ホーム > 小説 > その足の翼は > (四) |
選抜メンバーの決定から二週間が経ったある日、ホームルームを終えてさっさと帰宅しようとしていた武史を、担任の柏葉が廊下で呼び止めた。
「なんすか」
武史はうっとおしい気持ちを隠そうともせずに振り返った。早く帰って練習を始めたかったのだ。といっても練習が楽しみだからだとは、武史は思っていなかった。早く始めればそれだけ、クラスメートに走っている姿を見られる可能性が低くなる、それだけのことだ。
武史の学校では基本的に全生徒がなんらかの部活動に参加することになっているため、これほど早い時間に帰宅する生徒は体調を崩しているか、部活をさぼってゲームセンターあたりでひたすら時間を潰す連中か、さもなければまっすぐ塾に向かうか……いずれにしても早い時間帯なら、河原や、商店街の外れの路地裏で同校の生徒とばったり出くわすことはほとんどなかった。
柏葉は長袖のポロシャツにジャージのズボンという体育教官お決まりのいでたちで、出席簿のようなものを小脇に抱えていたが、そんな格好にそぐわない穏やかな口調で言った。
「本郷、おまえ明日の放課後、選抜練習会に出てみないか」
「選抜練習会?」
「やっぱり聞いていなかったのか」小さくため息をつく。「先週話をしただろう。持久走大会の選抜メンバーだけで、週一回放課後に集まって本番のコースを走るんだ。練習会への参加は部活動より優先していいことになっている。おまえは……囲碁部だったな。吉岡先生に一言言っておけば話は通るはずだ」
吉岡、という名前が囲碁部の顧問の名だと思い出すまで、少し時間がかかった。一年生のときに数回のぞいただけの部活のことなど、武史はすっかり忘れていた。武史が真面目に部活に取り組んでいるはずがないことくらい、柏葉も分かっているはずだが――現にこうして放課後まっすぐ下駄箱に向かっているのだ――、しかし嫌味も叱責もほとんど口にしないところが、彼と他の体育教官たちとの大きな違いだった。
「いや、いいっす。そういうの興味ないんで」
武史は横を向いた。
「そう言うな。本番のコースは交通量の多い場所を通るから、練習会では危ない箇所に先生方がついて誘導してくれるし、練習会の時間帯は地元の警察にも連絡して危険防止の手立てをとってある。本番と同じコースで練習する環境が整っているんだ。それに全学年の選抜メンバーと一緒に走れる数少ない機会だ、いろいろと得るものがあると思うぞ」
参加しろ、と居丈高に言われないのが実にやりにくかった。強く出てくれば反発したくなるから、適当に返事だけしてすっぽかしても気が咎めないし、下手に出てくれば鼻で笑って聞き流すことができる。意のままにしようとあの手この手を使ってくる相手にはどうとでも対処できるのだが、淡々と説かれるとどう反応していいのか分からなかった。そういうことには慣れていないのだ。
一年生の集団が下駄箱に殺到し、賑やかな声に遅れて靴と土の匂いがかすかに漂ってきた。じっと返事を待たれて我慢できなくなり、横を向いたままぼそぼそと答えた。
「別に……他のやつと一緒に練習するとか、キャラじゃないんで」
急に自分のことが不愉快になってきた。もう少しまともなことが言えないのか。これではまるで駄々をこねる子供だ。
苦い顔をしている武史を、柏葉はしばらく黙って見つめていたが、やがてあっさり「そうか」と言った。
「おまえがしたいようにすればいい。だがもし参加してみたい気持ちになったら、明日の放課後、体育倉庫の前に体操服で来てくれ」
そう言い残して職員室のほうへ立ち去る柏葉の背中を、武史はぐっとにらみつけた。何かを見透かされているように感じるのは、ただの苦手意識のせいだろうか。柏葉の背中にはその答えは書かれていなかった。
「選抜の練習会だ?」
その日の練習前、庭で屈伸運動をしながら柏葉の提案について話すと、ストップウォッチをもてあそんでいた敏久は顔を上げて短く笑った。
「なんだそんなもん、出たけりゃ出ればいいし、面倒なら出なけりゃ済む話じゃねえか。わざわざオレの意見を聞くことじゃねえだろうがよ」
「別に意見を聞きたくて話したんじゃねえよ。たださ、なんつーか……」
武史は口ごもった。みんなで仲良く練習なんて、ばかばかしくてやってられねえ。ただそう言えばいいのに、いざ口に出そうとするとためらわれた。かえって子供の言い訳めいて聞こえそうだ。
