考えているわけじゃありません。犯人かもしれないって思ったのは、いろいろ不自然な点があるからです。例えば、なんであの人、この状況で平気でいられるのかな、とか」
「それはおれも変に思った。あいつが戻ってきたら確認してみるさ。おれたちのここまでの経緯を話せば、違った反応があるかもしれない。ひょっとしたら現実とゲームの区別がつかない人間ってだけだったりしてな」
 少しおどけてみたが、淳子の表情は硬かった。会話が止むと、耳に痛いほどの静寂が迫ってきた。
 そこへ無遠慮にノブの回る音がして、二人は揃ってあとずさった。木下がこころなしさっきまでより余裕のある表情で、のそりと入ってきた。そののんびりした様子に、浩介は知らずに力んでいた自分に気づかされ、そっと力を抜いた。なるほど、最初に武器を手に自分たちを待ち受けていた木下の気持ちがよく分かった。外部から突然破られる静寂。それは落差が大きい分、心臓に悪い。
「解いちゃった?」
 唐突に淳子に問いかけてくる。彼女はすぐには反応しなかったが、顔を強張らせたままかぶりを振った。浩介にも彼の意図が分からなかったが、どんな意味であれ、すぐには肯定したくない質問だろう。
「よかった、まだ手をつけてないんだね」と木下は意図が伝わっているかどうかに無頓着に話を続ける。「淳子ちゃんも脱出ゲームやるんだよね? ここってなかなかよくできてると思わない? 下手なフリーのやつよりずっとセンスがいいよ。だから一人で全部解きたくてさ。あっちの二つの部屋も見てきたけど、こっちの方がずっと難易度高そうだし。淳子ちゃんは待っててくれればいいから」
 完全に浩介を無視して話をしている。しかも用を足して戻ってきたら「ちゃん」づけだ。淳子は曖昧な笑みを浮かべてやり過ごそうとしている。一方の木下は彼女の心境を思いやる様子もなく、鼻歌交じりに例の竹の棒を拾い上げ、部屋の奥へと向かう。
 浩介はここで初めて、思い出したようにじっくりと第三の部屋を見渡した。木下の言うとおり、明らかにこれまでの部屋より作りが凝っている。第一の部屋は勉強部屋、第二は居間を模したものだと受け取ることができるが、第三の部屋は何とも形容しがたい。強いて言うならゲーム専用の部屋だ。
 第二の部屋に通じるドアに向かって右手の隅には、スチール製の机が設置されている。部屋の壁紙に合わせて全体が黄色く塗装されており、保護色のようにその存在を見えづらくしている。椅子はない。第一の部屋のものと同様、左上に横長の引き出しが一つ、右側に引き出しが縦に三つ並んでいるが、うち二つが開かれている。おそらくすでに木下が、仕掛けを解いて開けてしまったのだろう。その名残と思われる箱状のものや知恵の輪のようなものが、床のあちこちに散らばっている。
 机の側面が接している壁には今までと同様、小さな窓が三つ。しかしこの部屋のは少し様子が違う。ガラスははめ込まれているようだが、その向こうは闇だ。部屋全体が黄色い中に、染みのような黒。その色合いに危険や警告を感じてしまうのは、色の組み合わせが踏み切りやバリケードを連想させるためだろうか。
 そして部屋に入ってきたときにも目にした、窓の向かい側の壁のアルファベット群。そこには円形のボタンのようなものが十五行、二十四列にやや隙間を空けて並んでおり、それぞれに一つずつアルファベットがプリントされている。ただし文字の配置はABC順でもなく、英文のつづりになっているわけでもなく、一見何の規則性もない。そのアルファベット群の下には「OK」「RESET」と書かれたボタンが並んでいる。見た目だけでも仕掛けの複雑さが思いやられた。
 複雑さを感じさせる要素がもう一つ。この部屋は床にも壁にも、タイル張りのような刻みが入っているのだ。実際にタイルを敷き詰めて作ったというより、模様として後から刻み入れたようである。その効果は歴然だった。今までの二部屋はのっぺりとしていたため、仮に壁に細工が施されていたら一目で見分けることができただろうが、この部屋では縦横に走る模様のせいでその見分けがつきにくい。もし行き詰ったらしらみつぶしに壁と床を調べてまわる羽目になるだろう。
 木下は自分が床に散らかした小物を無造作に蹴飛ばしつつ、右手側の窓のそばまで歩いていくと、そこで天井を見上げた。部屋の色に目がちかちかして遠くからでは確認できず、浩介は木下のそばまで行ってみた。そこにはよく目を凝らさないと気づかないほどの小さなくぼみがあり、それを囲むようにぐるりと円形の溝がある。ちょうど十円玉をくぼみにあてて回すとふたが外れる、よくある仕組みに形が似ている。
 木下は棒の先の鋏を閉じた状態にしたまま、天井のくぼみに向けて突き上げた。鋏の先端をくぼみにはめようとしているらしい。が、不器用なのか背が低いせいか、ごつんごつんといたずらに天井を叩くばかりで、くぼみにうまく当てることができない。しばらくやっているうちに、彼の額に汗が浮いてきた。そういえば浩介たちが初めてこの部屋に踏み入ったときも、彼は汗をかいて棒を手にしていた。ひょっとすると、もう長いことここでつまづいているのだろうか。
「手伝ってやろうか?」
 声をかけたが、木下は返事もしない。熱心に上を向いたまま、同じ失敗を繰り返し続ける。それでも浩介の言葉は耳に届いているのだろう、むきになったためか、さっきまでよりもぶれが大きくなった。
「なあ、そこの開き方はたぶんおまえが考えているとおりだよ。正解かどうかを確かめられれば充分だろう? 疲れてるみたいだし、代わってやるって」
「余計なお世話です」木下は作業を続けながら言った。「ぼくは、このゲームを、楽しんでるんですから」
 むっとする自分をなだめる。いい潮じゃないか、と自分に言い聞かせ、訊いてみた。「なんでも楽しめるのは悪いことじゃないけどさ、なんでこの状況でそんなに楽観的でいられるんだ? 誰が自分をここに連れてきたのかとか、何のためかとか、無事に出られるかとか、怖くなったり不安になったりしないのか?」
「そんなの意味ないじゃないですか」ごつん、ごつん、ごつん。天井を叩く音が少し大きくなった。「ゲームをするとき、誰が作ったかなんて、気にしないでしょ? ゲームが、面白ければ、別にいいじゃないですか」
「出口がないかもしれない、とは思わないのか」
「ゲームはクリアするために作られてるんです」
「現実の話とゲームの話をごっちゃに――」
「現実なんて、ゲームです」木下は顔を赤くしていた。白目がうっすら充血している。「ゲームとたいして変わらない。出来の悪いゲームです。ほら今だって、本物の脱出ゲームならマウスクリック一発でいけるはずなんだ。現実が、誰かが作った出来そこないのゲームじゃないって言い切れますか。現実に、出口がありますか。現実じゃ、死ぬのがクリアでしょ。ここに出口がなくたって何か変わりますか」
 不気味な発想だった。もしここに出口がなければ、浩介たちは飢え死にするか、仮に豊富に食料があっても死ぬまでさまよい続けることになる。しかし木下の考えによれば、ここから出られたとしても状況は変わらないことになる。たしかに、食事にありつけなければ人は飢え死にするだろう。生活に困ることなく健やかに日々を送ったとしても、人はいずれ死ぬ。その点だけに限れば、彼の言うことは正しいと言える。
 それでも否定したかった。そんな考え方は間違っていると、はっきり言ってやりたかった。しかし浩介にはその自信がなかった。反論は湧き上がってくるが、それを次々と自ら潰してしまう。外には自由がある? あと一年もしないうちに就職活動をしなければならない、そのことに焦りを感じつつある自分に、外には自由があるなどと言えるだろうか。外には楽しいことがある? 楽しさなんて人それぞれだ、現に木下はこの状況を「楽しい」と言っている。浩介自身もほんのいっときだが、この状況をゲームとして楽しんだ。他に何が違う? どこが違う?
