ホーム > 小説 > その足の翼は > (五) |
翌朝、寝不足のあくびを連発しながら教室に入った武史は、とたんに好奇の声と視線を浴びて驚いた。
「おい本郷、おまえ、陸上部のエースをあと一歩ってとこまで追い詰めたんだって?」
「あの南方クンと接戦だったってほんと?」
「南方っていったら、インハイ選手じゃねえか」
「今まで全力出してなかったってマジだったのかよ」
「黒石クンが最後の最後でやっと抜けたって驚いてたよ」
興奮気味に近寄ってくるクラスメートたちは、みな一様に昨日の練習会の話を聞きたがった。いろいろな質問や野次があったが、要約すれば聞きたいことはただ一つ――本当に、実力で全国トップクラスの選手と張り合ったのか。本当にズルをしなかったのかという、それだけだった。
武史は何も答えなかった。集まってきた連中を避けて、むっつりと自分の席に向かった。椅子に腰を落とすまでに、他とは違う視線を二つ感じていた。詩乃と、出島だ。
「本郷選手、どのあたりまで南方選手についていってたのか、あと今後の抱負について教えてくれませんか」
羽黒がリポーターの真似をして、手に握った空っぽのマイクを突き出してきた。武史は顔を背けて無視しようとしたが、しつこく迫られて手で軽く払おうとした。ちょうど勢いよく前に出してきた羽黒の手と手がぶつかり、乾いた音が思いのほか大きく鳴った。ざわめきがふっと止んだ。
「わりい、今そういう気分じゃねえんだ」
武史は低い声でそれだけ言うと、机に突っ伏して寝てしまうそぶりをした。周囲の反応がわずらわしくて仕方なかった。以前のようにふざけて返せば済むことなのに、そう頭では分かっているのに、苛立ちを抑えるのがやっとだった。とても浮かれた気分にはなれないし、その振りさえできる気分ではない。
手をはたかれた羽黒は少しの間目を丸くしていたが、やがて愛想笑いを作って大げさに両腕を広げ、クラスメートたちに向かって声を張り上げた。
「おいみんな、われらが希望の星、本郷選手はご機嫌斜めらしいぜ。……これは勝てると思っていたライバルに一歩及ばず、ショックを受けているのでしょうか?」
「さすが期待の星だよなあ。態度もすっかりでかくなってるぜ」
空威張りのような野次が飛び、何人かがお追従のように笑った。自称不良の上条とその取り巻きの声だと分かったが、武史は腕に顔をうずめたまま無視を決め込んだ。がやがやと意味を成さないざわめきだけが耳に聞こえ続けた。
と、低く抑えた声が鞭のように飛んできた。
「どうせまたうまくやったんだろ。調子乗ってんじゃねえよ」
教室のざわめきは変わらない。ほとんどの者の耳には聞こえない声だったのだろう。ひょっとしたら声そのものではなく、その言葉に含まれる毒気を感じ取っただけかもしれない。しかし武史はきっと顔を上げた。出島の目と目がまっすぐ合った。武史がまっすぐ睨みつけると、出島の顔は青ざめ、唇をぎゅっと引き結んだ。
その異様な睨み合いに周囲の生徒が気づく前に、担任が前の扉から入ってきた。生徒たちは慌ただしく自分の席に戻った。武史が担任に気を取られた一瞬のうちに、出島は武史から顔を背けていた。
いつにもましてうわの空で授業をやり過ごし、終業と同時に武史は飛んで帰った。いつものようにジャージに着替え、祖父の縁側へと急ぐ。
頭の中は走ることでいっぱいだった。授業中も、目は覚めているのに体が練習コースを走っているような感覚になり、はっとしたことが何度かあった。走りたい、という気持ちと、南方に勝ちたい、という気持ちが絡み合い、相互に励まし合って、少しでも早く、多く走りたくなっていた。南方は部活にも真面目に取り組んでいるに違いない。それも、経験豊富なコーチ兼顧問の指導の下で。祖父敏久のコーチングに不満があるわけではなかったが、ライバルが今も全力で練習しているに違いないと思うといても立ってもいられない。何もしていない時間があればそれだけ、差をつけられてしまいそうな焦りがあった。