敏久は面白そうに目を細めてそんな武史の様子を伺っている。
「はっきりしろ。出たいのか、出たくないのか」
「そりゃあ……」
「最近タイムが上がってきたもんで、ちいとばかし頭に乗ってたんじゃあねえのか」
冷やかされたと思ってむっとした。記録がよくなってきているのは事実である。始めの頃よりも記録の伸びは緩やかになっているものの、毎日確実にタイムが縮んでおり、昨日はついに十五分の大台を初めて切った。練習の成果が目に見えるのは気分がいいものだ。だが、まだ本番よりずっと短いコースを走っているという引け目は常につきまとっている。そろそろもっと長いコースに変えてもいいだろ、と何度か交渉してはいるものの、昨日も敏久にまだ早いと一蹴されたばかりだった。
「そんなんじゃねえよ。ただ……そうだ、まだおれには五キロコースは早いんだろ? 昨日ジジイがそう言ったばっかじゃねえか」
それを聞いて、敏久はカッカッと笑った。
「ガキみてえにふてくされてるんじゃねえよ。オレが言ってるのはあくまで毎日の練習で走る距離のことさ。たかだか週一回ぽっきり、ちっとくらい長い距離を走ったところで、何がどう変わるってこともねえだろうよ」意地悪く笑って続ける。「おまえ、ほんとは怖いんじゃねえのか? ちったあ自信がついてきたとこだろうが、そりゃ一人っきりで走ってるからだ。選抜の連中と一緒となりゃ、他はみんな強豪揃い、そんな中に混じって走れば自分がどんだけノロマかが嫌でも分かっちまう。他の誰より、自分に分かっちまう。それが怖いんだ」
「そんなわけねえだろ! おれは怖がってなんかねえよ。まだ勝負になんねえことくらい分かってるさ。怖がりようがねえじゃねえか」
かっとなって言い返したものの、勢いは尻つぼみになってしまった。自分の心の中のもやもやした、得体の知れない暗がりのような場所が、祖父の一言でくっきりと照らし出されたように感じた。そこには祖父の言うような恐れが確かにあった。まったく言われた通りではないが、よく似た恐れが。
そして同時に、それ以外の感情も明るみに出てきていることに、武史は気づいた。
「まあ、おまえがしたいようにすればいいじゃねえか」敏久は柏葉と同じようなことを言った。「おまえが決めるこった、オレでも教師でもねえ。明日ゆっくり決めたっていいじゃねえか。もし明日帰りが遅けりゃ、練習会に出たんだろうとオレは勝手に判断して、ひさびさにのんびりしてるさ。なあに、一度くらい嫌ってほどコテンパンに叩き潰されといたほうが、自分ってものの分際が分かって為になるくれえのもんだ」
「コテンパンコテンパンって言うなよ。ジジイのくせに、おれのやる気をなくさせてどうすんだよ」
「オレがどうこう言ったくれえで、何が変わるもんでもねえさ」
そうつぶやいた敏久の口調に苦い自嘲が混じっていることに、武史は気づかなかった。明日どうするか、そのことにすっかり気を取られていたのだ。そして結論はすでに出ていた。そのことに自分で驚いてもいた。
無意識のうちに準備体操を進める、その間ずっと、武史は挑むような目をして宙を見据えていた。そんな武史の様子を、敏久はいつになく真剣な表情で見つめていた。
そのとき、ダイノが玄関のほうから回り込んできて、縁側の隅の日が当たっているところに飛び乗り、のんびり毛づくろいを始めた。それを飽きるまで続けてから、おもむろにミルクを求めて鳴き始めるのがダイノの昔からの癖だった。その様子が視界に入って、武史はようやく物思いから覚めた。
「ダイノ、ちっと行ってくるぜ。飯はおれが戻ってきてからだ。すぐ戻ってきてやるから待ってな」
声をかけると、ダイノはちょっと動きを止めて上目づかいに武史を見てから、またすぐに腕を舐めはじめた。武史は足首を回しながら、
「ジジイ、今日だって暖かくはねえんだからさ、ダイノの隣で日向ぼっこでもしてろよ。あんまり日陰にばっか突っ立ってるとジジイの氷漬けになっちまうぜ」
と、さっきの仕返しとばかり景気よく言ってやった。
「ふん、ナマ言ってんじゃねえよガキが」
敏久は条件反射のように言葉を返したが、武史が期待したほど威勢がよくなかった。おや、と祖父の顔を見ていると、
「なにジロジロ見てやがる。気持ち悪いじゃねえか。準備が終わったらさっさとペース走を始めるぞ」
しっしっ、と手を振ってくるりと背を向け、玄関からサンダルを引っかけて道路へと出て行ってしまった。