 頭を振った。そうじゃない。彼の考えに同調する必要はない。おれはここから出たいんだ。だから、出られないかもしれないと思うと不安なんだ。おれにはおれなりの欲求がある。木下には彼なりの人生観がある。ただそれだけだ。
「木下くん」いつの間にか淳子がそばに寄ってきていた。「その道具、貸してくれない?」
 木下は天井を無駄に叩く行為を不意にやめた。首を曲げ、熱っぽい目で淳子を見る。
「貸して」淳子は彼に向かって手のひらを差し出した。
 木下は躊躇していた。自分の手で攻略したいという気持ちと、淳子の要望に応えたいという気持ちが彼の心の中で競り合っているのが目に見えるようだ。だが、ほどなく決着がついたらしい。彼は駄々っ子のように口を尖らせたが、「じゃあ、やっていいよ」とおとなしく棒を淳子に預けた。
 しかし淳子はそれを受け取ると、あっさり浩介に手渡した。
「背が高い人がやった方が、早いでしょうから。お願いします」
 背が高い、という言葉を冷ややかに強調していた。木下は淳子よりわずかに背が低い。そのことに彼が劣等感を抱いていると見越したような、険を含んだ言葉。彼女なりに彼を一度やっつけたかったのだろうか。
 その一撃は見事に功を奏した。木下は顔を真っ赤にして目をむいた。口をあわあわと動かすが声が出ない。「それはないじゃないか」とでも言いたげに両手が上下している。
 浩介は木下の方をあまり見ないでやった。あまりに哀れだったからだ。しかしそれは同時に、自分の表情を見られないためでもあった。あからさまな優越感が表れてしまっているかもしれない、自分の顔を。
 天井を見上げ、棒を上に向けてそろそろと持ち上げていく。棒の先端の鋏を、その円形の部分を、くぼみに合う角度に合わせる。鋏は一度ですっぽりとくぼみに収まった。そのまま右向きに回そうとするとつっかえた。そこで左に回すと、腕の動きに合わせて天井のくぼみがぐるりと回転した。四分の一回転したところで行き止まる。そっと腕を下ろすと、棒の圧迫から逃れた天井のふたが傾き、するりと落ちてきた。慌てて後ろに下がる。カツン、という乾いた音とともに、キン、という軽い金属音がした。最初の音はふたが落ちた音だ。そして二つ目の音は、小さな鍵が床で跳ねた音だった。
 浩介が手を伸ばそうとするより早く、木下が屈み込んで鍵を引っつかんだ。
「これは引き出しの鍵だな」わざとらしい解説とともに歩き出す。「ぼくはもう、二つの引き出しを開けている。片方には鋏が入っていて、あっちの隅に落ちていた棒の先に取りつけられるものだとすぐ分かった。もう一つには何かの機械みたいな絵が描かれていて、4、3、1、って数字が赤線で消されてた」
「431?」淳子と顔を見合わせる。青い部屋の最後の仕掛けの答えだ。「それ、見せてくれないか?」
「そこにあるよ」と木下は無造作に机の上を示した。浩介は棒を壁に立てかけ、机の近くに寄った。淳子もそれに続く。
 机の上に置かれた一枚の紙。そこに描かれているのは間違いなく青い部屋のあの装置だ。縦にデジタルの数字が三つ、上から4、3、1の順に並んでいる。しかしその数字部分に、マジックで赤い線が引かれている。訂正の印、この数字では誤りだという主張のように見えるが、あの仕掛けの答えはこの数字で正しかったはずだ。淳子も横で首をひねっている。
「残った引き出し二つのうちのどちらかが、この鍵で開くはずだ」木下は浩介のすぐ横で講釈を続ける。「まず一番上の引き出しを試してみよう」鍵穴に挿し込もうとするが、すぐにつっかえてしまった。「……こういうこともある」誰かに弁解しながら、木下は一番下の引き出しの鍵穴に鍵を突っ込んだ。ガチャリ。鍵はあっけなく開いた。木下の口元に満足の笑みが浮かぶ。そして引き出しを勇んで引き開けると、中にごちゃごちゃと入っていたものを次々と机の上に移動させた。
「……なんだ、こりゃ」
 浩介は呆れて声を上げてしまった。それくらい、互いに関連性のない用途不明なものが一度に出てきたのだ。
 まず、同じサイズの正方形のボード。それらは一枚ずつ、0から9までのアラビア数字の形にくり抜かれており、それが全部で三セットあった。つまり全部で三十枚。数字はそれぞれ、角ばった書体でレタリングされている。ボード自体はボール紙を重ねて五ミリくらいの厚みにしたもので、簡単には折り曲げられないほどの強度がある。
 次に、市販のものらしいすごろく盤。スタートとゴールを結ぶラインが盤上をうねるように引かれており、その途中に「三歩戻る」「一回休み」「犬の鳴き真似をする」などと書かれた円が点在している。そして「振り出しに戻る」という円だけ、赤いマジックで縁取りがされている。そこにだけ注目すればいい、ということだろうか。
 そして最後に木下が引き出しの奥から取り出し、机の上に置いたのは、三体の動物の人形だった。どれも二本足で立ち、服を着て、右手を高々と上げている。それぞれカバ、ウサギ、ゾウの顔で、目はぱっちりと大きく、口は半円形に笑顔を模して描かれている。小さな子供がいるような場所、例えば病院の小児科の待合室などに置いてありそうな人形だが、どこかちぐはぐな印象があった。浩介はすぐに違和感の正体に気づいた。ウサギの足が、なぜかゾウの足になっているのだ。他の人形も同様で、上半身と下半身があべこべになっている。
 木下もそれに気づいたのだろう、すぐさま一体手に取り、雑巾でも絞るようにねじり始めた。ちょうど膨らんだ腰のあたりが接合部になっているようで、カパッと音を立てて人形が二つに分かれた。他の人形も同じように分解すると、今度はウサギの頭と足を取り上げてくっつけようとする。どうやら正しい組み合わせにしようとしているらしい。不器用な手つきで上半身に下半身をはめ込み、自然に見えるよう角度を合わせると、カチリと音がして人形の足の裏が開き、中からビー玉くらいの大きさの白い玉が転がり出てきた。木下はにんまりと笑みを浮かべ、他の二体も同じように組み立てていく。ゾウからは青い玉、カバからは黄色の玉が出てきた。
「なるほど、なるほど」木下は三つの玉を並べ、腕を組んでわざとらしくうなった。「この三つの玉がどういう意味かははっきりしてる。それぞれ部屋の色に対応してるんだ。白い部屋が第一の部屋なら、白が一、青が二、黄色が三ってことだ。そして三つの数字っていえばこの絵にも描かれてる」とん、と短い指を例の装置の絵に置く。「431の数字の上に縦の一本線。それから『振り出しに戻る』っていうヒントもある」今度はすごろくを指し、淳子に顔を向けた。「どう、淳子ちゃん分かった?」
 急に話を振られて淳子はびくりとした。「わ、分からないわ」
「そっか。これはちょっと難しいからね。作った人は結構頭いいよ」木下は自分が作ったかのように得意そうに言った。どうやら三色の玉と機械の絵、そしてすごろくは合わせて一つの何かを表していると言いたいらしい。だがそれだと、使い道の分からないものが一つ残ってしまう。
「じゃあ、この数字の形にくり抜かれたボードは何に使うんだ? もう予想はついてるのか?」