しかし逸る武史が姿を見せても、敏久は部屋で茶を飲むばかりで立ち上がろうとさえしなかった。
「今日は休みだ。練習はしない。家に戻って勉強でもしてろ」
武史は唖然とした。
「な、何言ってんだよジジイ。毎日練習するんじゃなかったのかよ」
「継続はするが、文字通り毎日とは限らん。ここまでは本当に毎日走ってきたがよ、たまには体を休ませてやらねえといけねえ。特に昨日、おまえはいつもよりずっと速いペースで走ったろう。ただでさえ慣れてねえ体にずっと負担をかけてきてるんだ、いいから今日は休め」
「おれはそんな年寄りじゃねえよ。走るのにだってとっくに慣れてるし疲れだってまったくねえ。大会まで時間もねえんだ、サボってる暇なんて――」
「話を聞いてねえな、こういうのはサボるとは言わねえんだ。おまえが気づいてないだけで、疲労ってのはたまってんだ。ほんのちょっと前に走り始めたばっかのひよっこに、体の状態なんて分かるものかよ」音を立てて茶をすする。「休むのも練習のうちだ。ほんとなら週に一度くらいストレッチだけで終わらせる日があったっていいくらいだが、時間がねえっていうから少しずつ負荷がかけるようにここまでやってきたんだ。いいから、今日はおとなしく休んでろ」
武史がいくら問題ないと言っても、敏久は頑として首を縦に振らない。武史はしぶしぶ家に戻った。憤然と沓脱で靴を脱ぎかけて、ふと思った。別にジジイに面倒見てもらわなくたっていいじゃねえか。ストップウォッチなどなくても腕時計さえあればペースを見るには十分だし、いつものコースを走るだけなら祖父のコーチングは必要ない。敏久はああ言うが、急に走らない日など作ってしまったら体が感覚を忘れてしまいそうだ。
いったん二階の自分の部屋に上がり、腕時計を掴んで階下に戻る。祖父に気取られないよう、玄関を出るときだけは音を立てないように気をつけた。道路まで出てしまえばこちらのものだ。軽くストレッチをしてすぐに走り出した。一度走り始めてしまえば、道行く人の視線も、吐く息の白さも気にならなかった。
武史が家に帰り着いてみると、まだ夜七時過ぎだというのに珍しく母がいた。
「武史? おかえり」
キッチンのほうから聞こえてくる声に軽く驚き、「ああ」と気のない返事だけして二階に上がろうとすると、続けて
「今夜はお父さんも早く帰ってくるみたいだから、早くお風呂に入っちゃってちょうだい」
と母の声が追いかけてきた。両親がこれほど早い時間に揃って家にいることなど、年に数回しかない。
普段は誰もいないキッチンで一人、買い置きの冷凍チャーハンなどを温めて夕飯を済ますところだが、この日は八時過ぎに母に呼ばれるまで部屋でじっとしているしかなかった。階下に下りると、ちょうど風呂上りの父と鉢合わせした。
「おお、武史。ただいま」
「ああ」
特に話すこともない。
二人以上で囲むことが滅多にないキッチンのテーブルに、家族三人分の食事が並ぶ。白米は炊き立てだが、他は冷凍のカツにベジタブルミックス、インスタントの味噌汁だった。冷凍物を解凍したときの、乾いた冷凍庫の臭いが漂っていた。
武史は何も言わずに椅子に座ると黙々と食べ始めた。遅れて入ってきた父は、テーブルに目をやるとさっそく小言を言った。
「なんだ、インスタントばかりじゃないか。たまに家族が揃うときくらい、もう少しいいものを出せないのか」
「文句言わないでよ。私だって仕事から帰ったばかりで疲れてるんだから」
言葉つきとは裏腹に、父の口調にはほとんど毒気がない。同様に、母の返事にもさほどいらつきや怒りは含まれていなかった。スーツの上着をトレーナーに替えただけの母と、パジャマにサンダル姿の父がのろのろと席につき、箸を動かし始める。