武史はふと、縁側の下に脱ぎ散らかしてある草履に目を留めた。普段ここから出入りする祖父は、いつもサンダルを揃えて脱いでおく。乱雑に放ってあるところなど、今まで見た覚えがなかった。
「なんでこっちから出てこねえんだよ。わざわざ玄関からなんて面倒だって、前に自分で言ってたじゃねえか」
早く来い、と敏久の声が飛んできた。「うるせえ、今行くとこだっての」と大声で返事をしたとたん、頭に引っかかった小さな疑問のことなどけろりと忘れてしまった。つま先で地面を蹴って靴のずれを直してから、武史は祖父のいる場所へと身軽に駆けていった。
翌日は朝からめっきり冷え込み、この年初めて、吐く息が白くなった。
放課後、武史は荷物を持ってトイレにこもり、狭い場所でそそくさと体操着に着替えた。急いで教室に戻ると制服を机の上に無造作に投げやり、クラスメートから冷やかしの声がかかる前に教室を飛び出した。
体育倉庫の前にはすでに体操着姿の生徒たちが集まり、思い思いにストレッチをしたり、その場で腿上げ運動をしたりしていた。日は当たっていたが、ときおり思い出したように強く吹きつける風は身を切るように冷たい。他クラスの生徒や、上級生、下級生の姿もあったが、体育の時間と違い、寒そうに両腕を体に回して震えている者は二、三人しかおらず、雑談の声もまばらだった。女子の姿がないところを見ると、練習会の時間帯は男女でずらしてあるらしい。
武史が近づいていくと、同じクラスの何人かが顔を上げた。面白いものを見つけたようににやにやし、小声でささやき交わす。武史はむっとしたが表情は変えず、彼らから距離を置いて無言で屈伸運動を始めた。
十分ほどすると、校舎の端の出口から柏葉と、彼より年かさの体育教官で陸上部の顧問でもある大原が出てきた。鬼のダイゴとあだ名される大原はがっしりした体に威圧感をみなぎらせ、倉庫前に集まった生徒たちをぐるりと見回した。武史とも一瞬目が合ったが、特に何の感慨も見せずに視線はそのまま通り過ぎた。
「よーし、全員集合!」
張りのある声に反応した生徒たちは駆け足で集まった。大原の前に弧を描いて並ぶ。大原は手にした名簿を読み上げて点呼を取ると、
「いいか、今日は風が強い。無理に前の者を追い抜こうとして車道に出ないこと。特に、ガードレールのない二キロ地点、大森神社付近を通過するときには車両に十分注意するように」
と短く注意した。はいっ、ときびきびした返事が挙がる。陸上部員が多いんだな、と武史は改めて感じた。
「今日初めてこのコースを走る者は、前を走る生徒について道を覚えるように。最後尾を柏葉先生が自転車でついていくから、途中で気分の悪くなった者は道路の脇に寄って先生を待つように」
はいっ、とこれにも間髪入れずに声が挙がる。自分以外に今日初めての者がいるのだろうか、と武史はいぶかった。少なくとも小気味よく返事をした連中の中には、今日初めて参加する者など一人もいないだろう。
校門前でスタートの合図を待つ間、窮屈に道路の脇に固まった生徒たちをかきわけて、武史はあえて最前列に陣取った。なんだよこいつ、と言いたげな視線が注がれたが気に留めなかった。後ろをくっついていって道順を覚えるくらいなら、職員室に行って地図でも借りてくれば済む話だ。どうせ参加するなら、一番速い連中がどんなものかを直に見てみたい。
自転車に乗った柏葉が裏手の駐輪場からまわってきて集団の背後についた。大原はそれを見届けると、ストップウォッチを持った手を高々と上げ、声を張り上げた。
「位置について。よーい……スタート!」
そのとたん、思いがけないスピードで武史の周りの集団が一斉に駆け出した。最初から飛ばしてやろうと身構えていた武史だったが、これほどの勢いも、周囲の真剣さも予想していなかった。思わず背筋に緊張がはしる。
ほんの数歩踏み出したばかりのところで、武史はまた目を見張った。まるで短距離走でも走るような勢いで、いきなり集団から抜け出した者がいる。長身にスポーツ刈りの、端正な横顔が一瞬見えて、すぐに背中しか見えなくなった。ここしばらく祖父との練習を続けてきた武史には、レース中のペース配分というものが漠然と見えるようになってきていたが、それに照らすと先頭に立つ生徒の飛ばし方は明らかに無謀だった。
(それとも――)
短い呼気の間に思った。
(あれが、陸上部の一番速いやつなのか?)