 浩介を見上げた木下の顔は無表情だった。「形見れば分かるでしょ」
 そんなことも分からないのか、という侮蔑を露骨に向けてくる。自分の方が上だという、これも幼稚なアピールだ。しかし度重なると浩介もいらついてきた。
「おい、そういう言い方はないだろう。おれに何か文句でもあるのか?」
「な、何もないですよ」急に敬語になる。おどおどしだす。上目遣いになり、すぐ目を逸らす。悪意や自惚れは瞬く間に消えてしまった。浩介は拍子抜けした。これではまるで叱られた子供ではないか。自分の口調が人にどういう感情を起こさせるか、その結果どういう反応をされるか、そういう予想がまるっきりついていないのだろうか。
「じゃあ、使い道が分かっているのね?」
 とりなすように淳子が訊ねると、木下は少し元気を取り戻して「うん」と言った。「だってこれ、窓と同じサイズじゃない。窓にはめて使うんだよ。でも、それだけじゃ意味ないだろうなっていうのは分かるよね」
「どういうこと?」
「まだ試してないことがあるでしょ。それをまず見てみなきゃ」
 木下はくるりと回れ右していそいそと歩いていき、浩介が壁に立てかけておいた棒を手に取った。そしてまた鋏のついた先端を天井に当てようとする。何を、と問う暇もなかった。彼が棒を突き上げたとたん、あたりが真っ暗になった。照明が消えたのだ。だがその状態は長くは続かなかった。再び明かりが点くと、棒を抱えて縮こまっている木下の姿が見えた。自分の行動の結果に怯えているらしい。
「今のはなんだ? 何が起きた?」
 浩介が木下のそばまで行って天井を見上げると、ついさっき浩介が開けたふたの奥に円形の突起が見えた。ふたの大きさよりやや小ぶりな円形のボタン。あのふたが開いた一瞬に、木下はボタンの存在に気づいていたのだろうか。だとしたら意外と観察力がある。
「ちょっといいか?」
 まだ呆然としている木下は、今度はあっさり棒を譲ってくれた。浩介はその先端でボタンをつついてみた。押すと照明が消え、離すと照明が点いた。なるほどボタンが大きいから、不器用な木下でも簡単に押すことができたのだろう。だが、これが一体何の役に立つのか。
「まだ足りないものがあるんだ」木下はまた少し自信を取り戻したようだ。声が大きくなった。「まだ机の引き出しが一つ開いてないし、あっちのABCのやつにも手をつけてない。でもABCのやつは今はまだ何のヒントも出てない。適当に押しても大丈夫かな。リセットボタンあるし。でもヒントもないのに適当に押したって面白くないな」
 最後は独り言のようになる。淳子に向けて解説しているのだと思っていたが、そうではなかったのかと、浩介は首を傾げた。さっきの態度の急変といい、言葉遣いがころころ変わることといい、木下は思っていた以上に変わっている。一言で言い表すなら、年齢不相応に幼い。人との接し方を知らないのかもしれない。淳子の身の上話が頭をよぎった。育った環境上、今まで極端なほど人付き合いが少なかったのかもしれない。いや環境というより、彼の場合は性格のためというべきか。
「まだ一つ隠されているんだ」浩介の当惑をよそに、木下は誰にともなく意見を口にする。「ぱっと見て見えるところにはないんだ。隠しパネルみたいなものがあるんだ」急に振り返る。「淳子ちゃんは見つけた?」
「え、隠しパネルを、ってこと? いいえ、全然分からない」
「あるとしたらこのへんじゃないか、っていうのは?」
「予想? 全然分からないわよ」
 淳子の反応が頼りない。神経質にほほを指で引っかいている。木下に対して怯えているのだろう。
「そっかー。ぼくは見当ついてるんだけどな」淳子が不安そうになるほど、なぜか木下は張り切り出す。これも彼の幼稚さを示しているように浩介には思われた。いいところを見せたい、という自分本位の欲求が前面に表れているのだ。
「このへんの壁って変にスペースあるよね。だからこのあたりにあると思うんだ」
 木下は窓に向かって右手の壁を探り始めた。その壁には右端に鍵のかかったドアがあるだけで、たしかに左側は大きくスペースが空いている。怪しいといえば怪しい。
 だが浩介は「隠しパネル探し」という発想についていけなかった。そういうものがある、という想像をまったくしなかったわけではないが、まだ考えようのある仕掛けが残されているのに「もうヒントがないから」という理由だけで隠された何かを探そうするのは、かえって時間の無駄になるとしか思えなかった。そもそも隠されたもの、があるかどうかさえ分からないのだ。現に第一の部屋でも第二の部屋でも、壁紙を破いてまわるしかないと考えるほど行き詰まったが、結局床や天井に隠された何かを探さなければ進めない、ということはなかった。この部屋でも同じように、今あるヒントだけで充分やっていけるのではないか。
 しかしそんな浩介の考えをあっさり裏切って、「ほらあった」と木下が喜びの声を挙げた。彼が立っているのはまさに壁の左側、彼がそのあたりにあるだろうと予測した範囲内だった。彼の体に隠れてそこがどうなっているのか見えないが、彼が体をずらしたときには、壁の一部が細長い戸として開かれていた。その奥は小さな空洞になっており、木下が手を突っ込んで中から小さな鍵を取り出した。そのサイズと形状だけでどこの鍵か察しがつく。机の最後の引き出しの鍵に違いなかった。
 木下はばたばたと机に駆け寄り、淳子に「開けるよ?」と声をかけてから、鍵穴に鍵を差し込んだ。引き出しの中には天井にあるのとよく似た形の押しボタンが入っていた。木下はそれを取り出そうとしたが、引き出しに接着されているらしく持ち上がらなかった。「くっついてるね」とまた淳子に話しかけ、まったくためらうことなくボタンを押す。すると窓が一斉に光を放った。部屋と同じ色、黄色い光だ。向かい側の壁のアルファベット群が、その光に照らされて淡く輝いて見える。木下がボタンから手を離すと、光は消えた。
 木下は首を曲げて、誇らしげに淳子に話しかける。興奮して顔が上気している。「ほら、ここまできたら分かるでしょ?」
 淳子はほほを引っかきながら少し後ずさった。「いいえ、分からないわ」
 木下は浩介相手のときのように馬鹿にしたりはしない。しかし口調がさらに自慢げになった。
「数字の形に切られた厚紙があって、それは窓にはめて使うもので、窓は電気になってる。部屋の電気を消すボタンもある。全部使えば答えが浮かび上がるんだよ」
 説明がいまいち要領を得ない。淳子が黙っているのを都合よく解釈したのか、木下は両手を広げて得々と解説を進める。
「問題はどの窓にどの数字のをはめるか、だ。0から9までが三組あるから組み合わせは千通り。窓の幅は奥にいくに従って少しずつ狭くなってるの、分かる? つまり一つの窓に二枚の厚紙をはめることはできないから、そういう組み合わせは考えなくていいんだ。で、数字の件だけど、出ている数字は4、3、1っていうのと、部屋を表す玉、つまり1、2、3だ。4、3、1はこの順番に並んでるんだからこのまま使う。玉の順番はそれにヒントがある」と机の上のすごろくを指差した。「振り出しに戻る。てことはこの部屋からスタート地点に戻るっていうことだから、3、2、1ってこと。で、4、3、1のとこにはオアが書かれてるから、演算すると7、5、2、って数字になる」