しばらく食器の立てる音だけが続いた。それから父と母はどちらからともなく話し始めた。今日は部長の突然の方針転換で作った資料が全部無駄になってね、ついでに会議も延期になったから早く帰れたんだが、入札日は変わらないんだから困ったもんだよ。あら、でも部下がまめな人なんだからいいじゃない。私なんて咲さんがいまだに電話応対も満足にできなくて、取引先から嫌味を言われちゃったんだから。咲さんってだれだっけ。うちの新人よ、もう入社して二年以上経つけど――
武史は横を行きかう声を聞き流しながら飯をかきこみ、おかずもあらかた片づけてしまい、少し迷ったが三杯目のおかわりをした。マヨネーズをかけただけのご飯をかき込んでいると、そういえば、と母が話を向けてきた。
「武史、あなた最近、よくジャージを洗濯に出してるけど、何に使ってるの? 体育の授業だけじゃないわよね」
「学校で使ってんだよ」顔も上げずに答えた。帰ってから練習のために着替えている、と言えばさらに細かく聞かれそうで、順を追って説明するのも面倒くさい。
「体育祭か何かの練習? でもあなたの学校の体育祭って、五月じゃなかったかしら」
適当に受け流そうとしかけたところで、父の視線も感じ、ふといたずら心が芽生えた。ちらっと顔を上げて父と母を交互に見てから、どうでもよさそうに言ってみた。
「持久走大会の選抜メンバーに選ばれたから、放課後に特別練習をやってんだよ。来月の大会当日までずっと練習」
「持久走大会か。そういえば学生時代にやったなあ」父は箸を止めて少しの間、宙に視線をさまよわせて遠い記憶を探っていたが、すぐに眉をひそめて母を見た。「来月といえば、月末から来月頭まで大阪に出張になるかもしれん。石井のとこに子供が生まれるとかで、ちょうど予定日とかぶるからと代理を頼まれたんだ」
「石井さんって、また? 三人目じゃなかった? まだ若いのに簡単に休めていいわねえ。仕事なんだからって注意して、もっとちゃんとさせればいいのに」
「おれが悪いわけじゃない。会社が出産育児支援の充実を掲げてるから文句も言えないんだよ」
「私のとこも家事休暇とかあればいいのに。最近腰が痛くてデスクワークもつらいのよ」
「おれだって肩こりが持病みたいになってるさ。上司の顔を立てなきゃならん、部下の機嫌も取らなきゃいかん……」
「でもあなたのとこは部下ができるだけましじゃない。私なんか……」
武史は顔を仰向けてマヨネーズご飯をたいらげると、さっさと席を立った。けだるい会話を背にキッチンを出て自分の部屋に上がる。ベッドにごろりと横になると、天井を見つめて練習会のときの感覚を思い出そうとした。道順はどうだったか。どこが上り坂でどこがゆるやかな下りだったか。左手が開けて横風が強かったのはどのあたりか。しかしどこをどう走ったかはおぼろげにしか憶えていなかった。はっきり思い出せるのは南方の背中と、吸い込まれそうにリズミカルな彼のピッチだけだ。
本番のコースをもっと走っておきたい。だが練習会にはもう出る気はなかった。今はまだ、南方と再び競って走りたくなかった。野次馬の目を気にすることなく本番コースを走るにはどうすればいいか、武史は考え始めた。
縁側にミルクの入った皿を置き、ダイノがぴちゃぴちゃとミルクを舐めはじめるのを見届けてから、敏久は重い体を持ち上げて部屋に入ろうとした。名前を呼ばれて振り向くと、修造が陽気に手を挙げながら垣根の戸をくぐってきたところだった。
「どうだいトシさん、ひさびさに打たないかね」
挙げた手をひょいと曲げて石を打つそぶりをする。敏久はにっと笑って友人を部屋に招いた。修造は杖をついてやってくると、一心にミルクを舐めているダイノに温和な顔を向けた。
「ようダイノ、今夜も冷えるなあ。……ははは、腹を満たすのに忙しいか。トシさん、ダイノのやつまた少し成長したんじゃないか?」
「ばかいえ、武史が拾ってきてもう八年近くになるんだ。そいつは成長じゃねえ、食いすぎてぶくぶく太ってるだけだ」
「もう八年にもなるかい。道理でタケシちゃんも大きくなるわけだ。もう高校生か。よくいじめられたりからかわれたりして泣いて帰ってきてたのが、つい昨日のことみたいに思えるねえ……」