負けたくない、とっさに思った。そんな強烈な欲求はいつ以来だろうか、長いこと感じたことのない燃えるような敵対心だった。負けたくない。自然と腕の振りが大きくなった。ストライドを広げる。つい肩に力が入った。力んだって速くはならねえ。祖父の声が耳に蘇り、自然と力が抜けた。
前を行く体操服の背中は、細いが引き締まっていた。まったく気負うことなく、淡々と自分のペースを守って走っているようだった。一見流しているように見えるだけに、余計にその速さに凄味があった。背に貼られた大きなゼッケンには太いマジックで「南方」と書かれていた。
自分のペースを乱されてはいけない、と頭では分かっていたが、気が付けば武史は南方のすぐ後ろにぴたりとついていた。後続との距離などまったく気にならなかった。前を行く背中だけが自分の進む道を示している。ペース配分についてもすぐに考えなくなった。抜いてやる、とさえ思わなくなった。ついていくのが精いっぱいであることを、体がすでに知っていた。それでも引き離されたくない。置いて行かれるのは我慢できなかった。
地面を蹴るタイミングが南方のそれとときどき重なり、そのたびに奇妙な一体感があった。自分のペースを忘れ、吸い寄せられるように「敵」のテンポに近づいていく。コンクリートの地面を足がリズミカルに叩く。二人の足音が波のように絡まる。乾燥した空気は落ち葉と排気ガスの匂いがし、吐く息の白さは濃さを増した。急速に冷やされたこめかみが引きつり、すぐそばを走りすぎていくトラックの走行音をやけに遠く感じた。傾いた太陽の日差しが、日陰から出るたびに体にはっきりとした感触を残した。
左手に畑が広がると横風が激しく吹きつけてきて、砂が目に入らないように目を細めなくてはならなかった。それでも懸命に南方の後姿を目で追い続けた。その背中は横風にもまったく動じていない。むしろ風の流れに乗っているかのようだ。頭の中が痺れて熱くなった。
大きく曲がるカーブに差し掛かったとき、初めて南方が横目で振り向いた。武史の顔を認めると、その目が少し大きくなった。再び前を向き、少しずつペースを上げ始めた。武史も負けじと足のストライドを広げたが、とたんにギアの外れた自転車のように、ひざががくっと折れた。慌てて態勢を立て直したが、急に息苦しさを覚え、あごが上がった。吐いた息に体が追いつくと、その温かさが頬にまとわりついた。この感覚は練習初日と同じだ。いや、それよりひどかった。夕日がまぶしい。体中の血液がいっせいに反乱を起こし、とたんに体が重くなった。
南方のゼッケンがあっという間に小さくなっていく。それは意識していたが、その場にへたり込まないように走り続けるのがやっとだった。悔しさと疲労がないまぜになって襲ってくる。すぐ横を通った小型トラックの音に驚き、巻き上げられた風に足がもつれかけた。黒い排気ガスがむっと鼻を突く。
それでも、顔を上げていた。まっすぐな道を、徐々に小さくなっていく背中を、武史は食い入るように見つめ続けた。
日がほとんど沈みかけた頃、武史は制服姿のまま、まっすぐ祖父の家を訪ねた。縁側から上がり込んで障子を開けると、卓袱台に陸上競技の本を広げていた敏久が顔を上げた。すぐにその顔にいぶかしげな表情が浮かんだ。
「どうした、武史。ずいぶん難しい顔をしてるじゃねえか」
武史は黙って障子を閉め、敏久の向かい側にすとんと腰を下ろした。あぐらを組み、うつむいて何やら考え込んでいる。敏久はしばらく返事を待っていたが、やがて懐から煙草を取り出し、火をつけて吸い始めた。
「この時間まで顔を出さなかったんだ、練習会とやらに行ってきたんだろう。で、どうだった。その様子じゃ、ぼろ負けだったか」
「ああ、ぼろ負けだった。ぜんぜん歯が立ちゃしなかった」
武史は低い声でつぶやくように言った。敏久は黙って続きを待った。
「南方っていう、やたらと速えやつがいてさ。ずっとそいつについてったんだけど、途中からどんどん引き離されちまった。最初からむきになって飛ばしたもんだからすっかりバテちまって、ゴールするまでに後ろのやつらにどんどん追い抜かれてさ。なんとかゴールして、ぎりぎりタイムの読み上げだけ聞いて、地面にばったり倒れちまった。情けねえし、カッコ悪いし、言い訳もできねえんだけどさ……」武史はようやく顔を上げた。祖父に向けた目には疑問の色が浮かんでいる。「おかしくねえか? おれのタイム……ダイゴが、体育教官がさ、十四分五十八だって言うんだ。起き上がれるようになってからもう一度聞き直したけど、間違いねえって。おれ昨日、やっと十五分切ったばっかじゃねえか。しかも今まで走ってきたコースは四キロしかないはずだろ? どういうことなんだよ、いったい」