「……オアって?」
「この縦の線だよ」木下は装置の絵に記された赤い線をもどかしそうに指で叩いた。「あ、ひょっとしてオアって知らない? 論理演算子だよ。桁ごとに足し算するの。ビットごとの演算じゃないと思う。二進数を使うってヒントはどこにもないから」
 オアから始まる専門用語の連続に、浩介の頭は混乱した。数学の用語だろうか。浩介が通っていた高校は受験校で、二年生に進級するときに文系と理系のどちらかを選ばされる。理系に進むとより高度な数学の勉強が待っている。浩介は迷わず文系を選択したから、理系に進んだ子たちだけが学んだ数学についてはほとんど知らない。木下が言うオアというのも、理系の子だけが習うものなのかもしれない。普通の足し算と何が違うのか、木下の説明からは理解できなかったが。
 しかし……説明がたどたどしいとはいえ、木下が謎を解くスピードには驚かされるばかりだ。天井のボタンを見逃さず、壁に何かが隠されていることを予測し、現れた奇妙な物に対して筋の通った解釈を下す。人形の上下が入れ違いになっていることを即座に見抜いただけでなく、正しい組み合わせに直すことが必要だとすぐに察知して即実行に移す。数字が切り抜かれたボードのサイズが窓枠の大きさと一致していることを瞬時に把握し、照明のスイッチについても使い方をすでに突き止めているようだ。数字の組み合わせについては理系の彼に分があるにしても、脱出ゲームに慣れている、というだけでここまで手際よくできるものだろうか。現に青い部屋ではあれほど活躍していた淳子が、この部屋に来てからは一つも仕掛けのからくりを解いていない。いや、解いていないというより、木下のスピードにまったくついていけていないという方が正しいかもしれない。なにしろ木下は、悩む、ということすらほとんどしなかったのだから。
 ――彼が犯人、ってことはないでしょうか。
 ――木下くんは何か……どこか歪んでます。
 ――私、人を見る目はあるつもりです。
 淳子の言葉が浩介の脳裏にこだまする。ひょっとしたら、彼女の直感は正しいのだろうか。木下が犯人の側の人間だとしたら、この部屋の作りをすでに知っている人間だとしたら、これだけの数の仕掛けをさして苦労もせず、行き詰まりもせずに解くことは容易なことだろう。浩介がその立場であったら、もっと考え込むふりくらいはしただろうが、木下にはそんな器用な真似はできないのかもしれない。だがいずれにせよ、淳子を疑ったときと同じ疑問にぶつかる。彼が犯人だとして、一体なぜ、こんなことを?
 まさか淳子にかっこいいところを見せたかったから、じゃあないよな。浩介は自分の考えを笑って流そうとしたが、すぐに、まったく考えられないことではないと思い返した。淳子の来歴――彼女はある種の有名人だ。もし彼女のことを、入学前から木下が知っていたら? あるいは入学してすぐに、「あの」相馬淳子が同級生にいると気づいたとしたら? 人付き合いの苦手な、しかし経済的には恵まれている彼が気に入った女の子に好かれようと思ったら、信じられないようなことでも平気でやってのけるのではないか。
 その場合、浩介はさしずめ引き立て役として巻き込まれたというところか。木下の浩介に対する態度からすれば、あり得ないとはいえない。その引き立て役が最初の部屋で早くもつっかえてしまったために、ヒントを出して催促してきた。そう考えれば、乱暴ではあるが一応、一連の行動の筋は通る。
 どちらにしても木下が仕掛けを自分で解きたがっている以上、彼に任せておけば案外早くここから出られそうだ。仮に彼が犯人などではなく、浩介たち同様さらわれてきた人間だとしても、彼が脱出ゲームという世界において優秀な戦力であることには変わりない。淳子とは違う意味で頼れる存在だ。
 浩介が考え込んでいる間にも、木下は着々と作業を進めていた。7、5、2という数字のボードを窓に順にはめていく。彼の予想どおり、ボードは窓枠より少し奥の位置にうまくはまり込んだ。しかしこれから何が起こるというのか。
「淳子ちゃん、ぼくが合図したら、そこの引き出しのボタンを押してくれない?」浮き浮きした声で淳子に頼み、そのついでというように浩介に顔を向ける。「そっちの人。天井のを押して」
 また敬語でなくなった。口調にも尊大な響きが戻っている。しかも人を「そっちの人」呼ばわりだ。浩介は苛立ちを通り越して嫌悪を覚えたが、彼の思いつきがどんなものかを知りたい気持ちが強かった。無言で棒を手にし、照明ボタンの真下に移動する。
 木下はアルファベットのボタンが並ぶ壁の前に立ち、「押して」と言った。淳子がボタンを押すのを待って、浩介は部屋の照明を消した。とたんに「おお」と思わず声を上げてしまった。
 窓から発した明かりは数字の形に切り取られ、アルファベットの壁に光の数字を映し出していた。輪郭はややぼやけているが、数字だと認識するには充分だ。そこまでは浩介にも予想がついていたが、その利用方法が分からずにいた。しかしこうして実際に仕掛けを連動させてみると、その意図するところは一目瞭然だった。
 数字の形の光の中に、アルファベットがきれいに納まっていた。数字の形にアルファベットが並んでいる、と言い換えることもできる。
 数字が角張った形にレタリングされていたことの本当の意味が、ようやく理解できた。もし印刷に使われるような普通の、滑らかな曲線を持つ数字であったら、光から中途半端にはみ出る文字が出てしまうだろう。逆に数字に合わせてアルファベットを配置したら、その配置から正しい数字の組み合わせが類推できてしまうかもしれない。そこでレタリングという手間をかけたのだ。浩介はうなってしまった。よくできている。
「光ってるボタンを全部押して、OKを押せばいいんだ」
 そう言い添えながら、木下が次々とボタンを押していく。その動きは自信に満ち溢れている。これだけの大仕掛けを頭の中だけで解いたのなら、誇りたくもなるだろう。一方で、最初から答えを知っていたのだとすれば、当然自信を持って行動できるだろう。どちらとも考えられるが、それを見分けるだけの決定的な証拠がない。
 すべてのボタンが押された。ややあって「もういいよ、電気点けて」と木下の声が暗がりから飛んできた。天井に棒を押しつけていた腕の力を緩める。照明は柔らかかったが、それでも急に明るさが増したために、少し目を細めずにはいられなかった。
 部屋の照明だけで照らされたアルファベットを見ると、どれが押されていてどれが押されていないのか、離れた場所からは判別できなかった。
「あとはOKボタンを押すだけ。これで鍵が出てくるんじゃないの」
 木下はそう言って、無造作にボタンを押した。自分の考えが正しいと信じきっている人間の行動。
 しかし、とたんに鳴り響いたブザー音が彼の行いを否定した。その不吉な響きにその場の全員が凍りつく。