「おめえんとこの詩乃ちゃんだって高校生じゃねえか、武史と同い年なんだからよ。なに人んちの孫だけ年食ってるみたいに言いやがる」敏久は鼻を鳴らして、ダイノの背中の、茶色の毛が背びれのような模様を描いている部分を眺めた。ダイノの名前の由来にもなった、一番特徴的な部分である。強そうな名前がいい、そう言って武史が図鑑から引っ張り出してきた名前だったなと、敏久は昨日のことのように思い出した。「そういや武史のやつ、自分で世話をするから置いてくれと泣いて頼み込んできたくせに、いつの間にか人に世話を押しつけやがった。たまにばったり顔を合わせたときだけ、飼い主みたいな面しやがって」
「ダイノが帰ってくる時間がまちまちなんだから、仕方がないさね。さて、じゃあちょっと上がらせてもらうよ」
敏久の動作の一つ一つが緩慢であるのを、修造は痛々しそうに見つめ、何も言わずに奥まで上がり込んで自分で茶を淹れてきた。敏久も何も言わない。ようやくいつもの位置に腰を下ろしたのと、修造が湯呑みと急須を持って戻ってきたのがほとんど一緒だった。暗黙の了解のように二人は黙ったまま、修造が卓袱台を横にどけ、台下に置かれていた碁盤がそっくり見えるようにした。
石を打ちながら、しばらくとりとめのない会話をした。やがて修造が言った。
「タケシちゃんは最近、いったいどうしたんだい。ときどきジャージ姿で河原を走っているのを見かけるんだが」
「ああ、あれか」
敏久が簡単にいきさつを話して聞かせると、修造はようやく合点がいったという顔をした。
「そういえばいつぞや、図書館からランニングについての本をまとめて借りてきてほしいと言ってたが、あれはタケシちゃんに走り方を教えるためだったのかい。このところ碁に誘ってもつれなかったのも、練習で忙しかったからなんだね?」
「そういうわけじゃねえよ。オレだって碁をやりたいときもありゃ、しばらく打ちたくならねえときだってある」
「隠さなくたっていいじゃないか。道理でこのところ、トシさん生き生きとしとるなあと思ってたんだ。そりゃあ毎日、嬉しかったり楽しかったりだろう」
「女子供じゃあるめえし、そんなことでいちいち浮かれるかよ。……ところであんたが武史を見かけたのは、もうだいぶ暗くなってからか」
「ああ……そうだったね。顔がよく見えなくて、別人かと思ったくらいだから。待てよ、朝早くに見かけたこともあったな。私は土手の上を散歩していたから、声はかけなかったんだが」
「ふん、あいつめ、やっぱり勝手に練習量を増やしてやがったか。あいつは普段ずぼらだが、その反動みてえに、熱中しちまうとやりすぎるくらいやっちまう。そんなこともあろうかと量を抑えめにしてやってたんだが。まったくあいつは、おれの言うことを聞きゃしねえな」
パシリ、と石を打つ音が高くなった。修造はにこにこしながらその様子を眺めた。
「そんなところに打っていいのかい。どうも窮屈なようだが」
「うるせえ。さっさと打てよ」
「待ったはなしだよ?」
「オレが一度でも待ったなんてかけたかよ」
「それじゃ遠慮なく。……しかし、血というのは争えないねえ。トシさんも学生時代はマラソンの選手だったんだろう? いいところまで行ったんじゃなかったかい」
「マラソンじゃねえよ。が、長距離の選手だった。いいとこってほどでもねえが、走るのは好きだったな」
「タケシちゃんもあの熱心さを見ると、走る楽しさに目覚めたんだろうね。そういえば、久史さんも学生の頃は陸上選手だったのかい?」
武史の父親であり、敏久の息子でもある久史の名をなにげなく口にした修造は、敏久の表情が曇るのを見てはっとした。