問いただすような口調を、敏久は何食わぬ顔で受け流し、天井に向けて煙を長く一息に吐いた。
「そりゃあ、おまえ、考えられる理由は一つじゃねえか。おまえが今まで走ってきたコースが、五キロちょいあったってことさ」
「あ? だってジジイ、あのコースは四キロしかないって……」
「バレちまったんなら仕方ねえがな」敏久は灰皿に煙草の灰を落として、「おまえが初めて走ったときのタイム、あれが想像してたよりずいぶん速かったのさ。なまりきってるはずのやつが出したとはとても思えねえくれえにな。正直驚いたが、すぐにこいつは隠しといたほうがいいと思ったんだ。最初っから自分は速えって自惚れちまうと、必死こいて練習しようなんて気にはなかなかならねえもんだからな。……怒るな、おまえのことを言ってんじゃねえ、誰だってそういうもんだ。そしていったん天狗になっちまうと、伸びるもんも伸びなくなっちまう。だから、とっさに距離が短かかったんだって嘘をついたのさ。オレあ嘘が得意じゃねえから、すぐ見破られるんじゃねえかと思ったが、バレたらバレたで仕方ねえと思ってた。まあ、なんだ、バレずに今日まで来ちまったな」
「ふざけんなジジイ! おれは……おかげでずっと……ぜんぜんダメなんじゃねえかって……なんだかわけ分かんなくなったじゃねえか」
武史は卓袱台越しに身を乗り出して責め立てようとしたが、力が抜けてしまい、最後は独り言のようになってしまった。祖父の言うことは当たっている。そう心の中ですんなり納得してしまっていたのだ。少しがんばればすぐにでもトップをとれる、とでも思ってしまっていたら、こうも毎日練習などしなかっただろうし、そうなれば今日のタイムも出ていなかっただろう。しかし、そうと素直に認めるのも悔しい。
一方で敏久も渋い顔をしていた。
「まあな、つまんねえ小細工をしちまったのは謝る。あんな嘘をついたのは間違いだったかもしれねえ。あんときは考えつきもしなかったが、あまりに他のやつらと差がありすぎると思えば、かえって練習する気が失せてたかもしれねえしな」
「そ、そうだよ。危なかったじゃねえか。おかげで」
「だが、おまえは一日もすっぽかすことなくここまで来た。肝心なのは今だ。これからだ。おまえどうだ、もうそこそこ走れると分かったからには、これで十分か。それとも、今より速くなりてえのか。どっちだ」
なんだかはぐらかされたような気もしたが、祖父の口調は真剣そのものだった。そして考えるまでもなく、答えはすらりと口を突いて出てきた。
「おれ、あいつに勝ちてえ。あの南方ってやつに」
「そいつは、どんくらい速えんだ」
「今日は十三分五十六って言ってた。でもまだ本気じゃねえと思う」
「ははっ、そいつぁ大物じゃねえか。そう簡単に勝てる相手じゃねえぞ」
「んなこと分かってる。でも、やってみねえと分かんねえだろ。あんなぼろ負けしといて、すごすご尻尾巻いて逃げるような真似はしたくねえんだ。あいつが日本一速いやつだとしても構やしねえ。だってさ、だって……」
武史は言い募ろうとしたが、またもうまく言葉が出てこなかった。だって、なんだろう。普通に生活していたら走らないような距離をわざわざ全力で走り通して、タイムに一喜一憂して、そんなことはくだらないことのはずだった。教師に言われるまま走っているだけの連中だと、鼻で笑っていたはずだった。なのになぜ、これほどこだわりたくなるのだろう。負けてむきになっているだけとも違う。クラスの連中への見栄や意地とも違う……。
敏久はそんな孫の様子を目を細めて見守っていた。どうにかして言葉を繋げようとする武史を制して、言った。
「いいじゃねえか、まだやりてえんだろ? それだけ分かってりゃ十分じゃねえか」
その夜、武史はなかなか寝付けなかった。暗い天井をじっと見つめていると、そこには白い体操着の背中が、「南方」の文字が、ぼんやり浮かんで見えた。手を伸ばしても届きはしないが、まったく届かないわけじゃない。時間が経つのも忘れて、武史はじっと天井を睨み続けていた。