 次の瞬間、まず浩介が感じたのは「風」だった。淀んで静まっていた部屋の空気が木下に向かって一斉に流れ、風となり、空気がこすれ、すきま風のような甲高い音が静寂を切り裂いた。そして部屋のほぼ半分、窓から遠い側の床が、がくんと割れて下に向かって開かれた。ちょうど両開きの扉のように。そしてその扉は、真の闇に通じていた。
 あっ、という悲鳴が木下の体とともに闇に落ちていった。吸い込まれるように消えていった。一瞬の、まったく予想外の出来事に、浩介は身動き一つできなかった。木下が床下に消えるのを、ただ目を見開いて見送っただけだった。
 落下音はしなかった。床に肉体が叩きつけられる音も、どのような種類の悲鳴も聞こえなかった。獲物を飲み込むと、床は速やかに閉じられた。またひゅうっと空気の通る音がしただけで、後には木下など最初から存在しなかったかのようなよそよそしい静寂と、人一人の存在感を失った空疎な空間が残った。
 浩介はただ棒立ちに立ち尽くしていた。たった今起きたことの意味が理解できない。あれほど的確に謎を解いていた木下が失敗するはずがない、そういう安心と油断が思考にブレーキをかけていた。木下がしくじった、しくじって落ちた、そのことが認識できているはずなのに、体が動かない。自分とはまったく関係ない、ひどく遠い場所での出来事に感じられる。動かなければ、という意識はあったが、何をしていいのかまるで分からない。恐ろしいことが起きたのだと頭では理解しているのに、不思議と心は落ち着いている。いや、落ち着きすぎている。
 床の裂け目はすでにぴったりと閉じられ、どこが境界なのかさえ定かではない。その下はどうなっているのだろう。あの瞬間、浩介の目には真っ暗闇しか見えなかった。底なしということはないだろうが、一体底までどれくらいあるのだろう。上に戻ってくる方法はあるのだろうか――
 はっとした。下は暗闇だ。彼が自力で上がってこれるはずがない。こちらから助けなければ。
「木下!」
 浩介は床に向かって大声で呼びかけた。自分がどれくらい逡巡していたかは分からないが、すぐに行動できなかったことに情けなさを感じた。
「木下!」
 床に這いつくばり、何度も呼びかける。タイルのような模様をなぞって落とし穴の境目を探す。見つからない。どれも同じようなくぼみに見える。慎重に床を叩いてみる。その位置を少しずつ遠くにずらしていく。しかし硬質な感触はどこも一緒だ。こぶしに込めた力がそのまま冷たく跳ね返ってくる。
 思い切って彼が立っていたあたりまで這っていった。床は彼が体重をかけてもびくともしない。アルファベットの壁の前まで行って床にこぶしを打ちつけてみたが、どっしりと硬い感触しかない。幻でも見たような気分だった。実際に床が開いたところを目にしているのに、こうして目で見、手で探ってみても、そこが開閉式になっているとはとても思えない。ここを開くには人の力ではとても……。
 どさり、という音に振り返ると、淳子が机の傍にへたり込んでいた。糸の切れた人形のように両腕をだらりと下げ、首をうなだれている。ショックで脱力してしまったのか。浩介は彼女の元へと駆け寄った。床にひざをつき、彼女の様子を窺おうとそっと覗き込む。
「淳子?」
 彼女の瞳がゆらゆらと踊っている。浩介の方に向けられはしたが、焦点が定まらない。唇がかすかに動いた。
「……です」
「え?」
「もう、いやです」
 一瞬、泣き出しそうな表情になる。しかしまた無表情に戻った。ほほが痙攣している。堰を切って流れ出そうとする感情を、必死に抑えようとしている。
「こんなところ、早く出ましょうよ」ゆるゆると首を振る。前髪が彼女の瞳を隠した。「もういや。何が起きてるのか分からない。ここから出してください。早くうちに帰りたい。帰らせて」
 声が震えている。息が荒い。彼女の自制心が弾けようとしている。落ち着かせないと、と浩介は混乱する頭でそれだけを考えた。彼女を落ち着かせないと。落ち着かせないと。その思いが彼の手を持ち上げ、淳子の細い肩をなでた。
 堰が切れた。
 淳子が浩介の胸にしがみついてきた。驚くほどの力で浩介のシャツをつかみ、彼の胸に顔を埋めようとする。怖い夢を見た子供が親にしがみつく姿と同じだった。彼女は怖がっている。救いを求めている。安らぎを、人の温もりを求めている。それがひしひしと伝わってくる。だが、彼女は泣いてはいなかった。肩は細かく震えているが、泣き声はない。まだぎりぎりでこらえているのだ。それが気丈な彼女にとっての、最後の砦なのかもしれない。
 浩介はただ、彼女の背に手を回してさすってやるしかなかった。彼女の体は温かかった。なぐさめているのは浩介の方なのに、温もりを与えているのは浩介のはずなのに、彼女の方が温かかった。それに気づいたとき、浩介は胸の中に穏やかな気持ちが広がっていくのを感じた。浩介の胸の内で緊張していたものが溶け、ほぐれていく。彼は自分も救いを求めていたことに気づいた。突然知らない場所で目を覚まし、数々の危険を潜り抜け、理解しがたい状況をどうにか乗り越えてきた彼の精神は、日常とはまったく違う種類の緊張と不安とで疲れきっていた。いま、必死にしがみついてくる淳子に、しがみつかれている自分が癒されている。安心させようとかぼそい背中をさする手は、逆に彼女の温もりを感じて安堵している。その奇妙なおかしさがまた、彼の心を軽くした。
 彼のあごのすぐ下にある淳子の髪は、甘い香りがした。
 どれくらいそうしていただろうか。二人は自然に身を離した。
「……ごめんなさい」と淳子はうつむいた。「私、取り乱しちゃって……」
「いや、いいよ別に」浩介は気恥ずかしくなって横を向いた。しかし気分はよくなっていた。「木下を早く助けてやらないとな」
「でも、そこを開けるにはあのボタンを押さなきゃいけないんですよね」淳子は顔を上げてOKボタンを見つめた。目の縁が赤くなっている。「そうしたら、押した人がまた落ちてしまいます」
「あの棒を使えば……」と浩介は床に転がっていた棒に目をやったが、すぐにかぶりを振った。床の開閉部分の幅は、棒の長さより明らかに長い。
「あの……冷たく思われると、嫌なんですけど」淳子は床に目を落として少しためらったが、顔を上げると必死なまなざしを浩介に向けてきた。「先に、進みませんか」
「彼を置いていく、ってこと?」
「今の状況じゃ、助けられないと思うんです。……木下くんが落ちたとき、私の位置からは穴の底が見えませんでした」
「……おれにも見えなかった」
「それだけ深いっていうことです。ロープか何かがなければ、助けに下りることはできません。でもそんな便利な道具はここにはありません。人手も足りません。助ける方法が、ないんです」
 淳子の言葉には説得力があった。理性で考えれば、木下を救う手段はない。だが良心がとがめた。じゃあ行こう、とすぐに立ち上がる気にはなれない。
 しかし、悩んでいるうちに時間が過ぎてしまう。もし木下が落下により大怪我をしているとしたら、ここで浩介たちが迷い留まっていることこそが命取りになりかねない。
 進むしかなかった。それは非情なことではなく、必要なことだった。
 だが、どうやって?