敏久と久史の間は、うまくいっているとは言えない。表立っての派手な喧嘩こそまずしないが、久史が結婚した頃から、親子の間には冷ややかな空気が常に存在していた。今久史たち親子が生活している家はもともと敏久が建てたもので、敏久が住んでいる家は先代が使っていた古い建物であり、長いこと物置代わりにしか使われていなかったものだ。敏久の妻が亡くなり、ほぼ同じ時期に久史が結婚して家庭を持った頃から、敏久は古い離れで生活している。
修造は詳しいいきさつを聞いたことがなかったが、三世代で十分住める広さの家がありながら敏久だけ一人隣の建物に住んでいること、三度の食事も敏久が自分で作っているということを考えれば、おのずと家族の間にある溝の深さも見えてくる。
修造は気まずくなってみじろぎをしたが、いまさら言わなかったことにもできない。
「あいつは、運動はからっきしだったからな」
敏久はぽつんとそれだけ言った。それきり、じっと盤面をにらみつけて口を開こうとしない。その会話は終わったらしい。修造はほっとした。
無言のまま、二手、三手と盤に石を打つ乾いた音だけが響いた。
と、不意に敏久が言った。
「あいつには根性がねえのさ」
修造は顔を上げたが、敏久は碁盤を相手に話しているかのようだった。次の一手を思案するような姿勢のまま、再び口を開いた。
「あいつは自分を反省しようとしねえんだ。すぐによそに言い訳を見つけちまうし、自分ばかりかわいがって人をきちんと見ようとしねえ。ガキの頃のまんま育っちまったんだ。厳しくしつけてきたつもりだったが、大学受験に失敗した頃から元のひん曲がった性格に戻っちまった。あいつに言わせりゃ、受験に落ちたのは家の壁が薄かったからだとさ。よその騒音が聞こえちまうような家しか建てられないオレらのせいで満足に勉強できなかったと言われたときには、花枝のやつまで目を真ん丸にしたもんだ」苦笑しつつ、ちらりと仏壇に目をやる。「オレが厳しすぎるといつも言ってた、あいつさえな」
付き合いの長い修造だが、敏久が過去を振り返って語るのをほとんど耳にしたことがなかった。
「それでも一家を構えるとなりゃ、自然とマシになるだろうと思ったんだが……」再び盤を見つめた目には、はっきりと疲労の色が浮かんでいた。「親のオレが息子に難儀をさせられるのは構わねえ、それはオレがヘマを打った報いってもんだ。あいつがいい歳して、自分のこともろくに見えねえまま不平不満ばかり溜め込んで、一人で苦しい思いをしてるとしても、それはあいつの自業自得ってもんだ。いまさらケツを引っ叩こうとも思わねえよ。だがな」一瞬、声が歪んだ。「そのとばっちりで武史のやつがほったらかしにされて、いいはずがねえんだ。なんで親が自分の子供を見てやらねえんだ。毎日疲れて帰ってくるなんざ言い訳になるかよ。武史のやつが小せえガキの頃から家の中でどんなツラしてたか、なんで二親揃ってろくに見てねえんだよ」
指に挟んだ碁石が細かく震えているのを見て、修造は腰を浮かした。
「トシさん、あまり興奮しちゃあ体に――」
肩に手をかけると、敏久はきっと顔を上げたが、友人の心配そうな顔を見てはっと我に返った。食いしばっていた奥歯から力が抜けた。視線を逸らし、気まり悪さを取り繕うように不機嫌な声で言った。
「済まねえ、つまんねえとこを見せちまった」
「別につまらないことはないが……それより大丈夫かい?」
再び彼の手に目を落とす。肉が削げ落ちた手はもう震えていなかった。
「へっ、別にどうってこたねえよ」敏久は凄味のある笑みを浮かべた。「歳取ると愚痴っぽくなるっていうが、本当だな。こんなみっともねえことだけは、するまいと思ってたのによ。もともと、こんな歳まで長々と生きてるつもりはなかったんだ。太く短く、それでいいって好きにやってきたはずが、この歳になってもくたばらねえとはな」
「あんたはもっと長生きするさ。タケシちゃんだって、トシさんがいなくなったら悲しむじゃないか」
「どうだかな。どのみち、いつまでもツラを拝み合ってることなんざできやしねえさ」
敏久はそっけなく言って、迷いも見せずに石を盤に打った。その音は夜の静けさの底に寂しく響いた。