「木下はすべての仕掛けを正確に読み解いているように見えた。でもどこかに間違いがあった。どこだ? 彼の間違いはどこにある?」
 思い当たることが一つあった。
「淳子、オアって知ってる? おれは高校のときから文系だから、数学をあんまり習ってないんだ」
「私も知りません」淳子はほほを何度か指で叩いた。視線を斜めに落とし、何かを思い出そうとしている。「……彼、たしか論理演算子、って言ってました。でもそんな言葉、高校では習っていません。なぜ足し算でよかったのかも分かりません。オアって、たぶん英語ですよね。足し算は英語でプラスです。だから足し算とよく似た、でも別の何かなんだと思います」
「そこがどうも、引っかかるんだ。今まで解いてきた仕掛けには、計算を使うものなんてなかった。注目しなきゃいけない点に気づきさえすれば、小学生でも解けるようなものばかりだった。なのにここにきて、必要な知識レベルが急に高くなるっていうのは、どうも納得がいかない」
 浩介の頭の中には、その裏づけとなる考えがあった。この奇妙な続き部屋を作った犯人は、ほぼ間違いなく浩介に仕掛けを解いてもらいたがっている。彼だけが犯人からメッセージを受け取っていることが、その証だ。もし一連の仕掛けが浩介に合わせて設定されているのだとしたら、あまり高い教養や、専門的な知識が必要な仕掛けは作れないはずだ。
「私も一つ、気になっていたことがあるんです」と淳子は自分の考えを確かめるように、床の一点を見据えながら言った。「木下くん、三色の玉を数字に置き換えていましたよね。そこまではいいんですけど、その数字を他の数字と組み合わせて使う、っていう発想はちょっと強引だったんじゃないでしょうか。あの三つの玉は、別の使い道があるんじゃないでしょうか」
 そう言われると、浩介もそこの解釈が粗かったような気がしてきた。赤い縦線で否定された数字と、三色の玉。それらは玉を数字として考えたとき、初めて関連があるように見えてくる。しかし玉の用途が別にあるのなら、これらは切り離して考えなければならない。
「となると、すごろくの『振り出しに戻る』っていうのも考え直さなきゃいけないな。三色の玉と関係があるとすれば木下の考え方は一つの正解だろうけど、もしそうでないなら……」
「そうでないなら、赤線が引かれたあの絵の方と関係するのかもしれません」
 青い部屋の仕掛けの絵。そこに引かれた赤い線。その線は訂正のような意味合いを持つと同時に、絵の中でも数字の部分に注目させようとしている。すごろくも同じだ。赤い丸で「振り出しに戻る」の部分が強調されている。両者は同じ特徴を持っているのだ。そうなると、関連性が高いように思えてくる。
 数字の訂正。あの数字は違う、という強調。振り出しに戻る、というアピール。何が振り出しに戻るのだろう? 数字を振り出しに戻すということか? 数字の振り出しとは、ゼロのことだろうか。いや、違う。あの機械の数字は最初、三つのゼロを表示していたわけではない。最初は……振り出しの数字は、なんだった?
「818、だ」浩介は思い出した。最初に見たとき、その中途半端な数字に、何か意味があるのだろうか、と疑問を持ったのだ。だから記憶に残っていた。勢い込んで淳子に根拠を説明する。
 淳子は目を輝かせた。「それですよ。すごい、ぴったり合ってるって感じがします」
 二人はすぐに、窓にはめ込まれたプレートの交換を始めた。この考えが間違っていたら、という不安が浩介にはなくはない。だがいつかは三つの数字を決めなければならないのだ。間違えてしまったときの覚悟はできていた。
 準備が終わると、浩介は天井のボタンを押すための棒を淳子に無理やり手渡した。
「おれが数字を予想したんだから、おれがあっちのボタンを押すよ」
「でも……」
「大丈夫。今度のは当たりだって」
 自らの不安を吹っ切ろうと、力強く請け合った。保証はない。しかし心配していてもきりがない。心配させる意味もまた、ない。
 窓の明かりについては対策を考えてあった。点灯ボタンは引き出しに固定されていて動かせないが、その上にカバの人形をあてがって高さを稼ぎ、余っている数字プレートを机の端から人形の上に渡すように載せてみた。見込みどおり、充分な重さがかかってボタンが押しっぱなしの状態になった。これで二人だけでも部屋の仕掛けを解ける。
 二人。引っかかるものがあった。天井のボタンは、使える道具をすべて使っても、常にオンの状態にすることはできそうにない。かといって天井の照明を点けっぱなしにしていては、窓の明かりと影響しあってどのアルファベットが照らされているか判別しにくい。壁のボタンも同様に、落とし穴の上に立って押す以外に手はない。つまりこの仕掛けは、二人以上の人間がいないと解けないということだ。ということは。
 浩介以外の人間がここに連れて来られたことにも、必然性があるということだ。
 ふうっと息を吐く。それは裏を返せば、もしここで浩介がしくじればゲームオーバーということだ。もしそうなったら、を考える必要はない。続きを考えるのはここを突破してからでいい。
 アルファベットの壁の前に立つ。すでに押し込まれているアルファベットは、再度押しても元に戻らなかった。元に戻すにはこれか、とRESETの文字が書かれたボタンに目をやる。まだ誰も触れていないボタンだ。おそるおそる押してみると、ザッ、と思ったより大きな音を立てて、押し込まれていた文字がすべて元に戻った。小さく深呼吸してから、淳子の方を振り向く。彼女はうなずき、天井の明かりを消した。8、1、8、の形にアルファベットが浮かび上がる。一つ一つ、光の中のボタンを丁寧に押していく。やすりでこするような音をかすかにさせながら、ボタンが壁へと沈んでいく。
 すべてのボタンを押し終えると、ぱっと部屋の照明がついた。淳子が棒をその場に投げ捨てて浩介のもとに走ってきた。何も言わないが、頑なに浩介を見上げてくる瞳は雄弁だった。打ち捨てられた竹の棒が床を転げる音が、他に誰もいない室内に虚ろに響いた。
 一人残されてもどうしようもない。彼女もそれを理解しているのだ。
 浩介はOKボタンに触れた。表面は滑らかだ。息を呑む。そのまま、ぐっと力を入れて押し込んだ。
 左手で乾いた音がした。閉ざされたドアの方だ。床はしっかりと二人分の体重を支えて揺るぎもしない。自分の鼓動が耳に大きく響いていることに、浩介はようやく気づいた。緊張していた総身の血が解き放たれ、勢いを得て巡っているのだ。
「正解、ですね」淳子が顔を上気させて言った。
 安堵と喜びがこみ上げ、浩介は顔の高さに両手のひらを掲げた。淳子がそれに自分の両手を合わせてくる。ハイタッチ。一瞬触れた彼女の手は冷たく、しっとりとしていた。
「でも、のんびりはしてられないな」床を右足で軽くタップする。「下で木下が待ってる」
「そう、ですね」淳子は少し言いよどみ、そっと目を逸らした。木下はもう助からない、そう思っているのかもしれない。だとしても無理はない。彼女にはあのダーツの矢の恐怖がまとわりついている。まともに当たっていたら致命傷は免れなかったであろうトラップ。ここを作った人間は間違いを犯した人間に容赦などしない。その思いは、浩介より彼女の方が強いだろう。
 木下が無事かどうかを知る術はない。考えるだけ時間の無駄だった。浩介はさっき音がした方に目をやった。ドアの上部、浩介の胸の高さくらいの位置に、三つの半球型のくぼみが現れていた。ドアのその部分が回転したか、ふたがスライドしたか、どちらかだろう。くぼみの内側には1、2、3と数字が書かれている。そこに何を埋め込めばいいかは、形と番号から簡単に予想できた。
「木下の推理どおり、だろうな、ここは」
「白が1、ですよね。私もそう思います」
 人形の底から出てきた三色の玉。木下はそれを、ここまでの部屋の色と関連付けて数字に置き換えていた。その考え方がここで役に立つ。
 浩介は机の上から三つの玉を取ってきた。番号順に白、青、黄、の玉をはめ込む。ためらいはなかった。他の組み合わせが考えられなくはないが、色を数字に変換、というだけでも本来なら頭をひねる作業だ。そこまで複雑な仕掛けをここの作り主は好まない。そんな気がした。
 三つの玉がくぼみにきれいに収まった。と同時に錠が開く重い音がした。胸が高鳴る。淳子に目をやると、彼女は強くうなずいてきた。
 ノブに手をかける。硬質な冷たさが手のひらの熱を奪う。ノブを回し、ゆっくりとドアを押す。その力に逆らうものはなかった。ドアは音もなく開いた。
 浩介たちの目の前に現れたのはまたも、部屋、だった。しかし今までとは明らかに様子が違う。プレハブ作りのがらんとした部屋で、アルミサッシの曇り窓が左右の壁に一つずつついており、そこから赤みがかった光が差し込んでいる。天井の照明も安っぽい蛍光灯だ。そして何より、そこには街の雑音があった。車が行き来する音が遠く聞こえてくる。鳥の鳴き声が響いてくる。スクーターのものらしいモーター音がすぐそばを通り過ぎていく。
 浩介たちの真向かいにドアがある。あれは、外に通じるドアだ。浩介は確信した。あれがゴールだ。
 人の気配はなかったが、念のため慎重に新たな部屋に踏み込み、誰もいないことを確認する。と、左手の壁際に寄せて女物のハンドバッグが置かれているのが見えた。その横には靴やベルト、財布や携帯電話などの小物類がまとめてある。浩介の持ち物もその横にきちんとまとめられていた。携帯を拾い上げ、日時を確認する。日付は飲み会の翌日、時間は午後四時半を少し回ったところだった。続いて財布を取り上げ、中身を確認する。いくら入れておいたか正確には憶えていないが、中身が盗まれているようには見えなかった。財布をジーパンの尻ポケットに収めると、靴を履き、ベルトは淳子の前で身に着けるのも抵抗があったので、ゆるくまとめて手に持った。
 遅れてやってきた淳子は迷わずバッグを手にした。やはり彼女の持ち物のようだ。彼女はすぐに中身を確認したが、こちらも盗まれているものはなさそうだった。確認を終えると、彼女は黒字に白いリボンのついたミュールを履いた。あとに残されたブランド物の財布や靴は、おそらく木下の持ち物だろう。
「あとは、あのドアに鍵がかかっているかどうか、だな」
と浩介はつぶやいたが、あっさり開きそうな気がした。この部屋にはもう、脱出ゲームを思わせる装置や凝った装飾、鍵の入っていそうな箱などは一切見当たらない。それにもしドアに鍵がかかっていたとしても、窓から出られそうだ。
 飾り気のないドアのノブに手をかけ、回す。あっけないほど簡単にドアは開いた。砂の匂い、煙のようなくすぶった匂いが鼻をくすぐる。ドアを押し開けた先にはアスファルトで整地された広々とした地面と、隣家との境に巡らされた高いフェンスが見えた。フェンスの上部には鉄条網が張られている。暮れかかった空は橙色に染まり、細い雲が夕日を受けて静かに浮かんでいる。少し湿り気を帯びた春の風が、やわらかく吹きつけてくる。
 外だ。
 室外へと歩み出た。工場の敷地を思わせるアスファルトの地面が左右に広がっている。道路に面したフェンスの一部が切れており、横に開く型の鉄の門が出入り口を閉ざしている。敷地内に人気はない。周囲の道にも人影はない。
 ヒールの音に振り返ると、淳子がまぶしそうに辺りを見渡していた。
「出られたみたいだな」
「……はい」
 二人は左手の門を目指して歩き出した。途中、浩介は振り向いて、自分たちを閉じ込めていた建物を斜め方向から眺めてみた。外見はプレハブの倉庫のようにしか見えない。その裏側にも敷地は続いているようだが、見える範囲には平たい地面がのっぺりと続いているだけで、建物も資材なども見当たらない。少なくとも今は、脱出ゲームの建物のみがこの敷地を支配しているようだ。
 向き直る。門まであと五十メートルほどだ。
「あの門、あっさり開くかな。錠が下りてそうだけど……いざとなったらよじ上って上から出るしかないか」
「それ、痛そうですよ。あの針に引っかからずにできるんですか?」
 指摘されて初めて気づいた。フェンスの上の鉄条網は見えていたが、門の上のは同系色であるうえに夕日の影になっていて気づかなかったのだ。
「……目がいいな。ごめん、上からは無理だ」
「最悪のときは、先輩がんばってください」
 淳子がいたずらっぽく笑いかけてきた。
 だが、もう冒険をする必要はなかった。門には内側から掛け金が下りているだけで、それを留めておく錠はかかっていなかった。掛け金を外して横に強く引くと、門は盛大にきしんだ音を立てながら開いた。その一歩先は普通の道路だ。
「ここ、どこだろう」
 浩介は周囲を見渡した。すぐ目の前の家の表札は「山田」となっている。辺りの景色からも、ここが日本国内であることはまず間違いなさそうだ。しかし、それ以上のことは分からない。どこかに住所表示はないか、なければどこかの家で訊ねるか、と浩介が歩き出そうとしたとき、
「私、ここ知ってます」
 後ろから淳子が声をかけてきた。振り向くと、彼女は少し離れた坂の上に建つ、一軒の家を見つめていた。
「あの家の屋根、ちょっと変わったデザインでしょう? それとこの坂の感じ、見覚えがあるんです」
 淳子はその屋根を指差した。たしかに、急な勾配とそれに続く波型の屋根は特徴的だ。
「高校時代に友達と、この辺りに何度か遊びに来た気がするんです。往復の車の中から見た、っていう方が正しいですけど。たぶん、都内です」
 確信しているようだ。慎重な言い回しだが、声が弾んでいる。
「じゃあおれたちが家に帰る分には問題ないな。あとは……」フェンスの向こうに目をやる。気分が急に重くなる。「木下のために助けを呼ばないと。こういう場合、まず呼ぶのは警察、でいいのかな」
「そのことなんですけど……」淳子が罰の悪そうな顔をする。「私に任せてはもらえないでしょうか?」
「……どういうこと?」
「今回のことは、公にしたくないんです。その、たぶん父に知られたらおおごとになるので」浩介が不審そうにするのを見て、慌てて付け加える。「父が親しくしている警察の方がいらっしゃるんです。その方に私から連絡して、すぐ対応してもらいます。なので地元の警察への通報は……」
 そう必死に懇願されると、浩介には受け入れるほかなかった。近くの家の人に手伝ってもらって、木下救出だけでも急ぐべきではとも考えたのだが、おそらくそれも「おおごと」になるのだろう。
「木下がどんな状態か分からないから、急がないと……」
「分かってます。大丈夫です。その、かなり上の立場の方なので」
 淳子は携帯を取り出した。軽く左右に目をやり、少し離れた路地の方へと小走りに歩き出す。が、つと振り返って浩介を呼んだ。
「私、先輩のサークルに入ってみようと思います。これからもよろしくお願いします」
 小さく頭を下げ、くるりと身を翻して早足に歩いていく。路地の入り口でまた周囲を窺ってから、浩介から少し身を隠すように路地に体を寄せ、携帯を耳に当てて話を始めた。その声は浩介のところまではまったく聞こえてこない。それなりに周囲を気にする会話になるのだろうな、と浩介はぼんやり思った。だが彼女になら、任せておいて大丈夫だろう。今回の事件でのやりとりを通じて、淳子への信頼感は揺るぎないものになっていた。彼女とはこれからもいい関係を築いていけるだろう。さっきの突然のサークル入会宣言も、彼女が彼と同じ気持ちを抱いてくれている証に違いなかった。
 木下の件を淳子に一任してしまうと、急いですべきこともなくなった。ここまで遅れてしまったら、バイト先への連絡は今すぐでなくてもいいだろう。まずは言い訳から考えなければならない。飲み会の帰り道で拉致されまして……などと言ってもまず信じてもらえないだろう。どのみち浩介にだって真実は掴めていないのだ。
 安心したためか、疲労がどっと寄せてきた。地面に座り込みたかったが、それも格好悪いので門に背を当てて寄りかかった。鉄の門は抗議するようにぎしぎしと鳴ったが、構わず身を預ける。
 実際には一日も経っていなかったが、最初に白い部屋で目を覚ましたのが遠い昔のことに思えた。今思えば、あの部屋は明らかに初心者向けの作りだったが、それでも浩介をうろたえさせるには充分だった。ピエロのトラップも手加減がされていた。脱出のヒントまで与えられた。
 なぜだろう。
 続く青い部屋では淳子と出会った。彼女は利発で明るく、浩介をいろいろな面で助けてくれた。二人して危険に身をさらし、一緒に謎を解き、秘密を共有した。それは今、彼女との間にたしかな連帯感を芽生えさせている。
 そして木下。付き合いづらい性格だが、頭の回転は速かった。彼がいなかったら、脱出までもっと時間がかかっていたかもしれないし、ひょっとしたら穴に落ちていたのは浩介だったかもしれない。彼はある意味で、浩介たちの身代わりとなったのだ。誰かに強制されたわけではなく、自分自身の意思に従った結果として。
 なぜ、この三人だったのだろう。そしてこの結末は、犯人が望んだものなのだろうか。
 全身がけだるい。思考力も鈍くなってきた。浩介は空を見上げた。いずれにしろ、あとは警察がなんとかしてくれるだろう。淳子の知り合いなら、裏で何があったかも突き止めてくれるだろう。これ以上思い悩むことはない。自分たちは犯人のゲームに無理やり付き合わされたが、見事にゲームをクリアしてやった。今はそれだけでいい。
 ゲーム、か。
 夕日を背に、二羽の鳥が大空を横切っていく。浩介はそれを目で追った。翼が欲しいと願った大昔の人の気持ちが、今はよくわかる。人間は大地に縛りつけられている。人と人とのしがらみでがんじがらめになっている。大空に飛びたつことは、解放の象徴なのだ。それを夢見てしまうほどの束縛を、人はしばしば感じてきた。そんな息苦しさを感じるのは、遠い祖先たちだけではない。
 出られた気が、しないのだ。
 ゲームの場、作られた環境からの脱出には成功した。しかしその先に待っていたのは、より複雑でより生々しい世界だ。選択肢も危険も、おそらくは正解も無数にある。この世界そのものが巨大な脱出ゲームなのだ。浩介たちはほんのいっとき別のミニゲームに参加させられていただけで、結局もといたゲームに戻ってきたに過ぎないのではないか。
 疲れているな、と浩介は自嘲した。発想がまるで木下のそれのようだ。木下はおそらく現実世界にうまく馴染めず、物事を複雑に考えすぎ、挙句に自らの凝り固まった想念から一歩も外に出られなくなっていたのではないか。もっと気楽にいけばいい。この世界を楽しめばいい。いずれ何かを選ばなければならないときがやってくるだろうが、何を選ぶかはそのときに、あるいはそのときまでに考えておけばいい。
 選ばなければいけない物事は数え切れないほどある。しかし今日は疲れすぎている。頭を悩ませるのは明日からでもいいだろう。明日になったら、もう少し真剣に考えよう。自分の行く末のこと、将来のことを。
 夕日の刺すような輝きを、浩介はまぶたを閉じて遮った。